「小学校社会/6学年/歴史編/江戸幕府の成立と安定した社会-江戸時代Ⅰ」の版間の差分

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2022年2月17日 (木) 09:08時点における版

この章の概要

★時代区分:江戸時代初期
★取り扱う年代:1600年(関ヶ原の戦い)から1638年(島原の乱終結)まで

江戸幕府の始まり
秀吉死後、最も強力な大名徳川家康は、敵対する豊臣家家臣石田三成らと、東軍(家康側)と西軍(三成側)に分かれ関ヶ原で戦い(関ヶ原の戦い)、これに勝利します。政権は豊臣氏から徳川氏に移ります。
関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、1603年に征夷大将軍に就任し、江戸に幕府を開きます。これを「江戸幕府(または、徳川幕府)」といい、江戸に幕府があった時代を「江戸時代」と言います。家康は、大坂冬の陣・夏の陣で豊臣氏を滅ぼし、これ以降、大名同士の合戦はなくなります。
関ヶ原の戦いの後、家康は西軍の大名の領地と豊臣氏の領土を取り上げ、東軍の大名に分け与えました。この時、大名を家康の子孫による親藩、関ヶ原の戦い前から家来である譜代(ふだい)大名、関ヶ原の戦い後に従った外様(とざま)大名にわけてとりあつかいました。①親藩は、将軍家の血筋が絶えた場合などに、将軍を出す役割を担った御三家御三卿を含み、家格・官位などでは優遇されましたが、幕政に参加することはまれでした、②譜代大名は、比較的小さな石高の領土を認められ領地替えもよくありましたが、江戸や京大阪からは近くに位置したものでした。大老老中若年寄といった幕閣には譜代大名がつきました。③外様大名は、比較的大きな石高の領土を認められ、幕末まで領地替えはほとんどありませんでしたが、江戸や京大阪からは遠いところにありました。また、幕政に参加することはほとんどありませんでした。なお、江戸時代の大名とその家来を合わせた集団を、「(はん)」と言っています。幕府は強力な力を持っていましたが、藩の中の政治に口を出すことはありませんでした。
武士の政治の安定
第3代将軍徳川家光は、大名は、妻子(正妻と後継となる子)を江戸に置き、領土との間を1年おきに行き来すること(参勤交代)を定めました。また、将軍の命令で、徳川氏が有する城や河川の改修などを務めなければならないこともありました。こうして、徳川将軍は大名が、戦国時代のように勝手に争うことができないようにし、安定した世の中を作り上げました。
徳川幕府には、重要なことを決める大老、老中、若年寄の他、大名の監視を行う大目付、寺社を管理する寺社奉行、幕府の出納を管理する勘定奉行、江戸の行政や裁判を行う江戸町奉行などの役職があり、大名の他、将軍の直接の家臣である旗本がその任務につきました。
秀吉の刀狩によって、武士の身分(士分)と民衆が明確に分けられましたが、江戸幕府はそれを引き継ぎ、「士農工商」という身分制を確立しました。また、人の移動は厳しく制限され、各地に関所がもうけられ、ここを通るのに通行手形が必要でした。
キリスト教は秀吉の時代に禁じられましたが、江戸幕府においても禁じられました。一方で、ポルトガルなどとの貿易は港を限定しながらも続いており、そこで宣教師との行き来があったとされます。そんな中、九州の天草・島原で大規模なキリスト教徒による反乱(島原の乱)が起きました。これがきっかけとなって、幕府は、島原の乱の翌年に、貿易の相手を、キリスト教の布教には熱心でないオランダだけに限って、さらに、長崎の出島だけでこれを認めることになりました。これを、鎖国(さこく)と言います。

