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利用者:Prof.Kubo

出典: フリー教科書『ウィキブックス(Wikibooks)』

"仏教減来の旅路”インドーガンダーラー西域ー中国・長安ー日本・京都 5章構成

第1章:原始仏教の成立(インド) 釈迦:出家する以前の名前は、ゴータマ・シッダールタ。紀元前560年頃、現在の ネパール・カトマンズの西方200kmにあった小さな部族国家シャーキャー(釈迦)国の太子として生まれた。父はスッドーダナ(浄飯王)、母はマーヤー(摩耶夫人)。 摩耶夫人は出産を実家でするため、隣国の実家までの移動の途中、現在のネパールのルンビニで、急に産気づき出産した。母は不時の出産の為か生後7日目に亡くなり、母の妹に育てられた。彼は太子として大事に育てられ、豊かな生活を送った。彼は知的に優れ、感受性の鋭い少年であった。父国王及び臣下からも次代を担う太子としての期待を一身に受け、学問や武芸に秀でた青年として成長していった。17歳の折には、従妹に当たる美しい王女を妃として迎えた。ゴータマは、貴族階級の知識人として育ち、妻を娶り、人間としての歓びも、人間関係の苦しみも知り実社会の人間として成長していった。太子シッダールタは、少年時代から感受性が鋭く、内性的な少年だったが、青年期を迎えるにつれ一層思索性を深めていった。彼は、人間の存在そのものへの疑問へと、思いをはせるようになったといわれている。 少年から青年へと成長の過程で、ある日供を従え城門から出ようとした時、道端に老いた貧しい老人が居るのに気がついた。彼は老人を見て思った“自分もやがて老いて行く身なのに何故老人を見て目を逸らそうとするのだろうか。自分もいつ病に倒れるかも知れない身であるのに、いつかは死ぬ身ありでながら自分のことは打ち忘れ、他人の病めるを見ては眉をひそめ、他人の死を見ては目を逸らして行く。老いも死も必然であるのに、それを忌み嫌うのはどうしたことか?その矛盾に気づいた時、彼は自分の青春に対する 歓びも、健康だとする驕りの気持ちもすっかり消え去った。 また別の日、柿色の袈裟を身にまとい錫丈をついて、前方を見据えながら堂々と歩いていく出家修行者に出会った。出家修行者は、生、老、病、死の苦しみの無い世界を求めて 修行を積んでいる者でる。その自信に満ちた誇り高い姿に心打たれた太子は、こんな世界があるのか、これこそ私の求めていたものだと内心深く出家の決意をした。シッダールタは生、老、病、死の苦しみを自分の問題として捉え、その解決のため出家したと伝えられている。この伝説は、比喩的創作かもしれないが、彼の内面の想いが良く描写されていて、昔から太子出家の動機を説明するものとして重要視されてきた。  出家:子供も生まれた数年後、彼29歳の折、遂にすべてを投げうって深夜城を抜け出した。一介の乞食修行者となり、人生を探求する道を選んだのだ。すでに29歳、妻子もある青年が、深夜一人馬に乗り、城を脱出するという非常手段をとるには、差し迫った動機がなけれがならない。推測するにそれは、王位の継承問題をめぐる対立があったのではないのか?あるいは継母との間での、王位の継承問題をめぐり何らかのあつれきがあったのかもしれない。城を抜け出たシッダールタは師を求め、禅定修行に打込み悟りを求めたが、禅定では悟りを得られなかった。そこで苦行修行に打ち込んでいった。断食の行では命をなくす寸前まで行った。然し悟りは得られなかった。シッダールタは、苦行も意味の無い修行であり、人間の根源的な苦悩を解決することができない判断し、このとき苦行を捨てる決心をした。 成道(悟り)彼は、ブッダガヤーの地に赴いて、1本の樹の下で心身を正し、座禅を組み思索・瞑想の世界に入った。自分は悟りを開くまで、たとえ死んでもこの座を立たないという重大な決心を持って禅定に入った。禅定の途中で様々な邪魔や誘惑に誘われたが、彼はそれらに屈することなく、7日目の明け方成道(悟り)へと導かれ仏陀になったと古い仏典は伝えている。この折のことを後世、降魔成道と呼んでいる。仏陀とは悟りを得た者という意味である。時にゴータマ35歳、これ以後我々も悟りを得た彼のことを、釈尊と呼ぶことにする。この樹の下で、菩提(さとり)に達したので後にこの樹は菩提樹とよばれ今に至っている。 初転法輪 釈尊は悟りを得た後の最初の説法を、鹿野苑において旧知の5人の修行者に対して行っい彼らは弟子となった。この最初の説法を初転法輪という。 伝道の旅 鹿野苑に於いて最初の5人の弟子を得て、以来80歳で死ぬまで48年の伝道の旅を続けた 入 滅 釈尊80歳のとき、最後の伝道の旅立ちを前に、王舎城付近の弟子たちを霊鷲山に集め、“戒(戒律)、定(禅定)、慧(知恵)”を共に修行することで無知による穢れから解脱する“と説いた。 最後の伝道の旅の途中で病になり、とある村はずれの沙羅の林に入り、2本の沙羅の樹の間に横たわり、弟子たちに別れを告げ最後の説法をした。   「修行者たちよ、汝らに告げる。全てのものは移ろい行く。怠らず勤めよ、これが私の最後の言葉である。」と。ときに紀元前480年頃 仏教の根本思想は、涅槃と平等の思想である。   釈尊は人の世を苦に満ちたもの、人間を苦悩する存在だと断じた上で、苦の原因は皆 愛欲のしがらみに行き着く。この愛欲のしがらみを断ち切ることで、必然的にその結果 である苦もまた断ち切ることが出来るという悟りである。そう悟ることにより人は 「涅槃寂静」という、心の絶対的な安らぎを静かに楽しむ境地に誰にでも入れる。 このような悟りは、いかなる人間も得られると説いた。インドではバラモン教の戒律下 にあり階級的差別が厳しく行われていた。その階級の差別を否定した釈迦の説は、当時 にあっては恐るべき異端の説であり、権力階級への挑戦ともいえる大胆な説であった。

