高等学校世界史B/ウィーン体制と1848年の革命

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ウィーン会議[編集]

ウィーン会議では、各国の利害が対立して、なかなか内容が決まらなかったので、「会議は踊る、されど進まず」と皮肉られた。この絵ではウィンナ・ワルツを踊っている。
ウィーン会議

ナポレオンがエルバ島に流された直後の1814年、ヨーロッパ諸国が旧来の保守的・復古的な政治体制を回復しようとして、ウィーンにあつまり国際会議を開いた。(つまり、ヨーロッパ諸国の政府は、自由主義的な運動を弾圧しようとした。) この1814年のウィーンでの国際会議はウィーン会議と言われる。ウィーン会議はオーストリアの外相メッテルニヒの主導で行われた。

ヨーロッパ諸国は、勢力均衡を重んじた。

これらの結果、スイスの永世中立が認められた。また、ドイツではプロイセンとオーストリアをはじめとする35か国と4自由都市からなるドイツ連邦が形成された。また、ポーランド分割は追認され、ロシア皇帝がポーランド王を兼任することになった。

ヨーロッパ諸国政府は国際協調を重んじたので、国民主義(ナショナリズム)的な運動は弾圧・抑圧された。

このような、ウィーン会議で認められた(ヨーロッパにおける)国際秩序のことをウィーン体制という。

つまり、ウィーン体制では、以下のようになった。

国家の枠組みにおいて、スイスは永世中立国になった。また、ドイツ連邦が形成された。
政治運動において、ナショナリズムと自由主義が弾圧・抑圧された。

また、フランスやスペインでは、(一時的に)ブルボン王朝が復活した。(しかし、後述するように、王朝が倒れる。) ブルボン王朝の復活の理由は、ウィーン会議で、フランスのタレーラン外相が「正統主義」を主張したことにもとづく。

ウィーン会議の後[編集]

そして、1815年9月に(革命の再発を恐れるための同盟か、)ロシアの提唱により神聖同盟が結成された。

同1815年11月には、イギリス・プロイセン・オーストリアとロシアの四国同盟が結成された。(なお1818年には四国同盟にフランスが加わり、五国同盟となる。)

ナポレオンが失脚しても、ヨーロッパ各地で住民が政府に改革を要求する運動は、おさまらなかった。

ドイツでは学生たちのブルツェンシャフト運動が起き、イタリアでは秘密結社カルボナリの蜂起が起き、ロシアでは貴族が改革を求めるデカブリストの反乱が起きたが、いずれも鎮圧されてしまった。


  • ギリシア独立戦争

また、オスマン帝国の支配下にあったギリシアでは、1821年、ギリシア独立戦争が始まった(トルコの支配下からギリシアが独立しようとする戦争)。 ギリシアによる独立運動に対して、オーストリアは中立を維持したが、ロシア・イギリス・フランスはギリシア独立運動を支持した。

そしてトルコが敗戦し、最終的に1929年にトルコはギリシア独立を承認させられ、1930年のロンドン会議で国際的にもギリシア独立が承認された。

7月革命と1848年革命[編集]

さて1848年にフランスでまた革命が起き、さらに革命の影響により周辺のドイツなどの国でも様々な議論を引きおこした。

ではまず、フランス側の経緯を見ていこう。

経緯は、1830年ごろに、さかのぼる。

ウィーン会議から十数年後、フランスでは、ブルボン王朝による復古的な政治に、フランス国民の反感が高まり、1830年7月に反乱がパリで起き、革命になった。この革命を7月革命という。国王(シャルル10世)は亡命に追い込まれ、ブルボン王朝は倒れた。 革命政権は、かわりに王族(オルレアン家)のルイ=フィリップをフランス国王にした(七月王政)。

また、ベルギーはオランダ支配下だったが、七月革命の影響を受けてベルギーの独立運動が活発化し、同年にベルギーはオランダから独立した。

いっぽう、ポーランドでも独立を求める蜂起が起きたが、ロシア軍によって鎮圧された。 イタリアでもカルボナリの蜂起が起きたが、鎮圧された。


七月革命からさらに十数年後の1848年、フランスのパリで革命が起きた(二月革命)。七月王政下の政治では、富裕層だけの制限選挙が行われたこともあり、労働者が反感を抱いていたので、二月革命では労働者が革命を支持した。

革命によって国王は退位し、フランスは共和制になり、4月に男性普通選挙が行われた(第二共和政)。

(このころ、経済思想では社会主義思想が登場していた頃だったので、)4月の選挙には社会主義者も立候補していたが、しかしフランス国民の多くは社会主義によって土地や財産をうしなうことを危惧したので、投票結果では穏健派が支持をあつめた。社会主義者はこの選挙で大敗した。

