中学校社会 歴史 昭和時代

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昭和時代(しょうわじだい)とは1925年から1989年までの時代を指す。

目次

[編集] 概要

昭和時代前半は欧米列強の経済復興や世界恐慌などの影響で、日本経済は行きづまっていた。その中で関東軍は独断で満州事変を引き起こし、国際的に孤立した。

1937年に盧溝橋事件をきっかけとして日中戦争が始まった。日本は長期戦打開のため仏領インドシナ(ベトナム)に進駐したが、アメリカは石油禁輸などの経済制裁を実行し、日米間の対立は決定的になっていった。

日本はアメリカと禁輸解除などの交渉を行ったが、逆に強硬な条件を突きつけられたため、対米開戦を決意した。 そして、日本は1941年12月8日にハワイ真珠湾を奇襲し、太平洋戦争大東亜戦争)が始まった。はじめは勝利を重ねたが、ミッドウェー海戦以降負け戦となり、1945年8月にポツダム宣言を受諾して降伏した。

昭和時代後半は、敗戦後、アメリカを中心としたGHQ連合国軍総司令部)による「民主化」政策などで国政の仕組みが大幅に変わり、特需による経済の復興、高度経済成長を経て、世界有数の経済大国に発展した。

[編集] 昭和前期敗戦まで

1925年に大正天皇の崩御をうけて昭和はスタートした。

1929年にアメリカでは株価が大暴落しこれが世界に飛び火(世界恐慌)。各国は不況を乗り切ろうとし、アメリカはフランクリン・ローズヴェルトのもとでニューディール(新規巻きなおし)政策を取り公共事業を活性化させるもあまり上手くはいかず不況は尾を引いていた。英仏はその膨大な植民地に物を言わせてブロック経済政策をとり第三国との貿易を制限した。ソ連は5カ年計画を行い計画経済を成立させ一見恐慌の影響を受けていないような状態だったがウクライナなどでは多数の餓死者を出すなどの惨事もあった。

この世界恐慌の影響を最も受けていたドイツでは社会不安からヒトラー率いる国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)が台頭し1933年に政権を獲得した。ナチスはアウトバーンの建設などでドイツ経済を復活させたが国民の不満のはけ口を人種差別に求めユダヤ人などの「劣等民族」とされた人種は迫害を受けたり虐殺されたりした。このヒトラー率いる国家社会主義ドイツ労働者党政権下のドイツを現在では専らナチス・ドイツという。イタリアもムッソリーニ率いるファシスト党がローマに進軍し独裁体制を固める。このような独裁、国家主義思想を「ファシズム」という。

日本は経済不況から多数の銀行が経営破綻した。長引く経済不況に悩まされ各地では労働争議がおこり、社会主義運動に共鳴する動きなどもあったが政府は治安維持法で弾圧した。

当時の軍部は社会不安から国民にも支持される形で1931年に満州事変[1]を誘発し満州国を建国。この国は事実上日本の傀儡政権であったが日本影響下では経済発展を遂げ日本の恐慌脱出にも貢献した。

1932年に海軍青年将校が犬養毅らを襲撃するクーデター未遂事件が発生(515事件)。1936年にも陸軍青年将校が首相、大臣を襲撃する事件が起こり(226事件)徐々に軍部の内政干渉が起こり始めていた。しかし相次ぐ政党政治への不信感から国民は軍部を支持していた。

1937年に盧溝橋事件(何者かによる日本軍銃撃事件を原因とした戦闘)が発生し日中戦争が起こる。日本政府は不拡大方針を貫こうとしたが国内の圧倒的な軍部支持の世論に負け戦線が拡大すると追認していった。日本は中国の都市の大部分を占領したが[2]中国はゲリラ戦などを駆使し激しく抵抗。

以前から日本を敵視していた米英からは反発を買い中国を援助する政策を取リ戦争を長期化させる。

戦争が長期化するにつれ国民生活も貧窮し始め生活必需品の配給制、物価統制が行われるようになった。また挙国一致の一環として1938年に国家総動員法が成立し物価統制が容易に行われた。1940年にはドイツやソ連の一党独裁を模倣するために全政党を解散させて大政翼賛会を結成した。

1939年に以前から周辺諸国を併合し領土獲得を進めてきたナチス・ドイツとソ連は独ソ不可侵条約締結後にポーランドに侵攻し第二次世界大戦が始まった。当初ドイツ軍は勝利を収め1940年にはフランスを征服した。その快進撃を目の当たりにした日本は急速にドイツに接近し1940年9月に日独伊三国軍事同盟を締結した。これはヨーロッパのドイツと手を組みイギリス、ソ連をけん制する目的だったが逆に米英との対立関係を深めた。

