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国際色豊かな隋・唐の宮廷音楽

出典: フリー教科書『ウィキブックス(Wikibooks)』

南北朝時代の分裂期を経て中国を再統一した隋、そしてそれに続く唐の時代は、宮廷音楽が国際的な輝きを放った黄金時代でした。シルクロードを通じて西域(中央アジア)やインド、朝鮮半島などから多様な音楽がもたらされ、中国固有の伝統と融合し、新たな音楽文化が花開きました。

隋代:国際的宮廷音楽の基礎固め

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隋は、南北朝時代に各地で発展した音楽を整理・統合し、国際的な宮廷饗宴楽の基礎を築きました。

七部楽(しちぶがく)

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隋の文帝の時代(6世紀末)に、公式な饗宴楽として七部楽が制定されました。この編成は、中国固有の音楽だけでなく、諸外国の音楽を正式に組み入れた画期的なものでした。

【七部楽の構成】

  • 国伎(こくぎ): 中国伝統の音楽。
  • 清商伎(せいしょうぎ): 漢代以来の民俗音楽の流れを汲む、揚子江流域の俗楽。
  • 高麗伎(こうらいぎ): 朝鮮半島(高句麗)の音楽。
  • 天竺伎(てんじくぎ): インドの音楽。
  • 安国伎(あんこくぎ): 中央アジア(ブハラ地方)の音楽。
  • 亀茲伎(きじぎ): 中央アジア(クチャ地方)の音楽。
  • 文康伎(ぶんこうぎ): 宴の終わりを告げる仮面舞楽。

九部楽(くぶがく)への発展

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続く煬帝(ようだい)の時代には、さらに西域の西涼や康国の音楽が加えられ、九部楽へと拡充されました。

この変化は、宮廷の関心がさらに西域音楽へと向かっていったことを示しています。

唐代:宮廷音楽の最盛期と整備

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唐は隋の制度を継承し、さらに発展させ、宮廷音楽を儀礼と芸術の両面で頂点へと導きました。

十部楽(じゅうぶがく)

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唐の太宗は、西域の高昌国(こうしょうこく)を平定した後、その音楽を加えて九部楽を十部楽へと拡大しました。

立部伎(りつぶぎ)坐部伎(ざぶぎ)

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玄宗皇帝の時代(8世紀前半)には、饗宴楽(燕楽)は演奏形態によって二つに大別・整理されました。

  • 立部伎: 堂の庭で、立ったまま演奏される形式です。比較的規模が大きく、演目には西域やインド起源のものが多く含まれました。
  • 坐部伎: 堂上で、座って演奏される形式です。より格調高く、中国古来の「燕楽」を含む演目が中心でしたが、人数は少なめでした。

代表的な演目

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太平楽(たいへいらく) [立部伎]: インドやインドシナから伝わった獅子舞で、「五方獅子舞」とも呼ばれます 。緑・黄・赤・白・黒の五色の獅子が登場し、140人の合唱団が歌う壮大な演目でした。

破陣楽(はしんらく) [立部伎]: 唐の太宗が自らの武功を記念して作らせた舞楽で、120人の舞人が勇壮に舞いました。

燕楽(えんがく) [坐部伎]: 周代から続く、支配階級の宴席で奏でられた音楽の流れを汲みます。坐部伎の筆頭に置かれ、中国の伝統を象徴する演目でした。

俗楽の発展と文人文化

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民衆と文人の活動

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宮廷音楽だけでなく、民衆の俗楽や文人たちの音楽活動も大いに栄えました。

  • 梨園(りえん): 芸術を愛した玄宗は、梨園と呼ばれる音楽教習所を設け、自ら音楽家や官女たちを指導しました。
  • 参軍戯(さんぐんぎ): 日本の狂言や漫才の源流ともいえる、問答形式の滑稽劇、参軍戯が生まれました。これは、主役と脇役の二人が機知に富んだやりとりを繰り広げるものでした。

唐詩と音楽

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李白や杜甫、白楽天といった大詩人たちの詩(唐詩)は、ただ読まれるだけでなく、宴席や教坊(歌舞を教える場所)で盛んに歌われました 。

特に王維の詩を基にした「陽関三畳(ようかんさんじょう)」の曲は、琴に合わせて歌われ、広く知られていました 。

この時代、古代の宗教的・儀礼的な「雅楽」とは別に、国際色豊かで芸術性の高い「燕楽」という新たな宮廷音楽のジャンルが確立されました 。それは、唐の文化的な自信と開放性を象徴するものでした。