強弱法/強弱記号

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強弱記号[編集]

音の強弱(ダイナミクス/ディナーミク/デュナーミク)を表す記号。

楽譜の中に詰め込まれる情報量は時代を追うごとに多くなっていったが、当初は楽譜に強弱を示す要素までは要求されなかった。J.S.バッハやその同時代の作曲家にとってもまだ、音楽における共通語であったイタリア語によって"forte(大きく)"や"piano(小さく)"と楽譜に注意書きを添えることは大変珍しいことであり、特別の意図がある時のみに限られていた。それは、室内楽から管弦楽において、またチェンバロオルガンストップによる対比的効果を欠くことのできないような楽句などに見られた。

強弱の指示の必要性については、再現音楽として作曲そのものの質や楽器制作の質などの向上、そして奏者の演奏技術の向上などによって、音楽そのものや楽譜により細かな指示が要求されるようになったことが挙げられる。実際には、ハイドンモーツァルトたちの初期の作品には強弱の指示は見られず、18世紀後半になって強弱の記入が常識的な作業として普及し、定着していった。その中で、例えば「」や「」という記号が使用されるようになっていき、ベートーヴェンの世代においては、その初期の作品から強弱の指示が楽譜に見出される。

」や「」などが記号化しつつあった当時においては、"forte"や"piano"と文字で指示される方式も依然残っており、記号化は徐々に浸透・定着していった。例えば「メッゾ・フォルテ」では、"mezzo forte"、"mezzo "、"mz forte"、"mz "、""などと様々な指示の仕方が楽譜の中に見られた。強弱記号が楽譜の要素の中で重要な位置を獲得するようになった頃においても、最大は、最小はであり、"のような微妙な指示や、以上や以下が登場するというのはもっと後のことで、それらは楽譜の表現力において大きな進展であった。ベートーヴェンにおける斬新なソナタ形式として名高いピアノ・ソナタ第23番ヘ短調(熱情)作品57第Ⅰ楽章 の終結においては、強弱の指定においても特別の意気込みが見られる。254小節には"più"、261小節には"più piano"という記入、最後は当時にとっては特別珍しい""が登場する。

ベートーヴェンシューベルトモーツァルトたちの時代においても、まだ作曲家たちは試行錯誤を繰り返しており、使用法が厳密でなかったり、後の時代に定着したような使用法とは異なるようなものも多く見出される。例えばフォルテの類が、時には、後のテヌートと同等程度の意図であったり、後のアクセントスフォルツァンドと同類の意図を込められて使用されてきたことが、当時の自筆譜の研究で明確になっている。それらの使用は、後の時代の強勢とは本質的には違うものの、当時はまだ記譜の概念が大雑把であり、音量によって強勢を副次的に示しただけであり、演奏する者はそれが単純な瞬間的フォルテではなく、音量によって副次的に示された強勢であることを誤解しないように読譜しなくてはならない。またベートーヴェンにおいては、突然のフォルテや突然のピアノを非常に好んだが、"subito "や"subito "などが記号として登場するようになったのはもっと後のことであった。

これらの記号の使用法として、2種の強弱記号を自由に結合させて1つの記号として使用することもできる。例えば、""のような組み合わせであるが、最初の音量の後ただちに次の音量に転じるという指示で、これらは単独の強弱記号の二次的使用と認められ、その種類をあらゆる組み合わせで列挙することは有意義でないため割愛する。一般には大きい音量から小さい音量へと転じる際にこの結合式の強弱記号が作成されるが、小さい音量から突然大きい音量へと転じる指示にこの結合式強弱記号が作成されることは、必要性の面から、非常に稀なものである。しかしながら、記号の組み合わせは様々なものが理論的に可能であり、特にそこに禁止されるべききまりはないが、必要性に則して一定の傾向が見出される。例えば""、""などのように、対比的な強弱指示が組み合わせされる機会は多いものの、対比の少ない組み合わせ、例えば""というのは実際には見かけることはまずない。一般に、明らかな強弱の対比による効果をもたらしたい際に、この結合式の強弱記号が使用される。