江戸幕府の始まり

関ヶ原の戦い

1598年秀吉が死んだ時、後継の秀頼(ひでより)はまだ5歳でした。秀吉は、秀頼が成長するまで徳川家康(とくがわいえやす)上杉景勝(うえすぎがげかつ)他5人の有力な大名(五大老(ごたいろう)[1])と秀吉が信頼する石田三成(いしだみつなり)浅野長政(あさのながまさ)他5人の家臣(五奉行(ごぶぎょう)[2])の10人で相談して政治を行うよう言い残しました。しかし、秀吉が死ぬと家康は他の大名との関係を深めるなどの動きを見せ、三成は家康が天下をねらっているのではないかとうたがいを持つようになりました。他方で、秀吉・秀頼の家臣の中で、石田三成を中心とする行政で秀吉をささえたグループと浅野長政や加藤清正(かとうきよまさ)福島正則(ふくしままさのり)といった(いくさ)手柄(てがら)を立ててきたグループの間に対立が生じてもいました。
徳川家康
徳川家康(とくがわいえやす)のこれまでの歩み
徳川家康は、三河(みかわ)(現在の愛知県東部)の大名松平(まつだいら)氏に生まれます。松平氏は三河の国人出身の大名でしたが、隣接する今川(いまがわ)氏や織田氏に比べると弱小な大名でした。家康は家を継ぐ前、松平元康(まつだいらもとやす)と言って、今川氏に人質に出されていたことがあります。
1560年桶狭間(おけはざま)の戦い今川義元が討ち死にし、今川氏が弱くなると、信長と同盟し三河をとりもどします。そして、名を徳川家康(とくがわいえやす)とかえ、遠江(とおとおみ)をせめとります。その後、信長の同盟国として武田氏や北条氏と隣接する信長の勢力の東南部を守り続けます。
1572年の三方原(みかたがはら)の戦いでは大敗し、命の危険もありましたが、武田信玄が病死し、兵は甲斐へもどったため一命をとりとめました。
逆に、1575年の長篠の戦いでは、信長との連合軍で、武田勝頼(たけだかつより)に大勝し駿河(するが)をえ、1582年武田氏をほろぼして甲斐(かい)信濃(しなの)の一部をえました。
秀吉には、後継者争いで一時抵抗し、秀吉の軍をくだすなどしたのですが、和解し、その後はしたがいます。
1590年、秀吉の小田原攻めに協力し北条氏を攻め滅ぼしますが、秀吉の命令によって、領地を北条氏のおさめていた関東に移され、江戸(えど)城を拠城(きょじょう)としました。
秀吉の生前は、秀吉配下では最大の大名となっていました。
関ヶ原(せきがはら)の戦い
関ヶ原の戦い
絵の右側にいるのが徳川軍。絵の左側にいるのが豊臣軍。
1600年、五大老五奉行の仲違(なかたが)いが深まり、家康は会津(あいづ)の上杉景勝を攻める兵を挙げ東へ向かいます。
三成は、家康に反対する大名たちに呼びかけ、家康を攻める兵をあげやはり東へ向かいました。これを知った家康は軍を西へ反転して、これをむかえうとうとしました。そして、関ヶ原(せきがはら)(今の岐阜県)で、家康が率いる軍(東軍)と、三成が率いる軍(西軍)がぶつかりました。これを 関ヶ原の戦い といいます。これは、両軍合わせて約20万人と日本史上最大の合戦となりました。結果は、西軍の中での裏切りなどもあって東軍の勝利となりました。
戦後、三成らは処刑され領土は没収されました。毛利氏など西軍についたもまた多くの領土を没収されました。豊臣氏も多くの領土を没収され、一地方の大名に過ぎないものとなって、家康の天下となりました。


江戸幕府の誕生

1603年、朝廷(ちょうてい)から徳川家康(とくがわいえやす)征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に任命されました。
家康は江戸(えど)(現在の東京)に幕府(ばくふ)を開きました。これが江戸幕府(えどばくふ)であり、この時から江戸時代が始まりました。
将軍の権限は、武士に石高で表した領地(知行(ちぎょう))を与えること(石高制(こくだかせい)であり、知行が1万石以上の者を大名(だいみょう)、1万石未満で、将軍に直接会うこと[3]ができる者を旗本(はたもと)、できない者を御家人(ごけにん)[4]と言っていました。
関ヶ原の戦いの後に、家康は領地を分け与えましたが、この時、大名を家康の子孫による親藩(しんぱん)、関ヶ原の戦い前から家来である譜代(ふだい)大名、関ヶ原の戦い後に従った外様(とざま)大名にわけてとりあつかいました。なお、江戸時代の大名とその家来を合わせた集団を、「(はん)」と言っています[5]。幕府は、藩をつぶしたり(改易(かいえき))、領土の一部を取り上げたり(減封(げんぽう))、大名同士の領土を交換させる(国替(くにがえ)転封(てんぽう))など、強力な力を持っていましたが、藩の中の政治に口を出すことはありませんでした。日本国内は、幕府と藩により統治されていたので、このような政治の仕組みを「幕藩体制(ばくはんたいせい)」といいます。
親藩
将軍家の血筋が絶えた場合などに、将軍を出す役割をになった御三家(ごさんけ)[6]御三卿[7]を含み、家格・官位などでは優遇されましたが、幕政に参加することはまれでした。
譜代大名
関ヶ原の戦いの前から徳川家の家来であった家系の大名です。比較的小さな石高の領土を認められ領地替えもよくありましたが、江戸や京大阪からは近くに位置したものでした。大老(たいろう)老中(ろうじゅう)といった幕閣(ばっかく)若年寄(わかどしより)大阪城代(おおさかじょうだい)京都所司代(きょうとしょしだい)寺社奉行(じしゃぶぎょう)といった重職には譜代大名がつきました。
外様大名
関ヶ原の戦い以降に徳川家の家来となった大名です。比較的大きな石高の領土を認められ、幕末まで領地替えはほとんどありませんでしたが、江戸や京大阪からは遠いところにありました。また、幕政に参加することはほとんどありませんでした。
徳川幕府は、「天領(てんりょう)」といって旗本などの知行とせずに直接支配する400万石に及ぶ領地ももっていました。天領には旗本や御家人から代官(だいかん)を派遣し、これをおさめました。
武家諸法度(ぶけしょはっと)
1615年、第2代将軍徳川秀忠(ひでただ)は、大名を取りしまるための法律を作りました。これを 武家諸法度(ぶけしょはっと) といいます。この法度に反すると、改易などの処分がなされました。
  • 武家諸法度(一部)
    一. (武士は)学問や武芸の道に、ひたすら専念(せんねん)すること。
    一. 新しく城を築くことは、かたく禁止する。修理する場合であっても、必ず幕府に申し出ること。
    一. 大名は、毎年、きめられた月に江戸に参勤(さんきん)すること(参勤交代)。 (※)
    一. 大きな船を作ってはならない。(※)
    一. 大名は、幕府の許可なしに勝手に結婚をしてはならない。
※:3代将軍 徳川家光が加えたものです。

