「中学校国語 古文/平家物語」の版間の差分
口語訳を記述中。 |
敦盛の結末。 |
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熊谷は、あまりに、(若武者が)かわいそうに感じて、どこに刀を刺してよいかも分からず、涙で目もくらみ、気も動転して、(まるで)前後も分からないようなほどに思われたけど、(けっして、いつまでも、)そうばかりもしていられないので、泣く泣く首を切ってしまった。 |
熊谷は、あまりに、(若武者が)かわいそうに感じて、どこに刀を刺してよいかも分からず、涙で目もくらみ、気も動転して、(まるで)前後も分からないようなほどに思われたけど、(けっして、いつまでも、)そうばかりもしていられないので、泣く泣く首を切ってしまった。 |
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(熊谷は、)「ああ、弓矢を取る(武士の)身ほど、悔やまれるものはない。武芸の家に生まれさえしなければ、なんでこのようなつらい目にあったであろうか。非情にも、お |
(熊谷は、)「ああ、弓矢を取る(武士の)身ほど、悔やまれるものはない。武芸の家に生まれさえしなければ、なんでこのようなつらい目にあったであろうか。非情にも、お討ち申しあげたものだ。」と、くりかえし嘆き(「かきくどき」=繰り返し、つぶやく。)、そでを顔に押し当てて、さめざめと泣き続けた。 |
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(※ 教科書では、ここまで。このあと、以下のように続く。) |
(※ 教科書では、ここまで。このあと、以下のように続く。) |
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やや久しう(シュウ)あつて(アッテ)、さてもあるべきならねば、鎧(よろい)直垂(ぼれたえ)をとつて(トッテ)、首を包まん(つつまん)としけるに、錦(にしき)の袋に入れたる笛をぞ、腰にさされたる。 |
やや久しう(シュウ)あつて(アッテ)、さてもあるべきならねば、鎧(よろい)直垂(ぼれたえ)をとつて(トッテ)、首を包まん(つつまん)としけるに、錦(にしき)の袋に入れたる笛をぞ、腰にさされたる。 |
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それよりしてこそ熊谷が発心(ほつしん、ホッシン)の思ひ(オモイ)はすすみけれ。 |
それよりしてこそ熊谷が発心(ほつしん、ホッシン)の思ひ(オモイ)はすすみけれ。 |
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しばらくしてから、熊谷は若武者の腰の袋の中から、一本の笛を見つける。戦場にあっても笛を手放さない優雅さに、源氏の武士たちも心を打たれる。 |
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のちに、この若武者の正体は、平敦盛(たいらのあつもり)、大夫敦盛(たいふあつもり)であることが分かり、年は17歳であることが分かる。 |
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このようなことから、熊谷は、出家を願う思いが強くなっていった。 |
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== 那須与一 == |
== 那須与一 == |
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那須与一は、源氏のがわの兵で、弓矢の名人。 |
那須与一は、源氏のがわの兵で、弓矢の名人。 |
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海上にいる平家の側の |