尚、演奏の面において、この結合式強弱記号の正しい解釈については長年論議が続いてきた。すなわち、音量を切り換える時間的地点の違いによって、表現上の結果が大きく変化してしまうことが問題になってきた。例えば2分音符に""が付与されていた場合、それがテンポの非常に遅い場面であれば、フォルテの時間が8分音符などの短いものとされ、テンポの非常に速い場面であれば、フォルテの時間が4分音符などの長いものと演奏されるという解釈が提唱されてきたが、どの場合でも明らかに判断がつきやすいものばかりではなく、極論的には、どう処理されるべきかという判断は中立性を持って奏者が自然で効果的な解釈を目指すことに任されている。時には、音を細かく連打している場面にこのような指示が付されていることもあり、その場合には、連打の冒頭1つだけ、連打の冒頭2つまで、連打の冒頭3つまで、連打の冒頭4つまで、などと音量の切り換え箇所の特定は一定していない。尚、古い時代には""や""なども見られたが、それらは指示法の確定されていない時代によく見られたものであり、後の時代においては、""は特定の音符・瞬間のみに置かれる強勢を意味し、音量の示す記号とはされていない。

これら強弱記号は、当初は音楽全体に与える指示であったが、音楽の中に様々な別の動きが氾濫するようになってからは、記号は特定の音群のみに適用されることとなっていった。そのため、例えば大譜表の5線譜と5線譜の間に強弱記号が配されていた場合、古い音楽であれば全体でその音量に従えばよいものの、記号の上の5線と下の5線が異なる動きを採っているような箇所においては、作曲者が「上の5線の下」へ配したつもりの指示であるのか、「下の5線の上」へ配したつもりの指示であるのか、「両方の5線の間」へ配したつもりの指示であるのか、甚だ判断がつきにくい場面も多く存在する。自筆譜の研究においては、そういう解釈について論議が続いている作品の箇所が多く存在し、また出版業界においては、やむを得ず奏者に任せるままに5線と5線の間に強弱記号を配するしかないことも多い。強弱記号がどの5線や音群に付与されたものであるかというこの問題は、総譜の中でも起きる問題であり、また単一の5線の中に複数声部が混在する際にも起きる問題である。

上述の縦軸上の問題に対して、横軸上における強弱記号の問題も音楽研究の場では論議が続いている。記譜に精密さを要求しなかった時代においては特に、明確な形の楽句の始まりに強弱記号が揃えられていないような自筆の指示が多く存在し、楽句が始まった後に指示に従うのか、楽句の最初から指示に従うのかという論議が続けられている。楽句全体の強弱の指示を、短いその楽句の中間地点に配した作曲家もおり、また弱起部分には強弱記号を配さないという配慮が認められる場合もあり、楽譜研究が進むにつれ、記譜が厳密でなかった時代の自筆譜の解読には困難な問題が残っている。これらは、出版譜においても見られる問題で、古い時代の楽譜に対峙する際には、それらが精密な指示を果たした結果でないがために、楽譜上の指示の位置に厳密に従うことは危険とされている。

強弱記号の種類は、当初はごく少なく、多くは相対的な音量を示す程度であったものの、徐々に表現の要求度が高まるにつれて種類が豊富になり、現代に於いては、どちらかというと絶対的な音量を示そうという傾向が強い。その最初の兆候は、印象主義の作曲家たちが楽譜にあらゆる意図を細かく詰め込もうとした様式の中に顕著に見出される。"più "や"più "がドビュッシーや同時代以降の多くの場面に見出されるが、更に"meno "や"meno "までもが現れた。新しい時代においては、作曲家ごとに記号の種類や使用傾向が異なるため、作曲家の様式を理解した上で読譜に臨むことが望まれる。ドビュッシーたちの伝統を更に進めたメシアンは、楽器そのものの表現能力や音域の特性を含めて強弱に厳密に配慮し、ピアノ独奏曲「みどり児イエスに注ぐ20のまなざし」や2台ピアノ曲「アーメンの幻影」においては4つから5つまでの幅で精密に曲中の強弱が指示されている。彼の後のセリー的作品である「音価と強度のモード」においては、7種の強弱記号によるセリーという側面までもが要素の中に組まれており、明らかに強弱記号の絶対性が求められており、彼は後の「カンテヨジャーヤ」や「鳥のカタログ」などでも同様の音量的セリーを導入したが、このような強弱記号の絶対的傾向は、近代・現代の作曲家に多く共通する記譜上の特徴として現れた。

