高等学校歴史総合/明治の国会と政党

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日本の政党政治[編集]

日本の議会では、日清戦争後、政党の力が強くなりました。

民権派の大隈重信(おおくま しげのぶ)と板垣退助(いたがき たいすけ)が憲政党(けんせいとう)を結成し、それまでの第三次伊藤博文内閣(いとう ひろぶみ)に代わり、1898年に大隈重信を首相とする日本で最初の政党内閣が生まれた( 「隈板内閣」(わいはんないかく)という。 ※ 中学範囲外か)。

※ なお、「政党内閣」でなく「政党」そのものは、1881年に板垣退助が自由党(じゆうとう)を結成しており、1882年に大隈重信が立憲改進党(りっけん かいしんとう)を結成している。1881年〜1882年当時の国会開設をめぐる板垣と大隈との意見の違いで、当時は政党が別れてるのである。
※ 憲政党は隈板内閣の誕生後に分裂するが、本書では両方とも「憲政党」として扱う。ちなみに「憲政党」(旧・自由党系)と憲政本党(旧・進歩党系)に分裂する。
山県有朋(やまがた ありとも)

1898年の板垣と大隈の内閣はわずか4ヵ月あまりで倒れ、1898年11月から(第二次)山県有朋(やまがた ありとも)内閣になる。山県有朋は、政党勢力が官僚に入り込めないように、文官任用令(にんようれい)を制定した。

※ テストなどで、発音につられて「山県」をまちがえて「山形」と書いてしまう誤字が多いので、山県有朋を漢字で書く際には「ヤマケン アリトモと書く」ように覚えよう。

(※ また山県内閣は軍部大臣現役武官制(ぐんぶだいじん げんえきぶかんせい)という制度を制定し、軍部大臣には、現役の陸海軍大将・中将しか、なれないようにした。これは政党の力が軍部におよぶのをふせぐためである。この単元の範囲をこえるので、くわしい説明を省略。とりあえず、この「軍部大臣現役武官制」の用語が、のちの時代に、とても重要になる用語だということを知ってもらいたい。)

このような山県の政党への制限に、憲政党は不満をもった。憲政党は、山県と対立する伊藤博文(いとう ひろぶみ)に接近していった。

そして山県内閣が終わり、1900年には伊藤博文(いとう ひろぶみ)が、伊藤みずからを総裁(そうさい)とする立憲政友会(りっけん せいゆうかい)の結成が9月に予定されていたので、憲政党はこれに合流し、そして立憲政友会が予定どおりに9月に結成され、1900年10月から立憲政友会による第四次伊藤内閣になった。

※ 憲政党と立憲政友会は対立していない。議会で対立したのは、山県系の勢力と、政党系の勢力である。

つまり順序は、

憲政党隈板内閣山県有朋内閣 → 伊藤博文の立憲政友会の内閣

である。

なお、伊藤内閣は貴族院の反対によって退陣させられ、1901年に政権が桂太郎(かつら たろう)内閣に変わる。桂は、山県系の人物だと考えられている。

※ 政党名がたくさん出てくるが、まず覚えるべき政党は、「憲政党」「立憲政友会」の二つであり、覚えるべき人物については憲政党の大隈重信と板垣退助、および立憲政友会の伊藤博文である。他の政党を覚えるよりも、それなら「山県有朋」をさらに覚えたほうが、政争の背景が分かりやすくなるだろう。