「中学校社会 歴史/鎌倉時代」の版間の差分

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→‎承久の乱:  承久の乱の名称についての様々な見解を踏まえ、「承久合戦」という中立の名称を使用しつつ、誤解するおそれがないよう、「承久の乱」が一般的に用いられていることや、「承久の変」という名称もあることに触れた。また、名称の違いには、立場や考え方が関係していることに気づかせるよう工夫した
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=== 承久合戦('''承久の乱'''・承久の変) ===
=== 承久合戦('''承久の乱'''・承久の変) ===
1221年( 承久(じょうきゅう)3年 )、京都の朝廷で院政を行っていた <big>後鳥羽上皇</big>(ごとばじょうこう) は政治の実権を朝廷に取り戻そうとして、北条氏を倒す命令を出し、兵を挙げた。だが、集まった兵士は少なく、北条氏の側が上皇側の軍を破る。
1221年( 承久(じょうきゅう)3年 )、京都の朝廷で院政を行っていた <big>後鳥羽上皇</big>(ごとばじょうこう) は政治の実権を朝廷に取り戻そうとして、北条氏を倒す命令を出し、兵を挙げた。だが、集まった兵士は少なく、北条氏の側が上皇側の軍を破る。
後鳥羽上皇は島根県の隠岐(おき)に島流しにされ、追放される。この争乱を<big>承久合戦</big>(じょうきゅうがっせん) という。なお、一般的には、<big>承久の乱<big>と呼ばれ、教科書にもそう書いてあると思う。
後鳥羽上皇は島根県の隠岐(おき)に島流しにされ、追放される。この争乱を<big>承久合戦</big>(じょうきゅうがっせん) という。なお、一般的には、<big>承久の乱</big>と呼ばれ、教科書にもそう書いてあると思う。
幕府は朝廷や西国を監視するため、京都に <big>六波羅探題</big>(ろくはらたんだい) を置いた。また、上皇側に味方した勢力の土地は取り上げ、上皇側の土地に新たに地頭を任命した。こうして西国でも幕府の支配は強まっていった。
幕府は朝廷や西国を監視するため、京都に <big>六波羅探題</big>(ろくはらたんだい) を置いた。また、上皇側に味方した勢力の土地は取り上げ、上皇側の土地に新たに地頭を任命した。こうして西国でも幕府の支配は強まっていった。



2022年11月9日 (水) 08:08時点における版

鎌倉幕府の成立としくみ

源平の内乱

源頼朝(みなもとの よりとも)と伝えられる人物画。
源平合戦の地図。

平安時代末期、政権をにぎっていた平氏(へいし)に対する不満が高まった。その中で、1180年に以仁王(もちひとおう)が挙兵し[1]、諸国の武士に「平氏を討伐せよ」との命令を出した。同年、伊豆(いず)に流されていた源頼朝(みなもとの よりとも)、ついで木曽(きそ)の源義仲(みなもとのよしなか)らがこの命令に従って挙兵した。源頼朝は鎌倉を中心に関東の支配を固めていった。頼朝は、自らは鎌倉にとどまって指揮をして、かわりに弟の源義経(みなもとの よしつね)を西に送って、平氏を西へと追いつめていく。

そのころ、源義仲は平氏を京都から追い出すことに成功したが、朝廷の後白河上皇(ごしらかわじょうこう)側との対立を生じていた。後に、朝廷は源義仲追討の命令を出し、義仲は源頼朝の命令を受けた源義経(みなもとの よしつね)らに滅ぼされた。一方、平氏も力を盛り返し、京都に攻め上ろうとする勢いを見せ始めた。しかし、源義経らが平氏を 一の谷の戦い(いちのたにの たたかい) および 屋島の戦い(やしまのたたかい) で破り、ついに1185年に壇ノ浦の戦い(だんのうらの たたかい)で平氏をほろぼした。

  • 伊豆(いず) - 現在の静岡県
  • 木曽(きそ) - 現在の長野県
  • 石橋山(いしばしやま)、鎌倉(かまくら) - 現在の神奈川県
  • 一の谷(いちのたに) - 現在の兵庫県
  • 屋島(やしま) - 現在の香川県
  • 壇の浦(だんのうら) - 現在の山口県

※ 脚注

  1. ^ 以仁王自身は平氏との戦いで敗死した。

鎌倉幕府の成立

現在の鎌倉の空中写真。南を相模湾(さがみわん)、東・西・北の三方を山に囲まれた地形である。1988年撮影の8枚を合成作成。

義経(よしつね)は頼朝(よりとも)と対立する。義経(よしつね)は、頼朝(よりとも)らによって、滅ぼされる。 義経らは東北地方である奥州にいる奥州藤原氏(おうしゅうふじわらし)をたよって東北に逃げていたので、かくまっていた奥州藤原氏も頼朝により滅ぼされる。


