ロジバン/統語論/cnipau

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概要[編集]

口頭会話においては声調イントネーションが心情や態度を表すことがある。しかし文字を越えたそのような音声上の要素は書言葉ではそのまま表せない。文字からなる語が求められる。そのような語の体系がロジバンにある。 attitudinals と呼ばれている。ここでは心態詞と訳しておく。UI類の cmavo/ma'ovla であることからUI類とも呼べる。日本語や英語の間投詞/感動詞/嘆詞などに当たる。

ロジバンの心態詞は幾つかのグループに分けられる。情感系(UI1)、認識系(UI2)、談話系(UI3)、呼応(COI)系はいずれも具体的な指示内容に基づくものである。これらにたいし、具体的な指示内容に基づかず、他の心態詞に付いてその意味合に色づけをしたり(UI4, UI5)度合を示す(CAI, NAI)修飾系がある。たとえば情感系の iu はデフォルトで「愛」だが、修飾系の sai を付けて iusai とすることで「愛・強」となる。 iunai は iu を nai で逆転させたもので「愛・反」すなわち「憎」となる。認識系、談話系、情感系、呼応系を基本心態詞、修飾系を修飾心態詞と定義しておく。

心態詞は個々で約120がある。原理的には少なくとも1万4400以上の心情・態度の表現が可能である。

心態詞はあくまで添加的なものであり、主要命題にたいして論理的に関与しない。 iu は「愛」の感情を表すが、「○○が○○を愛している」という命題を提示しない。ただし「愛」に関連した意味合を重複させた次のような表現を一種の冗語法と捉えるのは誤りではないといえる:

mi la .takacin. iu prami
私はタカシ[]を愛する


構文: どこに置くか、どれと合わせるか[編集]

心態詞はロジバンにおける自由投入詞(free modifier)の1つである。すなわち、投入できる箇所に関して制限がほとんど無い。

基本心態詞(UI1-3, COI)と修飾心態詞(UI4-5, CAI, NAI)は次の構造によって結合する:

UI1-3/COINAICAINAIUI4-5NAICAINAI...

心態詞の構文は合理的だが、自己の感情を常に明確・理知的に記述することが話者に強要されているわけではない。例えば基本心態詞(具体的な対象)を欠いて修飾系をそのままで使うことができる:

[-] sai mi lo jikru co'u pinxe
[‐・]私は酒をもう飲まない。
[-] ro'e mi lo la tolstois. selfinti co'i tcidu
[‐・]私はトルストイの作品を読んだところだ。

それぞれ、なんとなく強い気持を感じていること、なんとなく考えさせられてしまうこと、という漠然とした気持を表している。このあたりをより詳しくした例として次のようなものが考えられる:

.aisai mi lo jikru co'u pinxe
[志・強]私は酒をもう飲まない。
be'unairo'e mi lo la tolstois. selfinti co'i tcidu
[欠・非・智]私はトルストイの作品を読んだところだ。(なかなか示唆に富むものだった。)

後者の訳において、原文の心態詞の意味合を反映しきれないために補足的な文が加えられていることに留意されたい。

aisai とするか ai sai とするか、つまり語と語の間にスペースを入れるかどうかは、書き手の好みによるもので、意味合に違いはない。

修飾系でない心態詞同士を組み合わせることもできる:

.iu.ui la .reikon. klama
][] レイコが来る。
ta'o ju'o la .reikon. klama
ところできっとレイコが来る。

文頭以外の箇所に移すことができる。この場合、直前の語が修飾される:

la .reikon. iu klama
la .reikon. klama .iu

両者の違いは、愛情の対象が「レイコ」にあるか「来る」という行為にあるかである。例えばレイコの歩き方や車の運転の仕方にもっぱら何か愛らしいものが感じられる場合、あるいは来るという行為の結果として付随する何らかの事象を予期的に愛する場合に、後者のような言い回しをする。ちなみに文頭に置かれる心態詞は文全体を修飾する(なぜならロジバンの文頭には必ず文標識 i が内在し、これに心態詞が係るから):

.i .iu la .reikon. klama

文末に置く心態詞で文全体を修飾したいときは終止詞 vau で bridi の境界を示す:

la .reikon. klama vau .ui

修飾系を盛り込んで次のようにすることもできる:

ju'o la .reikon. klama vau sai
きっとレイコは来る


指示対象: 誰にたいする誰からの心情・態度か[編集]

デフォルトでは心態詞はもっぱら話者自身の心に言及する:

la .takacin. iu la .sanaen. prami
タカシ[(私の)愛]はサナエを愛する。

iu がタカシにたいする話者の思いを表しているのにたいし、 prami はサナエにたいするタカシの思いを主要命題として提示している。サナエが誰を愛しているのかは言及されていない。サナエが話者自身であるという特殊な場合を除いて、この文は三角関係の恋愛を示唆している。また、 prami が主要で iu が副次的であるという文法構造から、“タカシがサナエを愛しているという客観的現実”にたいする“タカシを愛しているという話者の主観的内実”の従属状態を類推することができる。 dai や se'inai といったもので iu を修飾するとこのあたりの解釈が変化してくる:

la .takacin. iudai la .sanaen. prami
タカシ[愛・同情]はサナエを愛する。

ここでは話者がタカシにたいする愛の気持を他の誰かと共有していることが意味されている。文脈上の可能性として共有者をサナエと捉えることができるが断定はできない。

la .takacin. iuse'inai la .sanaen. prami
タカシ[愛・自己本位・非]はサナエを愛する。

この場合の iu は話者でない他人本位の感情を表す。つまり話者自身はタカシを愛しているわけではない。 se'inai で示唆されている他者が仮にサナエであれば、サナエとタカシとの間に相愛関係があり、そしてその事実を話者が知っている、という状況が描写されていることになる。突きつめれば、サナエからの再帰を受けていないこの prami は限定的にタカシが発する愛のみを意味しており、ここから、サナエに愛されているのをタカシ自身が知らないこと、そしてその状況を第三者としての話者が眺めていること、などが憶測できる。ただし se'inai の対象がサナエ以外の第四者であるという可能性もあるので、ひょっとすると、サナエを愛するタカシ、タカシを愛するサナエ以外の誰か、そしてこれを事実として知っている話者、という状況を描写しているかもわからない。サナエとタカシの相愛関係を真に提示するには再帰法などを使う:

la .takacin. la .sanaen. prami soi vo'a
タカシはサナエを愛する[再帰][x1]。
タカシはサナエを愛し、サナエはタカシを愛する。


pei: 心態を尋ねる[編集]

心態疑問 pei UI/CAI


UI pei

pei UI

pei はCAIともUIとしても使える。UI類の後に付く場合はCAI、前に付く場合はUIとみなされる。

CAIのとき:

.iepei
(あなたは)賛成(する)?
.aipei
(あなたは)する(つもりがある)?

尋ねられた者は pei の部分を変えて(何も加えずにただ取り除くことも含めて)答える:

.ie
うん(賛成)。
.iesai
もちろん(大賛成)!
.iecu'i
う~ん、どうかな。
.ienai
いや(不賛成)。

UIのとき:

pei.o'u
快適?
pei.o'ucu'i
もう苦しくない?