海上にいる平家の側の舟から、扇(おうぎ)のついた棒の立った舟が出てきたので、疑問に思った義経が「あれは何だ?」と部下に聞いたところ、「この扇を射ってみろ、という事でしょう。おそらく、弓をいろうと出てきた義経さまを、逆に射殺してやろうという策略でしょう。それでも、部下のものに、扇を射させたほうが、よろしいでしょう。」と。 |
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そして、与一が選ばれる。 |
そして、与一が選ばれる。 |
2014年10月15日 (水) 05:05時点における版
敦盛(あつもり)の最期(さいご)
- 予備知識
一の谷の戦いで源氏が勝利をおさめ、平家は海上に逃れていった。
源氏の武将、熊谷(くまがや)が磯(いそ)のほうに進むと、なにやら立派な鎧の敵将が、これから海に逃れようとしている。
本文
熊谷、 「あれは大将軍とこそ見まいらせ候へ。まさなう(ノウ)も敵(かたき)に後ろ(うしろ)を見せさせたまふものかな。返させたまへ。」 と扇(あふぎ、オウギ)を上げて招き(まねき)ければ、招かれてとつて(トッテ)返す。 汀に(みぎはに、ミギワに)うち上がらむとするところに、おし並べてむずと組んでどうど落ち、とっておさへて首をかかんと甲(かぶと)をおしあふのけて見ければ、年十六七ばかりなるが、薄化粧して、かねぐろなり。わが子の小次郎がよはひほどにて容顔まことに美麗なりければ、いづくに刀を立べしともおぼえず。 |
熊谷が(言った)、 「そこを行かれるあなたは大将軍とお見受けいたします。見苦しくも敵(=源氏)に後ろ(=後ろ姿、背中)をお見せになるものよ。お引き返しなされ。」 と扇を上げて、招くと、(その平家の武者は、)招かれて引き返す。 (平家の武者が)波打ち際に上がろうとするところに、(熊谷は、馬を)強引に並べて、むずと組んでどうっと落ち、(熊谷が、平家の武者を)取り押さえて、(平家の武者の)首を切ろうと、かぶとを仰向け(おうむけ)にして(顔を)見てみると、年十六、七くらいの(若武者)が薄化粧して、お歯黒をつけているのであった。わが子の(熊谷の子の)小次郎ぐらいの年齢であった。顔立ちがたいへんに美しく、(熊谷は)どこに刀をさしてよいかも分からない。 |
「そもそも、いかなる人にてましまし候ふ(そうろう)ぞ。名のらせたまへ、助けまいらせん。」 と申せば、「汝は(なんじは)たそ」 ととひ給ふ。 「物そのもので候はねども、武藏の国の住人、熊谷(くまげへの、クマガエノ)次郎(じらう、ジロウ)直実(なほざね、ナオザネ)。」と名のり申す。 「さては、なんぢにあふては名のるまじゐ(イ)ぞ、なんぢがためにはよい敵(かたき)ぞ。名のらずとも首をとって人に問へ(トエ)。見知らふ(ミシロウ)ずるぞ。」 とぞのたまひ(イ)ひける。 |
(熊谷が若武者に言った、)「いったい、(あなたは)どういう身分の人にて、いらっしゃいますか。お名乗りください。お助けいたしましょう。」と申すと、「(そういう)おまえは誰だ。」とお尋ねになる、(熊谷は答えて、)「物の数に入るほどの者ではございませんが、武蔵野の国の住人、熊谷次郎直実。」と名乗り申し上げる。 (若武者は答えて)「それでは、お前に対しては名乗る気はないぞ。お前の(手柄の)ためには、(私は)よい敵だぞ。(私が)名乗らなくても、首を切って、人に(私の名を)尋ねてみろ。見知っているだろうよ。」と、おっしゃった。 |
- ※ ネタバレ: 若武者の正体は、平敦盛(あつもり)。平清盛の弟である平経盛(つねもり)の末子。位階は従五位下。熊谷は、まだ若武者の正体を知らない。
熊谷 「あつぱれ(アッパレ)大将軍や、この人一人(いちにん)討ち(うち)たてまたりとも、負くべきいくさに勝べきやう(ヨウ)もなし。また討ちたてまつらずども、勝つべきいくさに負くることよもあらじ。小次郎が薄手(うすで)負うたるをだに、直実は心苦しう(クルシュウ)こそおもふに、この殿(との)の父、討たれぬと聞いて、いかばかりか嘆き(なげき)たまはん(タマワン)ずらん、あはれ(アワレ)、助けたてまつらばや」と思ひて、後ろをきっと見ければ、土肥(とひ、トイ)・梶原(かぢはら、カジワラ)五十騎(き)ばかりで続いたり。 熊谷泪(なみだ)をおさへて申けるは、 「助けまゐ(イ)らせんとは存じ候へども、味方(みかた)の軍兵(ぐんぴょう)、雲霞(うんか)のごとく候ふ。