いっぽう、平氏の滅亡後、頼朝(よりとも)が朝廷に要求したことより、新しい制度として国ごとに守護(しゅご)が一人ずつ置かれ、荘園や公領(こうりょう)には、地頭(じとう) が置かれた。守護の仕事は、その国の御家人の統制や謀反の取り締まりなどの、軍事・警察の管理者である。地頭の仕事は、荘園および公領の管理や、税である年貢(ねんぐ)の取り立てである。

そして頼朝は1192年に、朝廷から征夷大将軍(せいい たいしょうぐん) に任命される。

頼朝は鎌倉に(今でいう神奈川県の鎌倉市のあたり)、幕府(ばくふ)という武家政治の拠点を開いた。この鎌倉にある幕府を鎌倉幕府(かまくら ばくふ)と言い、鎌倉に幕府があった時代(1192年~1333年の約140年間)を鎌倉時代(かまくらじだい) と言う。

「征夷大将軍」という言葉の意味は、頼朝の時代からは武士たちの中での最高権力者というような意味になっていく。「征夷大将軍」の元々の意味は、平安時代の坂上田村麻呂(さかのうえの たむらまろ)のように東北地方の蝦夷(えみし)を征服するための将軍という意味だった。

鎌倉幕府のしくみ

御恩と奉公

将軍の家来の武士のことを 御家人(ごけにん) という。将軍は、御家人たちの土地の権利を保証する政策をとるかわりに( 御恩(ごおん) )、御家人たちは将軍のために警備をしたり戦争の時には戦う( 奉公(ほうこう) )という関係であった。

頼朝は、御家人を守護や地頭の仕事につけた。

御恩(ごおん)とは、将軍が御家人の土地の権利を認めて保証したり、手柄のあった御家人には新しく領地を与えることである。

奉公(ほうこう)とは、将軍や幕府のために仕事をすることで、具体的には、戦争の時には将軍のために戦うことである。「いざ鎌倉」(いざ かまくら)と言って、御家人は戦いが起きれば、すぐに鎌倉へと行って将軍に指示を聞き、将軍のために戦うべき、とされていた。「一所懸命」(いっしょけんめい)という言葉があるが、この言葉は、御家人たちが自分たちの領地を守るために命がけで戦う様子から出来た言葉である。

この主従関係は土地を仲立ち(なかだち)としている。このように土地を仲立ちとした主従関係を 封建制(ほうけんせい) あるいは封建制度(ほうけんせいど)と言う。

執権政治

頼朝の死後は、頼朝の子の頼家(よりいえ)が次の将軍になり、さらに次の将軍位は頼朝の子の実朝(さねとも)がついたが、政治の実権は、頼朝の妻の北条政子(ほうじょう まさこ)らの一族の北条氏にあった。その政子の父である北条時政(ほうじょう ときまさ)が執権(しっけん)という役職につき、北条氏らが幕府の実権をにぎった。 また、幕府の問題を決めるときには、会議のため、有力な御家人の中から選んだ評定衆(ひょうじょうしゅう)を集めて、会議をした。北条氏のように執権として政治の実権をにぎる政治のやりかたを 執権政治(しっけん せいじ) という。 3代目将軍の実朝は、1219年に頼家の子である公暁(くぎょう)によって実朝は殺される。こうして源氏の直系の将軍は3代で絶える。北条氏は、京都の貴族を形式的な将軍にむかえて、北条氏が政治の実権をにぎった。

承久合戦(承久の乱・承久の変)

1221年( 承久(じょうきゅう)3年 )、京都の朝廷で院政を行っていた 後鳥羽上皇(ごとばじょうこう) は政治の実権を朝廷に取り戻そうとして、北条氏を倒す命令を出し、兵を挙げた。だが、集まった兵士は少なく、北条氏の側が上皇側の軍を破る。 後鳥羽上皇は島根県の隠岐(おき)に島流しにされ、追放される。この争乱を承久合戦(じょうきゅうがっせん) という。なお、一般的には、承久の乱と呼ばれ、教科書にもそう書いてあると思う。 幕府は朝廷や西国を監視するため、京都に 六波羅探題(ろくはらたんだい) を置いた。また、上皇側に味方した勢力の土地は取り上げ、上皇側の土地に新たに地頭を任命した。こうして西国でも幕府の支配は強まっていった。