第2章:大乗仏教の成立(インドーガンダーラ) 概論:釈迦の入寂後、十大弟子が主導して釈迦の説法の聞き書き集、語録といった形で経典(法)、律典(律)、注釈書である論が弟子たちよって編纂され、インド国内に流布していった。その経典が、多くの信者を引き付けていった。ことに紀元前3世紀の半ば、インドでは、アショーカ王がインド亜大陸内の部族国家を統一し、大帝国を樹立した。アショーカ王は仏教を保護し、国教としたためインド全域に浸透していった。さらに中央アジアにまで広がり、仏教教団の勢力は著しく拡張されていった。しかしやがて、教団が膨らみすぎ統制が取れ難くなっていった。教団内部に釈迦の直弟子を誇る長老中心の保守的な上座部と、釈迦を彼が説いた“法・律・論”を通し理解しようという若手の学究派による大衆部に分かれていった。更にいくつもの部派が乱立し主導権を争うようになった。大別すれば、戒律を重んじる保守的長老中心とする小乗仏教と、仏陀の思想の根本をなす“涅槃・平等”の思想に基づく、大乗仏教に二分されていった。仏滅後100年に開かれた、第2回結集(経典類のの編集を目的とする集会)で小乗と大乗仏教とに分裂した。 大乗仏教哲学の先導者・龍樹  大乗仏教の理論的指導者は、南インド出身の龍樹(ナーガルジュナ)、紀元2世紀頃の哲学者・学僧であろう。「般若経」(知恵を持って彼岸に到達する法の意味)を踏まえた龍樹の精緻な大乗哲学を簡単に述べるのは難しいが、要するに「有」にも「無」にもとらわれずに、あるがままの自性に従って「空」なる縁起世界に生きる「中」の思想が、彼の説の根本原理だといわれる。この原理に立って龍樹は、例を挙げるならば、愛欲を無理に絶って輪廻の鎖から逃避しようとする考え方を否定し、愛欲も含むあらゆる煩悩に「中」の知恵を持って立ち向かうことが悟りえの道を開くことになる。このように、人生肯定的な「煩悩即菩提」迷いが即悟りとなると説いた。更に、この道を求める生き方こそが、縁起の世界(一般大衆が生活している世界)において自分のみならず他人をも救済する「菩薩行」であると説いているのである。インドにおける大乗仏教は、龍樹の論「中観」を基盤として、多くの他の学僧によって、紀元前後に始まり起源200年頃に大乗仏教の基礎が確立していった。 アショーカ王・仏教の保護者  紀元前265~232年までインド・マウリヤ王朝の王としてインド亜大陸を統一した。 アショーカ王の治世の中で、特筆されるのは宗教運動で、インドの歴史上特筆すべき画期的な出来事であった。王は仏教のインド国内への布教および近隣諸国への布教・伝道に多くの貢献した。第3回仏典の結集をおこない、仏教の教えを広めるためヘレニズム諸国やスリランカに使節を派遣した。この時代は、仏教の歴史でいう「根本分裂」の時代に相当した。 ガンダーラは、現在のアフガニスタン東部、およびパキスタン北西部にあった古代王国でカブール河北岸に位置し、その東端はインダス川を越えてカシミール渓谷の境界部まで達していた。ガンダーラの王国は1世紀から5世紀には仏教を信奉したクシャーナ朝のもとで最盛期を迎えた。 カニシカ王(在位:128年 - 151年)統治下にガンダーラ美術は繁栄し、多くの仏像が作られ、仏塔・寺院が建立された。カニシカ王は仏教が中央アジアから極東にまで広がりを見せることになった最大の功労者だった。王のもとで、ガンダーラは周辺文明の中心となり、その地で栄えた仏教美術はアジア全域に広がった。ペシャーワルには120メートルもの巨大な仏塔が建立されたほか、数多くの仏教遺跡が残り、後世、東アジアからの巡礼地として神聖視された。クシャーナ朝の支配下でガンダーラ美術は黄金時代を迎える。ペシャーワル渓谷とタクシラにはこの時代の仏塔と仏寺の遺構が数多く見られる。

