「高等学校歴史総合/満州事変」の版間の差分

ナビゲーションに移動 検索に移動
皇道派
(滝川事件)
(皇道派)
 
そして「国体明徴声明」(こくたい めいちょう せいめい)では、主権は天皇になると発表され、天皇機関説を否認した。
 
 
== ニ・ニ六事件 ==
ひとくちに「軍部」といっても、けっして軍の全員が一致団結してたのではなくて、内部に対立があった。
 
まず、'''皇道派'''(こうどうは)と'''統制派'''(とうせいは)の対立があった。
 
いっぽう、一般の省庁に「革新官僚」という勢力がいて、この時代は総力戦対応のために様々な改革が必要だと考えられていたので、そのための改革を積極的に推進しようという勢力のことを革新官僚と言う。
 
軍部の統制派は、この革新官僚と協力して、総力戦対応を進めようとした。
 
 
で、わかりやすく言うと皇道派は実務能力のない馬鹿である。日本経済の不況などの原因を、天皇を除いた既存の支配層が悪いと考えてたので、日本でクーデタ(皇道派は「昭和維新」と呼んでた)を起こして政治家を殺して、天皇親政を実現すれば解決するだろう、という、意味のよく分からない妄想をしてた馬鹿連中が皇道派。
 
皇道派は、思想家の'''北一輝'''(きた いっき)の影響を受けていた。北一輝は『日本改造法案大綱』などの著作を出していた。
 
1936年2月26日、皇道派の一部青年軍人がクーデタを起こし、約1400名をひきいて首相官邸や警視庁を襲撃し、内大臣 斎藤実・ 蔵相 高橋是清・ 教育総監 渡辺錠太郎 などを殺害した。
 
(なお高橋是清は、金輸出禁止などのインフレ政策をすすめていた。昭和恐慌の米価デフレにも文句をいい、いっぽうで円安インフレにもケチをつけて、蔵相を殺害するような馬鹿連中が、皇道派である。しかもコイツらは馬鹿のくせに、自分たちを改革的で優秀だ〜〜とか思ってるんで、つくづくタチの悪い馬鹿である。)
 
このようにタチの悪い馬鹿の皇道派どもが、よりにもよって恐慌の対策をしていた優秀な政治家たちを殺害したので、天皇はとてもお怒りになり、'''ニ・ニ六事件'''を起こした反乱軍どもに厳罰をくだせと勅命(ちょくめい)を出して、日本国は反乱軍を鎮圧した。
 
また事件後、北一輝は逮捕され、のちに処刑された。
 
事件後、軍部内部では、統制派が主導権をにぎった。
 
岡田内閣にかわって広田弘毅(ひろた こうき)内閣が成立した。広田内閣は、1936年に陸軍の要求にしたがって軍部大臣現役武官制を復活させた。
 
また広田内閣は、「国策の基準」を発表し、(陸軍の要望していた)対ソビエト戦を想定した北進論にくわえて、(海軍の要望していた)南洋に進出する南進論も決定した。日本国内では、軍備拡張が行われた。
 
外交では日本は、反ソビエト・反共産主義という共通点からドイツに接近し、そして1936年には日独防共協定を結んだ。(翌年にイタリアが参加し、日独伊防共協定になる。こうして日独伊の 枢軸国 が出来上がった。)
18,210

回編集

案内メニュー