「高等学校日本史B/第二次世界大戦と日本」の版間の差分
西安事件 |
中学校社会 歴史/日中戦争 2018年5月21日 (月) 06:20 から引用。 |
||
3 行 | 3 行 | ||
いっぽう、1936年12月に、共産軍討伐をしていた張学良は、督励のために西安(せいあん、シーアン)に訪れた蒋介石を監禁し、共産党との戦闘停止と抗日を蒋介石にせまり同意させた('''西安事件''')。そして1937年には国共合作が実現した。(「国共合作」とは、国民党と共産党との同盟のようなもの。) |
いっぽう、1936年12月に、共産軍討伐をしていた張学良は、督励のために西安(せいあん、シーアン)に訪れた蒋介石を監禁し、共産党との戦闘停止と抗日を蒋介石にせまり同意させた('''西安事件''')。そして1937年には国共合作が実現した。(「国共合作」とは、国民党と共産党との同盟のようなもの。) |
||
== 日中戦争 == |
|||
=== 盧溝橋事件 === |
|||
1937年7月7日と8日に、北京(ペキン)郊外にある盧溝橋(ろこうきょう)で訓練中の日本軍に、何者からか、数発の銃弾(じゅうだん)が日本軍へと打ち込まれた事件があった(<big>'''盧溝橋事件'''</big>(ろこうきょう じけん) )。 |
|||
これを日本軍は中国軍の発砲(はっぽう)だと考えたので、戦闘準備を始めるが、まだ攻撃の許可をもらっていないので中国軍への攻撃は中止した。このとき、中国軍が日本軍の戦争開始と誤解して、日本軍を攻撃したので、日本軍と中国軍とが戦闘した事件。当時、この戦闘を 「北支事変」(ほくしじへん) と言った。 |
|||
はたして誰が発砲したかについては、いまだに不明(2014年の今でも。)である。 |
|||
現地では、ひとまず7月11日に日中の現地軍どうしで、ひとまず停戦協定が結ばれた。 |
|||
だが、25日には中国軍が日本軍を攻撃する廊坊事件(ろうぼう じけん)が起こり、26日にも中国軍が日本軍を攻撃する広安門事件(こうあんもん じけん)が起きたので、日本政府は中国が停戦協定をやぶったと考え、ついに7月28日に日本軍による攻撃が始まり、本格的な戦争になっていく。(小学・中学・高校では覚えなくて良い。) |
|||
この7月28日ごろを日中戦争の開始時期と考える学説もある。 |
|||
もし日本が宣戦布告をすると、日本は、中立国のアメリカからの輸入をできなくなるので、「戦争」とは言わずに「事変」という用語をもちいている。中国側も同様の理由で「事変」という語を用いなかった。 |
|||
事変とはいうものの、北支事変は事実上の戦争なので、この北支事変の戦闘をもって、<big>'''日中戦争'''</big>(にっちゅうせんそう)の始まりと考える日本の学説や教科書もある。 |
|||
=== 第二次上海事変 === |
|||
日本軍は1937年8月に上海に海軍陸戦隊を派兵して戦闘する。この戦闘を 第二次上海事変(だいにじ シャンハイじへん) と言う。あるいは、上海戦(シャンハイせん)とも言う。 |
|||
宣戦布告をしてないので「事変」というが、じっさいには、戦争の開始と同じなので、現代では、この上海事変をきっかけに、日中戦争(にっちゅうせんそう)が始まったと考える学説もある。いっぽう盧溝橋事件を日中戦争の始めと考える学説もある。 |
|||
:※ 「日中戦争のはじまりの時期を、いつと考えるか?」には、盧溝橋事件と考えるか上海戦と考えるか、その間の事件に対する報復攻撃の時期と考えるか、多くの説がある。このような事情があるので、日中戦争の開始の時期には、あまり、こだわる必要がない。もしテストに細かく日中戦争の開始時期を問う教育者がいれば、その教員の知識がうたがわれるだろう。 |