ガンダーラの仏教美術 インドにおける仏教教団においては、釈迦自身が合理的な考えで、偶像崇拝を禁じた。その結果、釈尊の画像・仏像といったものは一切なく、車輪をかたどった法輪が釈迦を象徴していた。ガンダーラにおいては、クシャーン人自体が、もともと騎馬遊牧民族であり、シルクロードの交易路を押さえ、実利を求める交易民族であった。この為信仰の対象としての釈迦を直接自分の目で見たいとの、強い望みから仏像が生まれた。アレキサンダー大王の東方遠征によりギリシャ植民地がアフガニスタンのバーミヤンにも作られ、ヘレニズム文化の影響がガンダーラの仏像にも強く投影されている。その写実性は、ギリシャ・アクロポリス神殿の神々の像を思わせる。釈迦の修行時代の苦行像は、その傑作のひとつである。 さらに実利を求めるクシャーン人は、死後の安寧を求め、生前に仏塔を、寺院を寄進した。大乗仏教の教団側としても、生前の寄進を布施行として、菩薩行として受けいてていった。ゆうならば、生きているうちに寄付しておくから、死んだら自分と自分の家族は、あの世で幸せになるようにと。いかにも実利を求める、交易民族の要望である。この要望を受け入れることで、大乗仏教が世界宗教へと発展していった。これに対して自己の解脱・完成を目指す小乗仏教の教団では、受け入れがたかったと思われる。哲学的思索を好むインド民族と、直截的思考と実利を求める、騎馬民族・交易民族との違いである。このことにより、仏教がインド国内の知的 エリート僧たちの哲学から、誰でも自分の目で見ることが出来、自分で供物を捧げることによりあの世における安寧を願うという、大乗仏教が世界宗教としての脱皮した。このことが、ガンダーラーパミールー西域諸国ー中国ー朝鮮半島ー日本へとつながる“仏教伝来の旅路”(北伝仏教)となっていった。

