高等学校古典B/平家物語

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『平家物語』は史実が元になっているが、部分的に創作が混ざっている。平家は貴族文化の象徴のように書かれており、戦場に置いても名誉や風流などを重んじる。いっぽう源氏は、武士の代表として書かれており、戦場での実利を優先する。

したがって、これから紹介する平家物語の章段でも、途上人物の会話の内容などには、創作が混じっている可能性がある。会話が創作ならば、心理描写も当然に創作となるだろう。さすがに各地での合戦の勝敗とか、人物の生死とか、に関しては、史実ではあるが。

また、平家物語には、内容に細かな違いがある、いくつかの版が存在する。作者が不明であり、語り継がれているうちに、内容が変化してきた。

社会科の歴史の勉強には、『平家物語』は、そのままでは使えないので注意。基本的に、社会科の勉強は社会科の教科書で行うべきだろう。

史実ではないといっても、後の鎌倉時代の人たちが、語り継ぐに足る内容だと思ったのだから、学ぶ価値はある。また、まったくの虚構と言うわけでもなく、元ネタになる歴史的な出来事はあったわけだ。

『平家物語』の作者たちが平家を貴族の象徴として美化するのは、作者の優しさとか、敗者を一方的に批判しないという鎌倉時代当時の道徳・美意識だとでも、思っておこう。

先帝入水[編集]

壇ノ浦の戦い。安徳天皇が死亡。従者が、幼少の天皇とともに海中に入水自殺した。

那須与一の後の話。

祇園精舎 → 忠度の都落ち → 宇治川先陣 → 木曾の最期 → 忠度の最期 → 敦盛の最期 → 那須与一 → 先帝入水(現在地) → 能登殿の最期

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  • 大意

まだ、安徳天皇は死んでいない。

  • 本文/現代語訳

源氏の兵ども、すでに平家の船に乗り移りければ、水手梶取(すいしゅかんどり)ども、射殺され、切り殺されて、船を直すに及ばず、船底に倒れ伏しにけり。新中納言(しんちゆうなごん)知盛郷(とものりのきやう)、小船に乗つて、御所の御船に参り、「世の中は今はかうと見えてさうらふ。見苦しからむ物ども、みな海へ入れさせたまへ。」とて、走り回り、掃いたり拭う(のごう)たり、塵(ちり)拾ひ、手づから掃除せられけり。女房たち、「中納言殿、戦はいかにやいかに。」と、口々に問ひたまへば、「めづらしき東男(あづまをとこ)をこそ、御覧ぜられさうらはむずらめ。」とて、からからと笑ひたまへば、「なんでふのただ今の戯れ(たはぶれ)ぞや。」とて、声々にをめき叫びたまひけり。

源氏の兵たちが、すでに平家の船に乗り移ってきたので、漕ぎ手(こぎて)と舵(かじ)取りたちは、射殺され、斬り殺されて、船(の進路)を直すことができずに、船底に倒れ伏していた。新中納言知盛卿が、子船に乗って、御所の船(安徳天皇が乗っている船)に参上して、「世の中は今は、こうと思われます。(=このように、平家は、もはやこれまでと思われます。) 見苦しいような物どもを、みな海に投げ入れてください。」と言って、船(の中のあちこち)を走り回って、掃いたり拭いたり、ちりを拾ったり、自ら掃除をしなさった。女房たちは「中納言殿、戦いはどうですか、どうですか。」と口々に尋ねると、「珍しい東国の男を、御覧になられるでしょう。」と(おっしゃって)、からからとお笑いになるので、(女房たちは)「何という冗談でしょうか。」と言って口々にわめきさけびなさった。


  • 語句(重要)
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・東男 - 東国の男。
・戯れ - 冗談。遊び。 ここでは、冗談の意味。
・御所の御船 - 安徳天皇が乗っている船。
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  • 語注
・新中納言(しんちゅうなごん)知盛郷(とものり) - 平 知郷(たいらのとものり)。清盛の子。
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・ - 。

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  • 大意
  • 本文/現代語訳

二位殿はこの有様(ありさま)を御覧じて、日ごろ思し(おぼし)めしまうけたる事なれば、鈍色(にびいろ)の二衣(ふたつぎぬ)うちかづき、練袴(ねりばかま)のそば高く挟み、神璽(しんし)を脇に挟み、宝剣を腰に差し、主上(しゆしやう)を抱きたてまつつて、「わが身は女なりとも、敵の手にはかかるまじ。君の御供に参るなり。御心ざし思ひまゐらせたまはむ人々は急ぎ続きたまへ。」とて、船場へ歩み出で(いで)られけり。主上今年は八歳にならせたまへども、御年のほどよりはるかにねびさせたまひて、御かたちうつくしく辺りも照り輝く(かがやく)ばかりなり。御髪(ぐし)黒う優々として御背中過ぎさせ給ひけり。あきれたる御有様にて、「尼ぜ、我をばいづちへ具して行かむとするぞ。」と仰せければ、