|||
もし日本が宣戦布告をすると、日本は、中立国のアメリカから石油などの物資の輸入をできなくなるので、「戦争」とは言わずに「事変」という用語をもちいている。 |
|||
=== 南京攻略戦 === |
|||
[[File:Second Sino-Japanese War WW2.png|thumb|600px|1940年の日中戦争での戦場。 (赤いところが日本が占領した場所。)]] |
|||
上海戦は4ヶ月ほど長続きした。そして12月には、日本軍は中華民国の首都の南京を攻略した。(おそらく日本は首都の南京をおとせば蒋介石が降伏するだろう、と考えたのだろう。) |
|||
国民党の支配者の蒋介石は、日本軍の南京の攻略の前に、すでに南京から脱出しており、日中戦争は、つづいた。 |
|||
12月の南京攻略のとき、中国政府は、日本軍によって、女や子どもをふくむ多数の住民が殺害されたというような宣伝をした。このときの 1937年12月から1938年はじめの南京で殺害事件を <big>'''南京事件'''</big>(ナンキンじけん) と言う。いわゆる'''南京大虐殺'''(なんきん だいぎゃくさつ)のことである。 |
|||
首都の南京を日本が陥落(かんらく)しても、中華民国は首都を漢口(かんこう)、ついで重慶(じゅうけい)などにうつし、抗戦をつづけたので、日中戦争はつづいた。 |
|||
ドイツは日中両国に和平を斡旋(あっせん)したが(トラウトマン工作)、和平交渉は失敗し、近衛内閣は1938年1月「国民政府を相手とせず」と声明を発表した(第1次'''近衛声明''')。 |
|||
同1938年11月には、東亜新秩序の声明を出し、日本・中華・満州の3国の協力による国際政治を中国に呼びかけた(実質的には国民党に、共産党との提携をやめて日本側に協力してほしいと呼びかけた宣言)、国民党が応じず、失敗した。(※ 参考文献: 明成社の検定教科書) |
|||
日本は、国民党の幹部(副総裁)の'''汪兆銘'''(おう ちょうめい)をひそかに重慶から脱出させ南京に招き、1940年に親日的な新政府を樹立を宣言した。(なお第二次大戦後、この汪兆銘政権は傀儡政権だと批判される。) |
|||
しかし、国民党・共産党軍との戦闘は止まらず、日中戦争は長期化した。 |
|||
=== 日本の戦時体制 === |
|||
事変の長期化にともない、日本では、戦争遂行の協力体制の確立のため、1937年から「挙国一致・尽忠報国・堅忍持久」(きょこくいっち・じんちゅうほうこく・けんにんじきゅう)のスローガンとする国民精神騒動運動が開始された。 |
|||
つづいて、総力戦体制を確立するために、日本で1938年に、議会の承認なしに物資・人員の動員・統制のできる'''国家総動員法'''が制定された。また、国家総動員法にともなう類似の法として、1939年には賃金統制令・国民徴用令・価格統制令などを発布した。国民徴用令によって、一般国民が軍需工場などに動員された。 |
|||
電力も、電力国家管理法によって、各地にあった民間のいくつもの電力会社が、単一の国策会社に統合させられた。 |
|||
また、1938年ごろから企業では、労使一体となって戦争遂行に協力する'''産業報国会'''の結成がすすめられた。 |
|||
1940年には、近衛文麿(このえ ふみまろ)内閣のもと、「挙国一致」の体制をつくるため、ほとんどの政党や政治団体が解散して、'''大政翼賛会'''(たいせいよくさんかい)に合流した。 |
|||