第3章:西域僧:鳩摩羅什・経典の漢訳事業(西域 ― 中国・長安) 大乗仏教が中国へ普及する初期の段階で、決定的な役割を果たしたのが、2世紀後半から漢訳仏典の翻訳に、比類のない業績を残した西域僧・鳩摩羅什(クマラジュ344-413)である。 鳩摩羅什は、中国・インドとローマとを結ぶ交易路・シルクロードの中枢に位置するタクラマカン砂漠のオアシス都市、亀滋(キジ国・クチャ)に生まれ育った。 母は亀滋国王の妹、父は亡命インド貴族。母は、その時代仏教の栄えていたカシミールに羅什を連れて行き、その地の名僧に預けた。幼い時から天才児をいわれていた羅什の将来に母親としての想いを託したのだろう。羅什は師も驚くほどの理解力で小乗仏教の蘊奥を究めたといわれている。留学を終え母と共にクチャにもどってきてから、学んできた小乗仏教に飽き足りないものを感じてきた。羅什は小乗仏教の戒律の厳しさだけでは、世の人々の苦悩を救済することは出来ないと悟り、「煩悩即菩提」の論理で現世の人々を救済しようとする大乗仏教に、急速に心が傾いていった。特に彼が影響を受けたには、大乗仏教を大成した龍樹の「中論」であった。彼は、本格的に大乗仏教の研究に打ち込み、三十台の半ばには西域における大乗仏教界の指導的立場になった。 破戒僧の汚名を 発端は、亀滋国への侵略を目論んでいた、前秦の将軍呂光が羅什の捕らえ拉致しようとしたことだ。呂光は羅什を自分の意のままにしようと、ある夜彼にしたたかに酒を飲ませ美女と同室で一夜を過ごさせた。彼はこの卑劣な策に、まんまと引っかかり戒律を破ってしまった。羅什35歳の時であった。羅什はただ一人、見知らぬ辺境の地に取り残されてしまった。その辺境の地で、独り黙々と大乗仏教の研究に打ち込み、又中国語の学習にも励んだ。 この間に、独自の思想体系が出来上がった。その大成ぶりを聞き知った後漢の好学の王に懇望され、都・長安で仏典の全漢訳という大翻訳事業を統率することになった。時に羅什53歳、以来61歳で没するまでの間の鳩摩羅什の業績には、真に驚嘆に値する。かれと弟子たちによって漢訳された主な経典類は「般若経:27巻」、「阿弥陀経:1巻」、「法華経:8巻」、「維摩経:3巻」、「中論:4巻」「大智度論:100巻」・・・等約300点が羅什と弟子たちによって漢訳されたのである。 さらに、その質も素晴らしく、羅什を超える訳者は今日まで現れていない。 羅什の大事業を手伝った多くの弟子たちが、 羅什の没後、師の大乗仏教の布教に精根を尽くした、その理想をもって中国各地での布教に献身した。更に翻訳事業も継続し、ついに「般若経」と「華厳経」の訳出を果たした。中国における大乗仏教の発展、中国仏教の確立に果たした、西域僧・鳩摩羅什の功績は大いなるものがあった。 羅什は、弟子たちへの説教に「臭い泥の中に蓮の花が咲くように、人間も煩悩の泥沼にあっても、清らかで美しい悟りを求めて生きよ」と説いた。 蓮の花はいまでも大乗仏教の訓えの象徴とされている。

さて、これからは西域の仏教美術に目を向けてみよう。 クチャ:古代は亀茲国の都で、鳩摩羅什の故国。ウルムチとカシュガルのほぼ中間に位置するシルクロード天山南道の重要なオアシス都市で、天山山脈南麗、タクラマカン砂漠の 北西、標高1100メートルのところにある。キジル千仏洞は、クチャ郊外の山腹に掘られている。 キジル千仏洞: 古代シルクロードの真珠と言われたキジル千仏洞は、古代中国で最も早く開かれた新疆随一の石窟で、西域、亀茲石窟群の中で最大規模のものである。山の岩壁上に、3.2キロにわたって開削され、現在、236窟が確認されているが、そのうちほぼ完全な型で保存されているものは135窟ある。キジル千仏洞は、3世紀頃から作られ始めたが、8世紀末ごろ放棄されたと言われている。石窟の大多数は、僧侶たちが礼拝などを行う中心柱窟と方形窟で、ほかには僧侶の住居の僧房もある。壁画の題材は、二種類あり、一つは、釈迦の誕生から涅槃までの生涯を入胎、誕生、宮中生活、出家苦行、降魔成道、初転法輪、涅槃などで描いたものある。二つ目は、前世の物語で、釈尊が生前において何度も生まれ変わり、そのたびに善根を重ねて仏になるという物語である。また、宗教に関する題材以外に、古代西域の各民族の人々の暮らしを反映しているものも多い。

