「中学校国語 古文/平家物語」の版間の差分

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敦盛(あつもり)の最期(さいご)
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== 敦盛(あつもり)の最期(さいご) ==
=== 本文 ===
 汀に(みぎわに)うち上がらむとするところに、おし並べてむずと組んでどうど落ち、とっておさへて首をかかんと甲(かぶと)をおしあふのけて見ければ、年十六七ばかりなるが、薄化粧して、かねぐろなり。わが子の小次郎がよはひほどにて容顔まことに美麗なりければ、いづくに刀を立べしともおぼえず。

「そもそも、いかなる人にてましまし候ふ(そうろう)ぞ。名のらせたまへ、助けまいらせん。」

と申せば、「汝は(なんじは)たそ」
ととひ給ふ。

「物そのもので候はねども、武藏の国の住人、熊谷(くまげへの、クマガエノ)次郎(じらう、ジロウ)直実(なほざね、ナオザネ)。」と名のり申す。

「さては、なんぢにあふては名のるまじゐ(イ)ぞ、なんぢがためにはよい敵(かたき)ぞ。名のらずとも首をとって人に問へ(トエ)。見知らふ(ミシロウ)ずるぞ。」

とぞのたまひ(イ)ひける。

熊谷
「あつぱれ(アッパレ)大将軍や、この人一人(いちにん)討ち(うち)たてまたりとも、負くべきいくさに勝べきやう(ヨウ)もなし。また討ちたてまつらずども、勝つべきいくさに負くることよもあらじ。小次郎が薄手(うすで)負うたるをだに、直実は心苦しう(クルシュウ)こそおもふに、この殿(との)の父、討たれぬと聞いて、いかばかりか嘆き(なげき)たまはん(タマワン)ずらん、あはれ(アワレ)、助けたてまつらばや」と思ひて、後ろをきっと見ければ、土肥(とひ、トイ)・梶原(かぢはら、カジワラ)五十騎(き)ばかりで続いたり。

  熊谷涙をおさへて申けるは、
「助けまゐ(イ)らせんとは存じ候へども、味方(みかた)の軍兵(ぐんぴょう)、雲霞(うんか)のごとく候ふ。よものがれさせ給はじ。人手にかけまゐ(イ)らせんより、同じくは、直実が手にかけまゐ(イ)らせて、後の御孝養(おんけんやう)をこそ仕り(つかまつり)候はめ。」
と申ければ、
「ただとくとく首をとれ。」
とぞのたまひける。

熊谷あまりにいとほ(オ)しくて、いづくに(イズクニ)刀を立つべしともおぼえず、目もくれ心も消えはてて、前後不覚におぼえけれども、さてしもあるべき事ならねば、泣く々く首をぞかいてんげる。

「あはれ、弓矢とる身ほど口惜し(くちをし、クチオシ)かりけるものはなし。武芸の家に生れずは、何とてかかる憂き目(うきめ)をばみるべき。情けなうも討ちたてまつる物かな。」

とかきくどき、袖を顔(かほ)に押し(おし)あててさめざめとぞ泣きゐ(イ)たる。やや久しう(シュウ)あつて(アッテ)、さてもあるべきならねば、鎧(よろい)直垂(ぼれたえ)をとつて(トッテ)、首を包まん(つつまん)としけるに、錦(にしき)の袋に入れたる笛をぞ、腰にさされたる。


 「あないとおし、この暁(あかつき)、城のうちにて管絃(くわんげん、カンゲン)したまひつるは、この人々にておはしけり。当時味方に東国の勢何万騎(ぎ)かあるらめども、いくさの陣(ぢん)へ笛持つ人はよもあらじ。上﨟(じやうらふ)は、なほも(ナオも)やさしかりけり。」

とて、九郎御曹司(くらういんざうし)の見参(げんざん)に入れたりければ、これをみる人、涙を流さずといふことなし。後に聞けば、修理大夫(しゅりのだいぶ)経盛(つねもり)の子息に大夫敦盛(あつもり)とて、生年(しょうねん)十七にぞなられける。

それよりしてこそ熊谷が発心(ほつしん、ホッシン)の思ひ(オモイ)はすすみけれ。

=== 口語訳 ===

== 那須与一 ==
== 那須与一 ==
=== 解説 ===
=== 解説 ===
結末: 結局、与一の放った矢は命中する。
結末: 結局、与一の放った矢は命中する。


那須与一は、源氏のがわの兵で、弓矢の名人。

海上にいる平家の側のy舟から、扇(おうぎ)のついた棒の立った舟が出てきたので、疑問に思った義経が「あれは何だ?」と部下に聞いたところ、「この扇を射ってみろ、という事でしょう。おそらく、弓をいろうと出てきた義経さまを、逆に射殺してやろうという策略でしょう。それでも、部下のものに、扇を射させたほうが、よろしいでしょう。」と。

そして、与一が選ばれる。

途中、いろいろあったが、最終的に扇に、与一の矢が命中する。


=== 本文 ===
=== 本文 ===

2014年10月15日 (水) 03:23時点における版

敦盛(あつもり)の最期(さいご)