二位殿(=安徳天皇の祖母)は、この有様(ありさま)を御覧になって、日ごろから思いなさっていた事(=覚悟していた事)なので、練袴(ねりばかま)のそばを高く挟んで、神璽(しんし)を脇に挟み、宝剣を腰に差し、帝(=安徳天皇)を抱きなさって、 「わが身は女であるといえども、敵の手にはかからないつもりだ。帝のお供に参ろう。

帝への忠誠を思って参上しなさろうとする人々は、急いで続きなされ。」と言って、船場へ歩み出でられた。帝は今年で八歳になられるといえども、お年のほどよりも、はるかに大人びていらっしゃり、姿形は美しく、あたりも照り輝くくらいである。お髪も黒くて(長くて)優々としており、(お髪が)お背中を過ぎていらっしゃる。(帝は)おどろいたご様子で、「尼ぜ、私をどちらへ連れて行こうとするのか。」とおっしゃるので、


  • 語句(重要)
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  • 語注
・二位殿 - 平時子(ときこ)。清盛の妻。安徳天皇の母方の祖母。
・鈍色(にびいろ) - 灰色。
・二衣(ふたつぎぬ) - 二枚重ねの衣。
・練袴(ねりばかま) - 練絹(ねりきぬ)で作った袴。練絹とは、生糸で織ったあとに、灰汁で煮るなどして精錬した絹。
・神璽 - 八尺瓊曲玉(やさかにのまがたま)。三種の神器のうちの一つ。
・宝剣 - 天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)。三種の神器のうちの一つ。
・主上(しゅじょう) - 天皇や国王などのこと。ここでは安徳天皇のこと。
・ - 。

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  • 大意

二位殿は、まだ幼くて何も分からない安徳天皇に、泣く泣く「波の下にも都はありますよ。」と言って、天皇を抱きかかえたまま、二人とも海中へと沈んでいって、自殺した。安徳天皇も死亡。

  • 本文/現代語訳

二位殿、いとけなき君に向かひ参らせて、涙をおさへ、「君はいまだしろしめされ候はずや。先世の十善戒行の御力によつて、今万乗の主とは生まれさせ給ひたれども、悪縁にひかれて、御運すでに尽きさせ給ひ侍りぬ。まづ東に向かひ給ひて、伊勢大神宮に御暇申させおはしまし、その後西に向かはせ給ひて、西方浄土の来迎に預らんと誓はせおはしまして、御念仏候ふべし。この国は粟散辺地とて、心憂き境にて候へば、極楽浄土とて、めでたき所へ具し参らせ候ふぞ」と、かきくどき申されければ、 山鳩色の御衣にびんづら結はせ給ひて、御涙におぼれ、小さううつくしき御手を合はせ、まづ東に向かはせ給ひて、伊勢大神宮に御暇申させ給ひ、その後西に向かはせ給ひて、御念仏ありしかば、二位殿やがて抱き奉て、「波の下にも都の候ふぞ」と慰め奉り、千尋の底にぞ沈み給ふ。  悲しきかな、無常の春の風、たちまちに花の御姿を散らし、情なきかな、分段の荒き波、玉体を沈め奉る。殿をば長生と名づけ、長きすみかと定め、門をば不老と号し、老いせぬとざしとは書きたれども、いまだ十歳の内にして、底のみくづとならせおはします。十善帝位の御果報申すもなかなかおろかなり。雲上の龍くだつて海底の魚となり給ふ。大梵高台の閣の上、釈提喜見の宮の内、古は槐門棘路の間に九族をなびかし、今は船の内、波の下にて、御命を一時に滅ぼし給ふこそ悲しけれ。


  • 語句(重要)
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  • 語注
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忠度(ただのり)の都落ち[編集]

宇治川先陣の前の話。

北陸地方での、倶利伽羅峠の戦い(くりからとうげのたたかい)で、源氏方(当時)の木曾義仲の軍勢に、平家は大敗した。このように都の近くまで、もう源氏の軍勢は迫っていた。なので京にいた平家の一門は、まだ源氏が京に到達しないうちに、安徳天皇を連れて、西国へと落ちていった。これが、平家の都落ちである。

祇園精舎 → 忠度の都落ち(現在地) → 宇治川先陣 → 木曾の最期 → 忠度の最期 → 敦盛の最期 → 那須与一 → 先帝入水 → 能登殿の最期

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  • 大意

都落ちしたはずだと思われていた薩摩守(さつまのかみ)忠度(ただのり)が、藤原俊成の屋敷に現れた。 藤原俊成が何事かと思うと、忠度には、なにやら大事な用があるらしい。なので、門を開けて対面した。

