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高等学校日本史探究/奈良時代の政治Ⅰ

出典: フリー教科書『ウィキブックス(Wikibooks)』
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遣唐使派遣と平城京遷都

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遣唐使船(レプリカ復元)

618年、中国でが出来ました。唐は中国各地を1つの大きな国にまとめました。そして、刑法・民法などを作り、周辺諸国に頼れるような国家を目指しました。その結果、唐は周辺諸国と強く繋がるようになりました。周辺諸国は唐に挨拶をしたり、仲良くなるために贈り物を送ったりしました(朝貢・冊封)。唐の中でも長安は世界でも有名な街になりました。だから、様々な外国人が長安に集まるようになりました。長安の外国人は自国の文化を唐に伝えました。そこから、新たな文化と決まりが唐で生まれました。

7世紀から9世紀にかけて、日本は遣唐使を唐に送りました。なぜなら、新しい知識を学びつつ日本に持ち帰るためです。630年、犬上御田鍬が初めて遣唐使として唐に行きました。その後も何回も日本から遣唐使を唐に送りました。894年、菅原道真の意見で遣唐使は送らなくなりました。当時、日本は国の名前・特別な呼び方[指導者の名前]・元号(年号)・律令制度を新しく作りました。日本はこれらの内容を唐の皇帝に伝えて、「新しい日本のやり方を認めてもらいたい」と思っていました。また、日本は新羅国と比べて唐の皇帝から特別な国家[東夷の小帝国]だと思われたい気持ちもありました。したがって、日本は遣唐使を送って唐の文化を学びつつ自国の力を外国に知ってもらおうとしました。

日本の国号
日本国の名前について、歴史的・文化的に様々な呼び方がありました。日本人は日本国を「やまと」と呼んでいました。一方、中国側は日本国を「倭」と呼んで日本とやりとりをしていました。しかし、「倭」の意味は「小さい」「大人しい」なので、その呼び方を日本人はあまり好まなくなりました。やがて政治と法律が整うと、日本人は新しい国の名前として「日本」を使うようになりました。中国の歴史書『旧唐書』東夷伝日本条に「日本は倭国と比べると新しい国になった。」と記されています。また、この歴史書になぜ「日本」を使い始めたかについても、「太陽が昇る国だから」とか「倭の名前の響きを好まなかったから」と記されています。このように、「日本」の名前は国際関係・独立国として大切にしたいから選ばれました。702年、遣唐使が新しい国号「日本」を正式に伝えました。新しい国号「日本」は中国の皇帝にもすぐ受け入れられました。このように新しい国号が「倭」から「日本」に変わると、日本らしさとか自分で国を動かせるようになりました。その結果、自国の考えを中国側にも伝えました。

8世紀頃、日本は遣唐使を唐へ送りました。様々な人(大使・副使・留学生・僧侶・船長など)が遣唐使船に乗っていました。4隻の遣唐使船で東シナ海を渡りました。4隻の遣唐使船の合計人員は数100人程度でした。当時、脆い船で船の運転も未熟だったので、船が頻繁に沈みやすくなっていました。それでも、日本は唐から新しい政治・文化・道具・考え方を学んで持ち帰りました。その結果、日本の政治と社会は大きく変わりました。さらに、唐の長安から日本の貨幣(和同開珎)が見つかっています。和同開珎は日本と唐の国際交流をはっきり示しています。

日本古代天皇の役割と日本古代天皇の立場
日本古代天皇の役割と日本古代天皇の立場は時代と共に変わりました。歴史学者の見方として天皇が国の政治を全て決めるか(天皇主権説)、貴族が国の政治を全て決めるか(貴族主権説)に分かれました。最近の歴史学者は天皇・貴族共同統治説を出しています。この説によると、天皇と貴族がお互いに力を合わせて国を動かしていたと考えられます。その理由として、東アジアの複雑な国際関係から国家を上手くまとめるために様々な工夫が求められたからです。また、中国の政治制度・思想も日本の律令制度とか天皇の立場とかに大きな影響を与えました。加えて、天皇は太陽の神様(天照大御神)の子孫だと神話で伝えられました。この神話から天皇の立場が守られます。他国のように王朝の交代も避けられました。このように、日本の天皇制は古代国家の誕生と古代国家の発展と深く関係しています。

昔、日本は2種類の経路(北路南路)を使って長安へ行きました。北路の経路は次の通りです。まず博多から船で出発し、壱岐・対馬などの島を通ります。次に、朝鮮半島の西海岸に沿って進み、渤海湾を通って山東半島に着きます。山東半島からは陸路で長安を目指しました。しかし新羅と日本の関係が8世紀頃に悪くなると、安全な北路も使いにくくなりました。そのため、新しく南路を使うようになりました。南路の経路は次の通りです。まず五島列島から船で東シナ海を渡り、長江の河口に着きます。長江の河口からは陸路で長安を目指しました。南路は北路より危険でした。なぜなら、南路は悪天候になりやすく、船も壊れやすかったからです。そのため、移動時間も長くなりました。また南路経由の日本人は海流などから南西諸島に一度流れても、そこから再び日本へ向かいました。