強弱記号の音量的意図を理解する上では、また別の重要な問題が存在する。総譜が複雑化する中で、楽器特性に応じた強弱配慮を延長すると、現代作品においては作曲家の意図が表現できなくなっていった。例えば、金管楽器に付与されると、管弦楽中の弦楽器独奏に付与されるとでは、絶対的な音量にかなり違いが生じる。更に、タムタムにおけるチェレスタにおけるピッコロにおけるコントラバスにおけるサックスにおけるクラリネットにおけるなどを比較すれば、総譜における強弱記号の問題は、管弦楽法の歴史の中で終着点のないものであった。そんな中で、総譜における強弱記号は長い間、そのままでパート譜に写譜されることを配慮して指示され、作曲家が書く際、指揮者が読解しようとする際には、楽器特有の性能を踏まえられていた。すなわち、同じ音量バランスをもって奏されて欲しい楽器群があっても、楽器の性能に合わせて強弱指示されていたため、それらの楽器群が全く同じ記号が付与されるとは限らないわけである。しかしながら現代作品の総譜においては、音楽の要素の複雑化が進み、楽器特性に配慮した強弱指定をすると、その指示のどこまでが楽器特性に起因するものかが判読できず、そして作曲者の本意を解するには不可能になったため、パート譜にする際の配慮は別領域として、総譜には絶対的な音量を楽器特性を無視して指示する様式が多く採られている。指揮者は絶対的な指示として強弱を理解できることによって、作曲者と指揮者との壁が大幅になくなり、不本意な誤解が解消されるようになった。その場合、パート譜へは総譜とは異なった強弱記号が変換される場合とそうでない場合とがあるが、その両方や従来の総譜からの場合においても、楽団の全奏者はパート譜の強弱指定に局所的に従うのではなく、総譜を的確に解読した上でパート譜上の指示を適切に捉えることが要求される。

管弦楽においては音量の幅があまりにも大きいため、が5~6つ結合されることもある。それらの早い例としては、チャイコフスキー交響曲第6番ロ短調「悲愴」(第Ⅰ楽章160小節)において、ファゴットパートにはが6つも連ねられた指示が見出される。極小音の得意とする大太鼓ティンパニに対しても、同様の極端な強弱指示が後の時代の音楽に見出されるが、作曲家には精密な楽想の処理が要求されることとなる。

20世紀後半に於いては、作曲者のイマジネーションの正確な受信を心がける為に、ソロ楽器ですらフォルテかピアノを九つ書いたりする例も稀ではなくなった。強弱記号のインフレを防ぐ為に、楽譜のインストラクションにあらかじめ「全曲を通じて可能な限り小さく(大きく)」と書いておく例も見かけるようになった。

ごく稀に、"più "や"più "が見出されることもあるが、"più"を添えるのは1つや1つに添えられるのが一般的である。には、"più","m","meno(稀)"が付与されて、補助記号なしの場合を含めて4段階に程度が増減され得るが、それよりも程度を広げる場合には補助記号にはよらず、を複数個連ねることによって表現される。古い時代の楽譜こそ、などは、元の記号の倍数個分の音量を意味するほどの音量差が望まれることが多かったが、それらの種類が更に増えた現代においては、それら各記号ごとの音強幅は倍数的に増えるほどのものを要求されているというよりも、耳で認識できる1段階の違いを表現しているという傾向に推移していった。極論的には、絶対的な音量を定義することは不可能であるが、例えば仮に、più との差、menoとの差、これらが等しいと設定しても、との差をそれらと等しく表現すべきかという問題が浮上する。しかしながら、音響学によって明らかにされている人間の耳の特性として、強音になればなるほど、弱音になればなるほど、音と音の音量差を認識し辛くなるため、有能な奏者や指揮者たちは耳の特性に応じて、強音になればなるほど、弱音になればなるほど、音量差を大きく設定するという作業を無意識にこなしているとされる。逆に、中音量であればあるほど音量差を認識しやすくなるという人間の耳の特性によって、の付近では微妙な音量差も敏感に認識され得ることを考えると、には"più","m","meno(稀)"を付与するのに対し、それよりも両脇は補助記号にはよらず、を複数個連ねることによって表現されるという方式は、非常に実際的な面を踏まえたものと見なされる。

