「小学校社会/6学年/歴史編/江戸幕府の成立と安定した社会-江戸時代Ⅰ」の版間の差分
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小学校社会/6学年/歴史編/下巻から小学校社会/6学年/歴史編/下巻#幕府(ばくふ)による政治の安定の一部を分離、加筆修正。 |
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:1616年幕府は、明船以外の外国船との貿易を{{Ruby|長崎|ながさき}}と{{Ruby|平戸|ひらど}}のみに制限しました。 |
:1616年幕府は、明船以外の外国船との貿易を{{Ruby|長崎|ながさき}}と{{Ruby|平戸|ひらど}}のみに制限しました。 |
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:それでも、1620年商人といつわってスペイン人宣教師が日本に入国しようとした事件があり、それをきっかけに1622年長崎でとらわれていた宣教師とキリスト教徒55人を処刑するなど、幕府はキリスト教対策に追われ、1624年、まず、スペイン人の来航を禁止しました<ref>ポルトガルとの通商が認められたのは、ポルトガルはマカオを有しており、中国との間の取引が、オランダだけでは不安だったからです。</ref>。 |
:それでも、1620年商人といつわってスペイン人宣教師が日本に入国しようとした事件があり、それをきっかけに1622年長崎でとらわれていた宣教師とキリスト教徒55人を処刑するなど、幕府はキリスト教対策に追われ、1624年、まず、スペイン人の来航を禁止しました<ref>ポルトガルとの通商が認められたのは、ポルトガルはマカオを有しており、中国との間の取引が、オランダだけでは不安だったからです。</ref>。 |
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:幕府は、その後も規制を強め、1635年には外国船の入港を長崎のみに限定、東南アジア方面への日本人が国外に出ることと[[小学校社会/6学年/歴史編/戦乱の世の中と日本の統一-戦国時代・安土桃山時代#日本人町|東南アジアに住んでいた日本人]]の帰国を禁止しました。 |
:幕府は、その後も規制を強め、1635年には外国船の入港を長崎のみに限定、東南アジア方面への日本人が国外に出ることと[[小学校社会/6学年/歴史編/戦乱の世の中と日本の統一-戦国時代・安土桃山時代#日本人町|東南アジアに住んでいた日本人]]の帰国を禁止しました。 |
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1631年(寛永8年6月) 奉書船制度の開始で朱印船に朱印状以外に老中の奉書が必要となる |
1631年(寛永8年6月) 奉書船制度の開始で朱印船に朱印状以外に老中の奉書が必要となる |
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・1633年(寛永10年2月28日) 「第1次鎖国令」(奉書船以外の渡航禁止、海外に5年以上居留する日本人の帰国を禁止)が出される |
・1633年(寛永10年2月28日) 「第1次鎖国令」(奉書船以外の渡航禁止、海外に5年以上居留する日本人の帰国を禁止)が出される |
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・1639年(寛永16年7月5日) 「第5次鎖国令」(ポルトガル船の入港禁止)が出される ポルトガル船の来航を禁止する |
・1639年(寛永16年7月5日) 「第5次鎖国令」(ポルトガル船の入港禁止)が出される ポルトガル船の来航を禁止する |
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・1640年(寛永17年) マカオから通商再開依頼のためポルトガル船来航、徳川幕府が使者61名を処刑する |
・1640年(寛永17年) マカオから通商再開依頼のためポルトガル船来航、徳川幕府が使者61名を処刑する |
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・1641年(寛永18年4月) オランダ商館を平戸から出島に移す平戸にあったオランダ人の商館を、長崎の出島に移す |
・1641年(寛永18年4月) オランダ商館を平戸から出島に移す平戸にあったオランダ人の商館を、長崎の出島に移す |
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はキリシタン大名であった{{ruby|松倉|まつくら}}氏が天草地方を |