  • 本文/現代語訳

薩摩守(さつまのかみ)忠度(ただのり)は、いづくよりや帰られたりけん、侍(さぶらひ)五騎、童一人(いちにん)、わが身ともに七騎取つて返し、五条の三位(さんみ)俊成卿(しうんぜいきやう)の宿所におはして見給へば、門戸を閉ぢて開かず。「忠度。」と名のり給へば、「落人(おちうと)帰り来たり。」とて、その内騒ぎ合へり。薩摩守、馬より下り、みづから高らかにのたまひけるは、「別(べち)の子細候はず(さうらはず)。三位殿に申すべきことあつて、忠度が帰り参つて候ふ。門(かど)を開かれずとも、この際(きは)まで立ち寄らせ給へ。」とのたまへば、俊成卿、「さることあるらん。その人ならば、苦しかるまじ。入れ申せ。」とて、門を開けて対面あり。事の(てい)何となうあはれなり。

薩摩守(さつまのかみ)忠度(ただのり)は、(都落ちの途中の)どこからお帰りになられたのだろうか、侍(さむらい)五騎、(召使いの)少年一人、自身と合わせて七騎で引き返して、五条の三位(さんみ)俊成卿(しゅんぜいきょう)の屋敷においでになって御覧になると、門戸を閉じていて開かない。「忠度。」と名のりなさると、「落人(おちうと)が帰って来た。」と言って、その中(=屋敷の中)では騒ぎ合っていた。薩摩守は、馬から下りて、自身で大声でおっさったことは、「別の事情はありません。三位殿に申すべきことがあって、忠度が帰り参っております。門を開かなくとも、この近くまで立ち寄ってください。」とおっしゃると、俊成卿は、「そういうこと(=訪問に値する理由)があるのだろう。その人(=忠度)ならば、差し支えあるまい。お入れ申せ。」と言って、門を開けて対面する。その場の様子は、何ともしみじみである。


  • 語句(重要)
・さること - そういうこと。しかるべきこと。
・苦しかるまじ - 差し支えあるまい。「まじ」は打消推量の助動詞。
・体(てい) - 様子。有様。
・ - 。
  • 語注
・薩摩守(さつまのかみ)忠度(ただのり) - 平忠度(ただのり)。清盛の末弟。武士であるが、歌道にも通じていた。歌人・藤原俊成(としなり、しゅんぜい)の弟子。『千載和歌集』(せんざいわかしゅう)などに入集(にっしゅう)している。
・五条の三位(さんみ)俊成卿(しゅんぜいきょう) - 藤原(ふじわらの)俊成(としなり、しゅんぜい)。歌人。歌集に『長秋詠藻』(ちょうしゅうえいそう)がある。邸宅が五条京極(ごじょうきょうごく)にあって、正(しょう)三位だったので、こういう。
・ - 。

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  • 大意
  • 本文/現代語訳

 薩摩守のたまひけるは、「年ごろ申し承つてのち、おろかならぬ御ことに思ひ参らせ候へども、この二、三年は、京都の騒ぎ、国々の乱れ、しかしながら当家の身の上のことに候ふ間(あひだ)、疎略(そらく)を存ぜずといへども、常に参り寄ることも候はず。君すでに都を出でさせ給ひぬ。一門の運命、はや尽き候ひぬ。撰集(せんじふ)のあるべきよし承り候ひしかば、生涯(しやうがい)の面目(めんぼく)に、一首なりとも御恩をかうぶらうど存じて候ひしに、やがて世の乱れ出できて、その沙汰(さた)なく候ふ(でう)、ただ一身の嘆きと存じ候ふ(さぶらふ)。世静まり候ひなば、勅撰の御沙汰候はんずらん。これに候ふ巻き物のうちに、さりぬべきもの候はば、一首なりとも御恩をかうぶつて、草の陰にてもうれしと存じ候はば、遠き御守りでこそ候はんずれ。」とて、日ごろよみ置かれたる歌どものなかに、秀歌とおぼしきを百余首書き集められたる巻き物を、今はとて打つ立たれける時、これを取つて持たれたりしが、鎧(よろひ)の引き合はせより取り出でて、俊成卿に奉る。

 薩摩守のおっしゃるには、「長年、(和歌を)教わって以来、並一通りでない(=和歌のこと?、俊成のこと?、訳多数あり)ことに思い申し上げておりますが、この二、三年は、京都の騒ぎ、国々の乱れ、すべて当家(=平家)の身の上のことでございますので、おろそかにしようとは思っていないとしても、いつもは参り寄ることがございませんでした。帝は(=安徳天皇は)すでに都をお出になさった。(平家)一門の運命、もはや尽きてしまいました。(さて、近ごろ、)勅撰和歌集の編集があるはずだという事をお聞きしましたので、一生の名誉に、(たとえ)一首であっても、(入集の)ご恩をこうむろうと存じていましたところ、すぐに世の乱れが出てきて、その命令(=撰集の命令)がございませんので、ただ我が身の嘆きと存じております。(もし)世が静まりなさったら、勅撰の御命令があるでしょう。ここにございます巻き物のうちに、ふさわしい物がございましたら、一首なりとも御恩をいただいて、(たとえ私が死んで)草の陰に(死体が横たわって)いても「うれしい。」と存じることになりますならば、遠いあの世から(あなたさまの)お守りをするでしょう。」と言って、日ごろから詠んでおかれた歌どものなかで、秀歌と思われるものを百余首書き集めなさった巻き物を、今は(もうこれまで)と思って出発なさった時、これを取ってお持ちになられたが、(その巻物を)鎧(よろい)の引き合わせから取り出して、俊成卿に差し上げた。