本文

 汀に(みぎわに)うち上がらむとするところに、おし並べてむずと組んでどうど落ち、とっておさへて首をかかんと甲(かぶと)をおしあふのけて見ければ、年十六七ばかりなるが、薄化粧して、かねぐろなり。わが子の小次郎がよはひほどにて容顔まことに美麗なりければ、いづくに刀を立べしともおぼえず。

「そもそも、いかなる人にてましまし候ふ(そうろう)ぞ。名のらせたまへ、助けまいらせん。」

と申せば、「汝は(なんじは)たそ」 ととひ給ふ。

「物そのもので候はねども、武藏の国の住人、熊谷(くまげへの、クマガエノ)次郎(じらう、ジロウ)直実(なほざね、ナオザネ)。」と名のり申す。

「さては、なんぢにあふては名のるまじゐ(イ)ぞ、なんぢがためにはよい敵(かたき)ぞ。名のらずとも首をとって人に問へ(トエ)。見知らふ(ミシロウ)ずるぞ。」

とぞのたまひ(イ)ひける。

熊谷 「あつぱれ(アッパレ)大将軍や、この人一人(いちにん)討ち(うち)たてまたりとも、負くべきいくさに勝べきやう(ヨウ)もなし。また討ちたてまつらずども、勝つべきいくさに負くることよもあらじ。小次郎が薄手(うすで)負うたるをだに、直実は心苦しう(クルシュウ)こそおもふに、この殿(との)の父、討たれぬと聞いて、いかばかりか嘆き(なげき)たまはん(タマワン)ずらん、あはれ(アワレ)、助けたてまつらばや」と思ひて、後ろをきっと見ければ、土肥(とひ、トイ)・梶原(かぢはら、カジワラ)五十騎(き)ばかりで続いたり。

  熊谷涙をおさへて申けるは、 「助けまゐ(イ)らせんとは存じ候へども、味方(みかた)の軍兵(ぐんぴょう)、雲霞(うんか)のごとく候ふ。よものがれさせ給はじ。人手にかけまゐ(イ)らせんより、同じくは、直実が手にかけまゐ(イ)らせて、後の御孝養(おんけんやう)をこそ仕り(つかまつり)候はめ。」 と申ければ、 「ただとくとく首をとれ。」 とぞのたまひける。

熊谷あまりにいとほ(オ)しくて、いづくに(イズクニ)刀を立つべしともおぼえず、目もくれ心も消えはてて、前後不覚におぼえけれども、さてしもあるべき事ならねば、泣く々く首をぞかいてんげる。

「あはれ、弓矢とる身ほど口惜し(くちをし、クチオシ)かりけるものはなし。武芸の家に生れずは、何とてかかる憂き目(うきめ)をばみるべき。情けなうも討ちたてまつる物かな。」

とかきくどき、袖を顔(かほ)に押し(おし)あててさめざめとぞ泣きゐ(イ)たる。やや久しう(シュウ)あつて(アッテ)、さてもあるべきならねば、鎧(よろい)直垂(ぼれたえ)をとつて(トッテ)、首を包まん(つつまん)としけるに、錦(にしき)の袋に入れたる笛をぞ、腰にさされたる。


 「あないとおし、この暁(あかつき)、城のうちにて管絃(くわんげん、カンゲン)したまひつるは、この人々にておはしけり。当時味方に東国の勢何万騎(ぎ)かあるらめども、いくさの陣(ぢん)へ笛持つ人はよもあらじ。上﨟(じやうらふ)は、なほも(ナオも)やさしかりけり。」

とて、九郎御曹司(くらういんざうし)の見参(げんざん)に入れたりければ、これをみる人、涙を流さずといふことなし。後に聞けば、修理大夫(しゅりのだいぶ)経盛(つねもり)の子息に大夫敦盛(あつもり)とて、生年(しょうねん)十七にぞなられける。

それよりしてこそ熊谷が発心(ほつしん、ホッシン)の思ひ(オモイ)はすすみけれ。

口語訳

那須与一

解説

結末: 結局、与一の放った矢は命中する。

那須与一は、源氏のがわの兵で、弓矢の名人。

海上にいる平家の側のy舟から、扇(おうぎ)のついた棒の立った舟が出てきたので、疑問に思った義経が「あれは何だ?」と部下に聞いたところ、「この扇を射ってみろ、という事でしょう。おそらく、弓をいろうと出てきた義経さまを、逆に射殺してやろうという策略でしょう。それでも、部下のものに、扇を射させたほうが、よろしいでしょう。」と。