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以下は学習の参考ですので覚える必要はありません。<small> |
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2021年12月27日 (月) 13:30時点における版
★時代区分:江戸時代初期
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江戸幕府の始まり
関ヶ原の戦い
- 1598年秀吉が死んだ時、後継の
秀頼 はまだ5歳でした。秀吉は、秀頼が成長するまで徳川家康 ・上杉景勝 他5人の有力な大名(五大老 [1])と秀吉が信頼する石田三成 や浅野長政 他5人の家臣(五奉行 [2])の10人で相談して政治を行うよう言い残しました。しかし、秀吉が死ぬと家康は他の大名との関係を深めるなどの動きを見せ、三成は家康が天下をねらっているのではないかとうたがいを持つようになりました。他方で、秀吉・秀頼の家臣の中で、石田三成を中心とする行政で秀吉をささえたグループと浅野長政や加藤清正 ・福島正則 といった戦 で手柄 を立ててきたグループの間に対立が生じてもいました。
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関ヶ原 の戦い- 1600年、五大老五奉行の
仲違 いが深まり、家康は会津 の上杉景勝を攻める兵を挙げ東へ向かいます。 - 三成は、家康に反対する大名たちに呼びかけ、家康を攻める兵をあげやはり東へ向かいました。これを知った家康は軍を西へ反転して、これをむかえうとうとしました。そして、
関ヶ原 (今の岐阜県)で、家康が率いる軍(東軍)と、三成が率いる軍(西軍)がぶつかりました。これを 関ヶ原の戦い といいます。これは、両軍合わせて約20万人と日本史上最大の合戦となりました。結果は、西軍の中での裏切りなどもあって東軍の勝利となりました。 - 戦後、三成らは処刑され領土は没収されました。毛利氏など西軍についたもまた多くの領土を没収されました。豊臣氏も多くの領土を没収され、一地方の大名に過ぎないものとなって、家康の天下となりました。
江戸幕府の誕生
- 1603年、
朝廷 から徳川家康 は征夷大将軍 に任命されました。 - 家康は
江戸 (現在の東京)に幕府 を開きました。これが江戸幕府 であり、この時から江戸時代が始まりました。 - 将軍の権限は、武士に石高で表した領地(
知行 )を与えることであり、知行が1万石以上の者を大名 、1万石未満で、将軍に直接会うこと[3]ができる者を旗本 、できない者を御家人 [4]と言っていました。 - 関ヶ原の戦いの後に、家康は領地を分け与えましたが、この時、大名を家康の子孫による
親藩 、関ヶ原の戦い前から家来である譜代 大名、関ヶ原の戦い後に従った外様 大名にわけてとりあつかいました。なお、江戸時代の大名とその家来を合わせた集団を、「藩 」と言っています[5]。幕府は、藩をつぶしたり(改易 )、領土の一部を取り上げたり(減封 )、大名同士の領土を交換させる(国替 ・転封 )など、強力な力を持っていましたが、藩の中の政治に口を出すことはありませんでした。- 親藩
- 将軍家の血筋が絶えた場合などに、将軍を出す役割をになった
御三家 [6]・御三卿[7]を含み、家格・官位などでは優遇されましたが、幕政に参加することはまれでした。 - 譜代大名
- 関ヶ原の戦いの前から徳川家の家来であった家系の大名です。比較的小さな石高の領土を認められ領地替えもよくありましたが、江戸や京大阪からは近くに位置したものでした。
大老 、老中 といった幕閣 や若年寄 、大阪城代 、京都所司代 、寺社奉行 といった重職には譜代大名がつきました。 - 外様大名
- 関ヶ原の戦い以降に徳川家の家来となった大名です。比較的大きな石高の領土を認められ、幕末まで領地替えはほとんどありませんでしたが、江戸や京大阪からは遠いところにありました。また、幕政に参加することはほとんどありませんでした。
- 徳川幕府は、「
天領 」といって旗本などの知行とせずに直接支配する400万石に及ぶ領地ももっていました。天領には旗本や御家人から代官 を派遣し、これをおさめました。
武家諸法度 - 1615年、第2代将軍徳川
秀忠 は、大名を取りしまるための法律を作りました。これを武家諸法度 といいます。この法度に反すると、改易などの処分がなされました。
- 武家諸法度(一部)
- 一. (武士は)学問や武芸の道に、ひたすら
専念 すること。 - 一. 新しく城を築くことは、かたく禁止する。修理する場合であっても、必ず幕府に申し出ること。
- 一. 大名は、毎年、きめられた月に江戸に
