高等学校日本史探究/奈良時代の政治Ⅱ
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※本節は奈良時代初期の政治から大仏の建築までの国内政治を説明します。
奈良時代初期の政策
[編集]当時、律令国家の朝廷が全国を治めていました。朝廷が全国を上手く治めるために平城京から遠い地方まで、素早く連絡を取ったり、人を送ったりしなくてはなりません。そこで、朝廷は平城京から地方の役所(国府)までを繋ぐために大きな道路(官道・駅路)を作りました。官道・駅路は東海道・山陽道・南海道・西海道などを含めて全部で7つありました。朝廷はこの道路を使って国家を効率よく治めました。また、朝廷は約16kmごとに休憩施設(駅家)を作りました。朝廷の役人は駅家で食事をとったり、飲み物を飲んだり、馬を交換したりしました。さらに小さな道路(伝路)が大きな道路から分かれていました。伝路は地方行政機関(郡家など)と繋がっていました。こうして平城京から地方の隅々まで道路で繋がり、政府の情報などが全国に素早く伝わるようになりました。昔の道路の作り方も考古学の調査から分かってきました。主要な道路は全国どこでも同じ基準で作られていました。主要な道路の幅は12.96メートルと決められており、排水溝も両側に作られていました。道路は出来るだけ直線で作られ、平らな土地を通っていました。当時の朝廷が高い技術と効率的・効果的に政治を行えていたから、全国で同じ基準の道路を作れました。

昔の日本は律令制度から国家全体をきちんと治めていました。最初に、国家全体を畿内(大和国・河内国・和泉国・山城国・摂津国)と七道(東海道・東山道・北陸道・山陰道・山陽道・南海道・西海道)に大きく分けました。次に、五畿七道に国・郡・里(郷)と細かく分けました。郡(評)は昔の小国・屯倉のやり方をそのまま使いました。里(郷)は一番小さな行政区域として50戸をひとまとめにしていました。そして、国司と郡司が地方を治めていました。なお、国司と郡司の違いは各種日本史参考書とか日本史探究教科書とかでかなり難しく表現しているのでこの違いを現代の公務員制度に例えて説明します。国司は都から送られ、任期付き国家公務員としてその地方で働きました。一方、郡司は地方公務員・市役所職員として世襲制でした。この郡司が昔ながらのやり方で民衆を治めました。その結果、律令体制も上手く回りました。郡司は広い土地を持て、お金にも物にも恵まれました。政治を行うための建物(国府と郡家)も建てられました。国府は国庁を中心に曹司・正倉院・厨・国司館・駅家・国府津などの建物で成り立っていました。国府は近くの国分寺と協力して、日本の政治・経済・文化・交通をまとめて取り仕切っていました。一方、郡家も郡庁を中心に曹司・正倉院・厨・郡司館・駅家などの建物で成り立っていました。郡司一族の氏寺も郡家の近くに建てました。国府と郡家の跡から木簡・墨書土器などが数多く見つかり、漢字文化も地方の隅々まで広がっています。

7世紀後期、天武天皇は唐の銭貨を参考に初めて日本独自の貨幣[富本銭]を作りました。しかし、富本銭はあまり使いませんでした。708年、武蔵国から朝廷に銅が贈られました。その後、元明天皇は年号を和銅に変えて、新しい貨幣[和同開珎]を作り始めました。和同開珎は唐の開元通宝をお手本にして、銅製貨幣と銀製貨幣から成り立っていました。和同開珎から958年の乾元大宝まで12種類の貨幣が作られました(本朝十二銭・皇朝十二銭)。なお、最初の富本銭も合わせると13種類が古代日本の正式な貨幣となりました。朝廷は新しい都への引っ越し費用とか寺院の建築費用とかから数多く貨幣を作りました。その結果、物の値段が上がり、庶民の暮らしも苦しくなりました。和同開珎は大きな土木工事・建築工事の貨幣として使われました。711年、貨幣を広めるために蓄銭叙位令を定めました。蓄銭叙位令は貨幣の量に応じて官位も渡されるような仕組みでした。また、平城京とその周辺地域は税金を貨幣で払わせて、物と貨幣の交換割合を法律で決めました。役人はそれを市場で貨幣に替えて、貨幣も広がりました。しかし、貨幣は平城京・畿内・近江南部・国府付近でしか出回っていません。地方は、昔と同じように物を渡されたら物で返していました。