大阪の陣

このように、徳川家による支配が確立した時期にあっても、秀吉の子秀頼(ひでより)は、徳川家にしたがう態度を見せませんでした。また、関ヶ原の戦い以降、領地を失った大名やその家来、主君から離れた武士などが大阪城に集まってきていました。1614年、家康[8]と将軍秀忠は、大阪城を攻めるのに、全国の大名に兵を出すように命じ、翌1615年豊臣氏はほろびます。これを大阪(おおさか)(じん)[9]と言います。
大阪城は、徳川氏のものとなり、当時日本一商業が栄えていた大阪は幕府が直接おさめるようになります。
戦国時代以来の、大名同士の争いはこれが最後となりました。

武士の政治の安定

江戸幕府の仕組み

徳川家光
1623年将軍となった第3代将軍徳川家光(いえみつ)は、大名は、妻子(正妻と後継となる子)を江戸に置き、領土との間を1年おきに行き来すること(参勤交代(さんきんこうたい)を定めました。また、将軍の命令で、徳川氏が有する城や河川の改修などを務めなければならないこともありました。こうして、徳川将軍は大名が、戦国時代のように勝手に争うことができないようにし、安定した世の中を作り上げました。
徳川幕府には、重要なことを決める大老、老中、若年寄の他、大名の監視を行う大目付(おおめつけ)、寺社を管理する寺社奉行(じしゃぶぎょう)、幕府の出納を管理する勘定奉行(かんじょうぶぎょう)、江戸の行政や裁判を行う江戸町奉行(えどまちぶぎょう)などの役職があり、大名の他、将軍の直接の家臣である旗本がその任務につきました。
【江戸幕府の仕組み 主な役職のみ】

将軍 ━┳━ 大老(たいろう)       : 将軍を補佐する最高職。臨時に置かれ、譜代大名の中でも石高の高い家の者のみなれた。
           ┃
           ┣━ 老中(ろうじゅう)      : 複数による合議制で、大名の統制他、全国的なことがらについてとりあつかう。
           ┃      ┣━ 江戸町奉行 (えどまちぶぎょう)   : 江戸の行政、治安、司法を担当する。
           ┃      ┣━ 勘定奉行 (かんじょうぶぎょう)    : 幕府の会計な、天領の収税どを担当する。
           ┃      ┣━ 遠国奉行 (おんごくぶぎょう)       : 大阪、京都、長崎など幕府の直轄地の行政、治安、司法を担当する。
           ┃      ┗━ 大目付 (おおめつけ)                  : 大名の動向を監視する。
           ┃
           ┣━ 側用人(そばようにん)・御側御用取次(おそばごようとりつぎ)
           ┃       : 将軍の側近で、将軍と老中の間をとりついだ。将軍の命令を直接受けるので、老中よりも権力があった場合もある。
           ┃
           ┣━ 若年寄(わかどしより)  : 複数による合議制で、旗本・御家人の統制他、将軍家まわりのことがらについてとりあつかう。
           ┃      ┗━ 目付 (めつけ)                          : 旗本・御家人の動向を監視する。
           ┃
           ┣━ 寺社奉行 (じしゃぶぎょう)           : 全国の寺と神社を統括する。
           ┣━ 京都所司代 (きょうとしょしだい)  : 京都にいて、皇室や公家との取次と監視を行う。
           ┗━ 大坂城代 (おおさかじょうだい)    : 将軍に代わって大阪城を預かる。