よものがれさせ給はじ。人手にかけまゐ(イ)らせんより、同じくは、直実が手にかけまゐ(イ)らせて、後の御孝養(おんけんやう)をこそ仕り(つかまつり)候はめ。」 と申ければ、 「ただとくとく首をとれ。」 とぞのたまひける。 熊谷あまりにいとほ(オ)しくて、いづくに(イズクニ)刀を立つべしともおぼえず、目もくれ心も消えはてて、前後不覚におぼえけれども、さてしもあるべき事ならねば、泣く々く首をぞかいてんげる。 「あはれ、弓矢とる身ほど口惜し(くちをし、クチオシ)かりけるものはなし。武芸の家に生れずは、何とてかかる憂き目(うきめ)をばみるべき。情けなうも討ちたてまつる物かな。」 とかきくどき、袖を顔(かほ)に押し(おし)あててさめざめとぞ泣きゐ(イ)たる。 |
熊谷は(言った)、「ああ、立派な大将軍だ。この人一人を討ち申したとしても、負けるはずのいくさに勝てるわけでもない。また、、討ち申さなくとも、勝つはずのいくさに負けることも、まさかあるまい。わが子の小次郎が軽い傷を負っただけでも、この直実(自分)はつらく思うのに、まして、この殿(若武者)の父親は、(子が)討たれたと聞いたら、どれほどお嘆きになるだろう。ああ、お助け申したい。」と思って、(自分の)後ろをさっと見てみれば、(味方の源氏の)土肥・梶原の軍勢が五十騎ほど続いている。 熊谷は泪(なみだ)を抑えて、(若武者・敦盛(あつもり)に)申したことは、「お助け申したいとは思いますが、味方(=源氏側)の軍勢が雲霞のように(大ぜい)おります。決して、お逃げにはなれないでしょう。他の者の手にかかるならば、(どっちみち命が助からないのならば、)同じことなら、この直実の手でお討ちになり、のちのご供養(ごくよう)をさせていただきましょう。」と申したところ、 (若武者は、)「とにかく、さっさと(私の)首を取れ。」とおっしゃった。 熊谷は、あまりに、(若武者が)かわいそうに感じて、どこに刀を刺してよいかも分からず、涙で目もくらみ、気も動転して、(まるで)前後も分からないようなほどに思われたけど、(けっして、いつまでも、)そうばかりもしていられないので、泣く泣く首を切ってしまった。 (熊谷は、)「ああ、弓矢を取る(武士の)身ほど、悔やまれるものはない。武芸の家に生まれさえしなければ、なんでこのようなつらい目にあったであろうか。非情にも、お討ち申しあげたものだ。」と、くりかえし嘆き(「かきくどき」=繰り返し、つぶやく。)、そでを顔に押し当てて、さめざめと泣き続けた。 |
(※ 教科書では、ここまで。このあと、以下のように続く。)
やや久しう(シュウ)あつて(アッテ)、さてもあるべきならねば、鎧(よろい)直垂(ぼれたえ)をとつて(トッテ)、首を包まん(つつまん)としけるに、錦(にしき)の袋に入れたる笛をぞ、腰にさされたる。
とて、九郎御曹司(くらういんざうし)の見参(げんざん)に入れたりければ、これをみる人、涙を流さずといふことなし。後に聞けば、修理大夫(しゅりのだいぶ)経盛(つねもり)の子息に大夫敦盛(あつもり)とて、生年(しょうねん)十七にぞなられける。 それよりしてこそ熊谷が発心(ほつしん、ホッシン)の思ひ(オモイ)はすすみけれ。 |
しばらくしてから、熊谷は若武者の腰の袋の中から、一本の笛を見つける。戦場にあっても笛を手放さない優雅さに、源氏の武士たちも心を打たれる。
のちに、この若武者の正体は、平敦盛(たいらのあつもり)、大夫敦盛(たいふあつもり)であることが分かり、年は17歳であることが分かる。
このようなことから、熊谷は、出家を願う思いが強くなっていった。
那須与一
解説
結末: 結局、与一の放った矢は命中する。
那須与一は、源氏のがわの兵で、弓矢の名人。
海上にいる平家の側の舟から、扇(おうぎ)のついた棒の立った舟が出てきたので、疑問に思った義経が「あれは何だ?」と部下に聞いたところ、「この扇を射ってみろ、という事でしょう。おそらく、弓をいろうと出てきた義経さまを、逆に射殺してやろうという策略でしょう。それでも、部下のものに、扇を射させたほうが、よろしいでしょう。」と。
そして、与一が選ばれる。
途中、いろいろあったが、最終的に扇に、与一の矢が命中する。
