「高等学校日本史B/律令国家への道」の版間の差分
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┏━━中務省 |
┏━━中務省 |
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┏━ 左大臣 ━┓ ┏━ 左弁官 ━━╋━━式部省 |
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┏━ 太政官 ━╋━ 太政大臣 ━╋━ 大納言 ━╋━ 少納言 |
┏━ 太政官 ━╋━ 太政大臣 ━╋━ 大納言 ━╋━ 少納言 ┣━━治部省 |
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┃ ┗━ 右大臣 ━┛ ┃ ┗━━民部省 |
┃ ┗━ 右大臣 ━┛ ┃ ┗━━民部省 |
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天皇━┫ ┃ |
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また、重要な地域には、専門の管理機構をもうけた。 |
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また、九州には、防衛のための役所として、<span style="color:red"><big>太宰府</big></span>(だざいふ)が置かれた。 |
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太宰府(だざいふ)も、そのひとつである。筑紫が国防上の重要地点だったので、筑紫に太宰府を設けたのである。太宰府は、九州全域を統轄した。 |
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京都には京識(きょうしき)を設け、左京職と右京職の2つの京職があった。 |
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さらに、摂津(せっつ)は外交上重要なので、摂津に'''摂津職'''(せっつしき)を置き、難波(なにわ)を管轄させた。(摂津はいまでいう兵庫県あたりの場所。海(大阪湾など)に面するので、外交上重要だったのだろう。難波(なにわ)は、大坂の地名。) |
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* 官吏の取り締まり |
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官吏を対象とする取り締まりのため、'''弾正台'''(だんじょうだい)が置かれた。 |
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* 警察・軍事 |
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京都の宮殿の警備のため、5つの''衛府''(えふ)が置かれ、あわせて五衛府(ごえふ)といわれた。また、京都の警備をする者たちは衛士(えじ)と呼ばれた。 |
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また、一般の国々の軍事・警察のため諸国には'''軍団'''(ぐんだん)を置き、九州の防衛には'''防人'''(さきもり)を置いた。 |
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* 人事制度 |
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各官庁では、その官庁の上級の官僚として'''四等官'''(よんとうかん)が設けられた。四等官は、長官(かみ)・次官(すけ)・判官(じょう)・主典(さかん)である。 |
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さらに四等官の下に、下級の官僚として官人が設けられた。 |
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官人の階級は、全部で30の階級に分けられた。 |
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官人の仕事は、原則として、位階に相当する官職に任命された('''官位相当制'''(かんい そうとうせい) )。 |
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五位以上の官人は'''貴族'''(きぞく)と呼ばれた。(一位に近いほうが、階級が高い。) |
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また、五位以上の官人の子には、(役所への就職時に)父や祖父の位階に応じた位階を与えられた('''蔭位の制'''(おんいのせい))。(※ 親が一位なら子は五位からスタート、のようなシステム。) |