武士と庶民

秀吉の刀狩によって、武士の身分(士分)と民衆が明確に分けられましたが、江戸幕府はそれを引き継ぎ、「士農工商」という身分制を確立しました。「」は武士、「」は農民、「」は大工や鍛冶屋(かじや)などの職人、「」は商人のことです。なお、以前は、身分がこの順にあったと言われていましたが、現在では「士分」とその他は身分差があるが、「農工商」の庶民には身分の差がなかったというのが定説となっています。すなわち、庶民は武士にはなれないけれども、「農工商」の間では比較的自由にその職業につけたということです。ただし、農民になるのは、農地を持たないといけませんが、それはむずかしかったので、職人や商人が農民になることはまれだったと考えられます。
武士は、苗字を公式に名のることと刀を所持し外でさすこと(あわせて、苗字帯刀(みょうじたいとう)といいます)、庶民が武士に対して失礼(無礼(ぶれい))な行為があったときには「無礼討(ぶれいう)ち」と言ってその場で斬り殺しても良いこと(切捨御免(きりすてごめん)[10])などの特権がありました。
農村の生活
農村は、検地によって収穫高が明らかにされていたので、それにもとづいた年貢(ねんぐ)をおさめました。年貢の割合は、収穫の4割から5割で、これを「四公六民(しこうろくみん)五公五民(ごこうごみん)」と言って、各農民ではなく村を単位としておさめていました[11]。農民は、自分の土地を持った本百姓(ほんびゃくしょう)と、自分の土地を持たず本百姓の農地をたがやすなどして生活する水呑百姓(みずのみびゃくしょう)がありました。
農地は、1643年田畑永代売買禁止令(でんぱたえいたいばいばいきんしれい)が出され、売買が禁止され代々相続されるものとなりました。また、同年田畑勝手作禁止令(でんぱたかってづくりきんしれい)が出され、米以外の作物は勝手に作ることはできませんでした。
町人の生活
職人や商人は主にそこをおさめる大名やその代官の屋敷の周辺に町(城下町(じょうかまち))を作り住むようになっていました。商業は、市が開かれるたびに取引を行うのではなく、定住して「店」であきなうようになりました。
職人は、親方(おやかた)弟子(でし)入りし、仕事を手伝いながら、仕事を覚え、やがて一人前になり独立するという徒弟制(とていせい)になっていました。商人は、まず、丁稚(でっち)として店に入り、やがて、手代(てだい)番頭(ばんとう)となって、暖簾分(のれんわ)けで独立するというものでした。職人も商人も、弟子や丁稚のころは、給金とかもらえず住み込みで働く年季奉公(ねんきぼうこう)という形が一般的でした。
職業の選択はこのように自由にできるものではなく、また、人の移動は厳しく制限され、各地に関所がもうけられ、ここを通るのに通行手形が必要でした。
江戸時代になって、戦国時代や安土桃山時代に比べて、庶民の生活は安定したのですが、一方で移動の自由や職業選択の自由が失われたものとなったとも言えます。