奈良時代の朝廷は農業・天然資源・職人に力を入れて経済を支えました。朝廷は鉄製農具を農民に使わせたり、水を上手く流す仕組みを改良したりしました。その結果、作物は広範囲の田畑で作れるようになりました。作物の収穫量も増えて、朝廷の目も届くようになりました。次に、朝廷は長門国の銅山・陸奥国の金山を管理しました。金・銅などは歳入になり、貨幣の材料として国際貿易としてかなり大切に使われました。さらに、朝廷は養蚕業職人とか高級織物製造職人とかを平城京から地方に送りました。その結果、職人の技術が地方にも広がって特産品も生まれました。
朝廷は、東北地方の蝦夷を朝廷の命令に従わせようとしました。7世紀中頃、渟足柵・磐舟柵を築きました。斉明天皇の時代になると、阿倍比羅夫が秋田地方から津軽地方の蝦夷と関わりました。しかし、東北地方の蝦夷は日本海沿岸の一部地域だけしか朝廷の指示を聞いていません。
朝廷は東北地方を治めるために少しずつ領土を広げました。712年、出羽国が日本海沿岸に作られました。733年、出羽国府として秋田城が建てられました。一方、太平洋側は郡山遺跡などを上手く利用しました。724年、多賀城が新しく建てられました。多賀城は陸奥国府と鎮守府の役割を持ち、平城京・大宰府と同じくらい大事な場所でした。朝廷は来るならば受けて立つ精神で蝦夷に立ち向かいました。もし、蝦夷が負けを認めると俘囚として給料とかごちそうとかを与えました(懐柔)。一方、蝦夷が負けを認めなかったら、徹底的に一掃しました(武力)。また、朝廷は俘囚を一人一人ばらばらに遠い地域に住まわせて反乱を起こしにくくしました。さらに北陸の公民と関東の公民を柵戸として、東北の城柵の近くに住まわせて軍事の見張りなどをさせました。こうして、東北地方を少しずつ治めました。
南九州の隼人は朝廷に従う立場でした。8世紀初め、朝廷が薩摩国・大隅国を南九州に作りました。これに対して、一部の隼人が力ずくで朝廷に反対します。朝廷も力ずくで隼人の反対意見を沈めました。やがて、朝廷は贈り物を朝廷に出すように隼人へ命令しました。その後、また、朝廷は種子島・屋久島も隼人と同じように治めました。こうして、朝廷は南九州も治めました。
奈良時代前半の政治
[編集]8世紀初期、皇族と畿内の有力貴族はお互いに仲良く律令体制を運営していました。この時期、藤原不比等は法律[大宝律令・養老律令]の整備を進めました。その後、藤原氏が国内の政治に強い影響を持つようになりました。こうなると、大伴氏の立場とか佐伯氏の立場とかが次第に弱くなって藤原氏と対立するようになりました。
藤原不比等は、藤原家を朝廷の中心で力を持てるように、天皇家と親戚になるようにしました。第一に自分の娘[藤原宮子]を文武天皇と結婚させて男の子[皇子]を産ませました。やがて、この子供は天皇の地位を受け継いで聖武天皇となりました。第二に聖武天皇と光明子[光明皇后]を結婚させました。こうして藤原不比等は天皇家と深い親戚関係になり、朝廷の中でも強い指導者となりました。
父親の高市皇子と母親の御名部内親王〔天智天皇の娘〕が結婚して長屋王〔天智天皇の息子〕を産みました。長屋王は天武天皇と天智天皇の身内でした。そして、長屋王は吉備内親王〔天武天皇の娘〕・〔藤原不比等の娘〕を母親に選んで、朝廷に近づきました。藤原不比等の死去後、長屋王は国内政治で最も重要な役割を担いました。聖武天皇が奈良時代の天皇になると、左大臣として国内政治を動かしました。しかし、長屋王の嘘情報《聖武天皇の裏切り者》が729年に広まりました。兵士がこれを聞いて長屋王の屋敷を囲みました。長屋王はこの屋敷から逃げられず、吉備内親王・子供も含めて全員自殺しました(長屋王の変)。