  • 語句(重要)
・ - 。
・おろかならぬ -
「おろかなり」の意味は「並一通りでない」こと。疎か(おろそか)。ここでの「おろかならぬ」とは、和歌のことか、俊成のことか、書籍によっても訳が分かれる。ここでの意味とは違うが、古語「おろか」には、愚か、愚鈍の意味の場合もある。
・やがて - すぐに。
・沙汰(さた) - 命令、指示、指図。
しかしながら - すべて、そっくりそのまま、結局、つまり・・・などの意味の副詞。「しかしながら」全体が一つの副詞。 接続詞ではない。 ※ 逆接の意味は、中世末期から。
・あひだ - ・・・なので、・・・だから。 形式名詞だが、接続助詞のような用法。 平家物語などの中世の軍記物に多く用いられた用法。
・草の陰 - 墓の下。墓。あの世。
でう) - ・・・ということ。・・・の件・
  • 語注
・疎略を存ぜず - おろそかには存じておらず。
・ - 。
・ - 。
・ - 。

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  • 大意
  • 本文/現代語訳

三位これを開けて見て、「かかる忘れ形見を賜りおき候ひぬる上は、ゆめゆめ疎略を存ずまじう候ふ。御疑ひあるべからず。さても、ただ今の御渡りこそ、情けもすぐれて深う、あはれもことに思ひ知られて、感涙おさへがたう候へ。」とのたまへば、薩摩守喜びて、「今は西海(さいかい)の波の底に沈まば沈め、山野にかばねをさらさばさらせ、憂き世(うきよ)に思ひ置くこと候はず。さらばいとま申して」とて、馬にうち乗り、甲(かぶと)の緒を締め、西をさいてぞ、歩ませ給ふ。三位うしろをはるかに見送つて立たれたれば、忠度の声とおぼしくて、「前途(せんど)程(ほど)遠し、思ひを雁山(がんさん)の夕べの雲に馳(は)す。」と高らかに口ずさみ給へば、俊成卿いとど名残り惜しうおぼえて、涙を押さへてぞ入り給ふ。 

三位(=俊成)はこれを開けて見て、「このような忘れ形見をいただきました上は、決しておろそかに扱おうなどとは存じておりません。お疑いなさいますな。それにしても、ただ今のお越しは、風流心も非常に強く、感慨もことさらに感じさせられて、感涙を抑えがたくあります。」とおっしゃれば、薩摩守は喜んで、「今は(もう、やり残しは無く)、西海(さいかい)の海に(わが身が)沈む(運命)なら(=開戦で戦死する運命なら)沈んでしまえ(もう戦死しても悔いは無い)、山野にしかばねをさらすなら(=山間部の戦闘での戦死)さらしてしまえ、憂き世に思い残すことはありません。それでは、おいとま申して。」と言って、馬に乗り、甲の緒を締めて、西に向かって(馬を)歩ませる。三位は(薩摩守忠度の)後姿を遠くに見送って立ちなされば、忠度の声と思われて、

「前途(せんど)程(ほど)遠し、思ひを雁山(がんさん)の夕べの雲に馳(は)す。」

と高らかに口ずさみなさり、俊成卿は、いよいよ名残惜しく思われて、涙を抑えて(門の内側へ)お入りになった。


  • 語句(重要)
ゆめゆめ - 決して。「ゆめゆめ・・・(打消し)」で、決して・・・しない、の意味。 「ゆめゆめ・・・まじ」=決して・・・しないつもり、の意味。
・まじう - 打消意志の助動詞「まじ」の活用の音便。・・・しないつもり。
・かばね - 死体。しかばね(屍)。
・ - 。
・ - 。
  • 語注
・西海(さいかい)の波の底に沈まば沈め、山野にかばねをさらさばさらせ、 -
高校用の教科書・参考書では触れられていないが、『万葉集』の大伴家持(おおとものやかもち)の和歌の一節に「海(うみ)ゆかば 水(み)づく屍(かばね) 山(やま)ゆかば 草(くさ)むす屍(かばね) 大君(おおきみ)の 辺(へ)にこそ死(し)なめ かへり見(み)は せじ」(意味:「海を行けば、水につかった屍(しかばね)となり、山を行けば、草のむす屍となって、大君の足元でこそ死のう。後ろを振り返ることはしない。」)とある。
・忘れ形見 - 忘れないようにするために残す記念の品。ここでは、さらに「忘れ難み」との掛詞。これら二つの意味合わせて「忘れ難い記念の品」とでもなる。
・前途(せんど)程(ほど)遠し・・・ - 『和漢朗詠集』(わかんろうえいしゅう)にある大江朝綱(おおえのあさつな)の詩の一句。京都の鴻臚館(こうろかん)で、渤海国(ぼっかいこく)からの使者が帰国するとき、朝綱から使者に贈った歌。「鴻臚館」(こうろかん)とは、外国からの使者をもてなす宿舎。今でいう迎賓館(げいひんかん)。
・雁山(がんさん) - 中国山西省にある雁門山(がんもんかん)。
この句のあと、原著では「後会(こうかい)期(ご)遥か(はるか)なり。纓(えい)を鴻臚(こうろ)の暁(あかつき)の涙に霑(うるお)す。」と続く。