参勤 すること(参勤交代)。 (※) - 一. 大きな船を作ってはならない。(※)
- 一. 大名は、幕府の許可なしに勝手に結婚をしてはならない。
- 一. (武士は)学問や武芸の道に、ひたすら
- ※:3代将軍 徳川家光が加えたものです。
大阪の陣
- このように、徳川家による支配が確立した時期にあっても、秀吉の子
秀頼 は、徳川家にしたがう態度を見せませんでした。また、関ヶ原の戦い以降、領地を失った大名やその家来、主君から離れた武士などが大阪城に集まってきていました。1614年、家康[8]と将軍秀忠は、大阪城を攻めるのに、全国の大名に兵を出すように命じ、翌1615年豊臣氏はほろびます。これを大阪 の陣 [9]と言います。 - 大阪城は、徳川氏のものとなり、当時日本一商業が栄えていた大阪は幕府が直接おさめるようになります。
- 戦国時代以来の、大名同士の争いはこれが最後となりました。
武士の政治の安定
江戸幕府の仕組み
- 1623年将軍となった第3代将軍徳川
家光 は、大名は、妻子(正妻と後継となる子)を江戸に置き、領土との間を1年おきに行き来すること(参勤交代 )を定めました。また、将軍の命令で、徳川氏が有する城や河川の改修などを務めなければならないこともありました。こうして、徳川将軍は大名が、戦国時代のように勝手に争うことができないようにし、安定した世の中を作り上げました。 - 徳川幕府には、重要なことを決める大老、老中、若年寄の他、大名の監視を行う
大目付 、寺社を管理する寺社奉行 、幕府の出納を管理する勘定奉行 、江戸の行政や裁判を行う江戸町奉行 などの役職があり、大名の他、将軍の直接の家臣である旗本がその任務につきました。
【江戸幕府の仕組み 主な役職のみ】 将軍 ━┳━ 大老(たいろう) : 将軍を補佐する最高職。臨時に置かれ、譜代大名の中でも石高の高い家の者のみなれた。 ┃ ┣━ 老中(ろうじゅう) : 複数による合議制で、大名の統制他、全国的なことがらについてとりあつかう。 ┃ ┣━ 江戸町奉行 (えどまちぶぎょう) : 江戸の行政、治安、司法を担当する。 ┃ ┣━ 勘定奉行 (かんじょうぶぎょう) : 幕府の会計な、天領の収税どを担当する。 ┃ ┣━ 遠国奉行 (おんごくぶぎょう) : 大阪、京都、長崎など幕府の直轄地の行政、治安、司法を担当する。 ┃ ┗━ 大目付 (おおめつけ) : 大名の動向を監視する。 ┃ ┣━ 若年寄(わかどしより) : 複数による合議制で、旗本・御家人の統制他、将軍家まわりのことがらについてとりあつかう。 ┃ ┗━ 目付 (めつけ) : 旗本・御家人の動向を監視する。 ┃ ┣━ 寺社奉行 (じしゃぶぎょう) : 全国の寺と神社を統括する。 ┣━ 京都所司代 (きょうとしょしだい) : 京都にいて、皇室や公家との取次と監視を行う。 ┗━ 大坂城代 (おおさかじょうだい) : 将軍に代わって大阪城を預かる。
武士と庶民
- 秀吉の刀狩によって、武士の身分(士分)と民衆が明確に分けられましたが、江戸幕府はそれを引き継ぎ、「士農工商」という身分制を確立しました[10]。また、人の移動は厳しく制限され、各地に関所がもうけられ、ここを通るのに通行手形が必要でした。
キリスト教の禁止と鎖国
- キリスト教は秀吉の時代に禁じられましたが、江戸幕府においてもひきつづき禁じられていました。同様に、ポルトガルやスペインとの南蛮貿易は続けられており、そこで宣教師との行き来がありました。
- 1600年
豊後 (現在の大分県)にオランダの船リーフデ号が流れつきます。ポルトガル人とスペイン人以外の初めてのヨーロッパの人たちです。家康は、流れついた人の中からオランダ人のヤン・ヨーステンとイギリス人のウィリアム・アダムス[11]をめしだして、外国のことを聞くようになりました。これ以降、ポルトガル人たちに加えてオランダ人などが日本に来るようになりました。オランダ人たちはポルトガル人などに比べ、キリスト教の布教には熱心ではなく、また、そのことが幕府にも伝わりました。ポルトガル人やスペイン人を南蛮人と呼ぶのに対して、オランダ人やイギリス人は紅毛人 とよばれました。 - 家康は、秀吉同様海外貿易に熱心で、東南アジアの国々[12]と交流を持って、
朱印状 と呼ばれる貿易の許可証[13]を発行して貿易を認めました。朱印状を持った船を朱印船 と言い、この貿易を朱印船貿易と呼びます[14]。 - 1612年南蛮貿易をめぐって幕府の役人に
収賄 事件がおこり、この関係者がキリシタンであったことから、幕府は大名と幕臣、江戸、京都など幕府の直轄地でのキリスト教の信仰を禁じました。1614年にはこれを全国に広げ、各地の教会を破壊し、宣教師や主だったキリスト教徒を国外に追放しました。 - その後も幕府は、外国船の入港を制限したり、宣教師や信者を見せしめに処刑したりしてキリスト教の禁止を徹底しようとしましたが、宣教師が密かに来日して布教する例があとをたちませんでした。