キリスト教の禁止と鎖国

キリスト教は秀吉の時代に禁じられましたが、江戸幕府においてもひきつづき禁じられていました。同様に、ポルトガルやスペインとの南蛮貿易は続けられており、そこで宣教師との行き来がありました。
1600年豊後(ぶんご)(現在の大分県)にオランダの船リーフデ号が流れつきます。ポルトガル人とスペイン人以外の初めてのヨーロッパの人たちです。家康は、流れついた人の中からオランダ人のヤン・ヨーステンとイギリス人のウィリアム・アダムス[12]をめしだして、外国のことを聞くようになりました。これ以降、ポルトガル人たちに加えてオランダ人などが日本に来るようになりました。オランダ人たちはポルトガル人などに比べ、キリスト教の布教には熱心ではなく、また、そのことが幕府にも伝わりました。ポルトガル人やスペイン人を南蛮人と呼ぶのに対して、オランダ人やイギリス人は紅毛人(こうもうじん)とよばれました。
家康は、秀吉同様海外貿易に熱心で、東南アジアの国々[13]と交流を持って、朱印状(しゅいんじょう)と呼ばれる貿易の許可証[14]を発行して貿易を認めました。朱印状を持った船を朱印船(しゅいんせん)と言い、この貿易を朱印船貿易と呼びます[15]
1612年南蛮貿易をめぐって幕府の役人に汚職(おしょく)事件がおこり、この関係者がキリシタンであったことから、幕府は大名と幕臣、江戸、京都など幕府の直轄地でのキリスト教の信仰を禁じました。1614年にはこれを全国に広げ、各地の教会を破壊し、宣教師や主だったキリスト教徒を国外に追放しました。
その後も幕府は、中国船を含めた外国船の入港を制限したり、宣教師や信者を見せしめに処刑したりしてキリスト教の禁止を徹底しようとしましたが、宣教師が密かに来日して布教する例があとをたちませんでした。
そんな中、1637年、現在の長崎県にある島原(しまばら)半島(現在の長崎県)から海をへだてた天草(あまくさ)諸島(現在の熊本県)にかけての一帯で、農民3万人あまりによる、大きな一揆(いっき)が起きました。原因は、領主が領民に重い年貢(ねんぐ)を課したこととキリシタンへの弾圧(だんあつ)でした。一揆の中心は、当時16才の天草四郎(あまくさしろう)という少年でした。幕府は12万人ほどの大軍を送り、4か月ほどかかってこれをしずめました。これを、「島原の乱」または「島原天草一揆」と言います。島原の乱は、戦死・処刑された農民などが2万人から3万人になり、幕府側も死傷者が8000人以上という江戸時代最大の百姓一揆で、これを最後に、これから、明治維新の戊辰戦争まで230年間、日本国内での争いことで100人をこえる死者が出ることがない、世界的にも珍しい平和な時代となりました。
出島を空から見た図
これが決め手となって、1639年、幕府は、ポルトガルの来航を禁じ、貿易の相手を、中国以外はオランダだけに限って、さらに、長崎の出島(でじま)だけでこれを認めることになりました。幕府は、出島に入ることのできる日本人は、幕府の役人や、許可を得た日本人のみに制限していました。これを、鎖国(さこく)と言います。
江戸幕府は長崎のオランダ商館長(しょうかんちょう)に、外国のようすを幕府に報告させるための報告書の提出を義務づけました。
このように日本でのヨーロッパ人と日本人とのかかわりを制限していった結果、日本では、江戸幕府が貿易の利益と西洋についての情報を独占(どくせん)しました[16]


踏み絵
宗門人別改帳(しゅうもんにんべつあらためちょう)
島原の乱のあと、キリスト教への取りしまりは、いっそう(きび)しくなりました。キリスト教をかくれて信じる人をとりしまるため、定期的に調査をして人々にイエス・キリストなどがえがかれた銅板の()み絵を踏ませ、踏めなかった者はキリスト教徒であるとして処罰(しょばつ)しました。これを、宗門改(しゅうもんあらため)といいます。
また、寺にキリスト教徒でないことの証明書(寺請証文(てらうけしょうもん))を出させる代わりに、お葬式や供養(くよう)をその寺だけでする寺請(てらうけ)制度[17]もできました。
寺請の結果は一人一人、「宗門人別改帳(しゅうもんにんべつあらためちょう)」という帳簿に残され、奉公や結婚で土地を離れる時には、寺から寺請証文を出してもらって、うつり住む土地で新たに帳簿に書き込むという習慣ができて、これが、現在の戸籍(こせき)や住民基本台帳と同じ役割をはたすようになりました。
【脱線 - 覚えなくてもいい話】オランダ
オランダの位置
オランダは、ヨーロッパ中西部、ライン川というスイス、フランス、ドイツを流れヨーロッパの水運で最も重要な川の河口にある国です。「オランダ」はその中の州の名前で、正式にはネーデルラントと言います[18]
このころ、オランダはスペインの王室の支配下にあって、独立を争って戦争をしていました(オランダ独立戦争 1568年〜1648年)。オランダは、ゲルマン系オランダ人の国で、言葉や習俗はドイツやイギリスに近く、一方、スペインはイタリア・フランス・ポルトガルといったラテン系の国です。また、当時のヨーロッパでは、カトリックとプロテスタントが対立していて、スペインはカトリックを支持していたのに対して、オランダ人の多くはプロテスタントでした。
独立戦争は続いていましたが、1600年頃までにスペインからほとんど独立していたオランダは、当時、ヨーロッパで最高の造船技術[19]をいかして海洋貿易に進出します。
1602年オランダは、アジア貿易のために、「東インド会社[20]」という会社を作って、それまで、この地域の貿易の中心であったポルトガルの地位をうばいました。
オランダは、幕府に近づいて、日本の海外に対する貿易の独占的な地位を得ました。オランダとの貿易品には以下のものがあります。
  • オランダからの輸入品のほとんどは、中国産の生糸(きいと)砂糖(さとう)・毛織物でした。ときどき、ガラスや望遠鏡や時計などの、めずらしいものも輸入されました。
  • 日本からの輸出品としては、金・銀・銅などの金属や陶磁器(とうじき)などでした。陶磁器が割れないようにつめた紙くずに浮世絵があり、それがヨーロッパに浮世絵が伝わるきっかけになりました。