『和漢朗詠集』より、 大江朝綱(おおえのあさつな)

前途(せんど)程遠し。
思ひを雁山(がんさん)の暮(ゆふべ)の雲に馳す。
後会(こうかい)期(ご)遥かなり。
纓(えい)を鴻臚(こうろ)の暁(あかつき)の涙に霑(うるお)す。
これからお帰りになる道は遠い。
私の思いを、雁山の夕べの雲に寄せます。
この後に会う機会は,遥か(はるか)遠い未来でしょう。
今朝、鴻臚館(こうろかん)で冠のひもを涙で濡らしています。

・鴻臚(こうろ) - 京都にある、外国からの使者をもてなす宿舎。
・纓(えい) - 冠のひも。

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  • 大意
  • 本文/現代語訳

そののち、世静まつて、『千載集』(せんざいしふ)を撰(せん)ぜられけるに、忠度のありしありさま、言ひ置きし言の葉(ことのは)、今さら思ひ出でてあはれなりければ、かの巻き物のうちに、さりぬべき歌、いくらもありけれども、勅勘(ちよくかん)の人なれば、名字をばあらはされず、「故郷(こきやう)の花」といふ題にてよまれたりける歌一首ぞ、「よみ人知らず」と入れられける。

さざなみや志賀(しが)の都は荒れにしを昔ながらの山桜かな

その身、朝敵(てうてき)となりにしうへは、子細(しさい)に及ばずと言ひながらうらめしかりしことどもなり。

その後、世が静まって(俊成卿が)『千載集』をお撰びになったとき、忠度のあの時の様子、言い伝えた言葉、(それらの記憶を)今あらためて思い出せばしみじみとするので、あの巻物の中に、ふさわしい歌はいくつでもあったけれども、(忠度は)天皇のおとがめを受けた人なので、名前を明らかになさられず、「故郷の花」(意味:旧都の桜)という題でお詠みしていらっしゃった歌一首を、「よみ人しらず」としてお入れになった。

志賀の旧都はすっかり荒れ果ててしまったが、昔ながらの長等山(ながらやま)の桜だけは(昔と変わらず)咲いていることだなあ

(忠度は)その身が朝敵となってしまった以上は、あれこれ言ってもしかたがないとは言うけれども残念なことではある。


  • 語句(重要)
・言ひながら - 言うけれども。ここでの「ながら」は逆接の接続助詞。逆接「ながら」の意味は「・・・けれども」。
・うらめし - 残念である。
・ - 。
・ - 。
  • 語注
・『千載集』 - 一一八七年に成立した勅撰和歌集。
・勅勘(ちよくかん)の人 - 天皇のおとがめを受けた人。後白河院が発した、平氏を倒せという追討命令が、一一八三年に発されていた。「勅勘」とは、天皇による勘当(かんどう)のこと。古語で言う「勘当」とは、主君が従者との縁を切ること。
・ - 。
・故郷 - 旧都。
・志賀(しが)の都 - 天智(てんじ)天皇のころの大津宮(おおつのみや)。六六七年に大津宮に移った。六七二年の 壬申の乱(じんしんのらん) によって、浄御原宮(きよみはらのみや)に遷都され、大津宮は廃都される。
昔ながら - 昔のまま長等山(ながらやま)との掛詞。長等山は琵琶湖西岸にある。
・ - 。
・子細に及ばず - あれこれ言ってもしかたがない。直訳すると「詳しい事情を言っても、しかたが無い。」というふうな意味。

能登殿(のとどの)の最期[編集]

那須与一の後の話。壇ノ浦(だんのうら)の合戦。

祇園精舎 → 忠度の都落ち → 宇治川先陣 → 木曾の最期 → 忠度の最期 → 敦盛の最期 → 那須与一 → 先帝入水 → 能登殿の最期(現在地)

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  • 大意

壇ノ浦の戦い。海戦である。

平家方の能登守の平教経(のりつね)が奮戦をする。そして源氏の大将の源義経(よしつね)を討ち取ろうと、戦いながら、あちこちの舟を探しに行く。そもそも義経の顔を知らないので、手当たりしだいに、立派な鎧の敵将を討ち取って行く。しかし義経は力では劣る事を承知しており、自分が狙われていることも承知しており、うまく逃げ回り、遭遇しようとはしない。