楼蘭: 紀元前から5世紀頃まで古代シルクロードのオアシス都市として栄えた楼蘭は、紀元前の古代西域にあった36の国のなかの一つで、豊かな文化を持ち、古代シルクロードの軍事戦略上の要衝だった。漢と匈奴との絶え間ない争奪の舞台となった楼蘭は、人口の五分の一が兵士という軍事国家だった。最盛期の人口は2万人以上もあり、古代シルクロードの有数の商業都市で活気に満ちていた楼蘭だったが、外敵の侵入や交易路の変化などにより衰え、廃墟と化し、次第に砂漠の中に埋もれていった。

敦煌莫高窟(ばっこうくつ) 甘粛省敦煌市の近郊東南25kmに位置する鳴沙山(めいささん)の東の断崖に南北に1,600mに渡って掘られた仏教遺跡。600あまりの洞窟があり、その中に2400余りの仏塑像が安置されている。壁には一面に壁画が描かれ、総面積は45,000平方メートルになる。この中から出た敦煌文書も有名である。敦煌石窟(とんこうせっくつ)・敦煌千仏洞(とんこうせんぶつどう)とも。1961年に中華人民共和国の全国重点文物保護単位に、1987年にユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された。


第4章:玄奘三蔵求法の旅・長安における漢訳事業

中国仏教が抱えた問題 2世紀後半以降、中国には多くの西域僧がやってきて、経典の翻訳や伝道に努力した。その結果、仏教は次第に中国の民衆の中に浸透していった。西域僧・鳩羅什(クマラジュ)は多くの経典を漢訳し、その訳文は流麗かつ正確で中国の大乗仏教の普及に、無くてはならない存在であった。4,5世紀になると多くの中国人の僧侶が現れ、仏教の研究に没頭するようになった。かかる熱情に燃えた中国僧が、当惑した問題は、当時中国に伝えられた漢訳経典が数少なく、範囲も限定されていることだった。そこで彼らの間には、自ら仏教の本地である天竺(てんじく・インド)に行き、インド本国で仏典や梵語(ぼんご・サンスクリット語)を研究し、出来る限り多数の経典を収集し、中国へ持ち帰りたいと熱望する僧たちが現れた。こうしたインドへの求法僧は3世紀~8世紀にかけて千人以上いたと思われるが、辛うじて今日までその旅行記等、記録が残っているのは6人、その中で旅行記が完全な状態で現存するのは、法顕と玄奘の2人だけである。インドへの求法僧の代表する存在は、7世紀に広くインド各地を巡歴した玄奘である。

玄奘の決意 玄奘は、602年隋の時代、洛陽近くの引退した地方長官の家に生まれた。13歳の折正式に僧侶となることが認められた。彼の優れた才能が認められた結果である。その後中国は隋が統治能力を失い、天下が騒然としていた。すでに僧籍に入り法名を玄奘といった彼は、熱心に教学研究に没頭した。玄奘の名声は長安中に広がった。然し玄奘が各地の高僧の説を学んでみても、又教典を調べてみても矛盾があり、彼の疑問と懊悩は深まるばかりであった。そこで玄奘は、いまこそインドへ赴いて、師について疑問を正し、経典の原典を持ち帰りもろもろの疑問を解決したいと考え、インドへいく事を自らに誓った。当時唐朝は西域との交通を許可していなかった。繰り返し嘆願書を出したが、いずれも却下されてしまった。そこで彼は国禁を破って、インドへいくことを決意した。

旅立ち 629年8月、密かに旅装を整え、固い決意を胸に秘め、長安を独り出発した。苦労の末河西回廊をハミに着いた。中国の都・長安から素晴らしい俊才の青年僧がやってきたといううわさは、たちまちタクラマカン砂漠中のオアシス国家に知れ渡った。ハミの隣国・高昌国 (トルファン)の熱心な仏教徒の国王が迎えの使者を送ってきた。玄奘の学識・人格に惚れ込んだ国王は、彼をこの国の国師をして引きとめようとした。然し玄奘の固い決意を知り、多くの旅費、人馬を贈った。更に、当時シルクロードの支配権を握っていた西突厥の王に、紹介の親書を書いた。西突厥の王は高昌国・国王の親書と贈り物を受け取り玄奘を歓迎した。玄奘が出発する折、西突厥の王は沿道の諸国にあてた親書と、通訳の若者をつけ送ってくれた。その後バーミヤン・カシミール・ガンダーラを経てインドに到着した。