また、大政翼賛会の下部組織として、隣組・町内会・部落会などが結成された。庶民たちは、10戸ごとにまとめられ、「隣組」(となりぐみ)とさせられ、協力しあう事とされたとともに、おたがいに監視させられた。 |
|||
その後、戦争が長びき、日本では物資が不足したので、1941年からは米や日用品などは<big>配給制</big>(はいきゅうせい)や切符制になった。 |
|||
(※ 正確には、砂糖・マッチ・木炭・綿製品が切符制。米は配給性。・・・らしい。) (※ 中学の検定教科書によっては、砂糖も米も「配給制」でまとめてあるものもある。) |
|||
「ほしがりません、勝つまでは」とか「ぜいたくは敵(てき)だ」とか「石油の一滴、血の一滴」とか「足らぬ足らぬは工夫が足らぬ」とかの標語が、戦時下の日本では言われた。(このほか「ガソリンの一滴は血の一滴」なんて標語も言われた。) |
|||
<gallery> |
|||
Image:Luxury is our enemy.JPG|「ぜいたくは敵だ!」 |
|||
Image:Advance All Japanese people are 100 million balls of fire.JPG|「進め一億火の玉だ」 |
|||
</gallery> |
|||
[[Image:Monpe.JPG|thumb|180px|もんぺ]] |
|||
小学校は「国民学校」に改称させられ、教育内容にも軍事的な話題が増えた。 (※ 範囲外:)「国民学校」とは、おそらくドイツ語の フォルクス・シューレ の直訳。フォルクスの意味は「国民」とか「民衆」とかの意味。自動車のフォルクスワーゲンのフォルクスと同じ意味。シューレは「学校」の意味であり、英語の「スクール」と同じ意味。 |
|||
このほか、文化面では<br> |
|||
:1939年にパンチパーマの禁止、男子の長髪の禁止<br> |
|||
:1943年に野球での「セーフ」「アウト」など英語の使用の禁止の運動<br> |
|||
などがあった。 |
|||
もし、このような統制的な風潮に反対すると、「非国民」(ひこくみん)などと批判されたりもした。 |
|||
衣服も配給の対象にくわわり、また、高価な洋服が禁止されたりもした。 |
|||
(※ そのため、女子の服装では、モンペが奨励された。) |
|||
(※ 検定教科書では、モンペの写真はあるが、「モンペ」という用語は紹介されてない。) |
|||
=== 植民地での戦時体制 === |
|||
朝鮮では、朝鮮人の名前を日本風の名前に変える'''創氏改名'''(そうし かいめい)が行われた。 |
|||
日本は、朝鮮人の日本への同化政策の立場から、朝鮮人から朝鮮名をうばい、日本人のような氏名を名乗るよう強制した。 |
|||
創氏制度は王族など特殊な例外を除き、全朝鮮人民に法規で適用されたものであった。 |
|||
== 戦争犯罪 == |
|||
=== 日本の戦争犯罪の容疑 === |
|||
* 731部隊(ななさんいち ぶたい) |
|||
日本軍の「731部隊」が、中国人捕虜などをつかった人体実験で、細菌兵器の実験をしたといわれる。 |
|||
* 毒ガス使用 |
|||
国際条約で使用禁止のされている毒ガスを、日本軍は中国戦線で使用したという容疑が言われている。 |
|||
(※ 範囲外: )なお、軍隊が毒ガスを所有すること自体は、違法ではない。(※ もし軍隊が毒ガスを所有できないと、防毒マスクなどを研究開発できなくなる。) |
|||
* 三光作戦(さんこう さくせん) |
|||
いちぶの占領地域で、住民をふくむ大虐殺を行ったとして、中国側はこれを「三光作戦」(さんこう さくせん)と呼んで非難している。 |
