「小学校社会/6学年/歴史編/江戸幕府の成立と安定した社会-江戸時代Ⅰ」の版間の差分

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:1616年幕府は、明船以外の外国船との貿易を{{Ruby|長崎|ながさき}}と{{Ruby|平戸|ひらど}}のみに制限しました。
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:それでも、1620年商人といつわってスペイン人宣教師が日本に入国しようとした事件があり、それをきっかけに1622年長崎でとらわれていた宣教師とキリスト教徒55人を処刑するなど、幕府はキリスト教対策に追われ、1624年、まず、スペイン人の来航を禁止しました<ref>ポルトガルとの通商が認められたのは、ポルトガルはマカオを有しており、中国との間の取引が、オランダだけでは不安だったからです。</ref>。
:それでも、1620年商人といつわってスペイン人宣教師が日本に入国しようとした事件があり、それをきっかけに1622年長崎でとらわれていた宣教師とキリスト教徒55人を処刑するなど、幕府はキリスト教対策に追われ、1624年、まず、スペイン人の来航を禁止しました<ref>ポルトガルとの通商が認められたのは、ポルトガルはマカオを有しており、中国との間の取引が、オランダだけでは不安だったからです。</ref>。
:幕府は、その後も規制を強め、1635年には外国船の入港を長崎のみに限定、東南アジア方面への日本人が国外に出ることと[[小学校社会/6学年/歴史編/戦乱の世の中と日本の統一-戦国時代・安土桃山時代#日本人町|東南アジアに住んでいた日本人]]の帰国を禁止しました。<!--
:幕府は、その後も規制を強め、1635年には外国船の入港を長崎のみに限定、東南アジア方面への日本人が国外に出ることと[[小学校社会/6学年/歴史編/戦乱の世の中と日本の統一-戦国時代・安土桃山時代#日本人町|東南アジアに住んでいた日本人]]の帰国を禁止しました。
1631年(寛永8年6月) 奉書船制度の開始で朱印船に朱印状以外に老中の奉書が必要となる
1631年(寛永8年6月) 奉書船制度の開始で朱印船に朱印状以外に老中の奉書が必要となる
・1633年(寛永10年2月28日) 「第1次鎖国令」(奉書船以外の渡航禁止、海外に5年以上居留する日本人の帰国を禁止)が出される
・1633年(寛永10年2月28日) 「第1次鎖国令」(奉書船以外の渡航禁止、海外に5年以上居留する日本人の帰国を禁止)が出される
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・1639年(寛永16年7月5日) 「第5次鎖国令」(ポルトガル船の入港禁止)が出される ポルトガル船の来航を禁止する
・1639年(寛永16年7月5日) 「第5次鎖国令」(ポルトガル船の入港禁止)が出される ポルトガル船の来航を禁止する
・1640年(寛永17年) マカオから通商再開依頼のためポルトガル船来航、徳川幕府が使者61名を処刑する
・1640年(寛永17年) マカオから通商再開依頼のためポルトガル船来航、徳川幕府が使者61名を処刑する
・1641年(寛永18年4月) オランダ商館を平戸から出島に移す平戸にあったオランダ人の商館を、長崎の出島に移す-->
・1641年(寛永18年4月) オランダ商館を平戸から出島に移す平戸にあったオランダ人の商館を、長崎の出島に移す
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== 脚注 ==
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2021年12月27日 (月) 13:30時点における版