【脱線 - 覚えなくてもいい話】中国との貿易
南蛮貿易でもオランダ船による貿易であっても、日本が最も必要としたのは、生糸・絹織物[21]、陶磁器といった中国で生産されるものと、永楽通宝のような貨幣でした。では、中国商人が直接取引をすればよいではないかという話になりそうですが、それは、簡単な話ではありませんでした。
明の王朝は14世紀から倭寇(わこう)[22]になやまされて、海外貿易をしばしば禁止しました。
1644年、明は国内の反乱によってほろび、その反乱軍も中国北部の国(しん)によってほろぼされます。
清の建国に反抗して、明の家臣などが台湾にのこり抵抗(ていこう)していました。清の王朝は、これを取り締まるため、清への朝貢貿易以外は、明と同じように海外貿易を禁止しました。
日本としては、中国の産品を手に入れにくくなったのですが、以下のとおり対応し輸入にたよらなくてもよくなりました。
  1. 生糸・絹織物については、江戸幕府や各藩が、改良に努め、江戸時代の中期には輸入を制限できるほど品質が上がりました。明治になると日本の代表的な輸出品になります。
  2. 陶磁器については、朝鮮出兵で多くの朝鮮人陶工を日本に連行し、有田焼(ありたやき)薩摩焼(さつまやき)など、薄く固い陶磁器の技術を確立しました。
  3. 永楽通宝など貨幣については、1636年幕府は銭座(ぜにざ)を開いて、寛永通宝(かんえいつうほう)を発行し国内の通貨だけで取引ができるようになりました。
一方で、日本からの輸出品は、金や銀、人(奴隷、戦国時代敵国の領民をさらって売った)、海産物加工品(()(あわび)、干しナマコなど)でした。秀吉の天下統一以降は、奴隷の輸出はほとんどなくなり、金や銀ばかりになったのですが、日本国内でも商業が盛んになるなどして、金や銀を国外に持ち出すと貨幣が足りなくなり困るようになりました。
こうして、江戸時代になると、中国との貿易の必要が少なくなって、江戸幕府は明が清になったのちも、朝貢貿易はやりませんでした。中国との取引は、金銀銅と言った貴金属を支払いなどに使わないようになり、長崎における、その他の取引も次第に重要なものではなくなっていきました。

【脱線 - 覚えなくてもいい話】鎖国までの道のり
秀吉も家康もキリスト教の布教を禁止し、ポルトガル人やスペイン人の宣教師は国外へ追放しましたが、南蛮貿易は、大きな利益をもたらしていたため、そのまま継続し、それにかかわる宣教師以外のポルトガル人などの往来は自由になされていました。そのため、幕府などに隠れて布教は進み、キリシタンの数は増えていきました。
1609年から1612年にかけて起こったポルトガルとの貿易に関するキリシタン大名有馬晴信(ありまはるのぶ)をめぐる事件からは、家康側近本多正純(ほんだまさずみ)の家臣でキリシタンである岡本大八(おかもとだいはち)の高額な賄賂(わいろ)の受け取りや、長崎奉行長谷川藤広(はせがわふじひろ)暗殺陰謀など、数々の不祥事(ふしょうじ)が発覚し、ヤン・ヨーステンなどの進言もあって、家康はポルトガルとの付き合いに不信感を持つようになりました。
1616年幕府は、明船以外の外国船との貿易を長崎(ながさき)平戸(ひらど)のみに制限しました。
それでも、1620年商人といつわってスペイン人宣教師が日本に入国しようとした事件があり、それをきっかけに1622年長崎でとらわれていた宣教師とキリスト教徒55人を処刑するなど、幕府はキリスト教対策に追われ、1624年、まず、スペイン人の来航を禁止しました[23]
幕府は、その後も規制を強め、1631年朱印状以外に老中の奉書を必要とするようにし、大名や日本人商人の朱印船をなくし、1635年には外国船の入港を長崎のみに限定、東南アジア方面への日本人が国外に出ることと東南アジアに住んでいた日本人の帰国を禁止しました。
また、南蛮貿易の最大の目的である中国は、1619年以降女真(じょしん)族(満州(まんしゅう)族、のちの清王朝)の南下と国内の反乱で国内が混乱し、貿易品も少なくなっていました。
島原の乱後1639年の鎖国令によってポルトガル船の来航が禁止され、1641年オランダ商館を平戸から出島に移し、鎖国は完成しました。

