高等学校世界史探究/文明の誕生Ⅰ

出典: フリー教科書『ウィキブックス(Wikibooks)』
小学校・中学校・高等学校の学習>高等学校の学習>高等学校地理歴史>高等学校世界史探究>文明の誕生Ⅰ

最古の人類[編集]

 地球上で動物が進化していく過程で、人間は枝分かれして成長しました。人類は生物学的に見れば霊長類のヒト科動物です。その特徴は、二足歩行し、両手で道具を使い、を扱い、労働をし、言語に基づいた文化を持っていた点です。人類がいつ出現したかについては、考古学、人類学、古生物学などの研究成果に基づいて、科学者達は様々な考えを持っています。人類は、ある場所で始まったたった一つの種から世界に広がったのか、それともアフリカや中国など違う場所で、同じように類人猿から生まれたのかは、まだはっきりしていません。猿人段階の骨は、ほとんどがアフリカで見つかっています。その後、ユーラシア大陸に移動して、違う場所で変化したのかもしれません。ラマピテクスとシバピテクスは、パキスタンとアナトリアの一部で骨が発見された一種族の類人猿です。彼らは1400万年前に生きており、かつて最初の人類と考えられていました。しかし、最近では、オランウータンの祖先と考えられています。類人猿の進化の過程で、オランウータンになる系統が先に分かれ、ヒトになる系統はずっと後に分かれました。

 つまり、人類は800万年前から500万年前の間に独自の進化の系譜を歩み始めた可能性が高いと思われます。その段階での証拠は見つかっていません。最近、エチオピアでラミダス類人(アルディピテクス・ラミダス)の顎骨が発見されました。この類人猿は他の類人猿と明確な違いがあり、人類最古の猿人と考えられています。また、アウストラロピテクス=アファレンシスは、400万年前以降にエチオピアで生きていたように思えます。これは、完全な骨格で見つかっており、直立して歩行し、腰や足の骨には変化がみられました。同じ系統の猿人4種は全てアフリカで発見されました。この中にはアウストラロピテクス=ボイセイとアウストラロピテクス=口ブストゥスも含まれています。250万年前、アフリカにはもっと進んだ人類もいました。これが最初のホモ・ハビリスです。アウストラロピテクスに比べ、脳が大きく、頭蓋骨が丸く、顔は人間のようで、大腿骨は現代の人類によく似ています。

 地質学的な時間では、原人(ホモ=エレクタス)は更新世(洪積世、180万年前から1万年前)が始まる頃、アフリカに初めて姿を現しました。脳の体積は1000cc以上で、類人猿の2倍です。中国南西部の山中にある洞窟から、170万年前に生きていた人達の骨群が発見されました。そこに住んでいた人々は、火をおこし、石器を使用していました。その後、約50万年前に北京原人(シナントロプス=ペキネンシス)が現れました。1923年以降、北京に最初に住んだ人達の骨が30体発見されましたが、戦争で全て失われ、現在は模型しか残っていません。藍田人も原人の一部です。彼らは後に中国で発見されました。また、1891年にインドネシアのジャワ島サンギランで発見されたジャワ原人(ピテカントロプス=エレクタス)は、130万年前に生きていたといわれています。タイ、ベトナム、朝鮮半島など、東アジアで初期人類の骨が発見されている地域があります。

最古の石器

 原人達は集団で生活し、野生の動物や植物から食料を調達していました。彼らはすでに原始的な石器を使っていました。エチオピアのパダールから出土した最古の石器は、約250万年前のものと考えられています。アウストラロピテクスの群の中には、すでに簡単な石器を使っていました。ホモ・ハビリスは、タンザニアのオルドヴァイ峡谷で発見された礫器や剥片石器を使っていました。礫器は、他の石を叩いたり、削ったり、翡翠を削ったりするのに使われる石器です。石核石器ともよばれます。剥片石器は、石器の破片を他の石で叩いて割ったものです。動物の皮も一緒に剥がされました。原人は、木や樹皮、動物の皮などの加工も行い、男性と女性では違う仕事をしていたと考えられています。アフリカで最初に火を使ったのが100万年以上前という確証はありませんが、もっと以前から使っていた可能性はあります。150万年前くらいから、石器が良くなり、刃を丁寧に加工してまっすぐなものになりました。このアシューレアン石器の中にアックス(手=斧)やグリーザ(斬るのに使う)があります。ジャワ原人が石器を使ったという証拠はありませんが、北京に住んでいた人達は洞窟に住み、火を使って料理や暖をとっていました。また、人々は石器と竹や籐で出来た道具を使っていました。彼らが言葉を喋れたのは間違いなく、死者の脳を食べたという形跡は、何らかの儀式をしていたのでしょう。

旧人[編集]

 原人は、100万年前過ぎにアフリカからヨーロッパに移動してきたと考えられています。南フランスのアラゴ洞窟、ドイツのハイデルベルク、ハンガリーなどで、原人のものと思われる骨が発見されているためです。彼らは石で道具を作り、40万年前頃から、仕事に応じて様々な種類の石器を作るようになりました(調整石核技法)。こうして、ヨーロッパ原人が進化して、旧人(ホモ・サピエンス)が誕生したと考えられています。ドイツで初めて発見されたネアンデルタール人(ホモ・ネアンデルタレンシス)がその代表的な例です。北アフリカやアジアでも同様の旧人の骨が見つかっていますが、それぞれの地域で原人から進化したのか、ヨーロッパから旧人が移動してきたのかまではわかっていません。

