中学校社会 歴史 江戸時代
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[編集] 総論
1600年・徳川家康が関が原の合戦に勝利し、後陽成天皇より征夷大将軍のポストを拝命した1603年(慶長8年)から、黒船来航と開国の要求等の混乱で徳川慶喜が京都の朝廷に対し大政奉還をする1864年(慶応3年)10月14日までの期間である265年間をさす。
長らく続いてきた戦国時代と豊臣政権崩壊後の時局の収拾と荒廃していた産業・教育・文化の振興に力を注ぐと共に、大坂冬・夏の陣で西軍についてきた政治勢力を一掃、長期にわたる政治的・経済的不安は終った。 260年もの長きに亘り相対的にも安定的な政治制度を維持できたのは世界史的にみても驚異で、「天下泰平」という御世を作った。幕藩体制は3代将軍家光の時代にはほぼ完了し、以降世襲で代々15代慶喜まで続いた。
[編集] 幕府の制度
家康の征夷大将軍の拝命を受け、1600年に江戸において開府。2代秀忠・3代家光の時代にはほぼ幕藩体制が完成した。
まず将軍の下に老中を置き政務を統括し、それを若年寄たちが補佐した。加えて、寺社・町・勘定の三奉行を設け、地方には京都所司代・大坂城代・郡代・各種代官を配置し、以て天領を統括した。これらのポストは基本的には譜代大名、旗本から任命した。
[編集] 参勤交代制度
家光時代、武家諸法度で毎年4月を参勤交代の時期と定めた。一言で言うと、倒幕への内乱を防止する為、江戸に妻子を「人質」として常任させ、往復の旅費や江戸生活の出費をさせることで幕府の安泰を図った。江戸に住まう期間は1年間であったが、8代将軍徳川吉宗が1722年に定めた上米の制により半年に短縮された。
これにより江戸は各方面からの人・モノ・物資の往来等で栄えたが、他方では農民に重税を課した為、農村の疲弊や農村一揆を招いた。
[編集] 経済
経済的基礎は、天領400万石からの収入、(旗本領地の300万石は含まず)また、冥加・運上といったものであり、大名領でも中央の幕府の方針に合った政策が採用された。
[編集] 鎖国政策
江戸幕府は白人の軍事的・宗教的干渉を極度におそれ鎖国政策を採った。鎖国の直接要因となったのは、島原・天草の乱であり、キリスト教徒と農民が結合して一向一揆に向かう恐れと、さらにはスペイン・ポルトガルといった日本への布教国が植民地化を画策していると見て危険視し鎖国策を断行した。 それ以外は長崎・出島と対馬藩をつうじでオランダ・中国・李氏朝鮮のみとの間接貿易をしていた。
[編集] 支配を確固たるものにした身分制度
江戸時代は身分制度が厳しく定められた時代でもある。豊臣秀吉も身分統制令を出すなどをして、第二の秀吉の登場をなくす、つまり下剋上を防いだ。 この政策を徳川家は受け継ぎ、江戸時代は主に、百姓・町人・武士に身分が分かれることとなった。
- 百姓
百姓の大半は農民である。農民は主に二つに分かれ、田畑を所有する本百姓と田畑を所有しない水呑百姓がいる。その収穫の40~50パーセントが年貢として納めた。主に城下町よりも離れたところにすむ。
- 町人
町人は主に二つに分かれ商人と職人に分かれる。商人は江戸時代は絶大な力を持ち、大名をしのぐ力を持つ者も現れた。京都・大阪(当時は大坂)・江戸は三都と言われ、発展した。主に城下町にすむ。
- 武士
武士は支配者階級となる。多くの武士は朝早くから武芸の稽古などを行っていた。武士の頂点に立つのが将軍で、その下に様々な役職が置かれた。武士にのみ名字を名乗ったり、刀を持つことが許されていた。主に城下町でも城に近いところに住む。
[編集] 親藩・譜代・外様とは
タイトルに示したのは大名家の種類である。大名はいくつかの種類に分かれそれによって配置も大きく異なっている。 ここでは大名家の種類について解説する。
- 親藩
徳川家と直接つながっている家。徳川御三家(紀伊徳川家・尾張徳川家・水戸徳川家)などが代表的な家である。
- 譜代大名
関ヶ原の戦い以前に従えていた家。井伊家(彦根)や稲葉(伊豆)が代表的な家である。主に江戸の周辺国や京都・大阪周辺に集中している。
- 外様大名
関ヶ原の戦い前後に従えた家。山内家(土佐)や前田家(加賀)が代表的な家である。主に三都から遠く離れた地域におかれていた。
[編集] 参考文献
- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia )』・江戸時代
- 旺文社:日本史辞典