メソポタミア文明

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メソポタミア文明[編集]

メソポタミア(Mesopotamia)とはギリシア語で「川の間の地」という言葉であり、また、ティグリス川ユーフラテス川の流域で発生した文明および、このティグリス川とユーフラテス川の流域の地域のことを指す。 この地域には、これらの川があったために、灌漑(かんがい)によって農業が発達し、食糧生産が増えたことにより、人口が増加し、発展していった。そのため、このメソポタミア地域を「肥沃な三日月地帯」(ひよくな みかづきちたい、Fertile Crescent)と言い表すこともある。

また灌漑とは、川などの外部の水源からから人工的に水を引き、農地に水を供給することを指す。先述の通り、2本の川の間に挟まれているメソポタミアでは、外部の水源が豊かであり、そこから水を引いたことにより、耕作可能な土地や作物の収穫量が増え、農業を大きく発達させることに成功した。

紀元前3100年ごろ、このメソポタミア南部の地域に、系統不明の民族シュメール人(Sumerians)が都市国家を創りだし、このシュメール人が都市国家を3つ建てた。その3つの都市国家の名前は ウル(Ur)、ウルク(Urk)、ラガシュ(Lagash) である。また都市の中心には神殿・聖塔として、ジッグラト(ziggurat)が建設された。

シュメール人は青銅器を用いており、また、シュメール人は楔形文字(くさびがた もじ)を用いていた。

紀元前2350年ごろ、シュメール人にとって変わって、セム系のアッカド人(Akkadians)が都市シュメールを征服した。アッカド人はメソポタミアにおける最初の帝国アッカド帝国を建国し、サルゴン1世のころ、メソポタミアのほぼ全域を征服した。

アッカド帝国はその後衰え、シュメール人の建てたウル第三王朝にとって変わられたが、そのウル第三王朝もおとろえて、紀元前2000年ごろ、セム系アムル人(Amurrites)によってバビロン第一王朝(古バビロニア王国、Babylonia)が建国された。そして紀元前1700年ごろのハンムラビ王(Hammurabi)のときに、メソポタミアを統一した。ハンムラビ王は、国家の統治のため、それまでの法律をまとめた『ハンムラビ法典』を制定して発布した。

ハンムラビ法典が記録された石碑、ルーブル美術館所蔵

このハンムラビ法典で抑えたいポイントは 

① 「目には目を」で知られる復讐法(ふくしゅうほう)。同害復讐法(どうがい ふくしゅうほう)。 
② 身分により刑罰に差が生まれる身分法(みぶんほう)。

の二点である。


 ハンムラビ法典(抜粋)

196条 他人の目をつぶしたものは、その目をつぶされる。
199条 他人の奴隷の目をつぶしたり、骨を折ったりした者は、その奴隷の値の半分を支払う。

(※ 日本語訳の言い回しの細部は教科書によって違うので、一字一句は覚える必要性は無い。)

ハンムラビ法典は、シュメール法を集大成したものである。シュメール時代から法典が編纂(へんさん)されていた。

メソポタミアの文化・地形[編集]

メソポタミアの地形は比較的、開放的である。このような地形のため、軍事的には、外敵からの進入がされやすいなどの特徴がある。

文化面では、太陰暦(たいいんれき)を採用しており、閏年(うるうどし)のずれは太陰太陽暦で修正していた。

また1週7日制六十進法はメソポタミア文明の特徴である。

メソポタミア文明の文字は、シュメール人によって楔形文字(くさびがたもじ)が作られ、これが他の民族にも用いられた。メソポタミア文明では基本的に、粘土板に刻む(きざむ)方法で文字が書かれていた。

(※ 発展項目) この文字の解読は、19世紀にイギリスのローリンソンによって、アケメネス朝のダレイオス1世の功績が書かれた石碑(せきひ)の文章(ベヒストゥーン碑文)をもとに解読された。

(※ 発展項目)古代メソポタミアでは 『ギルガメッシュ叙事詩(じょじし)』という文学作品が作られた。これは、世界最古の文学作品であると考えられている。ギルガメッシュ叙事詩の内容だが、これはウルク王ギルガメッシュが主人公の英雄譚(えいゆうたん)であり、『旧約聖書』にある「ノアの箱舟」の話のモデルになったと考えられている、洪水伝説などが書かれている。

インド=ヨーロッパ語族の進出[編集]

紀元前2000年ごろ、インド=ヨーロッパ語系の遊牧民が、カスピ海周辺の地域から西アジアへと、大きな移動をしていた。 そして紀元前1800年ごろ、インド=ヨーロッパ語系のヒッタイト人(Hittites)によって、メソポタミアの北にあるアナトリア高原のあたりに、強力な王国が建国された。ヒッタイト人の文明は、製鉄技術を持っており、鉄製の武具や、馬でひく鉄製の戦車など、優れた武器の生産が可能であった。そして紀元前1600年ごろ、ヒッタイトがメソポタミアに遠征し、バビロン第一王朝を滅ぼした。また同時にカッシート人(Kassites)がイラン方面からバビロニアに侵入してメソポタミアを支配し、カッシート王国(バビロン第三王朝)が成立した。

また、紀元前1500年ごろ、メソポタミア北部にフルリ人がミタンニ王国(Mitanni)を建て、勢力を増した。

こうしてオリエント世界では、これらのいくつもの王国が(ヒッタイト、カッシート、ミタンニ、エジプト)、割拠する状態になった。

紀元前1286年 ヒッタイトとエジプト新王国とでカデシュの戦いが行われ、ヒッタイトが勝利を収めた。 カデシュの戦いのポイントは 

現存する最古の戦いである 
最古の国際条約が結ばれる 

の二点である。