遣唐使の航路
遣唐使の派遣頻度
9世紀、中国のお坊さんが「日本からの使い(遣唐使)は20年に1回送られて来る。」と手紙に記しました。しかし、最新の歴史研究から「20年に一度」はあくまで目安と考えられています。実際、政治の流れに合わせて遣唐使の派遣を決められていました。一方、天武天皇は、国内の政治を優先したので、遣唐使を1回も送っていません。女性天皇でも男子の皇族が外交で前面に出られないので、遣唐使をあまり送っていません。このように、遣唐使の派遣は当時の政治とか天皇・皇室の都合に大きく左右されました。

遣唐使は数多くの苦労・危険を乗り越えて唐へ向かいました。その後、唐の長安で外国文化と新しい政治の仕組みを学びました。特に、阿倍仲麻呂吉備真備玄昉などは唐で何年も住んで、政治・軍事・文化・仏教などを学びました。阿倍仲麻呂と藤原清河は日本へ帰らず、唐で高い地位に就いてそのまま生涯を終えました。一方、吉備真備と玄昉は幅広い知識と新しい文化を唐から日本へ持ち帰りました。この知識と経験が奈良時代の文化発展に大きく役立ちました。また、吉備真備と玄昉は聖武天皇にも大切にされ、当時の社会に大きな影響を与えました。

遣唐使の試練
天平時代の遣唐使は帰り道で大きな被害に数多く遭いました。4艘の遣唐使船が日本に向かうため、長江の河口から出発しました。その途中で大きな嵐に遭い、4艘の遣唐使船はそれぞれ分かれてしまいました。大使の遣唐使船は無事に日本の種子島に着きました。副使の遣唐使船は2年遅れて日本に戻りました。平群広成判官の遣唐使船は東南アジアの崑崙国へ流れ着きました。しかし、ほとんどの人は兵士に殺されたり、病気で亡くなったりしました。僅か4人が崑崙国で生き残りました。この4人は崑崙国王の住居にとどまりました。やがてこの4人は崑崙国商人の船に隠れて乗り、唐へ戻りました。そして、唐で阿倍仲麻呂から渤海国を通って日本に戻るように伝えられました。渤海国王の協力もあり、日本行きの船は予定より早く出して貰えました。しかし、その帰り道でも帰国船の転覆から数多くの人が命を落としました。それでも平群広成は何とか出羽国に辿り着き、歩いて奈良の都へ帰りました。しかし、残り1艘の遣唐使船は最後まで戻りませんでした。このように、玄昉・吉備真備以外の遣唐使は大きな被害に遭っています。

676年、新羅は唐の影響を受けつつ、朝鮮半島をまとめました。この時代、新羅と日本はお互いに使者と物資をやりとりしました。新羅は唐から国家と認められ、国の力を強めました。一方、日本は自国の優位を主張しました。新羅と日本の関係は緊張しました。その後、安禄山と史思明が反乱を起こしました。日本の藤原仲麻呂は「渤海の動きを注意深く見てから新羅を攻めよう。」と考えました。しかし渤海と新羅に何も起きなかったので、藤原仲麻呂は新羅を攻めませんでした。奈良時代後半になると、日本と新羅は次第に公式な付き合いも少なくなりました。それでも、商人が両国を行ったり来たりして、物資の売買も活発になりました。

8世紀初期になると、末鞨族が中国の東北地方に渤海を建国しました。末鞨族は高句麗の子孫だと名乗りました。当時、唐と新羅はかなり強い国でした。渤海は唐と新羅に負けたくないため、日本と仲良くなろうと考えました。727年、渤海は日本に使節を送り、「国同士で仲良くしましょう。」と伝えました。当時の日本も新羅と喧嘩をしていたので、渤海と日本との関係を大切にしようと考えました。こうして渤海と日本の友好的な関係は何世紀も続きました。渤海と日本を結ぶ航路は数種類ありました。出羽国を通るか、北陸地方の能登・敦賀を通るか、朝鮮半島の東海岸を南に進み西日本に向かうかでした。実際の交流の証拠もあります。渤海の上京龍泉府から日本の和同開珎が見つかりました。また、日本の日本海側の遺跡からも北方文化時代の遺物が見つかっています。ここから、当時の人と北方文化の繋がりが分かります。このように、渤海と日本は外交・交通・売買など様々な面で交流を発展させました。

藤原京は7世紀後期頃から奈良盆地南部にありました。710年、元明天皇の時に都も藤原京から平城京へ移されました。この時、藤原不比等などの意見が都の移転に大きく関わっていました。平城京は政治・文化・経済の中心地として最も優れていたからです。平城京時代の70年間を奈良時代として知られています。その後、都は長岡京・平安京へ移りました。

平城京の条坊制

平城京は長安[唐の都]をお手本にして作られました。平城京はどの方向も方眼用紙のように綺麗な道で区切られていました(条坊制)。南北に長い大通り(朱雀大路)が平城京の中心部を通りました。天皇の座席から見て、左京(朱雀大路より東側)と右京(朱雀大路より西側)になっています。また、平城京の外側に外京も作られました。さらに、宮城(平城宮)が平城京の北中央にありました。天皇の皇居(内裏)・朝廷(大極殿・朝堂院)・役所(二官八省)が宮城に並んでいました。このような宮城の形と宮城の場所は中国の都城制度から取り入れられました。このほか、平城京にお寺も様々な場所に建てられていました。