パリの労働者はこの選挙結果に不満をいだき蜂起したが(六月蜂起)、鎮圧された。

そして1848年12月の大統領選挙ではナポレオン1世の甥(おい)であるルイ=ナポレオンが大統領に選ばれた。 1851年に彼ルイ=ナポレオンはクーデターを起こして独裁権をにぎり、翌1852年に皇帝になってナポレオン3世と称した(第二帝政)。

二月革命はフランス国外にも波及した。1848年3月にウィーンで反政府暴動が起こり、メッテルニヒは失脚しイギリスに亡命した。また、オーストリア帝国は多数の民族をかかえてたこともあり、(当時、オーストリアに支配されていた)イタリア・ベーメン(ボヘミア)・ハンガリーで民族運動が活発化した。ヨーロッパ各地で1848年に起きた、これら一連の革命を1848年革命という。

(※ 範囲外:) なお主に、オーストリア王室のハプスブルク家の領地でこの1948年の民族運動の反乱が起きたのであり、当時のベーメンとハンガリーはハプスブルク家の領地。

ドイツでも1848年の5月にフランクフルト国民議会が開かれ、プロイセンによるドイツ統一が議論されて、「大ドイツ主義」と「小ドイツ主義」の対立になって、議会はプロイセン王をドイツ皇帝として推薦したが、プロイセン王が議会を嫌って拒否したので、ドイツ統一は失敗した。そしてプロイセン王は翌1849年、国民議会を軍事力で解散させた。(なお、ドイツ統一は最終的に1871年になる。この1848年の議論は結局、あまりドイツ統一には影響を与えられなかった[1]。)

(※ 範囲外:)
※ 「大ドイツ主義」「小ドイツ主義」とは、ドイツを周辺国と統一する際に、オーストリアを含めるかどうかという方針の違い。大ドイツ主義のほうが、オーストリアを含める方針。なお、結果的に、のちのドイツ統一は、小ドイツ主義の方針によって達成された。

このようにヨーロッパ各地でナショナリズムの高揚にもとづく出来事の起きた1848年の春のことを「諸国民の春」という。

なお、マルクスが『共産党宣言』を発表したのは、この1848年である。

社会主義思想[編集]

産業革命の進展によってイギリスは人口が増えたが、イギリスの労働者はとても貧しかった。イギリスの工場主オーウェンは労働者の待遇改善を世間に訴えたが、失敗した。イギリス政治では労働環境の改善のため、1833年に工場法が制定され、この工場法によって児童労働の制限や労働時間短縮などの規制が行われた。

また、ヨーロッパ各地で資本主義を見なおす様々な思想をとなえる思想家があらわれた。

フランスのサン=シモンフーリエは、生産を(資本家による管理でなく)国家管理すべきだというような内容の、社会主義的な思想を唱えた。

ドイツのマルクスエンゲルスは、労働運動と社会主義思想をむすびつけ、1848年に『共産党宣言』を発表し、将来的な社会主義革命を予想した。 また、マルクスらは、(資本家に抵抗するために)労働者は国際的に団結すべきであると主張した。

(※ 検定教科書の範囲内:)なお、マルクスは自身の言説を「科学的社会主義」と称し、いっぽうそれ以前の他人の社会主義思想を「空想的社会主義」と称した (※ ← 実教出版などに記載あり)。 しかし、彼マルクスのいう「科学的」とは、単にかれがそう自称しているにすぎない。(※ マルクスは数学が苦手だったようであり、マルクスの経済学説は まったく数理的でなく、ぜんぜん「科学」に値しないのが実情である。)

革命と芸術[編集]

ドラクロワ『民衆を導く自由の女神』フランスのドラクロワの作品。七月革命を題材にしている。女神は三色旗を手にしている。

この時代は、画家や作曲家など多くの芸術家が、革命や独立運動などに関する作品を残している。

作曲家ショパンはポーランド人であり、彼の作曲した『革命のエチュード』は、ポーランド独立運動をたたえる曲であると言われる。

(※ 範囲外: ) ドイツの作曲家ベートーベンの作曲した『英雄』は、政治に登場したばかりのナポレオン(皇帝即位の前)を改革者として賞賛した作曲であると言われる。

パクス=ブリタニカ[編集]

ウィーン体制そのものは自由主義を目指したものではなく、むしろ旧来の秩序や伝統を復活させる側面のあった体制だったが、しかしヨーロッパ各国の民衆には自由主義の思想が高まった。

なのに、ドイツやフロシアなどでは、改革を求める運動は弾圧されてしまった。

しかしイギリスでは、政府が議会を通じた改革に応じ、(下記のように)自由主義的な政策の改革が行われる。


イギリスでは1820年ごろから、自由主義的な改革が行われるようになった。

背景事情として、ナポレオン戦争以前のころまではイギリスは重商主義的な政策のために種々の規制的な政策を行ってきたが、しかしウィーン体制の頃には産業革命の成果によってイギリスの経済力も高まり、資本家などが自由貿易や規制緩和を求めた、という背景事情がある。