この章の概要

★時代区分:江戸時代初期
★取り扱う年代:1600年(関ヶ原の戦い)から1638年(島原の乱終結)まで

江戸幕府の始まり
秀吉死後、最も強力な大名徳川家康は、敵対する豊臣家家臣石田三成らと、東軍(家康側)と西軍(三成側)に分かれ関ヶ原で戦い(関ヶ原の戦い)、これに勝利します。政権は豊臣氏から徳川氏に移ります。
関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、1603年に征夷大将軍に就任し、江戸に幕府を開きます。これを「江戸幕府(または、徳川幕府)」といい、江戸に幕府があった時代を「江戸時代」と言います。家康は、大坂冬の陣・夏の陣で豊臣氏を滅ぼし、これ以降、大名同士の合戦はなくなります。
関ヶ原の戦いの後、家康は西軍の大名の領地と豊臣氏の領土を取り上げ、東軍の大名に分け与えました。この時、大名を家康の子孫による親藩、関ヶ原の戦い前から家来である譜代(ふだい)大名、関ヶ原の戦い後に従った外様(とざま)大名にわけてとりあつかいました。①親藩は、将軍家の血筋が絶えた場合などに、将軍を出す役割を担った御三家御三卿を含み、家格・官位などでは優遇されましたが、幕政に参加することはまれでした、②譜代大名は、比較的小さな石高の領土を認められ領地替えもよくありましたが、江戸や京大阪からは近くに位置したものでした。大老老中若年寄といった幕閣には譜代大名がつきました。③外様大名は、比較的大きな石高の領土を認められ、幕末まで領地替えはほとんどありませんでしたが、江戸や京大阪からは遠いところにありました。また、幕政に参加することはほとんどありませんでした。なお、江戸時代の大名とその家来を合わせた集団を、「(はん)」と言っています。幕府は強力な力を持っていましたが、藩の中の政治に口を出すことはありませんでした。
武士の政治の安定
第3代将軍徳川家光は、大名は、妻子(正妻と後継となる子)を江戸に置き、領土との間を1年おきに行き来すること(参勤交代)を定めました。また、将軍の命令で、徳川氏が有する城や河川の改修などを務めなければならないこともありました。こうして、徳川将軍は大名が、戦国時代のように勝手に争うことができないようにし、安定した世の中を作り上げました。
徳川幕府には、重要なことを決める大老、老中、若年寄の他、大名の監視を行う大目付、寺社を管理する寺社奉行、幕府の出納を管理する勘定奉行、江戸の行政や裁判を行う江戸町奉行などの役職があり、大名の他、将軍の直接の家臣である旗本がその任務につきました。
秀吉の刀狩によって、武士の身分(士分)と民衆が明確に分けられましたが、江戸幕府はそれを引き継ぎ、「士農工商」という身分制を確立しました。また、人の移動は厳しく制限され、各地に関所がもうけられ、ここを通るのに通行手形が必要でした。
キリスト教は秀吉の時代に禁じられましたが、江戸幕府においても禁じられました。一方で、ポルトガルなどとの貿易は港を限定しながらも続いており、そこで宣教師との行き来があったとされます。そんな中、九州の天草・島原で大規模なキリスト教徒による反乱(島原の乱)が起きました。これがきっかけとなって、幕府は、島原の乱の翌年に、貿易の相手を、キリスト教の布教には熱心でないオランダだけに限って、さらに、長崎の出島だけでこれを認めることになりました。これを、鎖国(さこく)と言います。

江戸幕府の始まり

関ヶ原の戦い

1598年秀吉が死んだ時、後継の秀頼(ひでより)はまだ5歳でした。秀吉は、秀頼が成長するまで徳川家康(とくがわいえやす)上杉景勝(うえすぎがげかつ)他5人の有力な大名(五大老(ごたいろう)[1])と秀吉が信頼する石田三成(いしだみつなり)浅野長政(あさのながまさ)他5人の家臣(五奉行(ごぶぎょう)[2])の10人で相談して政治を行うよう言い残しました。しかし、秀吉が死ぬと家康は他の大名との関係を深めるなどの動きを見せ、三成は家康が天下をねらっているのではないかとうたがいを持つようになりました。他方で、秀吉・秀頼の家臣の中で、石田三成を中心とする行政で秀吉をささえたグループと浅野長政や加藤清正(かとうきよまさ)福島正則(ふくしままさのり)といった(いくさ)手柄(てがら)を立ててきたグループの間に対立が生じてもいました。
徳川家康
徳川家康(とくがわいえやす)のこれまでの歩み
徳川家康は、三河(みかわ)(現在の愛知県東部)の大名松平(まつだいら)氏に生まれます。松平氏は三河の国人出身の大名でしたが、隣接する今川(いまがわ)氏や織田氏に比べると弱小な大名でした。家康は家を継ぐ前、松平元康(まつだいらもとやす)と言って、今川氏に人質に出されていたことがあります。
1560年桶狭間(おけはざま)の戦い今川義元が討ち死にし、今川氏が弱くなると、信長と同盟し三河をとりもどします。そして、名を徳川家康(とくがわいえやす)とかえ、遠江(とおとおみ)をせめとります。その後、信長の同盟国として武田氏や北条氏と隣接する信長の勢力の東南部を守り続けます。
1572年の三方原(みかたがはら)の戦いでは大敗し、命の危険もありましたが、武田信玄が病死し、兵は甲斐へもどったため一命をとりとめました。
逆に、1575年の長篠の戦いでは、信長との連合軍で、武田勝頼(たけだかつより)に大勝し駿河(するが)をえ、1582年武田氏をほろぼして甲斐(かい)信濃(しなの)の一部をえました。
秀吉には、後継者争いで一時抵抗し、秀吉の軍をくだすなどしたのですが、和解し、その後はしたがいます。
1590年、秀吉の小田原攻めに協力し北条氏を攻め滅ぼしますが、秀吉の命令によって、領地を北条氏のおさめていた関東に移され、江戸(えど)城を拠城(きょじょう)としました。
秀吉の生前は、秀吉配下では最大の大名となっていました。
関ヶ原(せきがはら)の戦い
関ヶ原の戦い
絵の右側にいるのが徳川軍。絵の左側にいるのが豊臣軍。
1600年、五大老五奉行の仲違(なかたが)いが深まり、家康は会津(あいづ)の上杉景勝を攻める兵を挙げ東へ向かいます。
三成は、家康に反対する大名たちに呼びかけ、家康を攻める兵をあげやはり東へ向かいました。これを知った家康は軍を西へ反転して、これをむかえうとうとしました。そして、関ヶ原(せきがはら)(今の岐阜県)で、家康が率いる軍(東軍)と、三成が率いる軍(西軍)がぶつかりました。これを 関ヶ原の戦い といいます。これは、両軍合わせて約20万人と日本史上最大の合戦となりました。結果は、西軍の中での裏切りなどもあって東軍の勝利となりました。
戦後、三成らは処刑され領土は没収されました。毛利氏など西軍についたもまた多くの領土を没収されました。豊臣氏も多くの領土を没収され、一地方の大名に過ぎないものとなって、家康の天下となりました。


