ロジバン/統語論/selbri

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概要[編集]

日本語をはじめとする自然言語ではの中心となる成分のことを述語という。述語には動詞形容詞が含まれるが、これにさらに副詞論理学における賓辞(predicate)の機能を加えたロジバンの総合的な語詞が selbri である。これがロジバン文における意味的中核を成す。ここでは用言と訳しておく。

ロジバンの語は全て何らかの方法で用言となれる。また、単一の用言からなるものと、或る用言が別の用言を修飾するものとがある。後者は例えば日本語における「速く・食べる」「おいしい・リンゴ」「超・おいしい」のように複数の内容語が連なって出来る句に相当する。

用言は、体言(terbri)で表される事物の間の関係について述べる。どのような体言をどのような順序で取り結ぶか、配列についての定義がある。これは place structure(以下 PS)と呼ばれる。PS上の項およびその位置は x に番号を付して x1, x2, x3, x4, x5 というふうに表す。


用言は必ずPSを有する。しかしPS上の項を伏せたままでも用言は使える:

ckape
危ない!
kukte plise
おいしいリンゴ!

観察される事象をそのまま用言として表すことからこれは観察法(observative)と呼ばれる。用言はこのように内容のある文を単独で形成できる。これに項が加わると、体言を用言が述べるところの命題が出来る:

ti ckape do
これは君にたいして危険である。
ti kukte plise
これはおいしいリンゴです。


用言と体言の順番は変えられる( 転換と置換)。条件として、

  • 体言同士の順序を保ち、
  • PS がどこから始まっているのか、すなわち x1 がどこにあるのか

がわかること。 ti ckape do の語順は次のように変えれる:

ti do ckape
ckape fa ti do

一例目では ti と do が本来のまま x1 x2 と並んでいる。二例目では、FA類の fa が ti の位置を x1 であると示し、続く do がそのまま x2 として並んでいることがわかる。FA類のこのような施しがなされない場合、用言の前には体言 x1 が潜んでいるとみなされる。なぜなら x1 を持たない用言が存在しないから。その場合、 ti は x2 、 do は x3 となる:

--- ckape ti do


体言が内部的に用言を有するとき(用言を体言化したもの)、そのままだとこれが後続の用言に流れかねない。流れると、2つの用言は1つのまとまりと化す:

lo plise kukte lo plise kukte

流れないようにする、すなわち lo plise を体言として後続の kukte をその用言にするには、その間の境界を示す必要がある。境界を示す方法には幾つかある( 構文境界)。もっとも一般的なのは、先行する全ての体言をまとめて隔離させる cu による方法:

lo plise cu kukte
リンゴがおいしいです。

cu は1つ以上の体言を隔離できる:

mi ta ti cu klama
私はあそこにここから行く。

この隔離は構文解析上のものであり、命題が途中で断絶しているわけではない。赤枠内の項はそれぞれあくまでも klama の x1 x2 x3 である。


tanru: 語を重ねて意味合を豊かにする[編集]

broda brode brodi ...

用言となりうる言葉が連なって出来るまとまりのことを tanru という。ここでは重語(かさねご)と訳す。各用言の意味が重層化する。機能面ではと等価であるが構造面では複数の語からなるであり、他言語における動詞句・形容詞句・副詞句になぞらえられる。

mi mutce sipna
私は【熟・睡】する。
tu plise tricu
あれは【リンゴ・木】である。
la .suzukin. barda gleki xendo stace nanmu
スズキは【巨・幸・親切・正直・男】である。