総じて、強弱記号の判読は一筋縄にはいかないものであり、記譜における広い歴史的理解の基で、時代性を踏まえて楽譜に対峙するだけでなく、作曲家の傾向や様式、そして良きも悪きも癖や配慮の程度も総合的に捉えることが必要不可欠となる。また、音楽家としての感性の鋭さと楽譜に対する学者的中立性を両立させることも強く要求されることが望まれる。それらに欠けるところがもしあれば、演奏が作曲家の意図に沿わない点が発生してしまうことは否定できない。しかしながら、仮に完璧な記譜法がこの世に確立されたとしても、それが万人に意図どおり理解され得るかというと、難しい問題となるだろう。管弦楽法や記譜法について、数々の著作が歴史の中で改良されてきたが、少なくとも現在においてはまだ最高の方法が見つかっているわけではなく、一定以上の領域においては、音楽家としての本能的感性によって理解の助けとせざるを得ないと言える。

一定の強弱を表すもの[編集]

記号

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読み 絶対的音量 相対的音量(一例) 補足説明
Fortissississississimo

フォルティッシシシシシモ

可能な限り大きく より大きく エドガー・ヴァレーズに使用が見られる。
Fortississississimo

フォルティッシシシシモ

ほど大きくなく

より大きく

Fortissississimo

フォルティッシシシモ

きわめて大きく ほど大きくなく

より大きく

Fortississimo

フォルティッシシモ

ほど大きくなく

より大きく

古典派後期からロマン派にかけては、が一般に使用される最大の記号であった。
Fortissimo

フォルティッシモ

かなり大きく ほど大きくなく

piùより大きく

più più forte

ピウ・フォルテ

より大きく ほど大きくなく

より大きく

“più” とはイタリア語 “molto” の優等比較級であり、英語 “more” に相当する。本来、その前の音量よりも大きくさせたい際に用いられた指示であったが、後に、絶対的な理想としてのより大きい音量を指す際に用いられることとなり、新しい音楽においては相対的音量を示すものではなくなった。当然ながら、より大きくてはいけない。
forte

フォルテ

大きく piùほど大きくなく

menoより大きく

meno meno forte

メノ・フォルテ

それほど大きくなく ほど大きくなく

よりは大きく

“meno” とはイタリア語 “poco” の比較級であり、英語 “less” に相当する。本来、その前の音量よりも大きくなくさせたい際に用いられた指示であるが、絶対的な理想としてのほどは大きくない音量を指す際に用いられ、新しい音楽においては相対的音量を示すものではない。ごく稀に使用される。
mezzo forte

メッゾ・フォルテ

やや大きく menoほど大きくなく

pocoより大きく

本来はの半分の大きさを意味する指示であったが、後にほど大きくない中庸的音量を示す際に使用されることとなった。との違いについては論議が残るところであるが、実際的にはと同じ音量程度であえて区別を付ける必要のある場合とない場合とあり、臨機応変にその必要性を見極めて対処する必要がある。
poco poco forte

ポーコ・フォルテ

わずか大きく ほど大きくなく

pocoより大きく

イタリア語 “poco” は、英語 “little” と同様にそのままでは「ほとんど~ない」という意味となる。「わずか」という意味を単純に示す場合には、英語 “a little” と同様に “un poco” や “un po'” として使用されるが、音楽上では “poco” だけで「わずか」という意味を示す簡易的使用も見られる。稀に使用される。
poco poco piano

ポーコ・ピアノ

わずか小さく pocoより小さく

ほど小さくなく

mezzo piano

メッゾ・ピアノ

やや小さく pocoより小さく

menoほど小さくなく

本来はの半分の小ささを意味する指示であったが、後にほど小さくない中庸的音量を示す際に使用されることとなった。との違いについては論議が残るところであるが、実際的にはと同じ音量程度であえて区別を付ける必要のある場合とない場合とあり、臨機応変にその必要性を見極めて対処する必要がある。
meno meno piano

メノ・ピアノ

それほど小さくなく より小さく

ほど小さくなく

“meno” とはイタリア語 “poco” の比較級であり、英語 “less” に相当する。本来、その前の音量よりも小さくなくさせたい際に用いられた指示であるが、絶対的な理想としてのほどは小さくない音量を指す際に用いられ、新しい音楽においては相対的音量を示すものではない。稀に使用される。
piano