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官人の給与では、位階に応じて、「食封」(じきふ)や「禄」(ろく)が与えられた。食封とは、定められた数の戸から、そこからの租税をもらえる制度。 |
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また、位階に応じて「位田」(いでん)や「位封」(いふ、いふう)などの給与が与えられ、官職に応じて「官田」などの給与が与えられた。 |
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また、下級の官人の子は、(下級官人の子が)官人になるためには「大学」や「国学」(←学校名)などに入学して官人になるための教育を受ける必要があった。 |
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* 刑罰 |
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司法制度では、刑罰に、笞(ち)・杖(じょう)・徒(ず)・流(る)・死(し)の5つの刑があった。また、国家・天皇・尊属に対する罪は八虐(はちぎゃく)と言われ、とくに重罰とされた。(※ きびしい刑罰のように見えるかもしれないが、山川出版の参考書「詳説研究日本史」によると、当時のチャイナの刑罰と比べたら、当時の日本の刑罰は、比較的に ゆるめの刑罰らしい。) |
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* 地方の人事 |
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┏━━中務省 |
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┏━太政官 など━━━╋━━式部省 |
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┃ ┣━━民部省 |
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(中央) ┃ ┣━━兵部省 |
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┃ ┣━━刑部省 |
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┃ ┣━━大蔵省 |
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┗━神祇官 ┣━━宮内省 |
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┗━━治部賞 |
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(地方) |
(地方) |
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国司━━郡司━━里長 |
国司━━郡司━━里長 |
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太宰府 |
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中央貴族を国司に任命し、地方豪族を郡司に任命することが多かった。 |
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[[Category:中学校歴史|あすかしたい]] |
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2018年6月9日 (土) 17:11時点における版
聖徳太子の死後
622年に、厩戸王が死去すると、蘇我氏の権力が強まるが、蘇我馬子(そがのうまこ)も626年に死去したので、子の蘇我蝦夷の(そがの えみし)の権力と孫(蝦夷の子)の蘇我入鹿(そがのいるか)の権力が強まる。
643年に、蘇我入鹿は、山背大兄王(やましろのおおえのおう)という聖徳太子の子である人物と、山背大兄王 の一族を滅ぼします。
このような強権的な蘇我氏に対して、豪族たちからの不満が高まります。
- 乙巳の変(いっしのへん)
645年に、ついに、皇族の中大兄皇子(なかのおおえの おうじ)と、豪族の中臣鎌足(なかとみの かまたり)との協力により、蘇我入鹿は殺害されます。蝦夷は、この事件を知り、自殺します。
これを 乙巳の変(いっしのへん) といいます。
- 大化の改新(たいか の かいしん)
このあと、中大兄皇子らが権力を取り、政治改革を色々と行なう。この皇子らの改革を 大化の改新(たいか の かいしん) という。言い伝えでは、645年に年号(ねんごう)を「大化」(たいか)に定めたと言われますが、確認されていません。 もし、この年に「大化」の年号を定めたなら、この「大化」という年号により、日本では始めて年号が定められたことになります。なお、年号をさだめることは、中国大陸の帝国を参考にしたのだろうと思われます。