日本は1941年にソ連と日ソ中立条約を締結し日独伊三国同盟にソ連を加えようとしたがドイツがソ連に侵攻し独ソ戦が始まりその構想は破綻した。

日本は日中戦争の長期戦打開のために1941年フランス政府との合意の上仏領インドシナ(ベトナム)に進駐するが逆に米英から石油禁輸などの強硬な経済制裁を受け日米間の関係悪化は決定的になっていった。このときに形成された対日経済包囲網を「ABCD包囲陣」という。

その最中日本はアメリカと交渉を行い石油禁輸解除を求めるも逆に「ハル・ノート」と呼ばれる強行案[3]を提出され対米開戦を決意。

1941年に太平洋戦争(大東亜戦争)[4]が勃発する。日本は戦争目的を自存自衛とアジアを欧米の植民地から解放し「大東亜共栄圏」を建設することであると宣言した。[5]当初は勝ち戦にみえたが翌年1942年のミッドウェー海戦で形勢が逆転。以降は敗走の連続で国民は物資の不足に悩まされる。南洋諸島の多くでは物資の不足に苦しみ玉砕の戦場となっていった。

1943年には学徒出陣を行い大学生も戦争に従事させられることになった。また同年イタリアが降伏。1944年にはサイパン島が陥落し本格的な本土空襲が始まり国民の多くが犠牲になった。空襲が本格的に始まると惨禍を避けるため児童は地方に疎開した(学童疎開)。また学生も工場での兵器生産などに従事した。(学徒動員)その他婦人会なども挙国一致体制に貢献した。

1945年にはヒトラーが自殺しドイツが降伏。東京・大阪などの主要都市が空襲で焼け野原となり、沖縄の陥落、広島・長崎の原子爆弾投下に加えソ連がまだ有効だった日ソ中立条約を破り満州に侵攻し完全に敗戦色濃厚となったが軍は特攻を試みたり本土決戦を想定したがどれも上手くはいかなかった。8月にポツダム宣言(日本への降伏要請宣言)を受諾し降伏した。そのときには国民のほとんどが苦しい生活であった。

[編集] 昭和後期

[編集] 概観

敗戦後の日本は、連合国の占領下に置かれ、様々な政治制度の改革が行われた。日本国民は、戦争の被害から復興させるため、苦難を乗り越え、再建を遂げることができ、連合国各国と平和条約を結び、国際連合に加盟することにより、国際社会に復帰することとなった。

それから日本は、勤勉な国民性と創意工夫による安価で品質の高い工業製品は世界中で受け入れられ、驚異的な経済成長を続け、国民生活もそれとともに向上した。一方で公害などの社会問題も発生した。

戦後約30年ほど経つと、日本の経済力は世界第2位の規模(GNPという指標による)となったが、一方で成長に限界が生じ、安定的な経済成長の下、成長に伴って生じた問題点の解決が求められ、現在にいたっている。

[編集] 終戦から国際社会への復帰まで

[編集] 戦後の改革

敗戦後、日本を占領した連合国軍(具体的には連合国軍最高司令官総司令部)の主導の下、様々な改革が行われた。

[編集] 男女普通選挙の実施
[編集] 新憲法の制定
[編集] 国民主権
[編集] 基本的人権の尊重
[編集] 平和主義
[編集] 三大改革
[編集] 労働基本権の確立
[編集] 農地改革
[編集] 財閥解体―私的独占の制限

[編集] 経済の再建

[編集] 国際社会への復帰

[編集] 第二次世界大戦後の国際社会
[編集] サンフランシスコ平和会議
[編集] 中国との関係
[編集] ソビエト連邦との関係
[編集] 国際連合への加盟

[編集] 高度経済成長の日本

[編集] 安定成長と国際社会での責任

[編集] 日本の主な出来事

[編集] 脚注

  1. ^ 当時満州では排日運動が激しく権益防衛のため軍部が独断で引き起こした
  2. ^ 日本軍が中国の首都南京を占領した際に市民に多数の死者を出した。(南京事件)なおこの事件については資料の上で疑問点もあり今日でも論争が続いている。
  3. ^ 満州を含む中国全土からの即時撤退などを要求。
  4. ^ 戦後「大東亜戦争」の使用が禁止されたため「太平洋戦争」の名称が一般的になった。
  5. ^ しかし日本軍政下のもとで神社参拝、日本語教育の強制が行われたので現地人から反感を買い抗日運動が頻発した。
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