ピアノ

小さく menoより小さく

piùほど小さくなく

più più piano

ピウ・ピアノ

より小さく より小さく

ほど小さくなく

“più” とはイタリア語 “molto” の優等比較級であり、英語 “more” に相当する。本来、その前の音量よりも小さくさせたい際に用いられた指示であったが、後に、絶対的な理想としてのより小さい音量を指す際に用いられることとなり、新しい音楽においては相対的音量を示すものではなくなった。当然ながら、より小さくてはいけない。
Pianissimo

ピアニッシモ

かなり小さく piùより小さく

ほど小さくなく

古典派後期からロマン派にかけては、が一般に使用される最小の記号であった。
Pianississimo

ピアニッシシモ

きわめて小さく より小さく

ほど小さくなく

Pianissississimo

ピアニッシシシモ

より小さく

ほど小さくなく

Pianississississimo

ピアニッシシシシモ

可能な限り小さく より小さく

ほど小さくなく

Pianissississississimo

ピアニッシシシシシモ

より小さく チャイコフスキーに使用が見られる。
sotto voce ソット・ヴォーチェ 声量を抑えて mezza voceとの違いにおいて決定的見解はまだ存在していない。
mezza voce メッザ・ヴォーチェ 半分の声量で sotto voceとの違いにおいて決定的見解はまだ存在していない。「メッツァ」と読むのは誤り。
echo エコー 山びこのように 音量的・音色的対比を形成させる楽句において、古くから伝統的に使用され、現代作品の楽譜にも見られる。絶対的音量を示すものではなく、明白な相対的効果を狙う際に指示される。


以上や以下に見られる"-ssi-"の発音について、実際には[si]と発音されるものの、「スィ」と表記すると反復される際に煩わしくなる点もあり、現代日本における外来語をより原語発音に近く表記しようという傾向とは別に、古い時代のより厳密でないカタカナ表記が定着されたまま現在も踏襲されているが、これはこのままが好ましい。
以上や以下において、それらの標準的な読みは、世界的な見地においても一定していない。例えば、/においては、フォルティッシッシモ/ピアニッシシモ、フォルティッシメント/ピアニッシメント、フォルテ-フォルティッシモ/ピアノ-ピアニッシモ、三重フォルテ/三重ピアノ、などと数種見られる。
※ 強弱記号は音量を示すだけのものであり、音楽的表現・性格を示すものとはされていない。同じ音量であっても、様々な表情を持った音楽的場面が存在し、強弱記号によって表情を感じるのは主観的な誤解とされる。特に日本語においては、"piano"を「弱い」と訳すことは敬遠される。そこには弱々しさは含んでおらず、純粋に音量のみが指示されているだけである。ここでは"piano"を「小さい」と訳し、表情は排除した。同様に、"forte"を「強く」と訳さず、「大きく」と訳した。
※ これら記号は、時代や作曲家などによって一定した厳密な使用が果たされてきたものではないため、それらの背景をふくめて対峙する必要性が非常に大きい。

特定の音符や時間だけに付与される強勢を表すもの[編集]

俗に「アクセント記号」と称される。

フォルテピアノ 大きく そして直ちに小さく フォルテで演奏してすぐにピアノに転じる。2種の強弱記号を組み合わせたものでしかなく、本質的にはそのものが強勢を意味していないが、強弱記号の使用法が試行錯誤されていた古典派音楽の時代において、副次的に強勢とほぼ同じ意図でかなり広く使用された。2種の強弱記号の組み合わせは本来自由にされ得る。保持される音に付与された場合には、強弱の切り換えタイミングの特定に奏者の判断が必要であり、同音を連打しているような走句に付与された場合には、冒頭のいくつ目から強弱を切り換えるかの特定に奏者の判断が必要となる。
スフォルツァンド 付与音のみに強勢をおいて 発音後に強弱を転じることのできる楽器においては、瞬間的な強勢後、音勢を急激に抑える。
フォルツァート

フォルツァンド

リンフォルツァート

リンフォルツァンド

玉や桁の上下に付与できる アッチェント(アクセント)
玉や桁の上に付与する場合の記号

玉や桁の下に付与する場合の記号
玉や桁の上下に付与できる 発音後に強弱を転じることのできる楽器においては、弱音から立ち上げ、早急に強勢を置き、元の強弱やそれよりも小さい状態に抑える。