| 長屋王の変 |
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| 歴史書『続日本紀』にも「長屋王の噂情報は嘘で、吉備内親王も悪くなかった」と記されています。当時、藤原不比等の息子達〔武智麻呂・房前・宇合・麻呂〕が政治の指導者になりたがっていました。藤原不比等の息子達はやがて藤原南家・藤原北家・藤原式家・藤原京家の祖先になりました。聖武天皇と光明子が結婚して子供を授かりますが、その子供を幼い内に亡くなると次期天皇を誰にするのかの不安も高まりました。また、聖武天皇は県犬養三千代と再婚して子供も授かっていたので、藤原不比等の息子達は藤原家の立場を守るために、光明子を聖武天皇の正式な妻(皇后)にしたいと考えました。当時の正式な妻(皇后)は皇族の女性内で選ばれました。そのため、天武系の長屋王がその妨げになると見られました。このような背景から、藤原不比等の息子達〔武智麻呂・房前・宇合・麻呂〕は嘘情報を使って長屋王を追いつめました。当事件直後、これまでの歴史の中で初めて皇族以外から正式な妻(皇后)に選ばれました。この後、藤原氏は皇后の一族(外戚)として強い立場を手に入れました。武智麻呂は大納言になり、房前・宇合・麻呂も重要な役職につきました。こうして藤原氏が国内政治を動かす立場になりました。天武天皇の身内は長屋王の死後から弱まり、その後の摂関政治にもつながりました。 |
長屋王の変以降、藤原不比等の息子達〔武智麻呂・房前・宇合・麻呂〕が朝廷の中心になりました。武智麻呂・房前・宇合・麻呂は光明皇后〔聖武天皇の母親〕の従兄弟なので、聖武天皇の親戚でもあります。藤原4兄弟は、唐の政治制度を上手く取り入れて、律令管制と地方行政を整えつつ、国内政治を上手く動かそうとしました。その結果、国内政治は一旦落ち着きました。しかし、九州地方の天然痘が737年から全国に広がりました。藤原4兄弟も天然痘で命を落としました。有力公卿達も天然痘で命を落としたので、律令政治が一時出来なくなるほどでした。天然痘の流行から藤原氏の勢いは大きく弱まりました。その後、天皇の身内・他氏族が国内政治を動かすようになりました。天然痘の流行は奈良時代の政治制度も大きく変えました。
藤原不比等の息子達〔武智麻呂・房前・宇合・麻呂〕の死去後、橘諸兄〔腹違いの兄弟〕が政権を握りました。県犬養三千代〈橘諸兄の母親〉は藤原不比等と結婚して、光明皇后を生みました。やがて、天然痘の感染拡大から藤原氏も表に立てないほど弱まっていました。橘諸兄は皇族と藤原氏の立場を上手くまとめ、国家を落ちつかせようとしました。橘諸兄は吉備真備・玄昉と協力して政治を進めました。吉備真備と玄昉は遣唐使として唐(中国)に渡り、学問・政治制度を学んで日本へ帰りました。玄昉は仏教を使って日本を守ろうとしました。吉備真備は法律・政治制度・学問制度を整えました。吉備真備と玄昉は唐の制度を日本にも取り入れようとしました。一方、当時の社会は長年の飢饉・病気から庶民の生活も益々苦しくなりました。やがて、政治が宗教に頼るようになり、地方の役人・旧貴族の不満もたまりました。740年、藤原広嗣〔藤原宇合の子〕は九州の大宰府滞在中に玄昉と吉備真備を辞めさせるために兵士を集めて反乱をおこしました(藤原広嗣の乱)。聖武天皇はすぐに藤原広嗣討伐軍を送り、藤原広嗣の乱を終わらせました。事件後、玄昉と吉備真備の立場はいったん揺れましたが、橘諸兄の政治は続きました。藤原広嗣の乱は政治の混乱をはっきり示しました。
度重なる遷都と鎮護国家の仏教
[編集]朝廷は藤原広嗣の乱後でも国内の混乱から政治を思い通りに進められませんでした。そのため、聖武天皇は平城京から政治の中心地を引っ越ししようと考えました。聖武天皇は最初に山背国の恭仁京へ向かい、恭仁京を新しい政治の中心地にしました。しかし、ここでも大きな混乱から次に摂津国の難波宮へ向かい、さらに近江国の紫香楽宮へ移り、政治の拠点を何度も変えました。これらの遷都は当時の不安定な政治に向き合いながら、相応しい政治の中心地を探すために数年間続けられました。結局、聖武天皇は再び政治の中心地を大和国の平城京に戻しました。こうして、一連の遷都は終わりました。