ついにインド・ナーランダ寺(僧院)に至る 那爛陀寺ともいう。インドビハール州、ナーランダー中部にあり、427年に建てられた世界最古の大学の1つ。北部インド仏教の最重要拠点であった。 ナーランダ寺で「正法蔵」と尊称される、戒賢法師(シーラバトラ)の下で5年にわたり研学に勤め、その名声は次第に高くなった。玄奘は642年春、帰国の決意を固め師に学びえた大乗の教えを中国に帰り広めたいと願い出て、その許しを得た。643年パミールを越え、カシュガルを経て西域のホータンに着いた。玄奘はここで唐の太宗皇帝に上奏文を送り入国の許可を求めた。翌年太宗から「途中の役所には玄奘の旅の保護を命じた。一刻も早く帰国されよ」との優渥な詔書が送られてきた。645年帰国し、洛陽で太宗皇帝に拝謁した。

玄奘の漢訳事業: 太宗に拝謁した玄奘は、はるばるインドから持ち帰った、経典を正しく漢訳し、中国仏教に正法を確立したいと、国家援助による経典翻訳事業の許しを求めた。太宗は玄奘の命を懸けたインド求法の旅に感動し、直ちに宰相に訳教場の手配を命じた。こうして宰相の援助の下、多数の僧が集められ漢訳の事業がスタートをきった。 まず「菩薩蔵経」はじめ、数多くの経典の漢訳がなされていった。更に648年には「大唐西域記」12巻が僧・弁機の協力で編纂された。巻末に編者としてこう記している「幸運にも、機会に恵まれ未熟な自分が、偉大な法師の末席に交じり、この大唐西域記の編集を命じられた。学問が未だ該博でなく、文章も名文を書くわけではないが、愚鈍を磨き、寡才を励まし、この偉大な記録を編集した」

648年には玄奘は、新築された大慈恩寺の上座とされた。更に、持ち帰った経典や仏像などを保存する建物の建設を高宗に進言し、652年、大慈恩寺に大雁塔が建立された。玄奘は原典から正確な遂語訳に徹したので、彼の訳が以後広く用いられるようになった。 664年3月玄奘は玉華宮で寂した。 玄奘が、中国・日本の仏教に与えた影響は極めて大きかったと言わざるを得ない。


第5章:日本僧の求法(遣唐僧・渡来僧の軌跡)

聖徳太子の国創りの構想 推古天皇の皇太子・摂政となった聖徳太子は、仏教思想に基づく道義的政治体制を確立しようとした。太子は当時未だ著しく安定性を欠いていた、我が国の政治体制を、太子の理念に基づく平等的な国家体制に格上げしようとした。その国造りの理念・構想の中核をなすものが、仏教の法華思想であった。太子は我が国を、法律に従って運営される律令国家にしようと構想し,「十七条の憲法」を制定した。その第二条に“あつく三宝(仏、法、僧)を敬え“とあるように、仏教思想を中核に据え、それに儒教思想を加味したものであった。 太子は法華経思想の核心を全仏教を総合的に包括し、同時に仏法の根本義を“平等にあり”と理解する見方を意味している。この“総合と平等”の理念が、彼の国造りの理念であり構想になっていった。このようにして日本仏教は、聖徳太子によりその基礎が固められた。 法隆寺は太子の偉業をしのんで建立された寺で、金堂に祀られている三体の仏像は、中央に本尊の釈迦牟尼の像、向かって右に薬師如来像、左に阿弥陀如来像が配されている。 本尊の釈迦(仏陀)を挟んで、現世利益担当の仏・薬師と来世の往生を担当する阿弥陀が両脇配置されている。日本における仏教信仰の在りかたを象徴している。

