「高等学校日本史B/律令国家への道」の版間の差分

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中学校社会 歴史/飛鳥時代 2018年2月26日 (月) 02:21‎ から白村江の戦いについて引用。その他、高校用に追記中。
内臣(うちつおみ)に中臣鎌足を登用
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なお、右大臣に阿部内麻呂(あべのうちまろ)を登用し、左大臣に蘇我倉山石川麻呂を登用した。(※ 左大臣に我氏がいることに注目。)
なお、新政権は右大臣に阿部内麻呂(あべのうちまろ)を登用し、左大臣に蘇我倉山石川麻呂を登用し、内臣(うちつおみ)に中臣鎌足を登用した。(※ 左大臣に我氏がいることに注目。)


(しかし649年に、蘇我倉山石川麻呂は謀反をうたがわれて自殺に追い込まれてしまう。(※ よって彼は業績を残せず、このためか、検定教科書には蘇我倉山石川麻呂について書いてない検定教科書も多い。)(※ 山川出版の詳説日本史には、蘇我倉山石川麻呂について書いてある。) )
(しかし649年に、蘇我倉山石川麻呂は謀反をうたがわれて自殺に追い込まれてしまう。(※ よって彼は業績を残せず、このためか、検定教科書には蘇我倉山石川麻呂について書いてない検定教科書も多い。)(※ 山川出版の詳説日本史には、蘇我倉山石川麻呂について書いてある。) )

2018年5月17日 (木) 01:33時点における版

聖徳太子の死後

飛鳥時代の天皇の系図
四角で青く塗ったのが天皇。赤字の人物は女性。数字は即位した順。

622年に、厩戸王が死去すると、蘇我氏の権力が強まるが、蘇我馬子(そがのうまこ)も626年に死去したので、子の蘇我蝦夷の(そがの えみし)の権力と孫(蝦夷の子)の蘇我入鹿(そがのいるか)の権力が強まる。

643年に、蘇我入鹿は、山背大兄王(やましろのおおえのおう)という聖徳太子の子である人物と、山背大兄王 の一族を滅ぼします。

このような強権的な蘇我氏に対して、豪族たちからの不満が高まります。


  • 乙巳の変(いっしのへん)  

645年に、ついに、皇族の中大兄皇子(なかのおおえの おうじ)と、豪族の中臣鎌足(なかとみの かまたり)との協力により、蘇我入鹿は殺害されます。蝦夷は、この事件を知り、自殺します。

これを 乙巳の変(いっしのへん) といいます。

  • 大化の改新(たいか の かいしん)

このあと、中大兄皇子らが権力を取り、政治改革を色々と行なう。この皇子らの改革を 大化の改新(たいか の かいしん) という。言い伝えでは、645年に年号(ねんごう)を「大化」(たいか)に定めたと言われますが、確認されていません。 もし、この年に「大化」の年号を定めたなら、この「大化」という年号により、日本では始めて年号が定められたことになります。なお、年号をさだめることは、中国大陸の帝国を参考にしたのだろうと思われます。

難波宮(なにわのみや)の復元模型(大阪歴史博物館)

645年の一連の事件により、皇極天皇(こうぎょくてんのう)は譲位して、同645年に皇極の弟の軽皇子(かるのみこ)が即位して孝徳天皇(こうとく てんのう)になる。

(なお、皇極は女性である。)

(なお中大兄皇子は、のちに天皇( 天智天皇(てんじ てんのう) )に即位することになるが、この大化の改新のときには、まだ中大兄皇子は天皇では無い。)


なお、新政権は右大臣に阿部内麻呂(あべのうちまろ)を登用し、左大臣に蘇我倉山石川麻呂を登用し、内臣(うちつおみ)に中臣鎌足を登用した。(※ 左大臣に蘇我氏がいることに注目。)

(しかし649年に、蘇我倉山石川麻呂は謀反をうたがわれて自殺に追い込まれてしまう。(※ よって彼は業績を残せず、このためか、検定教科書には蘇我倉山石川麻呂について書いてない検定教科書も多い。)(※ 山川出版の詳説日本史には、蘇我倉山石川麻呂について書いてある。) )

また、妹子の遣隋使に同行した高向玄理(たかむこのげんり)・旻(みん、 ※人名)は、国博士(くにのはかせ)として登用された。

(遣隋使に同行した南淵請安(みなみぶちのしょうあん)は国博士に登用されてない。南淵請安の生没年は不明であり、大化の改新の時点で、すでに南淵は死亡していたのかもしれない。)


孝徳天皇は都を(飛鳥から)難波宮(なにわのみや)に移します。難波宮は大阪府にあります。

改新の詔

(かいしん の みことのり)

中国大陸では、すでに618年に隋(ずい)が滅んでおり、(とう)という帝国になっていた。日本も、これに対して、政治改革をする必要があった。

さて、改革の内容はと言うと・・・

乙巳の変(いっしのへん)の翌年646年に改新の詔(かいしん の みことのり)が出されます。これは改革内容の方針や目標を表したものです。この詔の発見は『日本書紀』で発見されています。

改革の内容は、以下の、公地公民(こうちこうみん)、班田収授(はんでんしゅうじゅ)、(そ)・(よう)・調(ちょう)、国司(こくし)の設置(せっち)、です。

次に述べる一連の制度改革は、唐の法律を参考にしています。


  • 公地公民(こうちこうみん)