平城京の都は東西南北にかなり大きく広がっていました。様々な身分の人(皇族・貴族・官僚・商人・奴婢など)が平城京に住んでいました。飛鳥地方の大安寺・薬師寺・元興寺・興福寺とかなどが平城京周辺に移築したり、平城京内部に新築したりしました。大安寺・薬師寺・元興寺・興福寺などの建物は外国文化の影響を受けており、瓦の屋根と大きな石の土台(礎石)で建てられています。薬師寺・元興寺は飛鳥地方に寺の建物(伽藍)を残しながら、新しい寺を平城京の中にも建てました。薬師寺・元興寺は平城京の東側(外京)に集まっており、さらに東に東大寺も建てられました。平城京の大きさは東西約4.3kmあり、南北約4.8kmもあります。当時の日本国内人口は約600万人いました。このうち、5万人から10万人程度が平城京に暮らしていました。しかし、歴史学者の間で平城京在住人口についての意見が分かれています。

木簡
細長い木の板に文字を書いたら木簡です。昔の人は紙と木簡を上手に使い、様々な情報を伝えていました。紙と木簡は目的に応じて使い分けられていました。当時の人は木簡を土の中に捨てていました。しかし、大量の木簡が綺麗な状態のまま平城宮・大宰府・多賀城などから見つかっています。役所の重要書類・役所からのお知らせ・郵便物の伝票・落書き帳などが木簡に記されました。このような木簡内容から行政の動き・経済の仕組み・文化の様子が分かります。
長屋王邸宅と長屋王家木簡
奈良時代初期、かなり大きな貴族邸宅遺跡が平城京の左京三条二坊に見つかりました。貴族邸宅遺跡の土地はかなり広く、邸宅遺跡の周りを高い土壁で囲まれていました。邸宅遺跡の中も木の壁でいくつかの建物に分かれていました。邸宅遺跡の中心部に一番大事な建物があり、住居・家政機関・雑舍倉庫なども計画的に並んでいました。大量の木簡が貴族邸宅遺跡から見つかりました。木簡の内容から長屋王の邸宅遺跡と分かりました。長屋王が自殺してから、長屋王の邸宅遺跡も違う使い方に変わりました。しかし、長屋王家木簡から当時の生活がかなり分かるようになりました。
長屋王邸の生活
長屋王家木簡と歴史文献から当時の上級貴族の暮らしが明らかになっています。長屋王の家は平城京の左京三条二坊にありました。発掘調査の結果、家の中は儀礼空間・生活空間・使用人の居住区域・作業場・倉庫などに大きく分かれていました。宴会が頻繁に長屋王の佐保宅で開かれていました。佐保宅は日本庭園もありました。音楽・踊り・美酒・詩を楽しみつつ、遣唐使の交流も日本庭園の軒下で行われていました。また、上級貴族の食生活も豊かでした。夏になると、山の氷室から氷を運ばせたり、牛乳からチーズを作ったりしました。馬・鳥などの動物も長屋王の家で飼っていました。さらに、長屋王は仏教を大切にしており、大般若経の内容を2回書き写しもしました。僧侶・尼僧・職人(書法模人・妖師・絵師)も長屋王の家に住んでいました。このような事実は木簡に記されています。

これまで何度も発掘調査が奈良市の平城宮跡で行われました。その結果、宮殿・役所・庭園の場所がはっきりしました。木簡・様々な道具も平城宮跡で見つかっています。これらの発見から、奈良時代の宮廷生活とか奈良時代の経済も少しずつ明らかになりました。また、平城宮は藤原宮よりも大きく発展していました。発掘資料からその様子も分かります。さらに、平城京の作りについても調べられています。長屋王の邸宅とか貴族の大邸宅とかは宮殿近くの五条より北側に集まっていました。一方、下級役人の小さく質素な家は宮殿より遠い八条から九条周辺に集まっていました。一部の下級役人は奈良の周辺地域に本籍を持ち、役人の仕事と農業の仕事をしていました。

2つの地域(左京と右京)が平城京にありました。左京と右京は朝廷の市場(東市と西市)もありました。だから、朝廷の役人(市司)が市場(東市と西市)を見張っていました。農民は米・特産品を朝廷に税金として納めました。一方、朝廷は官人に給与として布・糸などを渡していました。このような品物が東市と西市に集まり、東市と西市で売られていました。このような商品を買うために東市と西市でお金も使われていました。こうして、都の周辺地域にもお金の流通が少しずつ広がりました。なお、東市と西市の名前は、地図上の方角から付けられました。

資料出所

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  • 平雅行、横田冬彦ほか編著『日本史探究』実教出版株式会社 2023年
  • 佐藤信、五味文彦ほか編著『詳説日本史探究』株式会社山川出版社 2023年
  • 渡邊晃宏ほか編著『日本史探究』東京書籍株式会社 2023年