しかし、なんのひょうしか、ついに二人は遭遇する。平教経(のりつね)と源義経(よしつね)は遭遇した。 だが、身軽さで勝る義経は、ほかの舟に飛び移って、その場からは逃げてしまった。

平教経は、もはやこれまでと思ったのか甲を脱ぎ捨て、かかってこいと源氏の兵たちに挑発する。 だが、その場に居合わせた源氏の兵たちは恐れをなして、かかってこようとしない。

  • 本文/現代語訳

およそ能登守(のとのかみ)教経(のりつね)の矢先(やさき)にまはる者こそなかりけれ。矢だねのあるほど射尽くして、今日を最後とや思はれけん、赤地の錦の直垂(ひれたれ)に、唐綾威(からあやおどし)の鎧着て、いかものづくりの大太刀(おほだち)抜き、白柄(しらへ)の大長刀(おほなぎなた)の鞘(さや)をはづし、左右(さう)に持つてなぎ回り給ふに、面(おもて)を合はする者ぞなき。多くの者ども討たれにけり。新中納言、使者を立てて、「能登殿、いたう罪な作りたまひそ。さりとてよき敵(かたき)か。」とのたまひければ、「さては大将軍(たいしやうぐん)に組めごさんなれ。」と心得て、打ち物茎短(くきみじか)に取つて、源氏の船に乗り移り乗り移り、をめき叫んで攻め戦ふ。 判官(はうぐわん)を見知りたまはねば、物の具のよき武者をば、判官かと目をかけて馳せ回る。判官も先に心得て、面(おもて)に立つやうにはしけれども、とかく違ひて、能登殿には組まれず。されども、いかがしたりけん、判官(はうぐわん)の船に乗り当たつて、あはやと目をかけて飛んでかかるに、判官かなはじとや思はれけん、長刀脇にかいばさみ、味方の舟の二丈ばかり退(の)いたりけるに、ゆらりと飛び乗りたまひぬ。能登殿は、早業や劣られたりけん、やがて続いても飛びたまはず。今はかうと思はれければ、太刀・長刀海へ投げ入れ、甲も脱いで捨てられけり。鎧の草摺(くさずり)かなぐり捨て、胴ばかり着て、大童(おほわらは)になり、大手を広げて立たれたり。およそあたりを払つてぞ見えたりける。恐ろしなんどもおろかなり。能登殿、大音声(だいおんじやう)をあげて、「我と思はん者どもは、寄つて教経に組んで生け捕りにせよ。鎌倉へ下つて、頼朝(よりとも)に会うて、ものひとこと言はんと思ふぞ。寄れや、寄れ。」とのたまへども、寄る者一人(いちにん)もなかりけり。

概して、能登守(のとのかみ)教経(のりつね)の矢面に回る者はいなかった。矢数のある限りを射尽くして、今日を最後とお思いになったのだろうか、 (能登殿は)赤地の錦の鎧直垂に、唐綾縅の鎧を着て、いかめしい作りの大太刀を抜き、白木の柄の大長刀の鞘をはずし、左右(の手)に持ってなぎ倒して回りなさると、 面と向かって立ち向かう者はいない。多くの者たちが(能登殿に)討たれてしまった。新中納言(知盛)は、使者を送って、「能登殿、あまり罪を作りなさるな。そんなことをしても、よい敵であろうか(、いや、そうではあるまい)。」とおっしゃったので、「それでは、大将軍(=源義経)に組めというのだな。」と理解して、太刀、長刀の柄を短めに持って、 源氏の舟に乗り移り、乗り移り、わめき叫んで攻め戦う。(能登殿は)判官(=義経)を見知っていらっしゃらないので、武具のよい武者を判官かと目をつけて、走り回る。判官も(自分が狙われていることを)すでに気づいていて、(源氏軍の)前面に立つようにはするが、あちこち行き違って能登殿とはお組みにならない。しかし、どうしたのだろうか、(能登殿は)判官の舟に乗り当たって、それっと判官を目がけて飛びかかるので、判官は(能登殿には)かなわないとお思いになったのだろうか、長刀を脇に挟んで、味方の舟で二丈ほど離れていた船へ、ひらりと飛び乗りなさった。 能登殿は、早業は劣っておられたのであろうか、すぐに続いては飛びなさらない。今はこれまでとお思いになったので、太刀・長刀を海へ投げ入れ、甲も脱いでお捨てになった。鎧の草摺りをかなぐり捨て、胴だけを着て、ざんばら髪になり、両手を大きく広げてお立ちになった。(その姿は)総じて周囲を威圧しており近寄り難いように見えた。恐ろしいなどと言うどころではない。能登殿は大声を上げて、「我こそはと思うような者どもは、近寄って教経と組みついて生け捕りにせよ。鎌倉に下って、頼朝に会って、ものを一言を言おうと思うぞ。寄って来い、寄って来い。」とおっしゃっるけれども、寄って来る者は一人もなかった。