重語全体の意味合・ PS の基盤となるのは、構成要素のうち、最下位層で修飾される部分、被部である。デフォルトでは右側が被部で左側が飾部である。 plise tricu は、被部 tricu が要となって飾部 plise に形容されている。ゆえに「リンゴの木」。両者をひっくり返して tricu plise とすれば形容関係が逆転して「木のリンゴ」となる。(所有関係を示しかねない「~の~」という訳はときとして不適切であり、「~的な~」が望ましい解釈となる場合がある。)また、いずれもの場合も、 plise と tricu が tu を共通の x1 として取ることに変わりはない。修飾関係において飾部は被部に従属しているものの、 x1 を得るという点では両者は対等である。デフォルトでは x2 以降はもっぱら被部の変数項である。後述のように、転換や挿入という用法によって飾部に独自の x2 以降の体言を結びつけることもできる。ちなみに重語を圧縮したものである合語では PS が単一に定義されており飾部と被部がもはや個別の用言として自立していないのでこのように体言を別々に取ることがない。

三つめの例にみられるように、重語を構成できる語の数には限りがない。この厚い重語は、左から読んで先に出来上がる一対が飾部となって後続の語を形容してゆくというデフォルトの原理(left-grouping)に則り、「巨体的に幸せな」が「親切な」を、「巨体的に幸せな親切な」が「正直な」を、「巨体的に幸せな親切な正直な」が「男」を修飾するという具合になっている。このデフォルトの修飾原理は ke や bo を用いることで自由に逸脱できる。たとえば右側で先に出来上がる組で左側の語を形容してゆく right-grouping は次のように実現できる( が飾部、 が被部):

la .suzukin.barda ke gleki ke xendo ke stace nanmu [ke'e] [ke'e] [ke'e]


la .suzukin.barda gleki bo xendo bo stace bo nanmu

ke は ke'e で囲んだ右側にあるものをグループ化し(ke'e は文末では省略できる)、 bo は right-grouping を結合原理として右側のものと左側のものとを最優先して繋ぎ留めるボンドである。この例ではいずれの用法も結果として重語内に同一の修飾関係を築いている。全体の核である右端の nanmu はまず stace に修飾され、そのまとまりが xendo に、そのまとまりが gleki に、そしてその全体がさらに barda で形容されている。 barda がもともと修飾するのは gleki だが、gleki は xendo を、xendo は stace を、stace は nanmu を、という連鎖関係から、結果として xendo stace nanmu を形容する gleki の複雑な意味合に barda が係っているのだと解釈される。

意味合のこのような重層性に加え、各構成要素の PS が暗示する変数項の一つ一つがどのように関与しているのかが定義されないという漠然性が重語にある。よって重語の指示内容は合語よりも多義的であり、ロジバンにおいてなかんずく抽象的な表現を織るための手法とされている。ちなみに例の複雑な重語は(有用であるかどうかはさておき) brageixedsacnau という合語に圧縮して具体的な PS を定義することが可能である。そもそも合語は重語の圧縮型として造り出されるものなのである。合語と重語を繋げてより上位の重語を作ることも勿論できる。

重語は意味論的には抽象的でも統語論的には明快である。修飾関係を自在に設定できるということから、他言語における係り受け構造の曖昧さを克服できる。

黒い髪の綺麗な女の子

この日本語の係り受け構造は実は不明瞭であり、構文解析が困難である。以下のロジバンとの対照は、同じ語列からどれだけの解釈が得られるかを示している:

1. 黒い綺麗な女の

2. 黒い髪の綺麗な女

3. 黒い髪の綺麗な女

4. 黒い髪の綺麗な

5. 黒い髪の綺麗な女の

6. 黒い綺麗な女の子

7. 黒い髪の綺麗な女の子

1. xekrikerfake melbi ninmuverba

2. xekrike kerfa bo melbi ninmu ke'everba

3. xekri kerfamelbi bo ninmuverba

4. xekri kerfa melbininmuverba

5. xekrike kerfa melbi ninmuverba

6. xekrikerfake melbifetsi bo verba

7. xekrike kerfa melbifetsi bo verba

日本語の方が全て同一の語列であるのにたいし、ロジバンの方は全て重語構造が異なる。太字の部分は各表現における形容の結局的対象である。ここに着目すると、「子(男児/女児)」と「女の子(女児)」というように、語関係の読み取り方によって表現の対象そのものが変わるということが日本語では起こりうるのだとわかる。表現の本来の構造が、日本語(をはじめとする諸々の伝統言語)では誤って不達するおそれがあるのにたいして、ロジバンではより的確に伝達できる。ロジバンが他言語間の中立的な媒体として活躍できるのはこのあたりの性能に由来している。ちなみに上記のロジバン重語はあくまで日本語の語順を模擬した形に拠っており、いずれも、以下に述べる重語用法などを施して様々に変化・簡略化できる。また、重語は、係り受け構造の点では明確であっても、語釈の点では多義的であることに注意されたい。たとえば ninmu verba は文脈によって「女が産んだ子」とも「女が保護している子」とも「女が殺した子」とも解釈されうる。

重語がどんなに複雑なものであろうと、結果として生成される命題はもっぱら被部の PS に基づく。たとえば kerfa の PS は「x1 は x2 の x3 に生えている毛・髪」だが、上の例では kerfa は飾部なので、命題部が取りうる変数項の設定にはそのままでは関与しない。

日本語の複合動詞では前項と後項の位置が換われば意味が変わるが、同じ意味を維持したまま(即ち語同士の形容関係を保ったまま)それらを置換することがロジバンの重語ではできる:

重語転換 co CO


broda brode brodi

= brodi co broda brode

= brode brodi co broda

ti melbi slabu
これ 美 古
ti slabu co melbi
これ 古 〔重語転換〕 美

両者で飾部と被部の順序が逆転しているが、意味に変化はない。両者の形容関係を co が維持しているからだ。 co は右にあるものを飾部とし左にあるものを被部とする。これを重語転換という。訳語の順序は“古・美”となっているが、実現されている意味合は“美しい古さ”のままであり、“古い美しさ”ではない。

重語転換の利点は、飾部の語の PS をメインに使えるようになることである:

ti slabu co melbi fi lo ka smaji vi ce'u
これ 古 〔重語転換〕 美 〔標識〕〔冠詞〕〔性質〕 静 〔近〕〔ラムダ子〕
これは古い、そこに居ることの静けさがすばらしいという美しさとともに

melbi の x3 を埋めるこの体言 lo ka smaji vi ce'u を、重語転換せずに求めることはできる:

体言挿入開始詞 be BE
体言挿入拡張詞 bei BEI
体言挿入終止詞 be'o BEhO


broda be da bei de bei di bei ... be'o brode brodi

broda brode be da bei de bei di bei ... be'o brodi

ti melbi be fi lo ka smaji vi ce'u be'o slabu

目的の体言は be と be'o によって摘包されて melbi の PS に入っている。転換を用いた場合と異なるのは、体言があくまで内部的に挿入され、やや修飾的となることである。 be-be'o によって包まれた体言は副次的なものであって主要の PS の上にはない。転換の例では lo ka smaji vi ce'u はメインの PS に躍り出ているが、挿入の例では内に潜り込んでいる。また、転換を施したほうが全体の語数が少なくなる。以上の特性から重語転換は強調法の一つとみることができる。

be が挿入する体言の境は bei によって示される。上の例では一つのみが挿入されているので bei が不要であり、そのまま be'o によって終止されている。 bei を用いた例:

ti melbi be (fe) mi bei (fi) lo ka smaji vi ce'u be'o slabu

挿入される体言の順序は、命題部を築くところの原理にもとづく。すなわち、命題部において melbi の次に来るデフォルトの変数項が x2 であるように、 be によって melbi の直後に挿入される体言もまた x2 となる。 mi は x2 であり、 lo ka smaji vi ce'u は x3 である。先の例は mi を欠くので lo ka smaji vi ce'u が x3 であることを相応の標識(fi)で示している。標識の効力がここで働くということは、 be-bei-be'o の構造において語の置換が可能であるということである。

