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高等学校日本史探究/奈良時代の人々の暮らし

出典: フリー教科書『ウィキブックス(Wikibooks)』
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奈良時代の貴族生活

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非常に広い邸宅跡が平城京の南東[奈良県奈良市二条大路南1丁目]で見つかりました。この邸宅跡は歴史考古学者の発掘調査から上級貴族の邸宅だと判断されました。掘り進めていくと、3万点以上の木簡が山のように出てきました。役所の報連相・品物の記録・食料品の記録・長屋王家などが木簡に記されていました。そのため、上級貴族の邸宅は長屋王の邸宅跡だと分かりました。ここから、長屋王のような上級貴族が当時の仕事・日常生活をどうしていたのかもはっきり見えるようになりました。

様々な作業場(工房)が長屋王大豪邸敷地内にあり、木簡の記録から職人(工人)の人数・引継ぎ内容まではっきり分かりました。このように長屋王の住人は長屋王邸宅内で家族の品物を自給自足でしっかり賄っていました。また、飼育者が長屋王の飼育動物(馬・鶴・犬)を育てていました。このように、長屋王の家族は贅沢な暮らしをしていました。

木簡は全国の配送伝票(送り状)も大量に入っていました。配送伝票は食料品(穀物・野菜・魚介類・塩など)を記していました。つまり、長屋王家族は各地域の食料品を使って、食事を作っていました。また、長屋王邸は生鮮食品を家庭菜園で作ったり、天然の冷蔵庫(氷室)を作ったり、各地域から牛乳も運ばれたりしました。このように、長屋王は食材まで当時の庶民と違いました。

木簡・硯・墨の跡が長屋王邸から見つかっています。ここから、長屋王の家族が金銭計算・報告書・引き継ぎ書を毎日部下にやらせました。当時は木簡か紙で記録に残しており、長屋王邸でも律令体制の政治をそのまま取り入れられました。

生活文化の発展と庶民の苦難

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奈良時代になると、大陸風建築が数多く建てられました。平城京の建物は白壁を取り入れるか丹塗りの柱を取り入れるかのどちらかでした。この中でも大極殿などは大きな石(礎石)を建物の基礎にして、瓦で屋根を葺いていました(中国風建築)。一方、天皇の内裏と貴族の邸宅は地面に直接太い柱を立てて、檜の皮で屋根を葺いていました(和風建築)。貴族の邸宅は庭園もありました。この庭園は綺麗な石・木・花・池を上手く組み合わせて作られました。

東国の庶民は古墳時代からの竪穴住居で暮らしていました。地面を深く掘り、その穴の中に板を立てて屋根をかぶせていました。一方、西日本の新しい庶民用住居は地面に直接太い柱を立てて、その上に屋根をかけられていました(平地式の掘立柱住居)。特に近畿地方は新しい庶民用住居ばかりになりました。

乳製品の蘇

奈良時代の庶民は一日2食(朝食と夕食)でした。もちろん主食はご飯物です。今と同じように、お米を炊いていました。雑穀・木の実・山菜を副菜として食べました。都市の庶民は魚介類も手に入りやすく、魚・海藻も食べました。一方、貴族は乳製品の蘇も食べました。

身分の違いは当時の衣服まではっきり分かれていました。庶民の衣服は植物繊維から作られ、すぐぼろぼろになってもそのまま着続けました。一方、貴族の衣服は丈夫な布から作られ、長持ちしやすい豪華な服でした。着物も現代の着物と違いました。奈良時代男性の着物は袴でした。一方、奈良時代女性の着物は裳でした。さらに、履物も立場に合わせて靴・下駄・草履のどれかが使われました。

当時の結婚方法は妻問婚でした。男性は夜になると女性の家へ行って恋愛するようになりました。当時の夫婦は夫婦同姓ではなく夫婦別姓でした。だから、所持品(財産)は各自で持っていました。また、結婚しても各自の住居でそのまま住んでいました。現代の日本政治でも夫婦別姓に関して提案されていますが、反対意見もかなりあります。子供が生まれると、女性の住居で子供を育てました。家事も女性の家族が中心になって動いていました。仏教が広まると、上級貴族の埋葬方法も土葬から火葬に少しずつ変わりました。一方、ほとんどの庶民は従来通り土葬で埋葬していました。

当時の上級貴族は華やかな服装に身を包んで、年中行事・和歌などを楽しんでいました。一方、地方農民は降水量不足・害虫大量発生から何回も凶作になりました。その結果、食料不足・飢餓に苦しみました。貴族の山上憶良は地方へ向かうと、農民の貧しい生活を実際に見ました。そして、山上憶良は農民の苦しい日常生活を伝えたいから『貧窮問答歌』にしました。「家の竈に火を入れられなかったり、蒸し器も使われないまま蜘蛛の巣が張ったりしました。さらに、里長が困窮農民の家までやってきて、「早く払え。」の大声も響きました。」と記されました。このような様子から当時の農民が食料面と金銭面でどれだけ困っていたかを万葉集の『貧窮問答歌』に残して伝えています。

奈良時代は困窮者もいました。困窮者は日常生活を送るのもやっとでほとんど税金を払えませんでした。そのため、本人の氏名・家族の情報を戸籍にそのまま記さないで、別人の氏名・嘘の身分を記していました。他にも無許可出家者(私度僧)になったり、上級貴族邸宅の養子になったりしました。『貧窮問答歌』でも当時の困窮者がどれだけ大変だったかはっきり分かります。このような苦しみが広がると、租庸調も上手く回らなくなりました。8世紀後期になると、律令制度も続けられなくなりました。

資料出所

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  • 平雅行、横田冬彦ほか編著『日本史探究』実教出版株式会社 2023年
  • 佐藤信、五味文彦ほか編著『詳説日本史探究』株式会社山川出版社 2023年
  • 渡邊晃宏ほか編著『日本史探究』東京書籍株式会社 2023年