  • 語句(重要)
・矢先 - 矢の飛んでくる方向。矢面。
・矢だね - 箙(えびら)などに入れておいて用意してある矢。手持ちの矢。
さりとて - そうかといって。「さありとて」の略。他説では動詞「さり」+格助詞「と」+接続助詞「て」、が一語化したという説もある。
・ - 。
やがて - すぐに。
・をめき叫んで - 大声で叫んで。 「をめく」=大声を出す。わめく。叫ぶ。
・あはや - 感動詞。おどろいた時や、掛け声など。この『能登殿の最期』での「あはや」は、「やあっ」「それっ」など。
・見知り - 「見知る」=面識がある。交際がある。顔見知りである。顔を知っている。
とかく - あちこち。
・目をかけて - めがけて。ねらって。
・ - 。
  • 語注
・能登守(のとのかみ)教経(のりつね) - 平教経(のりつね)。
・赤地の錦の直垂(ひれたれ) - 直垂(ひれたれ)とは、よろいの下に着る衣服。
・新中納言 - 平知盛(とものり)。知盛は清盛の子。この時点で、知盛は平家の最高指揮官。
・判官(はうぐわん) - 源義経(よしつね)。
・丈 - 長さの単位。1丈は約3メートル。
・草摺(くさずり) - 鎧の胴の下部にある、垂れた部分。下半身を防御するための物。
・頼朝(よりとも) - 源頼朝。
・ - 。

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  • 大意

平家方の能登守教経(のりつね)を討ち取ろうと、源氏方の安芸(あきの)太郎実光(さねみつ)ら三人が、能登守(のとのかみ)教経(のりつね)に襲い掛かる。だが逆に、教経(のりつね)は彼ら三人をとっ捕まえてしまい、そして自分の入水自殺の道連れにすることで、安芸太朗ら三人を殺してしまった。

能登守・平教経(のりつね)は、このとき入水して死亡した。生年二十六歳。

  • 本文/現代語訳

ここに、土佐(とさ)の国の住人、安芸郷(あきのがう)を知行しける安芸(あき)の大領(だいりやう)実康(さねやす)が子に、安芸(あきの)太郎実光(さねみつ)とて、三十人が力持つたる大力(だいぢから)の剛(かう)の者あり。我にちつとも劣らぬ郎等(らうどう)一人、弟(おとと)の次郎も普通には優れたるしたたか者なり。安芸太郎、能登殿を見たてまつて申しけるは、「いかに猛うましますとも、われら三人取りついたらんに、たとひ丈(たけ)十丈の鬼なりとも、などか従へざるべき。」とて、主従三人小舟に乗つて、能登殿の船に押し並べ、「えい。」と言ひて乗り移り、甲の錣(しころ)をかたぶけ、太刀を抜いて一面に打つてかかる。能登殿ちつとも騒ぎたまはず、まつ先に進んだる安芸太郎が郎等を、裾を合はせて、海へどうど蹴入れたまふ。続いて寄る安芸太郎を、弓手(ゆんで)の脇に取つてはさみ、弟の次郎をば馬手(めて)の脇にかいばさみ、ひと締め締めて、「いざ、うれ、さらばおれら、死途(しで)の山の供せよ。」とて、生年二十六にて、海へつつとぞ入りたまふ。

そこで(源氏方で)、土佐(とさ)の国の住人、安芸郷(あきのがう)を支配していた安芸(あき)の長官・実康(さねやす)の子で、安芸(あきの)太郎実光(さねみつ)といって、三十人分の力を持った大力の剛勇の者がいた。(そのうえ、)自分に少しも劣らない家来が一人(おり)、弟の次郎も普通よりは優れた剛勇の者である。安芸太朗、能登殿を見なさって申し上げたことは、「どんなに勇猛でいらっしゃっても、我々三人が組み付いたら、たとえ丈が十丈の鬼であっても、どうして服従させられないことがあるだろうか(、いや、服従させることができる)。」と言って、主従三人で小舟に乗って、能登殿の舟に押し並べ、「えいっ。」と言って乗り移り、甲のしころを傾け、太刀を抜いて一面に討ってかかる。能登殿は少しも騒ぎなさらず、まっ先に進んだ安芸太郎が家来を、 (相手の裾と自分の)裾を合はせ(るくらいに接近し)て、海へどんと蹴り入れなさった。続いて近寄る安芸太郎を、左手の脇に取ってはさみ、弟の次郎を右手の脇にかいばさみ、ひと締め締めあげて、「さあ、おまえら、(我の)死途(しで)の山の供せよ。」と言って、生年二十六歳で、海へさっとお入りになる。