  • 鎌倉幕府の仕組み
        (中央) 
将軍━━執権━━┳━━┳━侍所
        ┃  ┣━政所
        ┃  ┗━問注所
        ┃
        ┃
        ┃
   (地方) ┗━━┳━守護
           ┣━地頭
           ┗━六波羅探題
範囲外:立場によって名前も変わる「承久合戦」

承久合戦の名称には、様々な見解がある。

承久合戦を上皇が起こした乱だとする見解(幕府の立場)をとれば「承久の乱」になるし、上皇(朝廷)自身を国と見て上皇が「乱」の主体になることはあり得ないという見解(上皇の立場)をとれば「承久の変」になる。どちらの見解もとらなければ、単に戦いがあったという意味合いで「承久合戦」になる。

戦前・戦時中は「承久の変」が戦後は「承久の乱」が一般的に用いられている。

立場や考え方によって出来事の名前も変化するのだ。


御成敗式目

承久の乱 のあとの1232年( 貞永(じょうえい)元年 )に、執権の北条泰時(ほうじょう やすとき)らにより、武家社会の慣習(かんしゅう)をもとに御成敗式目(ごせいばい しきもく) という法律をつくり、御家人の権利や義務が定められ、この式目が政治や裁判の よりどころ になった。これは律令(りつりょう)とは別の法律である。御成敗式目のことを貞永式目(じょうえい しきもく)ともいう。

 御成敗式目(抜粋)

第3条
守護の仕事は、京都の警備や、謀叛や殺人を取り締まることで、それ以外の仕事をしてはいけない。
第5条
地頭は、荘園の年貢を差し押さえては、いけない。
第8条
20年以上つづけて、その土地を支配していれば、その者に、その土地の所有を認める。

その他、律令では ゆるされていないが、女性が養子をむかえることを認める。女性が養子に所領をゆずることを認められた。鎌倉時代は女の地位が、けっこう高かった。女でも土地の相続(そうぞく)ができ、また女でも地頭になれた。

人々の暮らし

武士の暮らし

流鏑馬
犬追物
笠懸

武士は、日ごろから武芸(ぶげい)に、はげんでいた。やぶさめ(流鏑馬)、かさがけ(笠懸)・犬追物(いぬおうもの)などの武芸に、はげんでいた。3つとも、馬に乗り、弓矢で的をいるものである。

流鏑馬(やぶさめ)では、馬にのって走りながら、いくつもある板の的をつぎつぎに射る。
かさがけでは、馬に乗りながら的をいる。
犬追物では、犬などの動く的を射る。

この3つの武芸を 騎射三物(きしゃみつもの) という。 犬追物では、やわらかい特殊な矢を使い、犬を殺さないようにしていた。

民衆の暮らし

農民の負担は、荘園や公領の領主への年貢だけでなく、地頭も労役などを農民に負担させていた。こうして、領主と地頭とによる二重の支配を農民は受けていた。地頭の領主は、領主と同じように強くなっていき、地頭と領主とが裁判であらそうようにもなった。幕府は、領主の土地の半分を地頭のための物としたり( 下地中分(したじちゅうぶん) )、地頭から一定の年貢を領主に納めることを条件に地頭が領地を支配するようになった。( 地頭請(じとううけ) )

農民の中には、地頭のきびしい支配を領主に訴えでる者たちも、あらわれた。

紀伊国(きいのくに)の阿氐河荘(あてがわしょう)の農民の訴え
(荘園領主に納める)材木のことですが、地頭が都に行くからだとかで、人夫(にんぷ)として、こきつかうので、ヒマがありません。わずかに残った人夫を、山へ材木の切り出しのために出かけさせようとしても、地頭がやってきて追い返さして、「逃げた農民の畑に麦をまけ」と言って、追い返さしてしまったのです。
地頭は おどして、「お前たちが麦をまかないと、女や子供を捕らえて、耳を切り、鼻をそぎ、髪を切って尼(あま)にして、縄で縛って(しばって)苦しめるぞ。」といって、いじめるのです。
このような地頭の責め立てが続くので、材木の納入が遅れてしまうのです。その上、地頭は農民の家を一件、こわして持って行ってしまいました。
地頭が農民を何度もいじめますので、農民たちは逃げていってます。
建武(けんむ)元年(1279年)、10月28日。
( 『高野山文書』(こうやさん もんじょ) )


農業の発達

鎌倉時代の農業では鉄を用いた農具が普及し、そのため農業が発展した。

鎌倉時代には稲(いね)と麦との二毛作(にもうさく)が、近畿地方や西日本を中心に行われるようになった。秋に米を収穫し裏作として麦をつくり、春に麦を収穫する。

また、桑、うるし、茶、こうぞ(紙の原料)、ごま、大根、豆、ねぎ などの栽培も、さかんになった。

牛や馬を用いて、牛や馬に鋤(スキ)をひかせて田を耕す方法も行われるようになった。また、草を焼いた灰や木を焼いた灰( これらを草木灰(そうもくばい)という )や糞尿(ふんにょう)の肥料(ひりょう)も使われた。