 12万年前から3万5千年前まで、ネアンデルタール人はヨーロッパと中央アジアの各地に住んでいました。これまでに140体のネアンデルタール人の骨が見つかっています。脳の大きさは現代人(約1300〜1600CC)とほぼ同じで、時にはそれ以上大きい場合もあります。しかし、骨は太く丈夫で、額は丸みを帯び、眼窩の上には大きな隆起がありました。厳しい環境に対応する方法を考え出し、小屋を作り、マンモスのような大きな動物を集団で狩りに行きました。石器は調整石核技法によって、鋭いスクレーパー(掻器)やポイント(尖頭器)を作りました。スクレーパー(掻器)は動物の皮を剥いだり、切ったりするのに使われました。中期旧石器時代の石器は、旧人が作った石器全般を指します。最も一般的な石器はムスティエ石器と呼ばれ、その名前は発見された場所に由来しています。しかし最近、フランス南西部のネアンデルタール人も、現代人がつくったと考えられていた後期旧石器時代の石器を使用していた事実が明らかになりました。また、石器、木材・木器を作る加工場や動物の解体場もありました。小屋には炉や調理場があり、食料の種類も増えました。なお、貝類は、ネアンデルタール人が食べ始めた新しい食べ物の1つです。儀式についても、死者を丁寧に埋葬したり、死者の脳を食べたりしていたのは確かです。イラクのシャニダール洞窟で、足の不自由な老人が花に埋もれているのが発見されました。ネアンデルタール人は、あまりに年老いた人をかわいそうに思っていました。

新人の登場[編集]

 ホモ・サピエンス・サピエンスと呼ばれる最初の新人は、6万年前から5万年前の間にアフリカに姿を現しました。新人の骨の中には10万年前のものもあり、ジャワ島の骨の中には12万年前のものもあります。ネアンデルタール人と新人は、過去のある時期には何と一緒に暮らしていました。顔の骨や顎などの特徴は、現代人とほとんど同じです。約4万年前から1万年前の更新世末期には、その数が増え、おそらくアフリカからヨーロッパに移動したのでしょう。そして、当時まだネアンデルタール人が住んでいたヨーロッパから、徐々にネアンデルタール人を追い出していきました。ネアンデルタール人は約2万8千年前に絶滅したと考えられています。新人とのつながりはなかったといわれています。パレスチナのカルメル山の洞窟で発見された人間の頭蓋骨は、ある部分はネアンデルタール人のもので、別の部分は新人のものだそうです。これは、ネアンデルタール人から新人への進化の過程を表しているとする学者もいます。このグループの代表が、フランスやスペインに多くの痕跡を残したクロマニョン人です。アジアでは、6万年前から5万年前にかけて中国の周口店上洞人が現れ、ジャワ島にも新人が現れたという証拠があります。最近では、アフリカから新人がやってきて、ヨーロッパやアジアに移動したという説が有力です。

 新人は、石から道具を作るのが非常に上手になり、後期旧石器時代が始まりました。1つの石核から多数の刃物を作る石刃技法が各地で発達し、用途に応じた様々な石器が作られるようになりました。小型石器だけでなく、槍、銛、釣り針、針など、骨や角の鋭い道具もつくられました。骨や角は低温でも丈夫なので、槍や銛、釣り針、針など、鋭い骨角器がつくられました。また、網などの道具を利用して、新しい生活様式も導入されました。新人は集団のために集落や墓地を設けました。石器は徐々に、どこで作られたかを示すようになりました。人々は自分達の集団がいかに似ているかを示していると考え、他の集団との争いに発展しました。また、遠くの集団との交易も始まりました。新人達が各地に広がるにつれ、人種的な違いが現れ始めました。

 また、新人は原始芸術を残しました。彩色壁画や「石のビーナス」と呼ばれる単純な母神像がヨーロッパ各地で発見されています。原始芸術は全て、彼らの豊穣と繁栄の宗教的儀式の一部だと考えられます。屈葬や副葬品の使用は、埋葬の仕方をより複雑なものにしました。

クロマニョン人の洞窟画
ラスコー洞窟の壁画
 フランスのラスコー・ニオーやスペインのアルタミラの洞窟壁画が有名ですが、その多くはフランスとスペインの南西部に集中しています。野牛、トナカイ、象、馬、鹿、熊、サイ、狼など、動物の絵が多くを占めています。狩猟が上手くいくようになる呪術的な作品と考えられています。それだけでなく、動物のお面や角をつけて狩りが上手くいくように祈る祈祷師(シャーマン?)の肖像画や男女の印、手形などもあります。また、洞窟内の場所によって描かれている動物の種類が違ったり、手形に指がないものもあり、独自の信仰心を持っていたようです。これらの壁画は、深くて暗い、行きにくい洞窟に描かれました。クロマニヨン人は芸術を好まなかったので、作らなかったといわれています。ニオー洞窟の入り口から772mのところに、絵が描かれた壁があります。

 新人は、周囲の環境に適応するのが上手で、誰も行っていない場所へも進んで行きました。その中には、中国南部からオーストラリアに移動した人もいます。オーストラリアは1万年前までほとんど陸続きでしたが、地球冷却による海面低下で陸地化しました。また、ベーリング海峡も陸続きだったため、非常に寒冷なシベリアやアメリカ大陸に移動した人もいます。アジア、ヨーロッパ(ユーラシア)、アフリカは旧大陸と呼ばれています。一方、アメリカとオーストラリアは、ヨーロッパ人が最近になって知ったので、新大陸と呼ばれています。この2つの大陸には、人が住んでいませんでした。1万2千年前のアメリカ大陸には、南米の南端から人が住んでいた痕跡が見つかっています。これは、北アメリカから来た新人が、かなり広がっていた証拠です。

資料出所[編集]

山川出版社「改訂版 詳説世界史研究」木村靖二ほか編著

※現在市販されている最新版ではありません。1つ前の版となります。