黄河文明・長江文明
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[編集] 黄河文明中国は最も早く文明の現れた地域の一つで、その年代は大体今から7000年前くらいまで遡ると考えられています。 二十世紀の初めに黄河流域でその時代の遺跡がたくさん発見され、いわゆる「四大文明」の一つといわれるようになったのですが、現在はあまり言われなくなっています。理由は後で。この文明のことを黄河文明(こうがぶんめい)と呼びます。 この黄河文明を地域別・系統別に分類されたのですが、その中でも代表とされるのが仰韶文化(ぎょうしょう・ヤンシャオ)・竜山文化(りゅうざん・ロンシャン)の二つです。 仰韶文化は紀元前5000年ごろに始まったもので、黄河の上流域、中国の陝西省・山西省あたりで栄えたようです。その特徴として綺麗に彩色された土器が使われていました。ですのでこのようなものを彩陶文化と呼んでいます。他にも彩陶文化はあるので、仰韶文化は彩陶文化の中の一つと言う事です。ちなみに仰韶と言うのは土器が出てきた村の名前だそうです。 もう一つの竜山文化は仰韶文化が終わった後の紀元前2500年ごろに始まったもので、こちらの特徴は黒い土器です。ですのでこのようなものを黒陶文化と呼んでいます。この頃には高温で焼く事が出来るようになったために薄手で硬い土器が作られていました。この文化の終わりごろになると銅器も作られるようになりました。 ただし、竜山文化と言うのは二つありまして、山東省で発掘されたものを山東竜山文化、陝西省あたりで発掘されたものを中原竜山文化と呼んでいます。このうち中原の方の竜山文化は仰韶文化を受け継いだものでこちらには灰色の土器が多いのが特徴です。そして山東の方の竜山文化は別の大汶口文化と言うものを受け継いだもので、こちらは黒の土器が多いです。 ☆甲骨文字 黄土地帯で文明が発達しやがて王朝が発達した。亀の甲羅や鹿・牛の肩甲骨等に甲骨文字が刻まれ漢字の原型となった。 土器・青銅器・儒教・漢字等の昔日本に伝わってきたものが多い。 殿→周→春秋戦国→泰→前漢→新→後漢→三国→晋→南北朝→隋→唐→五代→宋→元→明→清→中華民国→中華人民共和国 [編集] 長江文明この文化の流れが、やがて殷や周に繋がっていくと考えられていたのですが、それに待ったをかけたのが長江文明(ちょうこうぶんめい)です。 元々、古代文明のことを大河文明と呼ぶくらいで、大河があったから文明が生じたと考えられていた訳です。であるのなら黄河より更に大河の長江流域でも文明が存在するはずと考えた人も多かったのですが、当時の中国は戦後の混乱や文化大革命などで発掘が出来なかったのです。1970年代になってようやく発掘が進み予想通りにたくさんの文明の証拠が出てきました。 長江文明の代表として湖南省の屈家嶺文化(くつかれいぶんか)、浙江省の良渚文化(りょうしょぶんか)が挙げられますが、それ以外にも四川省の三星堆遺跡(さんせいたいいせき)などもあり、本当にたくさんの数があります。たくさんありすぎて今の所整理がつかず、黄河文明とどういう関係にあったのか、交流はあったのか、その後はどうなったのか、殷や周への流れに影響を与えたのか。などはまだ良く解っていません。ただこれらの文明が後になって出てくる楚や呉や蜀などに繋がっていると考えられています。 そして現在では黄河文明・長江文明と言うわけ方は止めて、大きく一くくりの中国文明として捕らえなければいけないのではないか?と言われていますが、これは学者たちの守備範囲なのでここまでにしておきます。 前に言った「四大文明は言われなくなっている」と言う事ですが、長江文明の他にもたくさん文明がみつかったので「四大」なんていうのはおかしいという事で、今はあまり言われません。おそらくこれからもたくさん見つかる事になると思いますので、この本の内容もいずれは古くなるでしょう。 [編集] まとめ
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