そして、与一が選ばれる。

途中、いろいろあったが、最終的に扇に、与一の矢が命中する。

本文

ころは二月(にんぐわつ)十八日の酉(とり)の刻ばかりのことなるに、をりふし北風(ほくふう)激しくて、磯(いそ)打つ波も高かりけり。

舟は、揺り上げ揺りすゑ漂へば、扇もくしに定まらずひらめいたり。

沖には平家、舟を一面に並べて見物す。

陸(くが)には源氏、くつばみを並べてこれを見る。

いづれもいづれも晴れならずといふことぞなき。

与一目をふさいで、

「南無八幡大菩薩(なむはちまんだいぼさつ)、我が国の神明(しんめい)、日光(につくわう)の権現(ごんげん)、宇都宮(うつのみや)、那須(なす)の湯泉大明神(ゆぜんだいみやうじん)、願はくは、あの扇の真ん中射させてたばせたまへ。これを射損ずるものならば、弓切り折り白害して、人に二度(ふたたび)面(おもて)を向かふべからず。いま一度(いちど)本国へ迎へんとおぼしめさば、この矢はづさせたまふな。」

と心のうちに祈念して、目を見開いたれば、風も少し吹き弱り、扇も射よげにぞなつたりける。


与一、かぶらを取つてつがひ、よつぴいてひやうど放つ。

小兵(こひやう)といふぢやう、十二束(そく)三伏(みつぶせ)、弓は強し、浦響くほど長鳴りして、あやまたず扇の要(かなめ)ぎは一寸ばかりおいて、ひいふつとぞ射切つたる。

かぶらは海へ入りければ、扇は空へぞ上がりける。

しばしは虚空(こくう)にひらめきけるが、春風に一(ひと)もみ二(ふた)もみもまれて、海へさつとぞ散つたりける。

夕日(せきじつ)のかかやいたるに、みな紅(ぐれなゐ)の扇の日出(い)だしたるが、白波の上に漂ひ、浮きぬ沈みぬ揺られければ、沖には平家、ふなばたをたたいて感じたり、陸には源氏、えびらをたたいてどよめきけり。


あまりのおもしろさに、感に堪へざるにやとおぼしくて、舟のうちより、年五十ばかりなる男(をのこ)の、黒革をどしの鎧(よろひ)着て、白柄(しらえ)の長刀(なぎなた)持つたるが、扇立てたりける所に立つて舞ひしめたり。

伊勢三郎義盛(いせのさぶらうよしもり)、与一が後ろへ歩ませ寄って、

「御定(ごぢやう)ぞ、つかまつれ。」

と言ひければ、今度は中差(なかざし)取つてうちくはせ、よつぴいて、しや頸(くび)の骨をひやうふつと射て、舟底へ逆さまに射倒す。

平家の方(かた)には音もせず、源氏の方にはまたえびらをたたいてどよめきけり。

「あ、射たり。」

と言ふ人もあり、また、

「情けなし。」

と言ふ者もあり。

現代語訳(げんだいご やく)

(※ 編集中)

冒頭部

本文

(書き出しの部分)

 
祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の鐘(かね)の声、
諸行無常(しょぎょうむじょう)の響き(ひびき)あり。
沙羅双樹(しゃらそうじゅ)の花の色(はなのいろ)、
盛者必衰(じょうしゃ ひっすい)のことわりをあらはす。
おごれる人もひさしからず、
ただ春の夜の夢のごとし。
たけき者もつひ(つい)にはほろびぬ
ひとへに(ひとえに)風の前のちりに同じ。
現代語訳(げんだいご やく)

(インドにある)祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の鐘の音には、「すべてのものは、(けっして、そのままでは、いられず)かわりゆく。」ということを知らせる響きがある(ように聞こえる)。 沙羅双樹の花の色には、どんなに勢い(いきおい)のさかんな者でも、いつかはほろびゆくという事をあらわしている(ように見える)。 おごりたかぶっている者も、その地位には、長くは、いられない。ただ、春の夜の夢のように、はかない。強い者も、最終的には、ほろんでしまう。

まるで、風に吹き飛ばされる塵(ちり)と同じようだ。

解説

  • 祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)・・・ インドにある寺で、釈迦(しゃか)の根拠地(こんきょち)。
「祇園精舎は、どこの国にあるか?」(答え:インド)は、中学入試~大学入試などに良く出るので覚えること。答えを知らないと解けないクイズ的な知識だが、しかし入試に出てくるので、読者は覚えざるを得ない。

作品解説

平家物語の作者は不明だが、琵琶法師などによって語りつがれた。

作中で出てくる平清盛(たいらのきよもり)も、源義経(みなもとのよしつね)も、実在した人物。作中で書かれる「壇ノ浦の戦い」(だんのうらのたたかい)などの合戦(かっせん)も、実際の歴史上の出来事。 作者:不明

 平家(へいけ)という武士(ぶし)の日本を支配(しはい)した一族が、源氏(げんじ)という新たに勢力の強まった新興(しんこう)の武士に、ほろぼされる歴史という実際の出来事をもとにした、物語。 平安時代から鎌倉時代に時代が変わるときの、源氏(げんじ)と平氏(へいし)との戦争をもとにした物語。

 なお、平家がほろび、源氏(げんじ)の源頼朝(みなもとのよりとも)が政権をうばいとって、鎌倉時代が始まる。