|||
三光の意味は「焼き尽くせ、殺し尽くせ、奪い尽くせ」という意味らしい。 |
|||
(※ 範囲外: )なお、「三光」の呼び名の元ネタは、おそらく、義和団事件のときにドイツ人居留民を多数殺害されたドイツ皇帝が怒り、ドイツ兵に対する命令で、義和団および義和団に協力した現地中国軍を「焼き尽くせ、殺し尽くせ、奪い尽くせ」と、ドイツ軍に三箇条で命令したことが、おそらく元ネタ。 |
|||
=== 中国の戦争犯罪 === |
|||
* ゲリラ |
|||
ゲリラ戦は国際法違反。(※ 検定教科書には書いてない。困ったものだ。) |
|||
なぜ違法かというと、なぜならゲリラ戦をすると、非戦闘員と見分けがつかないため、非戦闘員の民間人が間違えられて殺害される可能性が高まってしまう。なので、国際条約(ハーグ陸戦条約など)によって禁止されているのである。 |
|||
中国のゲリラにかぎらず、フランスのゲリラ(パルチザン)とか、あいつら全員、国際法的には犯罪者である。 |
|||
[[Category:中学校歴史|につちゆうせんそう]] |
2018年5月21日 (月) 07:54時点における版
日中戦争
満州事変後の1933年5月に日中間で停戦協定がいったん結ばれた(塘沽(タンクー)停戦協定)。中国では華北を中国の支配から切り離そうとする華北分離工作がすすめられ、関東軍は河北省東部に冀東防共自治政府(きとうぼうきょうじちせいふ)を樹立した。
いっぽう、1936年12月に、共産軍討伐をしていた張学良は、督励のために西安(せいあん、シーアン)に訪れた蒋介石を監禁し、共産党との戦闘停止と抗日を蒋介石にせまり同意させた(西安事件)。そして1937年には国共合作が実現した。(「国共合作」とは、国民党と共産党との同盟のようなもの。)
日中戦争
盧溝橋事件
1937年7月7日と8日に、北京(ペキン)郊外にある盧溝橋(ろこうきょう)で訓練中の日本軍に、何者からか、数発の銃弾(じゅうだん)が日本軍へと打ち込まれた事件があった(盧溝橋事件(ろこうきょう じけん) )。
これを日本軍は中国軍の発砲(はっぽう)だと考えたので、戦闘準備を始めるが、まだ攻撃の許可をもらっていないので中国軍への攻撃は中止した。このとき、中国軍が日本軍の戦争開始と誤解して、日本軍を攻撃したので、日本軍と中国軍とが戦闘した事件。当時、この戦闘を 「北支事変」(ほくしじへん) と言った。
はたして誰が発砲したかについては、いまだに不明(2014年の今でも。)である。
現地では、ひとまず7月11日に日中の現地軍どうしで、ひとまず停戦協定が結ばれた。
だが、25日には中国軍が日本軍を攻撃する廊坊事件(ろうぼう じけん)が起こり、26日にも中国軍が日本軍を攻撃する広安門事件(こうあんもん じけん)が起きたので、日本政府は中国が停戦協定をやぶったと考え、ついに7月28日に日本軍による攻撃が始まり、本格的な戦争になっていく。(小学・中学・高校では覚えなくて良い。)
この7月28日ごろを日中戦争の開始時期と考える学説もある。
もし日本が宣戦布告をすると、日本は、中立国のアメリカからの輸入をできなくなるので、「戦争」とは言わずに「事変」という用語をもちいている。中国側も同様の理由で「事変」という語を用いなかった。
事変とはいうものの、北支事変は事実上の戦争なので、この北支事変の戦闘をもって、日中戦争(にっちゅうせんそう)の始まりと考える日本の学説や教科書もある。
第二次上海事変
日本軍は1937年8月に上海に海軍陸戦隊を派兵して戦闘する。この戦闘を 第二次上海事変(だいにじ シャンハイじへん) と言う。あるいは、上海戦(シャンハイせん)とも言う。