江戸幕府の誕生

1603年、朝廷(ちょうてい)から徳川家康(とくがわいえやす)征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に任命されました。
家康は江戸(えど)(現在の東京)に幕府(ばくふ)を開きました。これが江戸幕府(えどばくふ)であり、この時から江戸時代が始まりました。
将軍の権限は、武士に石高で表した領地知行(ちぎょう))を与えることであり、知行が1万石以上の者を大名(だいみょう)、1万石未満で、将軍に直接会うこと[3]ができる者を旗本(はたもと)、できない者を御家人(ごけにん)[4]と言っていました。
関ヶ原の戦いの後に、家康は領地を分け与えましたが、この時、大名を家康の子孫による親藩(しんぱん)、関ヶ原の戦い前から家来である譜代(ふだい)大名、関ヶ原の戦い後に従った外様(とざま)大名にわけてとりあつかいました。なお、江戸時代の大名とその家来を合わせた集団を、「(はん)」と言っています[5]。幕府は、藩をつぶしたり(改易(かいえき))、領土の一部を取り上げたり(減封(げんぽう))、大名同士の領土を交換させる(国替(くにがえ)転封(てんぽう))など、強力な力を持っていましたが、藩の中の政治に口を出すことはありませんでした。
親藩
将軍家の血筋が絶えた場合などに、将軍を出す役割をになった御三家(ごさんけ)[6]御三卿[7]を含み、家格・官位などでは優遇されましたが、幕政に参加することはまれでした。
譜代大名
関ヶ原の戦いの前から徳川家の家来であった家系の大名です。比較的小さな石高の領土を認められ領地替えもよくありましたが、江戸や京大阪からは近くに位置したものでした。大老(たいろう)老中(ろうじゅう)といった幕閣(ばっかく)若年寄(わかどしより)大阪城代(おおさかじょうだい)京都所司代(きょうとしょしだい)寺社奉行(じしゃぶぎょう)といった重職には譜代大名がつきました。
外様大名
関ヶ原の戦い以降に徳川家の家来となった大名です。比較的大きな石高の領土を認められ、幕末まで領地替えはほとんどありませんでしたが、江戸や京大阪からは遠いところにありました。また、幕政に参加することはほとんどありませんでした。
徳川幕府は、「天領(てんりょう)」といって旗本などの知行とせずに直接支配する400万石に及ぶ領地ももっていました。天領には旗本や御家人から代官(だいかん)を派遣し、これをおさめました。
武家諸法度(ぶけしょはっと)
1615年、第2代将軍徳川秀忠(ひでただ)は、大名を取りしまるための法律を作りました。これを 武家諸法度(ぶけしょはっと) といいます。この法度に反すると、改易などの処分がなされました。
  • 武家諸法度(一部)
    • 一. (武士は)学問や武芸の道に、ひたすら専念(せんねん)すること。
    • 一. 新しく城を築くことは、かたく禁止する。修理する場合であっても、必ず幕府に申し出ること。
    • 一. 大名は、毎年、きめられた月に江戸に参勤(さんきん)すること(参勤交代)。 (※)
    • 一. 大きな船を作ってはならない。(※)
    • 一. 大名は、幕府の許可なしに勝手に結婚をしてはならない。
※:3代将軍 徳川家光が加えたものです。

