高等学校歴史総合/歴史のなかの16歳 工女と工場法
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明治時代の女性と野麦峠越え
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北アルプスの標高1672mに野麦峠があり、長野県と岐阜県の県境にあります。食料もあまりなく、人々は草の実(クマザサ)を食べて、何とか生き延びました。クマザサの実(野麦)は特に飛騨地方で大切にされました。飢饉が飛騨地方で起こっても、この実で団子を作り、飢えを凌いでいました。明治時代になると、飛騨地方の10代女性は家族の生活を守るために野麦峠を越えて長野県の諏訪地方へ向かいました。なぜなら、会社とか工場が飛騨地方にあまりなかったからです。10代女性は諏訪湖付近の製糸工場に数多く勤め、糸を作りました。野麦峠は時代変化とか10代女性の努力とかを伝える場所になっています。
日本の工場法は20世紀初期まで整わず、女性労働者の労働環境も整いませんでした。例えば、飛騨地方の10代女性(工女)は野麦峠を越えて製糸工場に向かい、朝早くから夜遅くまで長時間働かされました。工女は食事時間とか休憩時間とかもあまり貰えませんでした。もし体調が悪くなると、製糸工場から仕事を辞めるように言われました。厳しい労働環境で命を落としてしまう工女もいました。特に工女の移動経路はとても険しく、家族に見守られながら亡くなりました。当時、労働者の権利とか労働者の健康とかはほとんど守られませんでした。
工場労働の社会問題化
[編集]イギリスの産業革命から工場は大幅に増え、国民の働き方も大きく変わりました。一方、工場の厳しい労働条件が大きな社会問題になりました。19世紀になると、このような労働問題と向き合うために工場法が定められました。1833年、一般工場法が定められました。幼い子供の労働を禁止したり、若者の労働時間も決めたり、工場監督者を置いたりしました。1844年、女性が安心して働けるような条文を一般工場法に加えました。女性と子供の労働時間は1847年の一般工場法から10時間以内と決められました。
日本でも19世紀後期から20世紀初期にかけて数多くの労働者が工場で働くようになりました。一方、労働者の厳しい労働条件とか労働者の長時間労働が大きな社会問題として取り上げられました。そこで、工場法が1911年に定められました。日本の工場法はヨーロッパの法律を参考にして、日本の若い官僚が中心になってまとめました。子供の労働禁止・子供と女性の労働時間制限・子供と女性の夜間労働禁止・怪我人の救助などが日本の工場法に定められました。しかし、紡績・製糸業の経営者は工場法に強く反対しました。そのため、工場法は5年後の1916年に入ってから動き出しました。また、工場法の内容が全て実行されていません。例えば、子供と工女の夜間労働禁止は1929年まで延期されました。このように、工場法は工場経営者の意見とか社会の様子とかに合わせて、少しずつ取り入れられました。
明治時代の産業発展と工場法制定の遅れ
[編集]当時の社会とか産業の仕組みとかが日本の工場法を定めにくくしました。明治時代、自国を豊かにして世界と戦えるような国家を目指していました。そのため、女性労働者の健康と安全をあまり考えていませんでした。例えば、製糸工場などの女性労働者は厳しい長時間労働に毎日向き合っていました。労働環境もかなり悪く、女性労働者は辛い思いをしながら毎日働いていました。このような毎日は当時の労働歌にも表れています。労働歌から女性労働者の苦しみとか社会の冷たさとかがかなり表れています。豊かな国になればなるほど、数多くの人が苦しんだり、我慢をしたりしていました。その結果、日本の工場法も遅れて定められました。