1828年には審査法(官吏を国教徒に限定する法律)が廃止され、それにともない翌1829年にはカトリック教徒解放法が制定され、国教徒以外でも公職につけるようになった。

また、東インド会社による貿易独占が、参入を求める(イギリス国内の)資本家たちから批判され、1813年には東インド会社のインド貿易独占権が廃止され、1833〜1834年には東インド会社の中国貿易独占権が廃止された。


そして(労働組合の結成も許可されるようになっていき)、1824年には団結禁止法が廃止されて、労働組合が認められる。

イギリス政治では労働環境の改善のため、1833年に工場法が制定され、この工場法によって児童労働の制限や労働時間短縮などの規制が行われた。

同じくイギリスでは1833年に奴隷制が廃止された。(その後、フランスでも1848年に奴隷制が廃止。アメリカ合衆国の奴隷解放よりも早い。アメリカの南北戦争は1861〜65年。アメリカの奴隷廃止は、べつに世界初ではない。)


また、1832年に法改正では、選挙権が都市の中産層の成人男性にも拡大された(第一回選挙法改正)。同時に、有権者の極端に少ない腐敗選挙区も整理された。その後、選挙権を与えられなかった男性たちが男子普通選挙を求める人民憲章(People′s charter)をかかげて運動を起こしたが(チャーティスト運動)、成果は無かった。(イギリス初の男子普通選挙は1918年。)

そして選挙権を獲得した資本家たちが、(旧来の地主などの)既得権益を保護するための規制の廃止を主張したこともあり、1840年代には穀物法や航海法が廃止された。 (それまで貿易を統制していた)航海法の廃止により、イギリス側の自由貿易が達成された。(なお、これに先んじて30年代には東インド会社の貿易特権が廃止されている事からも分かるように、おそらく40年代の航海法廃止も同様の方針の出来事であろう。)

なお「穀物法」とは、輸入農産物に高い関税をかける法律。つまり地主を保護する法律。イギリスはその穀物法を1840年代に撤廃したのだから、つまり地主の保護をやめ、それyりも資本家を保護することにイギリスが政策を転換したわけである。(実教出版の「歴史総合」の見解)


イギリスは自国だけでなく他国にも自由貿易を要求した。(そのため、のちにインドや中国も自由貿易を要求される。アヘン戦争などの一因になる。)

(そして「1848年革命」でウィーン体制は崩壊。)

ウィーン体制の崩壊からしばらくイギリスは、実質的にヨーロッパで覇権的な地位にあった国は、イギリスであった。

イギリスでは自国をゆるがすような政変もなく、産業革命によって工業・経済において他国よりも優位的な地位にたち、また、アジアなどの植民地を、他のヨーロッパの大国よりも早く獲得した。(アヘン戦争は1840年。インドも同時期に実質的にイギリスの植民地になっていた。)

しかも、イギリスの敵だったナポレオン1世は失脚したあとの時代である。

ロンドンでの第一回万国博覧会 メイン会場は絵のようにガラス張りであり、水晶宮(クリスタルパレス)と呼ばれた。

このようにして、18世紀なかば頃には既に、イギリスが国際社会の覇権をにぎっていた。このような、近代におけるイギリスの覇権のあった時代のことを「パクス=ブリタニカ」と呼ぶ( 古代ローマの覇権による平和をあらわす「パクス=ロマーナ」になぞらえた表現。「パクス」とは「平和」の意味)。

「パクス=ブリタニカ」の期間は、上述したように18世紀から第一次世界大戦までの期間がおおむね「パクス=ブリタニカ」の時代に相当にする。(なお、第一次世界大戦後は、アメリカが経済・国際政治とも覇権的な地位になり、「パクス=アメリカーナ」と呼ばれる。)

なお、ヴィクトリア女王の在位期間が1837〜1901年であり、上述のようにイギリスの覇権が繁栄した期間と重なっているので、日本では「ヴィクトリア時代」という言葉を19世紀イギリスの黄金時代の意味で使う場合もある。

なお1851年には世界初の万国博覧会がイギリスのロンドンで開かれる。

なお、イギリスでは1860〜1880年ごろに政党の再編が進んで、二大政党化が進んだ。二大政党のいっぽうは自由党で、もういっぽうは保守党である。

  1. ^ メアリー・フルブルック『ケンブリッジ版世界各国史 ドイツの歴史』、高田有現・高野淳 和訳、2005年8月10日 初版第1刷発行、171ページ