大阪の陣

このように、徳川家による支配が確立した時期にあっても、秀吉の子秀頼(ひでより)は、徳川家にしたがう態度を見せませんでした。また、関ヶ原の戦い以降、領地を失った大名やその家来、主君から離れた武士などが大阪城に集まってきていました。1614年、家康[8]と将軍秀忠は、大阪城を攻めるのに、全国の大名に兵を出すように命じ、翌1615年豊臣氏はほろびます。これを大阪(おおさか)(じん)[9]と言います。
大阪城は、徳川氏のものとなり、当時日本一商業が栄えていた大阪は幕府が直接おさめるようになります。
戦国時代以来の、大名同士の争いはこれが最後となりました。

武士の政治の安定

江戸幕府の仕組み

徳川家光
1623年将軍となった第3代将軍徳川家光(いえみつ)は、大名は、妻子(正妻と後継となる子)を江戸に置き、領土との間を1年おきに行き来すること(参勤交代(さんきんこうたい)を定めました。また、将軍の命令で、徳川氏が有する城や河川の改修などを務めなければならないこともありました。こうして、徳川将軍は大名が、戦国時代のように勝手に争うことができないようにし、安定した世の中を作り上げました。
徳川幕府には、重要なことを決める大老、老中、若年寄の他、大名の監視を行う大目付(おおめつけ)、寺社を管理する寺社奉行(じしゃぶぎょう)、幕府の出納を管理する勘定奉行(かんじょうぶぎょう)、江戸の行政や裁判を行う江戸町奉行(えどまちぶぎょう)などの役職があり、大名の他、将軍の直接の家臣である旗本がその任務につきました。
【江戸幕府の仕組み 主な役職のみ】

将軍 ━┳━ 大老(たいろう)       : 将軍を補佐する最高職。臨時に置かれ、譜代大名の中でも石高の高い家の者のみなれた。
           ┃
           ┣━ 老中(ろうじゅう)      : 複数による合議制で、大名の統制他、全国的なことがらについてとりあつかう。
           ┃      ┣━ 江戸町奉行 (えどまちぶぎょう)   : 江戸の行政、治安、司法を担当する。
           ┃      ┣━ 勘定奉行 (かんじょうぶぎょう)    : 幕府の会計な、天領の収税どを担当する。
           ┃      ┣━ 遠国奉行 (おんごくぶぎょう)       : 大阪、京都、長崎など幕府の直轄地の行政、治安、司法を担当する。
           ┃      ┗━ 大目付 (おおめつけ)                  : 大名の動向を監視する。
           ┃
           ┣━ 若年寄(わかどしより)  : 複数による合議制で、旗本・御家人の統制他、将軍家まわりのことがらについてとりあつかう。
           ┃      ┗━ 目付 (めつけ)                          : 旗本・御家人の動向を監視する。
           ┃
           ┣━ 寺社奉行 (じしゃぶぎょう)           : 全国の寺と神社を統括する。
           ┣━ 京都所司代 (きょうとしょしだい)  : 京都にいて、皇室や公家との取次と監視を行う。
           ┗━ 大坂城代 (おおさかじょうだい)    : 将軍に代わって大阪城を預かる。

武士と庶民

秀吉の刀狩によって、武士の身分(士分)と民衆が明確に分けられましたが、江戸幕府はそれを引き継ぎ、「士農工商」という身分制を確立しました[10]。また、人の移動は厳しく制限され、各地に関所がもうけられ、ここを通るのに通行手形が必要でした。