被部の後続体言を be で結びつけることは合法ではあるが不毛である。

命題部において用言が取りうる体言を法制詞によって拡張できるように、 be による挿入でも法制詞を扱える:

ti slabu be ga'a mi (be'o) malsi
これは、私から観て古い、寺である。

ga'a mi は slabu の臨時体言として正規体言と同等に PS に組み込まれる。

命題部そのものに添える法制が生む意味合と異なることに留意されたい:

ga'a mi ti slabu malsi
私から観て、これは古い寺である。

前者は「古さ」が主観であると言っているのにたいして後者は「これは古い寺である」という命題そのものが主観であると言っている。

be'o は省略できる場合があるが、意図しない部分が挿入範囲に流れてしまうのを防ぐうえでは必要である:

lo xamgu be do noi crino cu stagi
あなた―そしてあなたは緑色だが―にとって良いのは、野菜である。
lo xamgu be do be'o noi crino cu stagi
あなたにとって良いのは―そしてそれは緑色だが―、野菜である。

noi は体言を拡張するもの( 連結型)だが、前者の例では、意図されているはずの対象である lo xamgu be do 全体に係らずに do だけを修飾してしまっている。 be'o を置くことで do は後続の語に侵蝕されることなく xamgu 内に格納され、これを体言化している lo の範囲に noi が必然的に係るようになる。ちなみにこの場合 be'o を ku で代替して lo の範囲を直に明示しても同じ形容関係が得られる。


ME ... MEhU: 項から用言を作る[編集]

ME [sumti] MEhU

項を用言にできる:

用言化詞 me ME
用言化境界詞 me'u MEhU
me lo mi pendo me'u
x1 は x2 の面で「私の友だち」的である
me la .eimin.uainxaus. me'u
x1 は x2 の面で「エイミ・ワインハウス」的である

「~的」という訳が意味するのは近似性ではなく該当性である。(同一性を意味する du とも異なる。)たとえば me lo mi pendo me'u の x1 は「私の友だち」に似ている者ではなく「私の友だち」として呼ぶ・捉えるに適った特徴条件を満たしている者を指す。 me から体言の末尾までの全体が一つの用言とみなされる。これを他の用言と連ねさせて重語を作ることもできる:

me la .eimin.uainxaus. me'u zgike
x1 は x2 に演奏される「エイミ・ワインハウス」的音楽である

me la .eimin.uainxaus. me'u が飾部となって zgike を形容している。主要の PS を提出するのは被部の zgike なので、意味合が先の例とは違っている。

構文上の曖昧性をきたさなければ me'u は省略できる。


ZEI: 様々な語から手軽に合語用言を作る[編集]

zei

形態論上は融合していない語同士でも、特定の用法によって構文上は合語(lujvo)であることがある。結合に用いるのは zei:

lujvo 結合子 zei ZEI

zei は、 lujvo としてのまとまりを保ちながらもその構成要素が何なのかを明らかにしたり、 rafsi を持たない語(cmevla やUI類 ma'ovla 等)との合成語を造るのに役立つ:

bajkla bajra zei klama (走+来=走って来る)
.ui zei klaku (嬉+泣く=嬉し泣きする)
.ii zei krixa (怖+叫ぶ=ぎゃあと叫ぶ)
.u'o zei cmoni (勇+唸る=雄たけびをあげる)
B zei batke (B+ボタン=Bボタン)
MP3 zei zgica'a (MP3+音楽機器=MP3プレイヤー)
.obaman. zei jecta (オバマ+政体=オバマ政権)
.tokion. zei tcadu (東京+都市=東京都)


NU: 命題の中身を抽象化する[編集]

NU [bridi]

PS によって描写されうる事象全体を一つのまとまり()として扱えるようにすることを抽象化(abstraction)という。

特に何を対象とするかによって異なる抽象詞が使い分けられる:

抽象詞・性質 ka NU
抽象詞・数量 ni NU
抽象詞・事象 nu NU
抽象詞・状態 za'i NU
抽象詞・動作 zu'o NU
抽象詞・時点 mu'e NU
抽象詞・過程 pu'u NU
抽象詞・経験 li'i NU
抽象詞・不定 su'u NU
抽象詞・概念 si'o NU
抽象詞・命題 du'u NU
抽象詞・テクスト sedu'u NU
抽象詞・真理値 jei NU
抽象節終止詞 kei KEI

これらの抽象詞はそれぞれPSを有する。つまり用言として使えるということである。しかし単独では使えない。何らかの命題(bridi)に係らなければならない。この命題すなわち抽象化の対象の範囲は終止詞 kei によって明示できる。

最も頻繁に用いられる抽象詞は nu である。これは事象全般を抽出する:

nu do sanga (kei)
あなたが歌うという事
mi nu klama (kei) djica
私は、【事象的・行来】的に望む。 私は、行くということ的に望む。

nu klama が djica の飾部として重語を形成している。これは次の表現と区別される:

mi djica lo nu klama
私は、行くという事を、望む。

前者の方が体言の数が一つ少なく、より観察法に近い形をしている。後者は命題色がより強い。日本語の「行きたい」により近いのは前者で、後者は英語の「I want to go.」に近いといえる。

他の用言と同様、NUで抽象化されたまとまりも冠詞によって体言化できる。その抽象節のまとまりは他言語における名詞節に相当する。

mi nelci lo nu do sanga (kei)
あなたが歌うという事を私は好き。

do sanga という命題部が nu によって抽象化され、これを lo が冠し、そのまとまりが nelci の x2 として振舞っている。

単に冠詞で体言化するのと NU と共に体言化するのとでは意味合が異なってくる:

lo klama (klama の x1 = 行く者)
lo se klama (klama の x2 = 行く場所)
lo te klama (klama の x3 = 発つ場所)
lo ve klama (klama の x4 = 行く道筋)
lo xe klama (klama の x5 = 行く手段)
lo nu klama (x1 が x2 に x3 から x4 を x5 で行くという事象)

LE (+SE) による場合は、抽出する以外の変数項を切り落とす。たとえば lo xe klama には x5 以外の事物が含意されない。 NU の場合は、該当の用言の PS の変数項すべてを内包する。 lo xe klama を x5 以外の変数項について拡張するときは関係詞 be-bei-be'o を使って副次的・修飾的に挿入することになるのにたいし、 lo nu klama を拡張するときはそのまま klama を中核として命題部を築く:

lo xe klama be la .londyn. bei la .paris. (be'o)
ロンドンへパリから行く手段
lo nu klama la .londyn. la .paris. fu la .iurostar.
ロンドンへパリからユーロスターで行くという事


nu が指す事象の時間・期間性は相対的である:

lo nu mi vasxu
私が呼吸するという事(70年等)
lo nu mi do cinba
私があなたにキスするという事(1秒等)

この延縮性は nu が事象全般を抽出できることによる。キスの瞬間性を特に意味するときには nu よりも下位の抽象型である mu'e を使う。他の抽象詞によってさらに「キスという経験/li'i」、「キスという動作/zu'o」、「キスという性質/ka」など様々な表現ができる。 su'u を用いた lo su'u cinba は漠然としたもので、「キスというアレ」のようなニュアンスがある。


命題を抽出する例:

mi djuno lo du'u do sanga seva'u mi (kei)
私のためにあなたが歌ってくれるのだということ(命題)を私は知っている。

nu と違い、事象ではなくその命題性・事実性が du'u によって扱われている。 SE 類で反転させた sedu'u は、或る命題に相当する発話・テクストを抽出する:

mi te cusku lo sedu'u do sanga seva'u mi (kei)
私のためにあなたが歌ってくれるのだということ(テクスト)を私は言われた。

「知る」という行為の対象が命題であるのにたいし、「言う」という行為の対象はテクストである、という分別がなされている。


体言化[編集]

相応の冠詞を取り付けることで用言を項として扱える。 冠詞