645年の一連の事件により、皇極天皇(こうぎょくてんのう)は譲位して、同645年に皇極の弟の軽皇子(かるのみこ)が即位して孝徳天皇(こうとく てんのう)になる。
(なお、皇極は女性である。)
(なお中大兄皇子は、のちに天皇( 天智天皇(てんじ てんのう) )に即位することになるが、この大化の改新のときには、まだ中大兄皇子は天皇では無い。)
なお、新政権は右大臣に阿部内麻呂(あべのうちまろ)を登用し、左大臣に蘇我倉山石川麻呂を登用し、内臣(うちつおみ)に中臣鎌足を登用した。(※ 左大臣に蘇我氏がいることに注目。)
(しかし649年に、蘇我倉山石川麻呂は謀反をうたがわれて自殺に追い込まれてしまう。(※ よって彼は業績を残せず、このためか、検定教科書には蘇我倉山石川麻呂について書いてない検定教科書も多い。)(※ 山川出版の詳説日本史には、蘇我倉山石川麻呂について書いてある。) )
また、妹子の遣隋使に同行した高向玄理(たかむこのげんり)・旻(みん、 ※人名)は、国博士(くにのはかせ)として登用された。
(遣隋使に同行した南淵請安(みなみぶちのしょうあん)は国博士に登用されてない。南淵請安の生没年は不明であり、大化の改新の時点で、すでに南淵は死亡していたのかもしれない。)
孝徳天皇は都を(飛鳥から)難波宮(なにわのみや)に移します。難波宮は大阪府にあります。
改新の詔
- (かいしん の みことのり)
中国大陸では、すでに618年に隋(ずい)が滅んでおり、唐(とう)という帝国になっていた。日本も、これに対して、政治改革をする必要があった。
さて、改革の内容はと言うと・・・
乙巳の変(いっしのへん)の翌年646年に改新の詔(かいしん の みことのり)が出されます。これは改革内容の方針や目標を表したものです。この詔の発見は『日本書紀』で発見されています。
改革の内容は、以下の、公地公民(こうちこうみん)、班田収授(はんでんしゅうじゅ)、租(そ)・庸(よう)・調(ちょう)、国司(こくし)の設置(せっち)、です。
次に述べる一連の制度改革は、唐の法律を参考にしています。
- 公地公民(こうちこうみん)
これまでは豪族や皇族たちが持っていた土地は、すべて朝廷のものになります。豪族や皇族が持っていた人民も、朝廷が持つことになります。この命令が公地公民(こうちこうみん)です。朝廷が管理できない土地の存在を禁止します。同様に、朝廷が管理できない住民の存在も禁止します。
- 班田収授(はんでんしゅうじゅ)
人民の戸籍(こせき)を作り、人民に耕作をさせるための口分田(くぶんでん)という田を与え耕作させます。
この当時の戸籍とは、人民をひとりずつ、公文書に登録することで、住所や家族の名や年齢、家の世帯主、などを把握することです。
この飛鳥時代に、すでに「戸籍」という言葉がありました。
このような情報の管理は、税をとることが目的です。税の台帳である計帳(けいちょう)をつくるため、戸籍が必要なのです。
現在の日本での戸籍とは、「戸籍」の意味が少しちがうので、注意してください。「計帳」という言葉は、この飛鳥時代の言葉です。詔の本文に書かれています。
詔の本文に、「初造戸籍計帳班田収授之法。」とあります。現代風に読みやすく区切りを入れれば、「初 造 戸籍 計帳 班田収授之法。」とでも、なりましょう。
目的は、収穫から税収をとるためです。前提として、公地公民が必要です。
6年ごとに人口を調査します。
税を取るにも、まずは人口を正しく把握しないと、いけないわけです。女にも口分田(くぶんでん)が与えられます。
原則として、6才以上の男女に田を与えます。男(6才以上)には2反(720歩=約24アール)の田を与え、女(6才以上)には男の3分の2(480歩=約16アール)の田を与えています。5才以下には与えられません。
死んだ人の分の田は、国に返します。
これらの制度を班田収授法(はんでんしゅうじゅんほう)と言い、唐の均田制(きんでんせい)に習った制度である。
- 租(そ)・庸(よう)・調(ちょう)
税(ぜい)の種類です。
租(そ)とは、田の収穫量の、およそ 3%の稲 を国に納めよ(おさめよ)、という税です。 調とは、絹や地方の特産物を国に納めよ、という税です。
庸(よう)とは、都に出てきて年10日以内の労働をせよという労役(ろうえき)か、または布を納めよ、という税です。
前提として、公地公民(こうちこうみん)や班田収授(はんでんしゅうじゅ)などが必要です。
- 国・郡・里
国 (国司) ┃ 郡 (郡司) ┃ 里 (里長)
政府の組織や、地方行政の組織にも、改革が加わります。 まず、日本全国をいくつかの 国(くに) に分けて管理し、国は郡(こおり)に分けられ、郡は里(さと)に分けられます。
国には、中央の朝廷から、国司(こくし)という役人が派遣され、この国司によって、それぞれの国が管理されます。
郡を管理する役職は、郡司(ぐんじ)という役職の役人に管理させます。たいてい、その地方の豪族が郡司です。
国際情勢