キリスト教の禁止と鎖国

キリスト教は秀吉の時代に禁じられましたが、江戸幕府においてもひきつづき禁じられていました。同様に、ポルトガルやスペインとの南蛮貿易は続けられており、そこで宣教師との行き来がありました。
1600年豊後(ぶんご)(現在の大分県)にオランダの船リーフデ号が流れつきます。ポルトガル人とスペイン人以外の初めてのヨーロッパの人たちです。家康は、流れついた人の中からオランダ人のヤン・ヨーステンとイギリス人のウィリアム・アダムス[11]をめしだして、外国のことを聞くようになりました。これ以降、ポルトガル人たちに加えてオランダ人などが日本に来るようになりました。オランダ人たちはポルトガル人などに比べ、キリスト教の布教には熱心ではなく、また、そのことが幕府にも伝わりました。ポルトガル人やスペイン人を南蛮人と呼ぶのに対して、オランダ人やイギリス人は紅毛人(こうもうじん)とよばれました。
家康は、秀吉同様海外貿易に熱心で、東南アジアの国々[12]と交流を持って、朱印状(しゅいんじょう)と呼ばれる貿易の許可証[13]を発行して貿易を認めました。朱印状を持った船を朱印船(しゅいんせん)と言い、この貿易を朱印船貿易と呼びます[14]
1612年南蛮貿易をめぐって幕府の役人に収賄(しゅうわい)事件がおこり、この関係者がキリシタンであったことから、幕府は大名と幕臣、江戸、京都など幕府の直轄地でのキリスト教の信仰を禁じました。1614年にはこれを全国に広げ、各地の教会を破壊し、宣教師や主だったキリスト教徒を国外に追放しました。
その後も幕府は、外国船の入港を制限したり、宣教師や信者を見せしめに処刑したりしてキリスト教の禁止を徹底しようとしましたが、宣教師が密かに来日して布教する例があとをたちませんでした。
そんな中、1637年、現在の長崎県にある島原(しまばら)半島(現在の長崎県)から海をへだてた天草(あまくさ)諸島(現在の熊本県)にかけての一帯で、農民3万人あまりによる、大きな一揆(いっき)が起きました。原因は、領主が領民に重い年貢(ねんぐ)を課したこととキリシタンへの弾圧(だんあつ)でした。一揆の中心は、当時16才の天草四郎(あまくさしろう)という少年でした。幕府は12万人ほどの大軍を送り、4か月ほどかかってこれをしずめました。これを、「島原の乱」または「島原天草一揆」と言います。
出島を空から見た図
これが決め手となって、1639年、幕府は、ポルトガルの来航を禁じ、貿易の相手を、オランダだけに限って、さらに、長崎の出島(でじま)だけでこれを認めることになりました。幕府は、出島に入れる日本人は、幕府の役人や、許可を得た日本人のみに制限していました。これを、鎖国(さこく)と言います。
江戸幕府は長崎のオランダ商館長(しょうかんちょう)に、外国のようすを幕府に報告させるための報告書の提出を義務づけました。
このように日本でのヨーロッパ人と日本人とのかかわりを制限していった結果、日本では、江戸幕府が貿易の利益と西洋についての情報を独占(どくせん)しました[15]


踏み絵
宗門人別改帳(しゅうもんにんべつあらためちょう)
この戦いのあと、キリスト教への取りしまりは、いっそう(きび)しくなりました。キリスト教をかくれて信じる人をとりしまるため、定期的に調査をして人々にイエス・キリストなどがえがかれた銅板の()み絵を踏ませ、踏めなかった者はキリスト教徒であるとして処罰(しょばつ)しました。これを、宗門改(しゅうもんあらため)といいます。
また、寺にキリスト教徒でないことの証明書(寺請証文(てらうけしょうもん))を出させる代わりに、お葬式や供養(くよう)をその寺だけでする寺請(てらうけ)制度[16]もできました。
寺請の結果は一人一人、「宗門人別改帳(しゅうもんにんべつあらためちょう)」という帳簿に残され、奉公や結婚で土地を離れる時には、寺から寺請証文を出してもらって、うつり住む土地で新たに帳簿に書き込むという習慣ができて、これが、現在の戸籍(こせき)や住民基本台帳と同じ役割をはたすようになりました。
【脱線 - 覚えなくてもいい話】オランダ
オランダの位置
オランダは、ヨーロッパ中西部、ライン川というスイス、フランス、ドイツを流れヨーロッパの水運で最も重要な川の河口にある国です。「オランダ」はその中の州の名前で、正式にはネーデルラントと言います[17]
このころ、オランダはスペインの王室の支配下にあって、独立を争って戦争をしていました(オランダ独立戦争 1568年〜1648年)。オランダは、ゲルマン系オランダ人の国で、言葉や習俗はドイツやイギリスに近く、一方、スペインはイタリア・フランス・ポルトガルといったラテン系の国です。また、当時のヨーロッパでは、カトリックとプロテスタントが対立していて、スペインはカトリックを支持していたのに対して、オランダ人の多くはプロテスタントでした。
独立戦争は続いていましたが、1600年頃までにスペインからほとんど独立していたオランダは、当時、ヨーロッパで最高の造船技術[18]をいかして海洋貿易に進出します。
1602年オランダは、アジア貿易のために、「東インド会社[19]」という会社を作って、それまで、この地域の貿易の中心であったポルトガルの地位をうばいました。
オランダは、幕府に近づいて、日本の海外に対する貿易の独占的な地位を得ました。オランダとの貿易品には以下のものがあります。
  • オランダからの輸入品のほとんどは、中国産の生糸(きいと)砂糖(さとう)・毛織物でした。ときどき、ガラスや望遠鏡や時計などの、めずらしいものも輸入されました。
  • 日本からの輸出品としては、金・銀・銅などの金属や陶磁器(とうじき)などでした。陶磁器が割れないようにつめた紙くずに浮世絵があり、それがヨーロッパに浮世絵が伝わるきっかけになりました。