宣戦布告をしてないので「事変」というが、じっさいには、戦争の開始と同じなので、現代では、この上海事変をきっかけに、日中戦争(にっちゅうせんそう)が始まったと考える学説もある。いっぽう盧溝橋事件を日中戦争の始めと考える学説もある。
- ※ 「日中戦争のはじまりの時期を、いつと考えるか?」には、盧溝橋事件と考えるか上海戦と考えるか、その間の事件に対する報復攻撃の時期と考えるか、多くの説がある。このような事情があるので、日中戦争の開始の時期には、あまり、こだわる必要がない。もしテストに細かく日中戦争の開始時期を問う教育者がいれば、その教員の知識がうたがわれるだろう。
もし日本が宣戦布告をすると、日本は、中立国のアメリカから石油などの物資の輸入をできなくなるので、「戦争」とは言わずに「事変」という用語をもちいている。
南京攻略戦
上海戦は4ヶ月ほど長続きした。そして12月には、日本軍は中華民国の首都の南京を攻略した。(おそらく日本は首都の南京をおとせば蒋介石が降伏するだろう、と考えたのだろう。) 国民党の支配者の蒋介石は、日本軍の南京の攻略の前に、すでに南京から脱出しており、日中戦争は、つづいた。
12月の南京攻略のとき、中国政府は、日本軍によって、女や子どもをふくむ多数の住民が殺害されたというような宣伝をした。このときの 1937年12月から1938年はじめの南京で殺害事件を 南京事件(ナンキンじけん) と言う。いわゆる南京大虐殺(なんきん だいぎゃくさつ)のことである。
首都の南京を日本が陥落(かんらく)しても、中華民国は首都を漢口(かんこう)、ついで重慶(じゅうけい)などにうつし、抗戦をつづけたので、日中戦争はつづいた。
ドイツは日中両国に和平を斡旋(あっせん)したが(トラウトマン工作)、和平交渉は失敗し、近衛内閣は1938年1月「国民政府を相手とせず」と声明を発表した(第1次近衛声明)。
同1938年11月には、東亜新秩序の声明を出し、日本・中華・満州の3国の協力による国際政治を中国に呼びかけた(実質的には国民党に、共産党との提携をやめて日本側に協力してほしいと呼びかけた宣言)、国民党が応じず、失敗した。(※ 参考文献: 明成社の検定教科書)
日本は、国民党の幹部(副総裁)の汪兆銘(おう ちょうめい)をひそかに重慶から脱出させ南京に招き、1940年に親日的な新政府を樹立を宣言した。(なお第二次大戦後、この汪兆銘政権は傀儡政権だと批判される。)
しかし、国民党・共産党軍との戦闘は止まらず、日中戦争は長期化した。
日本の戦時体制
事変の長期化にともない、日本では、戦争遂行の協力体制の確立のため、1937年から「挙国一致・尽忠報国・堅忍持久」(きょこくいっち・じんちゅうほうこく・けんにんじきゅう)のスローガンとする国民精神騒動運動が開始された。
つづいて、総力戦体制を確立するために、日本で1938年に、議会の承認なしに物資・人員の動員・統制のできる国家総動員法が制定された。また、国家総動員法にともなう類似の法として、1939年には賃金統制令・国民徴用令・価格統制令などを発布した。国民徴用令によって、一般国民が軍需工場などに動員された。
電力も、電力国家管理法によって、各地にあった民間のいくつもの電力会社が、単一の国策会社に統合させられた。
また、1938年ごろから企業では、労使一体となって戦争遂行に協力する産業報国会の結成がすすめられた。
1940年には、近衛文麿(このえ ふみまろ)内閣のもと、「挙国一致」の体制をつくるため、ほとんどの政党や政治団体が解散して、大政翼賛会(たいせいよくさんかい)に合流した。
