コンテンツにスキップ

高等学校日本史探究/奈良時代の政治Ⅲ

出典: フリー教科書『ウィキブックス(Wikibooks)』
小学校・中学校・高等学校の学習>高等学校の学習>高等学校地理歴史>高等学校日本史探究>奈良時代の政治Ⅲ

※本節は奈良時代の土地制度と奈良時代後期の政治制度を学びます。

なお、歴史重要用語の妻問婚と貧窮問答歌は「奈良時代の人々の暮らし」のページに掲載しています。

公地公民制の修正

[編集]

奈良時代になると、各地で口分田が荒れて使えなくなりました。また、日本の人口増加から口分田が全公民へ行き渡らなくなりました。川から水を引くための用水路・水門が壊れて上手く水を引けなくなりました。例え、農民が鍬を構えて口分田に入っても固い土で耕せなくなっていました。そのため、一部の農民は一家揃って別の村へ移るようになりました。その結果、役人の推定口分田数と実際の口分田数が合わなくなりました。一部の上級国民は口分田を朝廷へ返さないで自分の仲間へ回したり、自分の口分田にくっつけたりするようになりました。その結果、班田収授法も思うように上手く働かなくなりました。役人達は口分田数減少から、「租を全て徴収出来ません」と伝えました。

722年、朝廷は諸国に「美しく実るような田地[良田]を新しく豊富に作りなさい」と指示しました(百万町歩開墾計画)。この時、食料と道具が男性労働者達[人夫]に配られました。しかし百万町歩開墾計画面積の広さから、作ろうとしても人員と時間が全く足りませんでした。結局、どの地域でもそれなりの良田しか作れませんでした。こうして、百万町歩開墾計画は名前だけ残して終わりました。

723年、朝廷は田地を増やして収穫量も増やしたいから三世一身法(養老7年の格)を決めました。三世一身法制定以降、新しい用水路を作って田地も作ったらその人から数えて三代[子・孫・曽孫]までこの田地を使えるようになりました。一方、以前の用水路を使って田地も作ったらその人のみが田地を使えました。『続日本紀』にも三世一身法の内容は記されています。しかし、コメの収穫が近付くと彼らは田畑を捨てて立ち去りました。その結果、せっかく田畑を広げても次第に荒地に戻り、朝廷の狙い通りに進みませんでした。

墾田永年私財法は橘諸兄政権の743年に定められました。以前の墾田は所持年数も決まっていて、所持年数経過したら朝廷へ返却しなければなりませんでした。墾田永年私財法が定められてから、持ち主自身の墾田ならいつまでも持ち主の財産として残せるようになりました。『続日本紀』にも、「今後、三世一身法のような世代区別をもう使わない。」と記されており、当時の考え方がそこからよく分かります。また、墾田永年私財法から一品親王(500町以内)・一位貴族(500町以内)・二品親王(400町以内)・二位貴族(400町以内)・庶民(10町以内)と墾田所持面積まで決められていました。しかし、朝廷は有力貴族・大寺院・地方豪族の優遇ばかりして庶民にほとんど恩恵を受けていない声もありました。765年になると、朝廷もこの声を気にして開墾を一時禁止しました。772年から再び開墾を許されました。こうして見ていくと、奈良時代の土地制度は人々の暮らしにも気持ちにも深く関わっています。

身分 墾田所持面積
一品親王・一位貴族 500町以内
二品親王・二位貴族 400町以内
庶民 10町以内
初期荘園の雰囲気図なので、文字表記は大幅に簡略化されています。制度名・用語の正式な表記および詳細な説明は当本文を参照してください。

墾田永年私財法が定められてから、個人の持ち物として墾田をいつまでも持てるようになりました。その結果、有力貴族・大寺院・地方豪族が墾田永年私財法の恩恵を大きく受けました。有力貴族・大寺院・地方豪族は国司・郡司の協力を受けつつ労働者を集めて新しい用水路と広い墾田を次々と作り出しました。この広い墾田はそのまま有力貴族・大寺院・地方豪族の持ち物となり、貯蔵倉庫・管理建物までその付近に建てられました(荘所)。その後、荘所は初期荘園(古代荘園)と呼ばれるようになりました。初期荘園(古代荘園)は輸租田として数えられ、朝廷の収入も増えました。