【脱線 - 覚えなくてもいい話】島原の乱
この地域は、海をへだてて隣接しており、島原地方は有馬晴信(ありまはるのぶ)、天草地方は小西行長(こにしゆきなが)と、もともとともにキリシタン大名がおさめていたところでした。天草地方は、1600年、小西行長が関ヶ原の戦いで西軍について、やぶれて処刑されたので、唐津(現在に福岡県唐津市)をおさめる寺沢(てらさわ)氏の領地になっていました。一方、島原地方は、有馬晴信は、1612年の幕臣汚職事件で処罰されたため、子孫は国替となり、かわって、松倉(まつくら)氏がおさめていました。
島原では、松倉氏が、あらたに城を作るなどのために農民から非常に重い年貢をとりたてていました。また、キリスト教徒への迫害もはげしく、棄教(ききょう)[24]をするように、きびしい拷問(ごうもん)をしたり、棄教しない者は処刑したりしていました。天草でも、寺沢氏が同様に農民に重い年貢をかけ、キリスト教とを迫害していました。
島原には有馬晴信に、天草には小西行長につかえていた元武士の庶民が数多く残っていて、この人たちが集まって反乱を起こすことをくわだてました。総大将には、キリシタンの間で人気のあった当時16歳の天草四郎(あまくさしろう)(小西行長の家臣の子)をむかえました。キリシタンを総大将にしたのは、ポルトガルが応援することを期待したのではないかと言われています。
島原と天草で、ほぼ同時に兵をあげ、天草でもいくつかの城を落としましたが、ばらばらに戦うことは不利ということで、天草の一揆の人々は、島原にうつり、有馬氏の城であった原城にこもりました。この数は27000人から37000人にのぼると言われています。
この一揆は、領主によるきびしい政治が主な原因で、一揆の農民はキリスト教徒ばかりではなかったのですが、幕府は禁止するキリスト教徒の反乱として、九州各地の大名に兵を出すように命じこれを鎮圧しようとしました。最初は、役職の軽い大名に指揮を取らせようとしましたが、九州の大名は大大名が多くうまくいかず、幕府側は多くの死傷者をだします。幕府かこれに替えて、将軍家光の側近であった老中松平信綱(まつだいらのぶつな)を総大将に派遣し、12万人の軍勢によって、原城にこもった人々は皆殺しにされ、一揆は鎮圧されました。

江戸時代の北海道と沖縄

現在の北海道と沖縄県は戦国時代まで、朝廷の支配に服することもなく、今まで学習してきた日本の歴史と違う歴史を歩んできました。戦国時代後期になって、日本本土でもこの2つの地域との関係がもたれるようになります。江戸時代になると、北海道には、 松前藩(まつまえはん)がおかれ、沖縄は、薩摩(さつま)藩を通じて本土と深く関係するようになりました。
北海道(ほっかいどう)
北海道は、日本人(和人)には、古くからそこにあることは知られていましたが、稲作かできる北の限界より北にあって、税をはじめとした、日本の生活をおくるのはむずかしい土地でした。そこには、今はアイヌ民族と呼んでいる人々が住んでいました。日本本土ではこの人々を、「えみし[25]」または「えぞ」(漢字はどちらも「蝦夷」という字を当てます)と呼んで、北海道のことは「蝦夷地(えぞち)」と呼んでいました。
平安時代の末期から、北海道の最南端に和人が住みはじめました。この人たちは主にアイヌの人たちと物々交換(交易)をしていました。アイヌからは、乾燥したサケ・ニシン・クマやキツネの皮・矢羽の原料とする鷹の羽・海草・木材を、和人はそれに替えて鉄製品・漆器・米・木綿などと交換していました。
この、居住和人を取りまとめていた豪族の中から、蠣崎(かきざき)氏が有力なものとなり、秀吉に領主としての地位を認められ、1599年居城の松前(まつまえ)城から松前(まつまえ)氏とあらため、家康によってアイヌとの交易は松前氏が独占することが認められました。松前氏はのちに大名としてあつかわれますが、大名で唯一、米の収穫高(石高)ではなく商品の取引量で大名の格が決まる藩でした。
17世紀に入ると中国の北部から樺太(からふと)島などをとおって中国の物品が入ってきて、アイヌの人々が和人に伝えましたが、交易の条件などで対立することもあり、17世紀の中ごろのシャクシャインの反乱のように和人とアイヌの人々の間で争いが生ずることもありました。
沖縄 - 琉球(りゅうきゅう)王国
現在の沖縄県にあたる地域は、歴史上ずっと日本民族が居住していたところですが、朝廷や幕府などの支配にはならない地域でした。
14世紀頃から沖縄本島に小さな国が分立し明に朝貢していましたが、15世紀に統一され、琉球(りゅうきゅう)王国が誕生しました。
江戸時代の初めごろ、薩摩(さつま)島津(しまづ)氏が攻め入って、服従させました。ただし、国の形は琉球王国のままで、毎年、薩摩藩へ貢納(こうのう)を強制しました[26]。薩摩藩が琉球王国のままとしたのは、中国との朝貢貿易を続けさせるためした。琉球王国は、明に続いて清にも朝貢し、中国の産物を手に入れ、それを薩摩藩が日本国内に売って利益を得ていました。

