「高等学校歴史総合/日本の大陸進出」の版間の差分

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小学校社会 6学年 上巻 2015年11月6日 (金) 16:14 より、宋美齢について。
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=== 満州事変 ===
=== 満州事変 ===
[[File:Manchukuo map 1939.svg|thumb|600px|満州国の位置。Manchukuoが満州国。1939年ごろ。]]
[[File:Manchukuo map 1939.svg|thumb|600px|満州国の位置。Manchukuoが満州国。1939年ごろ。]]

[[File:満州国建国ポスター.jpg|thumb|満州国の建国時のポスター。 「五族協和」をうたっており、そのため、右から順に日本・モンゴル族・満州族・朝鮮族・漢民族が書かれている。]]
中国大陸の東北部にある満州で、日本軍により1931年に'''満州国'''(まんしゅうこく)が建国されます。
中国大陸の東北部にある満州で、日本軍により1931年に'''満州国'''(まんしゅうこく)が建国されます。



2016年12月27日 (火) 00:19時点における版

満州事変

満州国の位置。Manchukuoが満州国。1939年ごろ。

中国大陸の東北部にある満州で、日本軍により1931年に満州国(まんしゅうこく)が建国されます。

満州事変にいたるまでの経緯

殺された、張作霖(ちょう さくりん)

中国では、辛亥革命のあと、各地で、「自分こそが中華民国の正当な支配者である」などというようなことを主張する多くの軍閥が、おたがいに、あらそっていた。

孫文のつくった国民党と、そのあとをついで国民党の支配者になった蒋介石も、当時は、そのような軍閥の一つにすぎない。中国の国民は、だれも選挙で蒋介石をえらんではいない。当時の中国に選挙の制度なんて無い。

満州を支配していた中国人は、張作霖(ちょう さくりん)という満州地方で軍閥をひきいていた人物だった。張作霖は、満州および北京を支配していた。

満州の軍閥の張作霖は、日本と協力することで日本を利用して、満州を実質的に支配していた。


いっぽう、中国大陸の南部では、国民党の蒋介石が南京を中心地に支配していた。蒋介石は、アメリカ・イギリスとの外交を重視した。

蒋介石は、中国の統一を目指し、張作霖ひきる北京政府を倒す戦いを始めた。この蒋介石のたたかいを 北伐(ほくばつ) と言う。

蒋介石ひきいる北伐軍が北京にせまってきたので、張作霖は北京から奉天に引き上げようとした。その列車の中で、張作霖は日本の一部の軍人の陰謀により爆殺される。張作霖が、日本のいうことを聞かなくなってきたので、かれを殺害しようとする陰謀だった。

この爆殺事件を「張作霖爆殺事件」(ちょうさくりん ばくさつじけん)などと言う。


だが結果的に、陰謀は裏目にでる。張作霖の息子の張学良(ちょう がくりょう)は日本に反発し、蒋介石ひきいる国民党に合流することになる。

当時の首相の田中義一らは、この爆殺事件の犯人の日本軍人たちをきびしく処罰しようとした。 だが政府は、陸軍などの反対にあい、犯人の軍人たちを、きびしく罰することができなかった。そのせいで、のちに軍人たちが政府や議会のいうことを聞かなくなっていく。


そもそも北京から北の地方の土地である満州地方などは、歴史的には、中国の土地ではない時代が多い。中華民国の前の清の時代には、たまたま満州が清を支配していた満州族の出身地だったので、清では満州は清の領土だった。また、中華民国ができた後も、中華民国が清の領土を引きつぐことになったので、国際社会からは満州は中華民国の領土だと見なされていた。

このような背景があるので、日本は直接は満州を支配せず、張作霖などを通して満州への影響力をもっていた。

満州の実効的な支配をめぐって、日本の軍部と蒋介石と張一族などの軍閥とが、あらそった。

満州の住民は、だれも支配者を選挙で選んでいない。日本の進出が満州住民からは選挙で選ばれてない。また蒋介石の満州進出の方針も、べつに満州住民から選挙で選ばれたわけではないし、張一族も満州住民から選挙されてはいない。


