戦後

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戦後とは、一般に戦争が終わった後の時代である。

なお、このページでは、第二次世界大戦(太平洋戦争)後の民主政時代の日本の経済について概説する。日本の第二次世界大戦後については「日本史 戦後」を参照すること。

戦後日本の経済[編集]

概説[編集]

戦前日本の経済は、戦争を山/谷とする好景気と不景気の波が循環していた。これにより、日露戦争前後の不景気、第一次世界大戦中の好景気(大戦景気)、第一次世界大戦後の反動不況(戦後恐慌)といった現象が起こった。しかしながら、第二次世界大戦では、ナチスドイツ流の統制経済が叫ばれた。そして、第二次世界大戦の敗北による軍需の壊滅、復員兵の帰還による失業率の増加などにより、日本経済は、壊滅状態に陥る。1940年以前の経済水準に低迷した日本経済にとって、新しい経済の需要先を見つけることが最優先課題となった。GHQ政策におけるドッジ・ライン(安定恐慌)などは、低迷した日本経済に対する処方箋であったのだろうが、結局、朝鮮戦争による特需が景気回復の引き金となって、日本経済は国際社会の一員として急速な発展を迎えることになる。 GHQによる占領政策において、日本は急速な民主化を要求されたのだが、これにより経済の分野でも民主化が進んだ。農地改革(1947年)・財閥解体(1945年~1952年)・労働三法の成立(1946年~1949年)・独占禁止法(1947年)・シャウプ税制勧告(1949年)などがそうした実例であろう。 1950年代以降、基本的に日本経済は成長路線に入った。いわゆる「三種の神器」と呼ばれる消費拡大傾向が日本の経済を後押しした。しかし、国際収支との関係で、日本は海外輸入に材料・設備を依存していたことから、国際収支バランスにおいて経済成長の足を引きずることになる。(朝鮮特需(特需景気) → 神武景気 → なべ底不況 → 岩戸景気

終戦を迎えた日本経済[編集]

第一次世界大戦の経験から、特に国際間の紛争においては、国家が全ての軍需へ注ぎ込み、国家が総力戦体制をとることが肝要であるという考え方が一般的となっていた。そこで、日中戦争下で、中国軍の大軍を相手に戦争を継続する必要から、国家経済の戦時体制をとるために、国家総動員法が制定された。戦時中は、厳格な物価統制と配給制度により軍需主導の経済が実現したのだが、戦前日本の敗北により、大東亜共栄圏構想は崩壊し、日本経済は、急激な打撃を受ける。

テキスト[編集]

戦後日本の経済とGHQ[編集]

第二次世界大戦により壊滅した戦後の日本経済を迎えたのは、GHQによる徹底的に民主化と復興への困難であった。GHQによる財閥解体、戦災による国内インフラの壊滅、復員兵および引揚者を要因とする人口の急増などによって経済は混迷を極めた。GHQによる民主化政策では、資本集中の排除と自由競争の促進が目標に掲げられた。財閥解体や独占禁止法の制定はそうした一環であるし、民需主導の経済を打ち立てるための努力がなされた。また、労働者の人権を保護する労働三法の制定も民主化要求の一つである。傾斜生産方式により日本の生産は回復に向かったが、ハイパーインフレーション(戦後インフレ)に見舞われた。ドッジラインによる経済安定化9原則が施行されたが、結局、全面的な復興を遂げるのは、朝鮮戦争による朝鮮特需を待たなければならなかった。

テキスト[編集]

労働三法[編集]

1950年代の日本経済[編集]

1950年代の日本経済では、朝鮮戦争における在朝鮮アメリカ軍および在日本アメリカ軍から日本に発注された日本に発注された物資・サービスによる朝鮮特需によって景気が大きく浮揚した。1955年~1957年の神武景気では、戦前水準にまで日本経済の状態は回復し、1956年の経済白書には、「もはや戦後ではない」と記された。また、好景気の影響で、耐久消費財ブームが発生し、三種の神器(冷蔵庫・洗濯機・白黒テレビ)が出現することになる。

テキスト[編集]