寺院・貴族は開墾拡大から近隣農民に田地を貸しました。一方、農民は毎年の収穫から寺院・貴族に少しコメを分けました(地子)。今でいう不動産の賃料に近いと考えてください。このような賃料(賃租)は乗田でも使われていました。貧しい農民はこの方法で日常生活を支えました。寺院・貴族も農民が田畑を耕してくれるので、お互いに好都合な仕組みでした。その後、初期荘園でも賃租がそのまま受け入れられて、自然に広まりました。

開墾拡大から、少しずつ日常生活の違いが農民間でも目立つようになりました。やがて、一部の農民は口分田を捨てて本籍地から離れたり、租庸調などに耐えられないからこっそり姿を消したりしました(浮浪・逃亡)。また、造営労役逃亡者・無許可出家者(私度僧)・貴族の従者までいました。このような農民行動はどれも当時の厳しさを物語っていました。その結果、租庸調の未納・品質低下・兵士の弱体化などが問題になって公地公民制も弱まりました。

大半の初期荘園(古代荘園)は国司・郡司に支えられていました。しかし、国司・郡司が初期荘園(古代荘園)を大切にしなくなると荘民も集まらなくなりました。その結果、初期荘園(古代荘園)も次第に成り立たなくなりました。一方、大寺院の開墾は各地で続いていました。東大寺などは北陸地方の広い原野を切り開いて、新しい土地を広げました。この流れで毎日の作業を積み重ねて田畑を守り、周りから頼られるような有力農民が育ちました。有力農民は各地で少しずつ増えて、平安時代以降から田堵と呼ばれるようになりました。このように、初期荘園(古代荘園)が弱まると農村の雰囲気も少しずつ変わりました。

奈良時代後半の政争

[編集]
孝謙天皇[称徳天皇]

藤原南家の藤原仲麻呂孝謙天皇時代に朝廷内で少しずつ力を伸ばしていきました。藤原仲麻呂は藤原武智麻呂の息子として生まれ、光明皇太后からかなり可愛がれていました。藤原仲麻呂の活躍が目立つと次第に重要な仕事を任され、朝廷の指導者に近くなりました。橘諸兄から藤原仲麻呂へ代わると橘奈良麻呂[橘諸兄の息子]は藤原仲麻呂の進め方に納得出来ませんでした。だから、橘奈良麻呂は大伴氏・佐伯氏・一部の皇族と手を組んで藤原仲麻呂を朝廷から追い出そうと考えるようになりました。757年、藤原仲麻呂が橘奈良麻呂の動きを察知して先に動きました。橘奈良麻呂・大伴氏・佐伯氏・一部の皇族は捕まり、国家反逆罪として重罪になりました。こうして、橘奈良麻呂の作戦は失敗に終わりました(橘奈良麻呂の変)。事件後、国家反逆者達は何も意見を言えなくなりました。藤原仲麻呂は朝廷の指導者として政治を動かしました。

757年、藤原仲麻呂は国内政治の修正を図りたいから養老律令を実際に使い始めました。藤原仲麻呂は養老律令を使って藤原仲麻呂の立場をはっきりさせようとしました。また、唐の儒教思想を日本に取り入れて、日本の律令制度を見直しました。藤原仲麻呂は国内政治改革中に味方の大炊王[天武天皇の傍系皇族]を天皇にさせました。大炊王は藤原仲麻呂の屋敷で暮らしていたため、日頃から藤原仲麻呂の思想・行動を教えられていました。大炊王が天皇になると、直系長子の皇位継承も一旦区切れました。また、朝廷でも藤原仲麻呂の意見に沿って動くようになりました。その後、藤原仲麻呂は別名の恵美押勝を貰ってから大師[太政大臣]の地位に就きました。なお、大師[太政大臣]は藤原氏でも相当高い地位でした。こうして、藤原仲麻呂(恵美押勝)は名実ともに朝廷の中心人物になりました。