脚注

以下は学習の参考ですので覚える必要はありません。

  1. ^ 家康・景雄の他は前田利家(まえだとしいえ)毛利輝元(もうりてるもと)宇喜多秀家(うきたひでいえ)です。
  2. ^ 三成・長政の他は前田玄以(まえだげんい)増田長盛(ましたながもり)長束正家(なつかまさいえ)です。
  3. ^ これを「御目見得(おめみえ)」と言います。
  4. ^ 多くは、戦国時代、「足軽」と呼ばれていた階層の武士です。
  5. ^ ただし、この言い方は明治以降の言い方で、当時は、「○○様御家中(ごかちゅう)」などの言い方を使いました。
  6. ^ 尾張(おわり)藩、紀州(きしゅう)藩、水戸(みと)藩の3家で、それぞれ領国をもっていました。家康のこどもで、第2代将軍秀忠(ひでただ)の兄弟の子孫です。
  7. ^ 田安(たやす)家、一橋(ひとつばし)家、清水(しみず)家の3家で、御三家と違い領国を持っていません。江戸幕府の誕生から130年〜150年ほどのちにできた家で、第8代将軍吉宗(よしむね)の子孫です。
  8. ^ この頃は、将軍ではありません。
  9. ^ 詳しくは、1614年に起こった戦を「大坂冬の陣」、1615年豊臣氏がほろびた戦を「大坂夏の陣」といいます。また、この当時、大阪は「大」と書いていたので「大坂の陣」と書く場合もあります。
  10. ^ なお、以前は、身分がこの順にあったと言われていましたが、現在では「士分」とその他は身分差があるが、「農工商」には身分の差がなかったというのが定説となっています。
  11. ^ 後に、三浦按針(みうらあんじん)と名を改めます。
  12. ^ 安南(あんなん)(現在のベトナム)、スペイン領であったフィリピンのマニラ、カンボジア、シャム(現在のタイ)、パタニ(マレー半島中部の国、現在のマレーシア)などに派遣しました。
  13. ^ 日本人には日本からの出国を外国人には日本への入国を認めるもので、もともとは秀吉が始めました。
  14. ^ 中国(明王朝)は、日本の入国を禁止していましたし、朝鮮は、対馬の大名(そう)氏が代表していたので、朱印船貿易の相手ではありませんでした。
  15. ^ 朱印状は、一部の大名にも発行されたため、その大名は直接海外との貿易ができたのですが、1631年にさらに、幕府が発行する「奉書(ほうしょ)」が必要となり、大名が海外と貿易をすることはできなくなっていました。
  16. ^ 檀家(だんか)制度とも言います。
  17. ^ ただ、日本人がネーデルラントを「オランダ」と呼ぶことは、オランダ人も認めています。英語で「日本」を「Japan」と呼んでいるようなものです。
  18. ^ この時代、オランダの造船技術が高かった理由の一つに、オランダの風車を利用して製材が盛んであったことが挙げられます。
  19. ^ 世界最初の、株式(かぶしき)会社と言われています。なお、1600年イギリスにも同盟の会社がつくられています。

前章:
小学校社会/6学年/歴史編/戦乱の世の中と日本の統一-戦国時代・安土桃山時代
小学校社会/6学年/歴史編
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