また、大政翼賛会の下部組織として、隣組・町内会・部落会などが結成された。庶民たちは、10戸ごとにまとめられ、「隣組」(となりぐみ)とさせられ、協力しあう事とされたとともに、おたがいに監視させられた。
その後、戦争が長びき、日本では物資が不足したので、1941年からは米や日用品などは配給制(はいきゅうせい)や切符制になった。
(※ 正確には、砂糖・マッチ・木炭・綿製品が切符制。米は配給性。・・・らしい。) (※ 中学の検定教科書によっては、砂糖も米も「配給制」でまとめてあるものもある。)
「ほしがりません、勝つまでは」とか「ぜいたくは敵(てき)だ」とか「石油の一滴、血の一滴」とか「足らぬ足らぬは工夫が足らぬ」とかの標語が、戦時下の日本では言われた。(このほか「ガソリンの一滴は血の一滴」なんて標語も言われた。)
-
「ぜいたくは敵だ!」
-
「進め一億火の玉だ」
小学校は「国民学校」に改称させられ、教育内容にも軍事的な話題が増えた。 (※ 範囲外:)「国民学校」とは、おそらくドイツ語の フォルクス・シューレ の直訳。フォルクスの意味は「国民」とか「民衆」とかの意味。自動車のフォルクスワーゲンのフォルクスと同じ意味。シューレは「学校」の意味であり、英語の「スクール」と同じ意味。
このほか、文化面では
- 1939年にパンチパーマの禁止、男子の長髪の禁止
- 1943年に野球での「セーフ」「アウト」など英語の使用の禁止の運動
などがあった。
もし、このような統制的な風潮に反対すると、「非国民」(ひこくみん)などと批判されたりもした。
衣服も配給の対象にくわわり、また、高価な洋服が禁止されたりもした。
(※ そのため、女子の服装では、モンペが奨励された。)
(※ 検定教科書では、モンペの写真はあるが、「モンペ」という用語は紹介されてない。)
植民地での戦時体制
朝鮮では、朝鮮人の名前を日本風の名前に変える創氏改名(そうし かいめい)が行われた。 日本は、朝鮮人の日本への同化政策の立場から、朝鮮人から朝鮮名をうばい、日本人のような氏名を名乗るよう強制した。 創氏制度は王族など特殊な例外を除き、全朝鮮人民に法規で適用されたものであった。
戦争犯罪
日本の戦争犯罪の容疑
- 731部隊(ななさんいち ぶたい)
日本軍の「731部隊」が、中国人捕虜などをつかった人体実験で、細菌兵器の実験をしたといわれる。
- 毒ガス使用
国際条約で使用禁止のされている毒ガスを、日本軍は中国戦線で使用したという容疑が言われている。
(※ 範囲外: )なお、軍隊が毒ガスを所有すること自体は、違法ではない。(※ もし軍隊が毒ガスを所有できないと、防毒マスクなどを研究開発できなくなる。)
- 三光作戦(さんこう さくせん)
いちぶの占領地域で、住民をふくむ大虐殺を行ったとして、中国側はこれを「三光作戦」(さんこう さくせん)と呼んで非難している。
三光の意味は「焼き尽くせ、殺し尽くせ、奪い尽くせ」という意味らしい。
(※ 範囲外: )なお、「三光」の呼び名の元ネタは、おそらく、義和団事件のときにドイツ人居留民を多数殺害されたドイツ皇帝が怒り、ドイツ兵に対する命令で、義和団および義和団に協力した現地中国軍を「焼き尽くせ、殺し尽くせ、奪い尽くせ」と、ドイツ軍に三箇条で命令したことが、おそらく元ネタ。
中国の戦争犯罪
- ゲリラ
ゲリラ戦は国際法違反。(※ 検定教科書には書いてない。困ったものだ。)
なぜ違法かというと、なぜならゲリラ戦をすると、非戦闘員と見分けがつかないため、非戦闘員の民間人が間違えられて殺害される可能性が高まってしまう。なので、国際条約(ハーグ陸戦条約など)によって禁止されているのである。
中国のゲリラにかぎらず、フランスのゲリラ(パルチザン)とか、あいつら全員、国際法的には犯罪者である。