脚注

以下は学習の参考ですので覚える必要はありません。

  1. ^ 家康・景雄の他は前田利家(まえだとしいえ)毛利輝元(もうりてるもと)宇喜多秀家(うきたひでいえ)です。
  2. ^ 三成・長政の他は前田玄以(まえだげんい)増田長盛(ましたながもり)長束正家(なつかまさいえ)です。
  3. ^ これを「御目見得(おめみえ)」と言います。
  4. ^ 多くは、戦国時代、「足軽」と呼ばれていた階層の武士です。
  5. ^ ただし、この言い方は明治以降の言い方で、当時は、「○○様御家中(ごかちゅう)」などの言い方を使いました。
  6. ^ 尾張(おわり)藩、紀州(きしゅう)藩、水戸(みと)藩の3家で、それぞれ領国をもっていました。家康のこどもで、第2代将軍秀忠(ひでただ)の兄弟の子孫です。
  7. ^ 田安(たやす)家、一橋(ひとつばし)家、清水(しみず)家の3家で、御三家と違い領国を持っていません。江戸幕府の誕生から130年〜150年ほどのちにできた家で、第8代将軍吉宗(よしむね)の子孫です。
  8. ^ この頃は、将軍ではありません。
  9. ^ 詳しくは、1614年に起こった戦を「大坂冬の陣」、1615年豊臣氏がほろびた戦を「大坂夏の陣」といいます。また、この当時、大阪は「大」と書いていたので「大坂の陣」と書く場合もあります。
  10. ^ 実際、そのようなことをすると、庶民の反発をまねくので、本当に「無礼」な行為があったかを証人などを呼んで裁判し、簡単に認められるものではありませんでした。
  11. ^ これを、村請(むらうけ)といいます。
  12. ^ 後に、三浦按針(みうらあんじん)と名を改めます。
  13. ^ 安南(あんなん)(現在のベトナム)、スペイン領であったフィリピンのマニラ、カンボジア、シャム(現在のタイ)、パタニ(マレー半島中部の国、現在のマレーシア)などに派遣しました。
  14. ^ 日本人には日本からの出国を外国人には日本への入国を認めるもので、もともとは秀吉が始めました。
  15. ^ 中国(明王朝)は、日本の入国を禁止していましたし、朝鮮は、対馬の大名(そう)氏が代表していたので、朱印船貿易の相手ではありませんでした。
  16. ^ 朱印状は、一部の大名にも発行されたため、その大名は直接海外との貿易ができたのですが、1631年にさらに、幕府が発行する「奉書(ほうしょ)」が必要となり、大名が海外と貿易をすることはできなくなっていました。
  17. ^ 檀家(だんか)制度とも言います。
  18. ^ ただ、日本人がネーデルラントを「オランダ」と呼ぶことは、オランダ人も認めています。英語で「日本」を「Japan」と呼んでいるようなものです。
  19. ^ この時代、オランダの造船技術が高かった理由の一つに、オランダの風車を利用して製材が盛んであったことが挙げられます。
  20. ^ 世界最初の、株式(かぶしき)会社と言われています。なお、1600年イギリスにも同盟の会社がつくられています。
  21. ^ この時代の、日本の絹は品質が悪く良いものは中国からの輸入品ばかりでした。
  22. ^ 倭寇は、14世紀に足利義満が勘合貿易を始めたことで一時収まりますが、その後、勘合貿易をまかされていた大内氏がほろびた1550年代以降、海賊がまた増え、これも倭寇と呼ばれました。ただし、16世紀になってからの倭寇は、ほとんどが中国人でした。
  23. ^ ポルトガルとの通商が認められたのは、ポルトガルはマカオを有しており、中国との間の取引が、オランダだけでは不安だったからです。
  24. ^ キリスト教を信仰することをやめること。
  25. ^ 平安時代ころまでは東北地方で、朝廷に反抗する人々の意味で、アイヌ民族だけをさしたものではありませんでした。この当時、この人々を征服するために作られた役職が「征夷大将軍」です。
  26. ^ 薩摩藩は、琉球王国の石高を約9万石と見積もり、年に約1万石の貢納を要求しました。琉球王国の全ての生産の1/9ということです。また、沖縄は長い川や広い平野が少なく大規模な稲作ができなかったため、薩摩藩は、代わりにサトウキビを栽培させ、砂糖をおさめさせていました。

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