藤原仲麻呂(恵美押勝)は光明皇太后の死去で後ろ盾を失って、周囲の貴族達から少しずつ距離を置かれるようになりました。そのため、以前のような立場は次第に取れなくなりました。孝謙天皇は淳仁天皇へ皇位を譲って太上天皇(孝謙上皇)になりました。僧侶の道鏡は精神回復から病気を直してくれたので、孝謙上皇も彼をかなり信頼するようになりました。孝謙上皇は道鏡と毎日相談するようになりました。孝謙上皇は道鏡の意見を強く取り入れるようになり、孝謙上皇と道鏡の圧力が強まりました。淳仁天皇・藤原仲麻呂(恵美押勝)側の政治方針と孝謙上皇・道鏡側の政治方針と食い違うようになり、関係が悪くなりました。藤原仲麻呂(恵美押勝)は孝謙上皇に「政治方針に気をつけてほしい。」と注意したそうです。しかし、孝謙上皇から見たらこの注意は理不尽な注意なので、激怒しました。その結果、孝謙上皇と藤原仲麻呂(恵美押勝)の関係はさらに悪くなりました。つまり、朝廷内部でも政治の中心がどちらなのかはっきりしなくなりました。

当時の政治はかなり混乱しました。淳仁天皇も孝謙上皇も周囲の貴族達をそれぞれ味方にしました。主導権はその時の出方から変わりました。このような状況が藤原仲麻呂政権の崩壊にもなりました。

藤原仲麻呂の乱拡大

藤原仲麻呂(恵美押勝)は当時の政治方針に大きな不安を感じていて、「このまま放っておいたら、主導権も孝謙上皇・道鏡側に奪われていくかもしれない。それなら、もう武力を使ってでも主導権を取り戻すしかない。」と思っていました。その後、藤原仲麻呂(恵美押勝)は家来に声を掛けて兵士を集めさせました。764年、藤原仲麻呂(恵美押勝)は自分の考えを通すために兵士を使って孝謙上皇・道鏡側の兵士と争い始めました[藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱]。しかし、孝謙上皇・道鏡側は淳仁天皇・藤原仲麻呂(恵美押勝)側の動きを事前に知って対応しました。だから、淳仁天皇・藤原仲麻呂(恵美押勝)側の兵士は最初から負けやすくなっていました。藤原仲麻呂(恵美押勝)は近江から越前へ逃げようと図りました。しかし、孝謙上皇・道鏡側の兵士に追いつかれ、命を落としました。孝謙太上天皇は藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱に勝って、再び政治の中心に立ちました。以降、朝廷の主導権は称徳天皇(孝謙上皇)・道鏡側へ移りました。一方、淳仁天皇は天皇をやめさせられて淡路島へ送られました。淳仁天皇(淡路廃帝)は宮廷のような大きな政治活動にもう関われなくなり、静かな生活を送るしかありませんでした。淳仁天皇(淡路廃帝)は淡路でも逮捕されました。そして、再逮捕翌日に牢獄内で亡くなりました。『続日本紀』の史料は病死とされていますが、葬儀の記憶が記されていません。そのため、一部の歴史学者は暗殺説も提唱されています。

国内は恵美押勝の乱以降でも、落ち着きませんでした。このため、孝謙上皇は再び天皇に戻りました(重祚)。以降、彼女は称徳天皇として国をまとめようとしました。国を立て直したい気持ちだけでなく、側近の道鏡[僧侶]も大きく関わっていました。道鏡は弓削連氏[河内国の地方豪族]で生まれました。幼い頃から仏教の勉強を真面目に行い、厳しい修行も続けました。道鏡はサンスクリット語の仏典まで学んでおり、その知識と努力は周囲から高く評価されていました。やがて、道鏡は朝廷の修行部屋[内道場]に呼ばれたら賢い僧侶[禅師]として務めました。こうして、道鏡は少しずつ朝廷内でも信頼されるようになりました。また、道鏡は孝謙上皇(称徳天皇)の寝床付近で看病も任されました。この看病から、孝謙上皇(称徳天皇)は道鏡をさらに信頼するようになりました。このような積み重ねから、道鏡は宮廷政治にも深く関わるようになっていきました。