本文
ころは二月(にんぐわつ)十八日の酉(とり)の刻ばかりのことなるに、をりふし北風(ほくふう)激しくて、磯(いそ)打つ波も高かりけり。 舟は、揺り上げ揺りすゑ漂へば、扇もくしに定まらずひらめいたり。 沖には平家、舟を一面に並べて見物す。 陸(くが)には源氏、くつばみを並べてこれを見る。 いづれもいづれも晴れならずといふことぞなき。 与一目をふさいで、 「南無八幡大菩薩(なむはちまんだいぼさつ)、我が国の神明(しんめい)、日光(につくわう)の権現(ごんげん)、宇都宮(うつのみや)、那須(なす)の湯泉大明神(ゆぜんだいみやうじん)、願はくは、あの扇の真ん中射させてたばせたまへ。これを射損ずるものならば、弓切り折り白害して、人に二度(ふたたび)面(おもて)を向かふべからず。いま一度(いちど)本国へ迎へんとおぼしめさば、この矢はづさせたまふな。」 と心のうちに祈念して、目を見開いたれば、風も少し吹き弱り、扇も射よげにぞなつたりける。
小兵(こひやう)といふぢやう、十二束(そく)三伏(みつぶせ)、弓は強し、浦響くほど長鳴りして、あやまたず扇の要(かなめ)ぎは一寸ばかりおいて、ひいふつとぞ射切つたる。 かぶらは海へ入りければ、扇は空へぞ上がりける。 しばしは虚空(こくう)にひらめきけるが、春風に一(ひと)もみ二(ふた)もみもまれて、海へさつとぞ散つたりける。 夕日(せきじつ)のかかやいたるに、みな紅(ぐれなゐ)の扇の日出(い)だしたるが、白波の上に漂ひ、浮きぬ沈みぬ揺られければ、沖には平家、ふなばたをたたいて感じたり、陸には源氏、えびらをたたいてどよめきけり。
伊勢三郎義盛(いせのさぶらうよしもり)、与一が後ろへ歩ませ寄って、 「御定(ごぢやう)ぞ、つかまつれ。」 と言ひければ、今度は中差(なかざし)取つてうちくはせ、よつぴいて、しや頸(くび)の骨をひやうふつと射て、舟底へ逆さまに射倒す。 平家の方(かた)には音もせず、源氏の方にはまたえびらをたたいてどよめきけり。 「あ、射たり。」 と言ふ人もあり、また、 「情けなし。」 と言ふ者もあり。 |
(※ 編集中) |
冒頭部
本文
(書き出しの部分)
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(インドにある)祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の鐘の音には、「すべてのものは、(けっして、そのままでは、いられず)かわりゆく。」ということを知らせる響きがある(ように聞こえる)。 沙羅双樹の花の色には、どんなに勢い(いきおい)のさかんな者でも、いつかはほろびゆくという事をあらわしている(ように見える)。 おごりたかぶっている者も、その地位には、長くは、いられない。ただ、春の夜の夢のように、はかない。強い者も、最終的には、ほろんでしまう。 まるで、風に吹き飛ばされる塵(ちり)と同じようだ。 |
解説
- 祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)・・・ インドにある寺で、釈迦(しゃか)の根拠地(こんきょち)。
- 「祇園精舎は、どこの国にあるか?」(答え:インド)は、中学入試~大学入試などに良く出るので覚えること。答えを知らないと解けないクイズ的な知識だが、しかし入試に出てくるので、読者は覚えざるを得ない。
作品解説
平家物語の作者は不明だが、琵琶法師などによって語りつがれた。
作中で出てくる平清盛(たいらのきよもり)も、源義経(みなもとのよしつね)も、実在した人物。作中で書かれる「壇ノ浦の戦い」(だんのうらのたたかい)などの合戦(かっせん)も、実際の歴史上の出来事。 作者:不明
平家(へいけ)という武士(ぶし)の日本を支配(しはい)した一族が、源氏(げんじ)という新たに勢力の強まった新興(しんこう)の武士に、ほろぼされる歴史という実際の出来事をもとにした、物語。 平安時代から鎌倉時代に時代が変わるときの、源氏(げんじ)と平氏(へいし)との戦争をもとにした物語。
なお、平家がほろび、源氏(げんじ)の源頼朝(みなもとのよりとも)が政権をうばいとって、鎌倉時代が始まる。