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トーク:日本史 安土・桃山時代

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出典: フリー教科書『ウィキブックス(Wikibooks)』

安土・桃山時代はいわゆる戦国の時代に相対するといえるだろう。 安土は織田信長が天下統一の拠点に近江に建てたものであり、そこでは楽市楽座が政策として取り入れられており天下都市としての準備をうかがわせるものである。しかし、明智光秀の裏切り・謀反により本能寺で織田信長がころされると、つぎは、豊臣秀吉が天下人になった。豊臣秀吉はそのとき、織田信長の天下統一策のひとつ、中国地方毛利氏平定の任についており織田信長の殺害は明智光秀が毛利氏に送る使者を豊臣秀吉が捕らえわかったことだった。そして豊臣秀吉は中国大返しといわれる迅速な対応をし京都近く山崎の戦いで明智光秀をやぶっている。明智光秀をやぶった秀吉の発言力は強く徳川家康、柴田之家などは強く反対した。しかし、秀吉の巧みな内部工作が功を制し、織田信長殺害からたった10年で九州平定を終了して天下統一を成し遂げた。そのあと、秀吉は朝廷での最高職・太閤関白に任ぜられた。その秀吉は、それだけでは終わらず、織田信長の草履取りのころ話した中国制服の道案内を拒否した朝鮮国に対し朝鮮出兵をおこない秀吉が死んで遺言で終了した。最後に、秀吉は、太閤検地、刀狩を行い内政にも尽くした。太閤検地はこれまでのただたんに基準無く農民からとっていた年貢を特定の率で統一したものだった。刀狩は兵農分離を目指す秀吉の考えで農民から武器をとりあげることによって一揆や武士にたいて反抗することをやめさせようとした。これは、農民をいう低い身分から織田信長にみいだされて日本のリーダーになった秀吉独自の考え方・思考回路といっていい。

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