日本は、はじめは、まだ満州を占領していない。そもそも満州に日本軍をおくようになったキッカケは、日露戦争の勝利によって、鉄道などの権益をロシアから日本がゆずりうけ、その権益をまもるために満州に日本の軍隊がおかれたのであった。

よって、そもそも日本政府は満州の領有をめざしていなかった。このため、満州事変をおこしたのは、けっして日本政府の命令ではなく、現地の日本軍の軍人が勝手に満州事変を行ったのである。

満州事変

満州現地の日本軍の関東軍(かんとうぐん)は、軍閥や国民党よりも先に満州を占領しようと考えた。

石原莞爾(いしはら かんじ)
溥儀(ふぎ、プーイー)

陸軍課長であった石原莞爾(いしはら かんじ)は、満州を占領する口実をもうけようとして、満州の日本軍は自作自演(じさくじえん)の事件を起こさせた。

どういう事件かというと、柳条湖(りょうじょうこ、リウティアオフー)ちかくの南満州鉄道(みなみ まんしゅう てつどう)の線路を爆破した事件である。この自作自演の事件を 柳条湖事件(りょうじょうこ じけん) と言う。

日本軍である関東軍は、この柳条湖事件を中国側のしわざだと断定し、奉天などの都市を占領し支配下においた。 そして1932年に、日本軍は満州国の建国を宣言した。

日本の新聞(たとえば朝日新聞など)や世論は、満州国の建国を支持した。


しかし、満州は表向きは独立国とはいうものの、満州の政治は日本人がおこなっており、実際は満州は日本の領土のような状況であった。 このことから、第二次大戦後の日本の歴史教科書では、満州国のことを「傀儡(かいらい)政権」とか「傀儡国家」などと言われることが多い。傀儡(かいらい)とは、操り人形(あやつりにんぎょう)のことである。


このとき日本本土(ほんど・・・満州や朝鮮などの「外地」に対し、本州などを「本土」と言う。)の政府は、中国とは戦争をしない方針だった。なぜかというと、イギリスが中国を支持していたため、イギリスと戦争したくない日本政府は、中国とも戦争しない方針だった。

しかし、満州の日本人居留民への中国人からの暴力事件などがあいつぎ、日本の世論が中国と協調しようとする日本政府を弱腰だと批判したこともあり、このような背景のもと陸軍は事変を強行して満州を占領をしていき、満州国の建国を宣言した。そして、清朝の最後の皇帝であった 溥儀(ふぎ) を、満州国の元首(げんしゅ)にさせた。

この一連の満州国の建国にいたるまでの事件および前後の事件を 満州事変(まんしゅう じへん) という。


満州事変では、宣戦布告(せんせん ふこく)が無いので、「戦争」とは言わずに「事変」(じへん)と言います。


当時の中華民国は、満州国の建国をみとめずに、日本と対立した。

(※ このような満州国の正当性をめぐる対立という背景のため、検定教科書では、満州のことを「満州」あるいは「満州国」 のようにカギ括弧つきで表現する教科書出版社も多い。ちなみに当時の中華民国は皮肉たっぷりに「新 満州国」などと言ってる。 後述するリットン調査書に、「新 満州国」のような中華民国による呼び方の報告がある。 )