- そんな中、1637年、現在の長崎県にある
島原 半島(現在の長崎県)から海をへだてた天草 諸島(現在の熊本県)にかけての一帯で、農民3万人あまりによる、大きな一揆 が起きました。原因は、領主が領民に重い年貢 を課したこととキリシタンへの弾圧 でした。一揆の中心は、当時16才の天草四郎 という少年でした。幕府は12万人ほどの大軍を送り、4か月ほどかかってこれをしずめました。これを、「島原の乱」または「島原天草一揆」と言います。
- これが決め手となって、1639年、幕府は、ポルトガルの来航を禁じ、貿易の相手を、オランダだけに限って、さらに、長崎の
出島 だけでこれを認めることになりました。幕府は、出島に入れる日本人は、幕府の役人や、許可を得た日本人のみに制限していました。これを、鎖国 と言います。 - 江戸幕府は長崎のオランダ
商館長 に、外国のようすを幕府に報告させるための報告書の提出を義務づけました。 - このように日本でのヨーロッパ人と日本人とのかかわりを制限していった結果、日本では、江戸幕府が貿易の利益と西洋についての情報を
独占 しました[15]。
宗門人別改帳 - この戦いのあと、キリスト教への取りしまりは、いっそう
厳 しくなりました。キリスト教をかくれて信じる人をとりしまるため、定期的に調査をして人々にイエス・キリストなどがえがかれた銅板の踏 み絵を踏ませ、踏めなかった者はキリスト教徒であるとして処罰 しました。これを、宗門改 といいます。 - また、寺にキリスト教徒でないことの証明書(
寺請証文 )を出させる代わりに、お葬式や供養 をその寺だけでする寺請 制度[16]もできました。 - 寺請の結果は一人一人、「
宗門人別改帳 」という帳簿に残され、奉公や結婚で土地を離れる時には、寺から寺請証文を出してもらって、うつり住む土地で新たに帳簿に書き込むという習慣ができて、これが、現在の戸籍 や住民基本台帳と同じ役割をはたすようになりました。
【脱線 - 覚えなくてもいい話】オランダ
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脚注
以下は学習の参考ですので覚える必要はありません。
- ^ 家康・景雄の他は
前田利家 ・毛利輝元 ・宇喜多秀家 です。 - ^ 三成・長政の他は
前田玄以 ・増田長盛 ・長束正家 です。 - ^ これを「
御目見得 」と言います。 - ^ 多くは、戦国時代、「足軽」と呼ばれていた階層の武士です。
- ^ ただし、この言い方は明治以降の言い方で、当時は、「○○様
御家中 」などの言い方を使いました。 - ^
尾張 藩、紀州 藩、水戸 藩の3家で、それぞれ領国をもっていました。家康のこどもで、第2代将軍秀忠 の兄弟の子孫です。 - ^
田安 家、一橋 家、清水 家の3家で、御三家と違い領国を持っていません。江戸幕府の誕生から130年〜150年ほどのちにできた家で、第8代将軍吉宗 の子孫です。 - ^ この頃は、将軍ではありません。
- ^ 詳しくは、1614年に起こった戦を「大坂冬の陣」、1615年豊臣氏がほろびた戦を「大坂夏の陣」といいます。また、この当時、大阪は「大坂」と書いていたので「大坂の陣」と書く場合もあります。
- ^ なお、以前は、身分がこの順にあったと言われていましたが、現在では「士分」とその他は身分差があるが、「農工商」には身分の差がなかったというのが定説となっています。
- ^ 後に、
三浦按針 と名を改めます。 - ^
安南 (現在のベトナム)、スペイン領であったフィリピンのマニラ、カンボジア、シャム(現在のタイ)、パタニ(マレー半島中部の国、現在のマレーシア)などに派遣しました。 - ^ 日本人には日本からの出国を外国人には日本への入国を認めるもので、もともとは秀吉が始めました。
- ^ 中国(明王朝)は、日本の入国を禁止していましたし、朝鮮は、対馬の大名
宗 氏が代表していたので、朱印船貿易の相手ではありませんでした。 - ^ 朱印状は、一部の大名にも発行されたため、その大名は直接海外との貿易ができたのですが、1631年にさらに、幕府が発行する「
奉書 」が必要となり、大名が海外と貿易をすることはできなくなっていました。 - ^
檀家 制度とも言います。 - ^ ただ、日本人がネーデルラントを「オランダ」と呼ぶことは、オランダ人も認めています。英語で「日本」を「Japan」と呼んでいるようなものです。
- ^ この時代、オランダの造船技術が高かった理由の一つに、オランダの風車を利用して製材が盛んであったことが挙げられます。
- ^ 世界最初の、
株式 会社と言われています。なお、1600年イギリスにも同盟の会社がつくられています。