「高等学校日本史A」の版間の差分

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==第一章 明治維新==
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===ペリー来航===
アヘン戦争(1840~1842)で清がイギリスに負けたのち、イギリス軍艦が日本に来航するかもしれないという情報をうけて、1842(天保13)年、老中'''水野忠邦'''は異国船打払令を緩和して'''天保の薪水給与令'''を出し、外国船に薪や水、食料を供給することにした。
それから、諸国は日本に開国をもとめだした。1846(弘化3)年には長崎にフランス艦隊、浦賀に'''ビッドル'''率いるアメリカの東インド艦隊が来航したが、幕府は鎖国の姿勢を崩さなかった。
メキシコとの戦争が終わって寄港地を求めていたアメリカは、1853(嘉永6)年、東インド艦隊司令長官の'''ペリー'''に軍艦(黒船)を率いさせて浦賀に国書を提出するために派遣した。ペリーの強硬な態度におされた幕府は国書を受けとるが、回答は翌年までまってもらうことにした。その後ロシアの'''プチャーチン'''も長崎に来て、開国や国境の画定を求めた。これを知ったペリーは、1854(安政元)年、再び来航して'''日米和親条約'''(神奈川条約)を結ばせた。その内容は以下の通りである。
①'''下田'''と'''箱館'''の開港
②総領事の駐在
③片務的な'''最恵国待遇'''
④難破船乗務員の救助、燃料や食料の提供
これについで英仏露とも同様の条約を結んだ。このうち、ロシアとの条約を'''日露和親条約'''といい、日露の国境は択捉島と得撫島の間とし、樺太(サハリン)は両国民の雑居地とすることを決めた。また、下田と箱館に加えて'''長崎'''も開港することを決め、最恵国待遇により、他国にも長崎を開港することになった。

===安政の改革===
===安政の改革===
従来、幕府の政治は将軍と譜代大名で主に行っていた。しかし、ペリーの来航によって日本全体が外国の脅威に晒されることになり、老中'''阿部正弘'''は方針を変えて朝廷や外様・親藩大名を含む幅広い人から意見を聞くことにした。そして、前水戸藩主'''徳川斉昭'''(親藩)を'''海軍参与'''として幕政に参画させた。また、江戸湾に海上砲台('''台場''')を築き、長崎に'''海軍伝習所'''を設置した。さらに、江戸に'''蕃書調所'''(前'''洋学書''')や'''講武所'''をもうけ、大艦建造の解禁、製鉄所の建設(横須賀、長崎)、造船所の建設(江戸石川島)を行った。この頃、'''勝海舟'''(幕府海軍創設)、'''江川英龍'''(伊豆韮山に反射炉建設)、'''高島秋帆'''(砲術の指南)らが登用された。この一連の改革を'''安政の改革'''という。
従来、幕府の政治は将軍と譜代大名で主に行っていた。しかし、ペリーの来航によって日本全体が外国の脅威に晒されることになり、老中'''阿部正弘'''は方針を変えて朝廷や外様・親藩大名を含む幅広い人から意見を聞くことにした。そして、前水戸藩主'''徳川斉昭'''(親藩)を'''海軍参与'''として幕政に参画させた。また、江戸湾に海上砲台('''台場''')を築き、長崎に'''海軍伝習所'''を設置した。さらに、江戸に'''蕃書調所'''(前'''洋学書''')や'''講武所'''をもうけ、大艦建造の解禁、製鉄所の建設(横須賀、長崎)、造船所の建設(江戸石川島)を行った。この頃、'''勝海舟'''(幕府海軍創設)、'''江川英龍'''(伊豆韮山に反射炉建設)、'''高島秋帆'''(砲術の指南)らが登用された。この一連の改革を'''安政の改革'''という。

2018年8月7日 (火) 12:53時点における版

日本史Aとは、近代以降の日本の歴史をまなび、現代社会の情勢を理解する科目である。

第一章 明治維新

  1. 高等学校日本史A/第一章 明治維新 進捗状況: 25% (2015-09-01) (2015-09-01)

安政の改革

 従来、幕府の政治は将軍と譜代大名で主に行っていた。しかし、ペリーの来航によって日本全体が外国の脅威に晒されることになり、老中阿部正弘は方針を変えて朝廷や外様・親藩大名を含む幅広い人から意見を聞くことにした。そして、前水戸藩主徳川斉昭(親藩)を海軍参与として幕政に参画させた。また、江戸湾に海上砲台(台場)を築き、長崎に海軍伝習所を設置した。さらに、江戸に蕃書調所(前洋学書)や講武所をもうけ、大艦建造の解禁、製鉄所の建設(横須賀、長崎)、造船所の建設(江戸石川島)を行った。この頃、勝海舟(幕府海軍創設)、江川英龍(伊豆韮山に反射炉建設)、高島秋帆(砲術の指南)らが登用された。この一連の改革を安政の改革という。

日米修交通商条約

1856(安政3)年、アメリカ総領事ハリスが下田に着任し、アロー戦争でのイギリスの動きを背景に通商条約の締結を求めた。この時の老中堀田正睦は、孝明天皇に調印の勅許を求めたが得られず、失脚した。しかし、大老井伊直弼は勅許を得られないまま1858(安政5)年、日米修交通商条約に調印し、ついで蘭・露・英・仏とも同様の条約を結んだ(安政の五カ国条約)。
 日米修交通商条約の内容は以下の通りである。