道鏡は称徳天皇からかなり可愛がられ、称徳天皇の側近として主導権も握るようになりました。やがて、特別な立場[太政大臣禅師・法王]に就けるようになり、国内政治も動かせるようになりました。なお、法王は宗教の中でもかなり高い特別な身分でした。したがって、以前のように官吏同士の話し合いから施策を決めなくなりました。仏教思想を政治にそのまま取り入れるほど、道鏡の存在は益々大きくなり、称徳天皇と一緒に施策を考えるように変わりました。また、称徳天皇は西大寺・西隆寺の建築と百万基の木製小塔(百万塔)の制作を指示しました。どれも、根拠のない鎮護国家思想から進められました。こうして、宗教と政治が再び重なるようになりました。しかし、西大寺・西隆寺の建築と百万基の木製小塔[百万塔]の制作は大きな出費になりました。その結果、国家の財政も赤字になりました。赤字になると、従来の律令国家制度を継続しにくくなりました。

しかし、称徳天皇の息子は生まれませんでした。そのため、次期天皇継承問題も早くから大きな話題になりました。769年、宇佐八幡宮の神から「道鏡が天皇になったら国家も落ち着きます。」みたいな内容が朝廷に伝わりました(宇佐八幡神託事件)。当時の道鏡は称徳天皇(旧孝謙天皇)からかなり可愛がられていました。その結果、「道鏡が天皇になったら国家も落ち着きます。」はまるで道鏡を次期天皇にしようとしているみたいに聞こえました。しかし、この内容の信憑性・背景は曖昧になっていました[1]。この噂は朝廷でも大きく広まって、微妙な緊張感も漂っていました。そこで、和気清麻呂がこの内容の信憑性・背景を確かめに九州地方の宇佐八幡宮へ行きました。和気清麻呂は丁寧に調べてから朝廷へ戻り、「天皇は皇族内から選んでほしいと宇佐八幡宮の神から言われました。」と称徳天皇(旧孝謙天皇)へ伝えました。その後、道鏡を次期天皇候補から外されました。一方、藤原百川[藤原式家]・藤原永手[藤原北家]は道鏡の勢いをかなり警戒していました。藤原百川[藤原式家]・藤原永手[藤原北家]は「このままだと藤原家の立場が危なくなる。」と思っていました。その思いが道鏡の天皇即位を止めようと動き出しました。したがって、宇佐八幡神託事件は見えない駆け引きも重なり合いながら道鏡の天皇即位を止めました。

宇佐神宮

称徳天皇(旧孝謙天皇)が770年に亡くなると、次期天皇さえ決まらなくなりました。その結果、道鏡はいくら称徳天皇(旧孝謙天皇)から可愛がられてても亡くなったら完全に勢いを失いました。朝廷内の貴族達は次期天皇をどうするか話し合いしました。次期天皇は藤原百川・藤原永手などを中心に意見をまとめ、これまでの天武系から天智系へ皇位継承するように決まりました。その後、白壁王[天智天皇の孫]が光仁天皇として次期天皇になりました。なお、光仁天皇は政治問題・皇族の整理問題さえも上手く乗り越えられるから選ばれました。一方、道鏡は下野薬師寺に飛ばされて、下野薬師寺の役職[別当]にされました。道鏡は下野薬師寺から朝廷に戻れないまま亡くなりました。この出来事は奈良時代後半の政治方針を大きく切り替えました。

当時の称徳天皇・道鏡は寺院を大量に建築するように指導しました。その結果、寺院建築費用が国家の予算よりも上回り借金するようになりました。光仁天皇が指導者となると、人件費を大きく削減して律令政治を立て直そうと動き出しました。行政組織の官庁縮小化とか公務員[官人]の削減とか国司・郡司の問題行動有無を行いました。光仁天皇の政治は桓武天皇にも受け継がれました。また、政治と宗教は称徳天皇・道鏡にかけて強く結びついていました。皇族の流れも変わり、律令制度も見直されました。したがって、奈良時代後期は光仁天皇以前と光仁天皇以降で大きく政治も変わりました。

資料出所

[編集]
  • 平雅行、横田冬彦ほか編著『日本史探究』実教出版株式会社 2023年
  • 佐藤信、五味文彦ほか編著『詳説日本史探究』株式会社山川出版社 2023年
  • 渡邊晃宏ほか編著『日本史探究』東京書籍株式会社 2023年

ここに注意!!

[編集]
  1. ^ 最近、貴族・僧侶が当時の神託をなりすまししていたかもしれないと歴史学者も示しています。したがって、称徳天皇はこの神託から道鏡を次の天皇になれるような考え方もはっきりしません。