天平当時の庶民は何度も食料不足になり、天然痘も広がりました。また、朝廷の政治も上手く進みませんでした。聖武天皇は国家を立て直すために全国各地に寺院を建てました。741年、山背国の恭仁京で国分寺・国分尼寺を全国各地に建てるように指示しました(国分寺建立の詔)。国分寺建立の詔は各地に七重塔を造り、金光明最勝王経などの護国経典も揃えるように示されました。また、僧侶20人[国分寺]・尼10人[国分尼寺]が暮らすように示されました。ただし、国分寺建立の詔は大きな計画なので、国分寺・国分尼寺をじっくり建てています。実際の工程具合は地方の有力者[郡司など]の協力から少しずつ進みました。当時、災害が続くと為政者の徳不足と見られがちでした。聖武天皇も中国思想を取り入れているので聖武天皇自身の徳不足を何度も反省文に出しています。この姿勢から仏教を使って国家を立て直したい気持ちがはっきり見えます。このように、聖武天皇は仏教を使って国家を守るような考え方(鎮護国家思想)を朝廷に取り入れました。
743年、聖武天皇は大仏造立の詔を近江の紫香楽宮で出しました。大仏造立目的・庶民への呼びかけなどを続日本記へ記されています。また、盧舎那仏制作も鎮護国家思想がからんでいます。
行基は盧舎那仏〔大仏〕制作開始からあちこちを歩き回って信者を呼び集めました。信者達は行基の周りに集まり、作業場へ向かいました。信者達は丸太を数人で持ち上げたり、土を盛ったり、足場の板を並べたりして工事を助けました。こうして、盧舎那仏制作の協力者は日に日に増えました。しかし、紫香楽宮の盧舎那仏制作は何度も地震に襲われ、土砂崩れ・倒壊に見舞われました[1]。さらに、貴族達から紫香楽宮で大仏制作反対意見が上がりました。745年、政治の中心地が奈良の平城京へ戻ると大仏設計図面・道具も奈良へ運びました。以降、東大寺の本尊建築と大仏制作を同時に進めました。職人達は銅合計444トン・金合計400キログラムを何度も何度も小分けにして運び込まれました。炉の中へ銅を入れて溶かし、大きな柄杓で大仏模型に流し込みました。また、水銀は鋳造・鍍金で使われました。器から器へ移し替えたり、大仏の表面に近づいて水銀と金を塗ったりしたら白い煙を立ちのぼらせました。職人達は咳をしながら腕を動かしました。大仏の完成まで、重労働・健康被害・過労から逃れられませんでした。
聖武天皇は政治業務を辞めて、僧侶になりました。その後、天皇の立場を孝謙天皇に渡しました。東大寺の大仏は孝謙天皇に代わっても造り続けました。仏教が日本に伝わってから約200年後に東大寺の大仏も完成しました(752年)。この時、完成を国家の成果として公開するために開眼供養を行いました。聖武太上天皇・光明皇太后・孝謙天皇が揃って東大寺に集まり、朝廷の役人・世界の僧侶まで集まりました。そして、インドの僧侶が開眼供養で大仏に黒目を入れました。開眼供養は朝廷の仏教尊重を国内にも海外にも分かりやすく伝わりました。また、東大寺・法華寺は総国分寺・総国分尼寺に選ばれました。
資料出所
[編集]- 渡邊晃宏ほか編著『日本史探究』東京書籍株式会社 2023年
- 山中裕典著『改訂版 大学入学共通テスト 歴史総合、日本史探究の点数が面白いほどとれる本』株式会社KADOKAWA 2024年
- 佐藤信、五味文彦ほか編著『詳説日本史研究』株式会社山川出版社 2017年
- 河合敦著『世界一わかりやすい河合敦の日本史B[原始~鎌倉]の特別講座』株式会社KADOKAWA 2014年(絶版本)
ここに注意!!
[編集]- ^ 歴史史料『続日本記』に記述。この記述内容は日本史探究の全教科書・全参考書・資料集に記載されていません。