※ 満州事変の意図を、「不況解決策として植民地拡大のために満州事変が行われた。」と見なす解釈について。 
日本軍の満州事変の意図の別の解釈として、世界恐慌にともなう日本の経済危機の解決策として、「日本の軍部が大陸への経済ブロックを確立しようと、中国への権益の支配および拡大を目指して、満州事変を起こした。」というような観点での解釈もある。たとえば高校教科書の「詳説 世界史B」(山川出版社、2012年検定版)では、だいたい、そのような感じの解釈が取られている。
現在でも、この山川出版のような、不況解決策として日本軍が満州事変を起こしたと解釈を取る学者や評論家も多い。このような「満州事変は、日本の不況解決策」という解釈も通説・定説の一つであり、読者の中学生は頭の片隅(かたすみ)に入れておく必要があるだろう。
ただし、石原莞爾は中間管理職に過ぎず(陸軍課長、つまり課長)、はたして陸軍課長が海軍もふくめて軍部全体を支配できたのかとか、疑問である。石原らの大陸の陸軍が、政府および軍の幹部からの指令を無視して、まるでクーデターのように勝手に満州現地の日本軍が動いたと見るほうが自然な解釈であろう。
また、満州事変の外交上のリスクから、英米との貿易を行いづらくなる、というリスクもある。じつは「ブロック経済」といえども1932年ごろは、まだまだ日本は英米と貿易を続けている最中でもあった。もちろん英米のブロック経済が、日本に英米との協調を放棄させる原因の一つになったという側面もあるだろう。
しかし、不況解決策と言うよりも、むしろ、事件後の石原の著作『世界最終戦論』から見ると、ソ連軍および中華民国軍への対抗策や、あるいは欧米のブロック経済への対抗という発想から、満州の支配を強化しようという考えが強く見られる。石原は、のちの1940年に『世界最終戦論』と題して、日米決戦を想定した満州・モンゴルの領有を計画した著作を出版している。『世界最終戦論』出版日は、満州事件(1932年ごろ)のあとの1940年(昭和15年)9月10日出版である。(ただし、満州事変後の著作なので、事変当時の考えとは違っている可能性もある。)
おそらく日本の軍部全体としてみても、ソ連軍および中華民国軍への対抗という軍事的な観点のほうが、軍人としての視点にも合うだろう。
思うに、石原らの対ソ連戦争のための満州事変事変的なアイデアが、ちょうど経済危機の日本国にも「経済ブロック」の確保としても好都合だったので不況解決策としても期待され、日本政府は英米との外交上のリスクよりも満州確保という軍事・経済上のメリットを取るという選択を行い、日本政府は満州国建国を認めてしまったとでも、言うところか。


五・一五事件

五・一五事件を報じる朝日新聞
犬養毅(いぬかい つよし)。犬飼は、おそってきた将校に「話せば分かる」と語ったといわれている。将校は「問答無用」(もんどうむよう)と答えてから犬飼を殺害したらしい。

このころ(1932年)、日本政府は満州の問題を、中国との話し合いで解決しようとしていた。首相の犬養毅は、満州国の承認には反対していた。しかし1932年の5月15日、日本海軍の一部の青年将校らが総理官邸に乱入して、首相の犬養毅(いぬかい つよし)を殺す事件をおこした。この一部の海軍軍人が首相を殺害した殺人事件を 五・一五事件(ご・いちご じけん) と言う。

犯人の軍人たちは、法律で処罰されることになった。だが、当時は政党の評判がわるかったので、世論では刑を軽くするべきだという意見が強かったので、犯人の軍人への刑罰を軽くした。(このような決定のせいで、のちに、軍人による、政治に圧力をくわえるための殺人事件が、ふえていくことになる。)


首相だった犬養毅が死んでしまったので、つぎの首相を決めることになり、そして次の首相は齊藤実(さいとう まこと)に決まった。斉藤は海軍出身だが、穏健派であった。

また、犬養毅のあとの首相は、しばらく軍人出身や官僚出身の首相がつづき、第二次世界大戦のおわりまで政党出身の首相は出なくなった。現在(2014年)の学校教科書などでは、このような理由もあり、五・一五事件で政党政治が終わった、と言われることが多い。

リットン調査団

中華民国の上海に到着(とうちゃく)したリットン調査団
柳条湖付近での満鉄の爆破地点を調査しているリットン調査団。
リットン。第2代リットン伯爵(リットンはくしゃく)、ヴィクター・ブルワー=リットン Victor Bulwer-Lytton

中国政府は、日本の満州での行動は不法である、と国際連盟にうったえた。そして、国際連盟による調査がおこなわれることになったので、イギリス人の リットン を委員長とする調査団の リットン調査団(リットンちょうさだん、英:Lytton Commission) が満州におくられた。