※ (出来事ではなく)農業発達の理由の分析については教科書の範囲外だが、旺文社(おうぶんしゃ)の参考書では、牛馬を用いた耕作が普及した結果、二毛作をしやすくなったのだろう、とでも読み取れるような文章構成で紹介している。検定教科書では一応、慎重を期して、これらの事は独立した事として教えている。

産業の発達

商業や工業も発展していった。

手工業では、鉄製の農具や武具などを作る鍛冶(かじ)職人や、大工、ほかにも染め物をする職人など、いろいろな手工業の職人があらわれるようになった。衣料品などの手工業者もあらわれた。

農工業の発達もあって商業も発達した。定期的に市場(いちば)をひらく定期市(ていきいち)が、寺社などの近くで、毎月3回ほど決まった日に市が開かれはじめるようになった。この毎月3回の定期市を 三斎市(さんさいいち) という。

商業には貨幣が必要なので、中国大陸から宋銭(そうせん)が多く、日本に輸入された。また、貨幣の流通とともに、銭を貸す高利貸し(こうりがし)もあらわれた。


(※ 高校の範囲:) 裏を返すと・・・

上述のように、鎌倉時代のころ、宋銭が日本全国的に貨幣として普及したと考えられている。つまり、貨幣経済が鎌倉時代ごろに日本全国的に普及したという事。つまり、鎌倉時代以前の地方の経済は、いまでいう「物々交換」や「現物交換」の経済が主体だった事である。

裏を返すと、鎌倉時代以前の古代の貨幣である和同開珎(わどうかいちん)や富本銭(ふほんせん)は、京都および京都の周辺など一部の地域でしか普及しなかった事[1][2]が、歴史学的には分かっている。貨幣の流通しなかった地方では、麻や布、稲などが貨幣の代わりとして役割をはたした[3][4]


鎌倉時代の文化

鎌倉時代には、文化の担い手は主として公家(くげ)や僧であったが、やがて、かざり気のない力強さを好む武士の気風が文化のうえにもあらわれた。これを鎌倉文化(かまくらぶんか)という

鎌倉仏教

鎌倉時代には、武士や庶民にもわかりやすい新しい宗派が生まれ、信者を多く得ることになった。修行を重んじる禅宗(ぜんしゅう)は、武士の気風にあっていることもあり、武士に広まった。北条氏は、禅宗を保護し、宋から禅僧を招いたり、鎌倉には建長寺(けんちょうじ)や円覚寺(えんかくじ)を建てたり、そのほか各地にも禅寺を建てた。 禅宗以外の浄土信仰などは、幕府や朝廷からは迫害(はくがい)も受けたが、民衆に広がっていった。 鎌倉時代の前からある、天台宗や真言宗などの宗派も、貴族などを中心に引き続き、信仰されていた。

新しく開かれた宗派の一覧とその特色を次の表にまとめた。

    宗派の名前 開祖 教えの特色
浄土信仰 浄土宗(じょうどしゅう) 法然(ほうねん) ひたすら念仏(ねんぶつ)「南無阿弥陀仏」(なむあみだぶつ)と唱えることで、極楽に往生できると説いた。[5]
浄土真宗[6]
(じょうど しんしゅう)
親鸞[7]
(しんらん)
自分が悪人であると自覚した人こそ、阿弥陀仏は真っ先に救おうとする、と説いた[8]
時宗(じしゅう) 一遍
(いっぺん)
踊り念仏(おどりねんぶつ)を広めた。
法華経信仰 日蓮宗[9]
(にちれんしゅう)
日蓮
(にちれん)
「南無妙法蓮華経」(なむみょうほうれんげきょう)等の題目(だいもく)を唱え、法華経(ほけきょう)を信じると救われる、と説いた。
禅宗(ぜんしゅう) 臨済宗
(りんざいしゅう)
栄西[10]
(えいさい 又は ようさい)
坐禅(ざぜん)によって悟りを得られる、と説いた。道元も栄西も、宋に渡って教えを日本に持ち帰って広めた。
曹洞宗
(そうとうしゅう)
道元
(どうげん)