神奈川(後に横浜に変更)・長崎新潟兵庫の開港、江戸・大阪の開市。

②日本に関税自主権がなく、関税は協定によって決める。(協定関税制)

③外国側に領事裁判権を認める。

 その後の1860(万延元)年、条約の批准のため、外国奉行新見正興を米艦ポーハタン号に乗せてワシントンに派遣した(万延遣米使節)。このとき、幕艦咸臨丸(艦長勝海舟)も同行した。
 1866(慶応2)年、孝明天皇が兵庫の開港に反対し、開港が遅れたので、その代償として輸入関税を一律5%に引き下げる改税約書に調印させられた。その翌年、ついに兵庫港開港の勅許がでた。

貿易の影響

 1859(安政6)年から貿易が始まり、その中心港は横浜で、取引全体のおよそ3分の2を占めていた。また、アメリカは南北戦争のために貿易に手が回らず、取引の相手国としてはイギリスがトップとなった。
 日本の輸入品は毛織物綿織物が70%以上を占め、輸出品は生糸蚕卵紙がほとんどだった。
 貿易が始まってから1866年までの7年間は大幅な輸出超過であり、国内の物価の高騰をまねいた。幕府は1860(万延元)年、五品江戸廻送令を出し、雑穀・水油(菜種油)・蝋・呉服・生糸の5品は必ず江戸の問屋を経由させてから輸出するようにした。
 また、日本と外国とでは金銀の交換比率がことなっていたので、大量の金が流出してしまった。そこで幕府は、質を大幅に下げた万延小判を鋳造した(万延貨幣改鋳)が、かえって物価の上昇を加速させてしまった。
 輸出による生糸の需要増加は製糸業でのマニフェクチュア化を進めたが、安価な綿布の輸入によって国内の綿産業は深刻な打撃を受けた。

安政の大獄

 この頃、病弱で跡継のいなかった13代将軍徳川家定の後継者問題が起こった。血統の近い紀伊藩主徳川慶福を推す南紀派は、従来の将軍及び譜代大名による幕閣独裁を維持したい譜代大名らが属し、その中心は井伊直弼であった。これに対して、水戸の徳川斉昭・越前の松平慶永(以上親藩)・薩摩の島津斉彬・土佐の山内豊信(以上外様)ら外様・親藩の有力大名らは実力のある一橋慶喜を推した(一橋派)。
 南紀派の井伊直弼が大老に就任したことで南紀派の勝利となり、徳川慶福が改名して14代将軍徳川家茂となった。
 1858(安政5)年、井伊直弼は、対立する一橋派や、尊王攘夷派を弾圧した(安政の大獄)。このとき、長州藩士吉田松陰や越前藩士橋本左内らは死罪に、一橋慶喜や水戸藩の徳川斉昭らは蟄居処分となった。
 この厳しい弾圧に憤激した水戸藩出身の浪士たちは1860(万延元)年、井伊を江戸城桜田門外で暗殺した。この事件を桜田門外の変という。


公武合体運動と尊王攘夷運動

 桜田門外の変後、幕藩体制を維持するために、開明的な幕臣や有力大名たちは朝廷と幕府の融和によって政局を安定させようとした。老中安藤信正は、攘夷の決行を条件に孝明天皇の妹和宮を家茂と結婚させたが、反対派によって襲われ負傷した(坂下門外の変)。
 薩摩藩主の父島津久光は1862(文久2)年、寺田屋事件  によって藩内の過激な尊攘派を殺害した。そして、同年、大原重徳を勅使として奉じて江戸に下り、幕政の改革を求めた。一橋慶喜を将軍後見職、松平慶永を政事総裁職に、また、会津藩の松平容保京都守護職に任命させ、洋式軍隊の制度を整え、参勤交代の緩和や政治犯の赦免などを行った(文久の改革)。また、江戸からの帰路で、行列を横切ったイギリス人の青年らを切り捨てる生麦事件が発生する。
 和宮の政略結婚時に約束した攘夷の決行を長州藩や朝廷側が三条実美を江戸に下して迫ったため、幕府は1863(文久3)年5月10日からの攘夷開始を諸藩に命じた。そこで、その日から長州藩は下関海峡をとおる外国船を砲撃した(長州藩外国船砲撃事件)。また、生麦事件をおこした薩摩藩は報復としてイギリス海軍に攻撃され(薩英戦争)、攘夷の不可能を悟った。そして、会津藩とともに、朝廷の実権を奪って三条実美ら尊攘派公家を含む長州藩勢力を京都から追放した(八月十八日の政変)。
 長州藩は勢力を回復するために京都守護職松平容保下の新撰組に尊攘派が殺された池田屋事件をきっかけに京都に攻め上ったが、薩摩・会津・桑名藩などに敗れた(蛤御門の変[禁門の変])。このため長州藩は賊軍と見なされ、第一次長州征討が始まり、ついに幕府に降伏した。さらに、外国船砲撃事件の復讐として英・仏・米・蘭の連合艦隊によって下関を占領された(四国艦隊下関砲撃事件)。これによって長州藩も攘夷不可能を認識することになった。

第二章 立憲国家

第三章 第一次世界大戦

第四章 第二次世界大戦

第五章 終戦後の日本

第六章 現代の日本