調査の結果、リットン調査団は、日本と中国の双方の主張を、みとめなかった。

調査団の報告と分析は、つぎのようなものであった。

・ 調査の結果、満州族の住民による自発的(じはつてき)な独立運動では、無い。
・ よって、満州の独立は、みとめないべきである。
・ 日本は、事変以後の占領地からは、兵を引きあげるべきである。
・ しかし、日本の(鉄道権益などの)事変前からの権益は正当なものであり、保護されるべきである。
・ 日中の両国とも、国際連盟の加盟国であり、したがって両国の権利は公平に尊重されるべきである。

リットン調査団の決定は、日本の権益をまもるための通常の警備行動の正当性を、みとめたのであった。 そもそも調査団の活動内容は、満州事変の調査と混乱の解決のための提案にすぎない。なので、事変が起こる前の日中両国の行動の正当性については、リットン調査団は疑問を主張する立場にはない。

そして、日本の権益が認められたということは、うらをかえせば、中国の蒋介石による日本に対する抗日運動(こうにち うんどう)などの戦闘をしかけていたという事実には不利な内容であり、日本に有利な内容であった。


そして、リットン調査団は、日本と中国の両国がうけいれられるようにと、日本の権益をまもるための警備行動をみとめつつ、中国の領土として満州を自治共和国にするという、日中両国に気を使った提案(ていあん)をした。


しかし、日本の世論および政府の斉藤首相および内田(うちだ)外務大臣などは、リットン報告書(リットンほうこくしょ、英:Lytton Report)の日本に有利である意図を理解せず、報告書が満州国の建国をみとめるべきでないと主張してることからリットン報告を日本に不利な内容とおもい、報告書の提案に反発した。

1933年の、日本の国際連盟からの脱退を報じる新聞記事。(1933年2月25日)

日本から国際連盟におくられた全権の松岡洋介(まつおか ようすけ)は脱退に反対し、収集のための連盟での演説に努力をした。

しかし、この間にも、満州では陸軍が占領地を拡大していき(熱河作戦、ねっかさくせん)、こうして日本は国際的な信用をうしなってしまい、日本は国際的に孤立していき、ついに日本は1933年(昭和8年)3月に国際連盟から脱退した。

なお、ドイツも翌1934年に国際連盟を脱退する。このように主要国である日本とドイツが脱退してしまったので、国際連盟は紛争の調停の場所としての役割が弱まってしまう。

ただし、日本が国際連盟から脱退したとはいっても、この時点では、アメリカやイギリスとの外交は続けており、貿易もアメリカむけを中心に日本は貿易をしていた。

※参考 国際連盟では満州国建国の自発性が否定されたとは言っても、満洲国は日本以外にも、いくつかの国家から国家として承認を受け、外交関係が結ばれた。のちにドイツやイタリアが満州国を承認(しょうにん)したほか、フィンランドやタイやクロアチア、スペインやバチカン、デンマークをはじめ20か国が満州国を承認した。
※参考 また、日本と中国とのあいだで、1933年5月には停戦協定がむすばれ、満州事変は、ひとまずは、おわった。

※参考 現代の評論家の一部には、1931年の満州事変から、1945年の第二次世界大戦の終わりまでの15年間を、「15年戦争」(じゅうごねん せんそう)などと言う評論家もいるが、実際にはこの15年間には停戦期間などもあるので、歴史学的には「15年戦争」という解釈は、あまり受け入れられていない。また、中学校教育では「15年戦争」の語は用いられない。

さて、建国後の満州国は、日本からの投資もあり好景気になって経済や工業が発展していき、工業国になっていき、満州では自動車なども生産できるようになった。当時は世界恐慌の影響がある時代だったが、日本では、国策(こくさく)による満洲関連の投資や、軍需産業への投資などが始まり、日本では、あらたに成長する新興(しんこう)の財閥(ざいばつ)があらわれた(いわゆる「新興財閥」)。 (※ 新興財閥についても、中学の範囲。帝国書院の教科書に記述あり。)

しかし農村では、ひきつづき不景気が続いていた。

日本政府は満州を「王道楽土」(おうどう らくど)「五族協和」(ごぞく きょうわ)などと宣伝した。また、満州を開拓するための満蒙開拓団などを募集したので日本から多くの移住者が満州に移り住んだ。そのほか、朝鮮や中国など周辺の地域からも多くの者が満州に移住した。