  • 語句(重要)
・知行 - 領地として支配すること。
・剛 - 武勇に強い。
・ちつとも - 「ちつとも・・・(打消し)」で、少しも・・・せず、の意味。
・したたか者 - 剛の者と同じ。頑丈な者。
・弓手(ゆんで) - 左手。弓矢を持つとき、矢を右手で持ち、弓は左手で持つ。
・馬手(めて) - 右手。馬の手綱を持つ手。
  • 語注
・大領 - 郡の長官。
・実康(さねやす) - 伝未詳。
・実光(さねみつ) - 伝未詳。
・ - 。

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  • 大意

平家方の総指揮官である新中納言・平知盛(とものり)、入水により自害し死亡。

  • 本文/現代語訳

 新中納言(しんぢゆうなごん)、「見るべきほどのことは見つ。今は自害せん。」とて、乳母子(めのとご)の伊賀平内左衛門家長(いがの へいないざゑもん いへなが)を召して、「いかに、約束は違(たが)ふまじきか。」とのたまへば、「子細(しさい)にや及び候ふ(さふらふ)。」と中納言に鎧(よろひ)二領(にりやう)着せ奉り、わが身も鎧二領着て、手を取り組んで海へぞ入りにける。これを見て、侍(さぶらひ)ども二十余人、後れ奉らじと、手に手を取り組んで、一所(いつしよ)に沈みけり。その中に、越中次郎兵衛(ゑつちゆうのじらうびやうゑ)・上総五郎(かづさのごらう)兵衛・悪七(あくしち)兵衛・飛騨四郎(ひだのしらう)兵衛は、何としてか逃れたりけん、そこをもまた落ちにけり。海上(かいしやう)には赤旗(あかはた)・赤印(あかじるし)投げ捨て、かなぐり捨てたりければ、竜田川(たつたがは)の紅葉葉(もみぢば)を嵐の吹き散らしたるがごとし。汀(みぎは)に寄する白波も、薄紅(うすぐれなゐ)にぞなりにける。主(ぬし)もなきむなしき船は、潮に引かれ、風に従つて、いづくをさすともなく揺られ(ゆられ)行くこそ悲しけれ。

 新中納言(知盛)は、「見なければならないほどのことは見た。今は自害しよう。」と言って、乳母子(めのとご)の伊賀平内左衛門家長(いがの へいないざえもん いえなが)を呼んで、「どうだ、約束は違うまいな。」とおっしゃると、「細かいことには及びません(=細々と申すまでもございません)。」と中納言に鎧(よろい)二領をお着せ申し上げ、自分も鎧を二領着て、手を取り組んで海に入ってしまった。これを見て、(平家の)侍ども二十余人、後れ申すまいと、手に手を取り組んで、同じ所に沈んでしまった。その中に、越中次郎兵衛・上総五郎・悪七兵衛・飛騨四郎兵衛は、どのようにしてか逃げのびたのだろうかけん、そこ(=壇ノ浦)からもまた逃げ落ちた。海上には(平家の)赤旗・赤印が投げ捨てられ、かなぐり捨てられたので、(まるで)竜田川の紅葉葉(もみぢば)を嵐が吹き散らしたかのようである。波打ち際に寄せる白波も、(赤旗・赤印で)薄紅になってしまった。主人もいない空っぽの船は、潮に引かれ、風に従って、どこを目指すともなく揺られて行くのは悲しいものである。

(巻十一)


  • 語句(重要)
・ - 。
  • 読解
・見るべきほどのことは見つ - 見なくてはいけないことは見た、の意。では見なくてはならない事とは何か。平家の滅亡のありさまを見届けるという事である。
・約束 - ここでの約束の内容は、前後の文脈からして、おそらく、「死ぬときは同じ場所で死のう」というような内容。
・ - 。
  • 語注
・伊賀平内左衛門家長(いがの へいないざえもん いえなが) - 平家長(たいらの いえなが)。
・鎧(よろひ)二領(にりやう)着せ奉り・・・ - 入水の際、海中で浮かび上がらないようにするため。
・竜田川 - 奈良県 生駒郡(いこまぐん) を流れる川。歌枕として有名。
・赤旗・赤印 - 平家の旗印は赤色であった。いっぽう、源氏の旗印は白色。
・薄紅(うすぐれなゐ)にぞなりにける - 赤旗などによって海岸が赤くなった。血で海が赤くなったのではない、と思われる。

壇ノ浦の戦いは、源氏の圧勝で終わる。

そして、『平家物語』では章が変わる。 『平家物語』の、この続きの内容は、壇ノ浦で捕えた平家の武将を殺した後、京都での平家の子孫への残党狩りである。ある人物が平家の子孫とあれば、たとえ子供であっても、殺される。民衆も、残党狩りに協力し、隠れ住んでいた平家の者の居場所を密告をする。

壇ノ浦の戦いで、安徳天皇は入水(じゅすい)自殺して死んだが、その母・建礼門院(けんれいもんいん)は入水自殺に失敗し、そして源氏方に捕えられる。建礼門院は、最終的に尼になる。