※ 脚注

  1. ^ 相澤理『歴史が面白くなる 東大のディープな日本史【古代・中世編】』、株式会社KADOKAWA (中経文庫)、2016年7月15日 第1刷発行、P112
  2. ^ (※ 高校教科書)東京書籍『新選日本史B』、平成29年検定済み、平成30年2月10日発行、P32
  3. ^ 実教出版、『日本史B』、平成25年3月26日 検定済み、平成26年1月25日 発行、48ページ
  4. ^ 山川出版社『詳説日本史B』、2012年3月27日 文部科学省検定済み、2013年3月5日 発行、P.47
  5. ^ 正確には、平安時代末期に開かれている。
  6. ^ 一向宗(いっこうしゅう)ともいわれる。
  7. ^ 親鸞は法然の弟子であったが、法然の教えをさらに突きつめ、浄土真宗を開いた。
  8. ^ この考えを「悪人正機説」(あくにんしょうきせつ)という。
  9. ^ 法華宗(ほけしゅう)ともいわれる。
  10. ^ 喫茶の習慣を日本に伝えたとされている。
  • 画像
踊り念仏(おどり ねんぶつ)。『一遍上人絵伝』(いっぺんしょうにん えでん) より。

新しい文化

武士の支配する社会になったので、平安のころの貴族文化とは、ちがった文化が出てきた。 文芸では、平氏の繁栄(はんえい)から滅亡(めつぼう)までを書いた『平家物語』(へいけ ものがたり)のように、軍記物が人々の関心をあつめた。

平家物語
祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の鐘(かね)の声(こえ)、諸行無常(しょぎょうむじょう)の響(ひびき)あり。
沙羅双樹(さらそうじゅ)の花(はな)の色(いろ)、 盛者必衰(じょうしゃひっすい)の理(ことわり)をあらはす。
おごれる人(ひと)も久し(ひさし)からず、 ただ春の夜の夢のごとし。
猛き(たけき)者(もの)も つひ(つい)には滅びぬ(ほろびぬ)、ひとへに(ひとえに)風(かぜ)の前(まえ)の塵(ちり)に同じ。
琵琶法師と観客。『慕帰絵詞』(ぼき えことば)より。

琵琶法師(びわほうし)という盲目(もうもく)の僧の人物が、琵琶による弾き語りで各地で平家物語などを語り歩いたという。当時は、文字の読める人が少なかった。

随筆では鴨長明(かもの ちょうめい)による『方丈記』(ほうじょうき)や、吉田兼好( よしだ けんこう、兼行法師(けんこうほうし) )の『徒然草』(つれづれぐさ)などが出てきた。

(※ 高校国語・古文『方丈記』へのリンク 「高等学校国語総合/方丈記」。方丈記の古文読解は中学国語の範囲外なので、むりに読まなくてよい。)

朝廷の貴族を中心とした和歌などの文化も残っていた。朝廷では後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)の命令により、藤原定家(ふじわらの さだいえ、ふじわらの ていか)により『新古今和歌集』(しんこきんわかしゅう)が編集された。

鎌倉時代の和歌集は他にもあり、3代将軍の源実朝(みなもとの さねとも)によって残された『金槐和歌集』(きんかい わかしゅう)がある。武士出身の歌人もあらわれ、源実朝や、武士から僧になった西行(さいぎょう)などの歌人もあらわれた。

木造金剛力士像(国宝)

彫刻(ちょうこく)では、金剛力士像(こんごうりきしぞう)が、つくられた。金剛力士像がある場所は、奈良の東大寺の南大門にある。この金剛力士像を作った彫刻家(ちょうこくか)は運慶(うんけい)と快慶(かいけい)である。

東大寺は、平安時代からあった寺ですが、平氏に焼き払われたので、鎌倉時代のはじめごろに再建されました。この再建のときに、中国大陸の宋の建築様式である大仏様(だいぶつよう)が南大門などに取り入れられました。大仏様は天竺様(てんじくよう)ともいいます。

似絵(にせえ)。源頼朝が描かれている。

絵画では、似絵(にせえ)という肖像画が描かれるようになった。


(※ 公民の範囲の文化史: )中国の茶の風習を日本に持ち帰って伝えた人物は僧の栄西(ようざい)であると考えられている。
(※ 中3あたりの『公民』分野で、日本文化として習うことがある。教育出版(教科書会社のひとつ)の公民の検定教科書で確認。
そして、のちの安土桃山時代(織田信長などの活躍した時代)には、千利休(せんの りきゅう)が茶道として大成していった。そして、現代に至る、という流れです。

鎌倉

鎌倉街道の趣を残す、朝比奈切通し(あさひなきりどおし)の付近。

鎌倉は、陸上では山に囲まれており、防御には向いていた。しかし、そのままでは孤立してしまうので、切通し(きりとおし)がつくられた。