これまでは豪族や皇族たちが持っていた土地は、すべて朝廷のものになります。豪族や皇族が持っていた人民も、朝廷が持つことになります。この命令が公地公民(こうちこうみん)です。朝廷が管理できない土地の存在を禁止します。同様に、朝廷が管理できない住民の存在も禁止します。


  • 班田収授(はんでんしゅうじゅ)

人民の戸籍(こせき)を作り、人民に耕作をさせるための口分田(くぶんでん)という田を与え耕作させます。

この当時の戸籍とは、人民をひとりずつ、公文書に登録することで、住所や家族の名や年齢、家の世帯主、などを把握することです。

この飛鳥時代に、すでに「戸籍」という言葉がありました。

このような情報の管理は、税をとることが目的です。税の台帳である計帳(けいちょう)をつくるため、戸籍が必要なのです。

現在の日本での戸籍とは、「戸籍」の意味が少しちがうので、注意してください。「計帳」という言葉は、この飛鳥時代の言葉です。詔の本文に書かれています。

詔の本文に、「初造戸籍計帳班田収授之法。」とあります。現代風に読みやすく区切りを入れれば、「初 造 戸籍 計帳 班田収授之法。」とでも、なりましょう。


目的は、収穫から税収をとるためです。前提として、公地公民が必要です。 6年ごとに人口を調査します。 税を取るにも、まずは人口を正しく把握しないと、いけないわけです。女にも口分田(くぶんでん)が与えられます。

原則として、6才以上の男女に田を与えます。男(6才以上)には2反(720歩=約24アール)の田を与え、女(6才以上)には男の3分の2(480歩=約16アール)の田を与えています。5才以下には与えられません。

死んだ人の分の田は、国に返します。

これらの制度を班田収授法(はんでんしゅうじゅんほう)と言い、唐の均田制(きんでんせい)に習った制度である。


  • (そ)・(よう)・調(ちょう)

税(ぜい)の種類です。

(そ)とは、田の収穫量の、およそ 3%の稲 を国に納めよ(おさめよ)、という税です。 調とは、絹や地方の特産物を国に納めよ、という税です。

(よう)とは、都に出てきて年10日以内の労働をせよという労役(ろうえき)か、または布を納めよ、という税です。

前提として、公地公民(こうちこうみん)や班田収授(はんでんしゅうじゅ)などが必要です。


  • 国・郡・里
      国 (国司)
      ┃
      郡 (郡司)
      ┃
      里 (里長)

政府の組織や、地方行政の組織にも、改革が加わります。 まず、日本全国をいくつかの 国(くに) に分けて管理し、国は郡(こおり)に分けられ、郡は里(さと)に分けられます。

国には、中央の朝廷から、国司(こくし)という役人が派遣され、この国司によって、それぞれの国が管理されます。

郡を管理する役職は、郡司(ぐんじ)という役職の役人に管理させます。たいてい、その地方の豪族が郡司です。

国際情勢

7世紀のなかばになると、朝鮮半島で戦乱が起きます。 朝鮮半島では、新羅(しらぎ、シルラ)が(とう)と連合して、百済(くだら、ペクチェ)を攻めた。 660年に百済(くだら、ペクチェ)が、 新羅(しらぎ、シルラ)に滅ぼされます。 百済は、日本とは親しかったのでした。親しかった百済が滅んだことで、日本は、朝鮮半島での勢力を失います。

  • 白村江の戦い(はくすきのえ の たたかい)

日本は百済を復活(ふっかつ)させるため、新羅と戦争をします。663年に、中大兄皇子の指導により朝鮮半島に軍を送り、日本 対 新羅の戦争が起きます。これが白村江の戦い(はくすきのえ の たたかい、はくそうこう の たたかい) と言います。日本は負けます。新羅と唐の連合軍に、日本は負けました。

なお、後に新羅は676年に高句麗(こうくり)も滅ぼし、新羅が朝鮮半島を統一することになります。先ほども述べたように、唐との結びつきがとても強いです。唐が滅びるまで、新羅の時代が続きます。


日本国内の強化

白村江の戦い にやぶれた日本は、国内の政治に集中します。中大兄皇子は、唐と新羅の攻撃にそなえるため、九州の防備を強化します。九州北部に 防人(さきもり) という防衛(ぼうえい)のための兵士たちを置き、水城(みずき)という水の満たされた濠(ほり)を持った土塁(どるい)が築かれた防御地点をいくつも作ります。


667年に、中大兄皇子は都を 大津宮(おおつのみや) に移します。大津宮の場所は、今でいう滋賀県の近江(おうみ)です。それ以前の都は、奈良の飛鳥(あすか)地方にありました。 この都を近江の大津宮にうつしたことも、攻撃に備えてなのかもしれません。近江は、飛鳥よりも内陸にあります。


668年に中大兄皇子は天皇として大津宮で即位し、中大兄皇子は天智天皇(てんじ てんのう)になります。

668年に、法典である 近江令(おうみりょう) が出来ます。天智天皇(=中大兄皇子)が中臣鎌足に命じ、役人たちに編纂(へんさん)させたものです。また天智は、全国的な戸籍である 庚午年籍(こうごねんじゃく) を作成されます。これが、日本最初の戸籍です。よく聞かれるのは、天智天皇なのか、後に出てくる天武天皇(てんむてんのう)なのかです。注意しましょう。