平安期の巨聖:最澄と空海 平安時代の仏教は、比叡山延暦寺に天台宗を拓いた伝教大師・最澄と高野山金剛峯寺に真言宗を拓いた弘法大師・空海という二人の巨聖が、互いに競い合い、影響し合いながら 日本の仏教に新しい時代を開いた。

天台宗・最澄: 天台宗の源は、6世紀末中国の天台智顗が「法華経」に基づき、その上に独創的な解釈を与え樹立した、思弁哲学的な教学である。最澄は天台智顗の教説の忠実な後継者であることを志し、ひたむきにその方向をたどった。日本思想史上、最澄ほど純粋で内政的な人も稀ではないかといわれている。 803年第16次遣唐使の一行に、最澄と空海が加わっていた。最澄は浙江省東部の天台山での8ヶ月の留学生活の間に天台教学を中心に、禅・密教・戒律まで最新の知識を得る努力をした。最澄の帰国はときの朝廷・桓武天皇により温かく迎えられた。

真言密教・空海: 空海のいきざまは、最澄の内政的なのに比べ、男性的、気概・精力に満ち溢れている。真言密教の中心仏は「大日如来」である。この如来は人格神ではなく自然神である。大自然の全てが大日如来の顕現であり、我々の中にも大日如来が宿っている。密教の行によって、大日如来と一体になり、肉体を持ったままでも仏(即身成仏)になれるというのが空海の論旨であった。   空海: (774~835)四国讃岐の生まれ。私度僧となって山林修行に入り、ただ独り大自然の真っ只中に座伝を組み、虚空に輝く明星(金星)を拝み、明星と一体になることで徹底して瞑想を深める修行をした。伝法の本源であると久しく想い焦がれた「大日経」、大日経は宇宙の真理を説いた経典で、その中に書かれている梵字の真言を、空海には読み解くことが出来なかった。「ああ、大唐へ行きたい」求法への思いをたぎらかせ、遣唐使船に乗った。長安で密教の正統を継ぐ、青竜寺の長老・恵果から彼の死の直前に密教の正統を授けられた。こうして真言正統第八代の法灯継いだ。帰朝後昼夜を忘れたすさまじい精神作業のなかで、真言密教体系を完成させた。そして紀伊国高野山に一大密教王国を出現させた。 空海の思想で、特に素晴らしいのは、彼を思慕し、彼の足跡を遍路し、ひたすら旅をつづける人々のために、その白衣の背に「同行二人」と一行の文字を記したことであろう。この一行の文字が、日本仏教の中で最も人々に愛されたのは当然であろう。

鑑真: (688~763年)仏教で悟りを開くためには、戒(戒律)、定(心静かな境地を得るための教え)、慧(真理を悟るための智恵)の三学を修めることが必要とされる。当時の日本仏教界では、戒律制度が整っていなかった。興福寺僧・栄叡と普照とが、戒師招請を任務とし、天平5年遣唐使の一行として海を渡った。栄叡は揚州の大明寺で律を講じていた、鑑真を訪ね伝戒師招請の意を述べ、渡日を懇願した。「願わくは、大和上来日し戒律を興し給い」と。 鑑真「仏法のためならば、私の身命は惜しくない。皆が行かないならば私が行こう」と叫んだ。 「是、法事の為なり。何ぞ身命を惜しまん。諸人去らずんば、即我去らんのみ」と。 ここに渡日への困難な旅路が始まった。時に鑑真55歳。 艱難辛苦の果ての渡日:つごう5回の渡日は、失敗に終わった。その間二人の弟子は、病没し、鑑真は海水で目を傷めた。753年6回目にして日本への渡航に成功した。鑑真は67歳になっていた。1回目以来12年間、志望した者36人、脱落したもの20人、来日した弟子24人。一行は平城京の東大寺に入った。勅使・吉備真備が聖武天皇の勅を鑑真に伝えた。「朕、東大寺を造り十余年経たり、戒壇をたて、戒律を伝授せんと欲し、この心ありてより日夜忘れず。今、大徳遠くより来たりて戒を伝う。深く朕の心に適う。今より以後、 受戒伝授は一に大和上に任ず」    最後に一人の先人の言葉を加えたいと思う

            “志の存する処、愚直を専らにする” 中国・求法僧 法賢                                      --Prof.Kubo 2011年5月17日 (火) 03:07 (UTC)