記譜上の記号によって精密な指示を果たさなかった時代においては、アッチェントは主に音量的概念によって満たされていた。そのため、強勢を配したい音符のみになどが付与されることによって意図が果たされることが多かった。その場合、直後に対比的な強弱記号が配されることがおおかったが、時間的な早急性を与えるため、などのような結合型の強弱記号によってそれが代用されることとなった。後にの類が登場するが、それには音量的なだけではなく、質感としての強勢も表現されて進化を遂げた。また、場合によってはの類は、の類よりも時間的早急性を有しており、それが作曲家によって意図的に使い分けされていると見なされることもあるが、そこまでの意味を見出せない場合も認められ、時代や作曲家の様式を踏まえて臨機応変に楽譜を解読する必要がある。

古典派音楽においては、強勢についての表現法はまだ試行錯誤が続いており、多種多様な方法が混在していた。それら全てに固有の意味の違いを求めるのは無理なことで、自筆譜の研究分野においては、作曲家ごと、そしてその時代ごとの傾向を体系化する動きが見られるが、全ての作曲家が全ての表記法を熟知していたわけではなく、そしてそれらをどんな場合においても厳密に使い分けていたかというと、そうでもないことが研究されている。

ベートーヴェンの自筆譜研究において世界的権威であった故児島新氏による研究によると、例えば、ベートーヴェンの強勢には数種のものが見出されるという。バロック音楽の楽譜にも見られ、モーツァルトの楽譜にもよく現れるが、俗名「棒アクセント」と呼ばれる「'」による強勢は、単純な強勢を意味するだけでなく、後の時代のスタッカートを意味することもあり、またテヌートを意味することもあった。現在の古楽においては、このことは常識とされているが、古楽に精通しない奏者にとってはまだ誤認が多く、誤った多くの演奏がいまだに重ねられている。

記譜が進化するにつれて、強制は音量だけではなく、むしろ質感(音色的側面)による表現に依存するところが増大することとなった。

日本語において、を「不等号アクセント」と呼び、は「山型アクセント」と呼ぶことによって、両者を区別しようという配慮もなされている。不等号アクセントは「音が抜ける(減弱していく)ような波形になるアクセント」、山型アクセントは「突き刺すようなアクセント(楔そのものの鋭利性のように)という使い分けが厳密でないながらも試みされていもするが、これらの記号を厳密にその強勢の波形を象形文字として表したものと理解するのは非常に危険であり、現に、それに相応しいだけの歴史的根拠はまだ発見されていない。奏者にとっては、複数の強勢記号すべてに明白な機能の違いを求めたがるものであるが、バロック音楽からロマン派にかけては、まだまだ記譜についての習慣が進化しきっていない状況であり、各地において様々なアイデアが別々に発生し、散逸していたそれら全てが直ちに普及したり取捨選択されたものではなかったため、それらの記号に遭遇した際には、読む側も当時の試行錯誤に則して、ある程度の自由さを持って対峙することが好ましい。何より、理解に苦しんだ場合には、響きそのものから感じられる表現から意図を見出すことが、何よりも要求されることとなる。ただし、どんな場合であっても主観的ではなく、あくまでも中立的な学者的立場が望まれることは言うまでもない。バロック音楽からロマン派にかけての読譜においては、多くの経験と熟考とが必要とされる困難な作業である。

強弱の変化を表すもの[編集]

crescendo cresc. クレッシェンド だんだん強く(成長しながら) クレッシェンドの松葉ディミヌエンドの松葉は俗に松葉、hair pinなどと呼ばれる。一般に文字を用いる場合よりも短いものに使う。また、cresc.と書かれたあとでクレッシェンドの松葉とある場合には、その部分でさらに一段とクレッシェンドする、という意味に捉えるのが一般的である。

decrescendo decresc. デクレッシェンド だんだん弱く(減退しながら)
diminuendo dim. ディミヌエンド

参考文献[編集]

「伊和中辞典」(小学館)

「標準音楽辞典」(音楽之友社)

「現代音楽の記譜」(全音楽譜出版社)

「管弦楽法」(音楽之友社)

「ニューグローブ世界音楽大辞典」(英語版)