二・二六事件

二・二六事件
昭和の二・二六事件のときの、反乱軍に投降を呼びかける政府広告。

犬養の後継の首相は、軍隊出身の元・海軍大臣で穏健派の斉藤実(さいとう まこと)首相になったが、それでも軍隊の暴走は収まらなかった。斎藤実の政府は満州国を承認したが、それでも軍隊内の強硬派は議会への不満が収まらなかった。

斎藤実の政府は満州国を承認したが、それでも軍隊内の強硬派は議会への不満が収まらず、斎藤内閣は反対派の陰謀とも噂される疑獄事件(ぎごくじけん)により倒れ、1934年同じ海軍出身の岡田啓介(おかだ けいすけ)が首相に就任し組閣した。

そのような中、ついに陸軍の青年将校の一部が、1936年2月26日に兵数1400人ほどの部隊を率いて反乱を起こし、首相官邸や警視庁などを襲って(おそって)、大臣らを襲った。首相の岡田啓介は一命をとりとめたものの、前首相の斎藤実と蔵相の高橋是清(たかはし これきよ)は、反乱軍によって殺害された。

反乱軍は、反乱をおこなう名目として、日本の不況や国難の原因を、政党と財閥による腐敗政治だと唱え、天皇中心の革命をかかげた。だが、天皇は反乱を認めずに、正式の軍隊に反乱軍の鎮圧を命じた。

この反乱は、正式の軍隊によって鎮圧された。

しかし、国民や新聞の多くは、青年将校たちの反乱を賞賛した。不況を解決できない政党への国民の不振や、満州での様々な反日暴動などを解決できない政党への不振から、国民や新聞などは青年将校の反乱を賞賛した。このため、以降の政治では、軍部の発言力が強まっていく。

一部の政党政治家も、政争を自分たちの党に有利に進めるために、国民による軍部の支持を利用して、軍部に理解をしめしたので、議会が軍部につけこまれる原因をつくってしまった。


また、議会でも国際協調路線の政治家の発言力が弱まっていく。軍部内でも、外国に対して強硬的な方針の者の発言力が強まり、国際協調などの路線の発言力は弱まっていく。

そして、軍部に反する言論が取り締まりを受けることになっていった。

大正デモクラシーの自由主義的な風潮から一転して、昭和初期の日本では、議会の制度はあったものの、しだいに、まるで軍部の支配する国のようになっていく。

ワシントン体制の崩壊

日本は、ワシントンの軍縮条約、ロンドンの軍縮条約を、アメリカやイギリスと結んでいたが、1936年に軍縮条約が期限をむかえるのに合わせ、軍縮条約を破棄してしまう。こうして、日本は軍備を増強していく。いっぽう、英米の主導する国際社会からは、日本は孤立していく。

なお、国際連盟からは、日本とドイツはすでに脱退している。

こうして、第一次大戦後の国際体制の「ワシントン体制」は崩壊(ほうかい)していった。


蒋介石の外交宣伝

宋美齢(そうびれい、ソン・メイリン)

日本の外交は、この時期に、国際的に孤立していく。いっぽう、裏をかえせば、中華民国の国際社会での発言力が強まっていくということでもある。中華民国の外交が、たくみだったということである。たとえば蒋介石は、1928年には、キリスト教徒としての洗礼を受けている。もちろん、外交を有利に進めるためにキリスト教の洗礼をうけたにすぎない。アメリカやイギリスなど欧米の、おもな宗教はキリスト教だから、とうぜん欧米のキリスト教徒は、蒋介石への親近感が、わくことになる。しかも、蒋介石の妻(つま)の宋美齢(そうびれい、ソン・メイリン)は、おさないころからアメリカに留学しており、彼女はアメリカの名門女子大を卒業しているキリスト教徒であった。この宋美齢が、アメリカの教会で、けなげに中華民国をかばい、日本を批判する主張などをしていた。とうぜん、アメリカのキリスト教徒は中華民国に親近感が、わいていく。

中国の外交における宣伝(せんでん)は大胆(だいたん)であり、日本の役人的な文化交流や宣伝などとは、中国は大違いであった。日本は外交宣伝の分野では、おくれをとっていた。