7世紀のなかばになると、朝鮮半島で戦乱が起きます。 朝鮮半島では、新羅(しらぎ、シルラ)が唐(とう)と連合して、百済(くだら、ペクチェ)を攻めた。 660年に百済(くだら、ペクチェ)が、 新羅(しらぎ、シルラ)に滅ぼされます。 百済は、日本とは親しかったのでした。親しかった百済が滅んだことで、日本は、朝鮮半島での勢力を失います。
- 白村江の戦い(はくすきのえ の たたかい)
日本は百済を復活(ふっかつ)させるため、新羅と戦争をします。663年に、中大兄皇子の指導により朝鮮半島に軍を送り、日本 対 新羅の戦争が起きます。これが白村江の戦い(はくすきのえ の たたかい、はくそうこう の たたかい) と言います。日本は負けます。新羅と唐の連合軍に、日本は負けました。
なお、後に新羅は676年に高句麗(こうくり)も滅ぼし、新羅が朝鮮半島を統一することになります。先ほども述べたように、唐との結びつきがとても強いです。唐が滅びるまで、新羅の時代が続きます。
日本国内の強化
白村江の戦い にやぶれた日本は、国内の政治に集中します。中大兄皇子は、唐と新羅の攻撃にそなえるため、九州の防備を強化します。九州北部に 防人(さきもり) という防衛(ぼうえい)のための兵士たちを置き、水城(みずき)という水の満たされた濠(ほり)を持った土塁(どるい)が築かれた防御地点をいくつも作ります。
667年に、中大兄皇子は都を 大津宮(おおつのみや) に移します。大津宮の場所は、今でいう滋賀県の近江(おうみ)です。それ以前の都は、奈良の飛鳥(あすか)地方にありました。
この都を近江の大津宮にうつしたことも、攻撃に備えてなのかもしれません。近江は、飛鳥よりも内陸にあります。
668年に中大兄皇子は天皇として大津宮で即位し、中大兄皇子は天智天皇(てんじ てんのう)になります。
668年に、法典である 近江令(おうみりょう) が出来ます。天智天皇(=中大兄皇子)が中臣鎌足に命じ、役人たちに編纂(へんさん)させたものです。また天智天皇は、670年に、日本最初の全国的な戸籍である 庚午年籍(こうごねんじゃく) を作成する。(よく聞かれるのは、天智天皇なのか、後に出てくる天武天皇(てんむてんのう)なのかです。注意しましょう。)
壬申の乱
天智天皇がなくなると、天皇の皇位をめぐり、皇族どうしの争いが起きます。天智の弟の大海人皇子(おおあまのおうじ)と、 天智の子の大友皇子(おおとものおうじ)とが、672年に争い戦争になる。これを 壬申の乱(じんしんの らん) という。大海人皇子が勝ち、大海人皇子が 天武天皇(てんむてんのう)として飛鳥浄御原宮(あすかのきよみはらのみや)で即位する。
「日本」という国号や、「天皇」という称号は、天武天皇の時には、使われていただろうと考えられています。
(※ 高校の範囲: )天武天皇は、684年には、天皇を中心とした新しい身分制度である八色の姓(やくさのかばね)を制定し、豪族の身分を再編した。
(※ 高校の範囲: )八色の姓には、真人(まひと)・朝臣(あそみ・あそん)・宿禰(すくね)・忌寸(いみき)・道師(みちのし)・臣(おみ)・連(むらじ)・稲置(いなぎ)の8つの姓がある。
藤原京の建設を始めたが、完成前に天武天皇は死去した。
天武の死後、皇后が天皇として即位して、持統天皇(じとうてんのう)になる。
(※ 高校の範囲: )689年には飛鳥清御原令(あすかきよみはらりょう)を施行し(※ 飛鳥清御原令は史料が現存しておらず内容が不明)、翌年には戸籍である庚寅年籍(こういんねんじゃく)を作成した。
持統天皇は、694年に都を飛鳥から奈良の藤原京(ふじわらきょう)に遷都させた。藤原京は、道路が碁盤(ごばん)の目のように、格子(こうし)状に区画されています。この都の碁盤目のような区画は、唐の都を参考にしています。
※ 高校の範囲: 白鳳文化
天武・持統のころの文化は、宮廷を中心とした仏教調の文化だった。この時代の文化を白鳳文化(はくほう ぶんか)という。
天武の時代に、大官大寺(だいかん だいじ)、薬師寺(やくしじ)が建設された。
絵画では、法隆寺金堂 壁画や、高松塚古墳(たかまつづか こふん) 壁画がある。
彫刻では、薬師寺の三尊像(さんぞんぞう)や、興福寺(こうふくじ)の仏頭(ぶっとう)がある。
文学では、漢詩文をつくるのが流行し、大津皇子(おおつみこ)がすぐれた作品を残した。
また、和歌もこの時代に五七調(ごしちちょう)の型式を整えた。歌人でもある額田王(ぬかたの おおきみ)や柿本人麻呂(かきのもとの ひとまろ)は、この時代の人物である。
大宝律令
- (たいほう りつりょう)
701年の文武天皇(もんむてんのう)のときに、 大宝律令(たいほうりつりょう) という法典が完成する。大宝律令は、唐の律令(りつりょう)という法律を参考にしています。
- ※ 大宝律令は本文が現存しておらず、内容が不明。718年の養老律令と似た内容だろうと推測されているが、この養老律令も本文が現存していないが、しかし注釈書が現存しているので、そこから内容を推測している。
「律」は罪人をさばくための刑法で、「令」(りょう)は役所や役人などに対する法律です。
この大宝律令を編纂(へんさん)した人物は、藤原不比等(ふじわらの ふひと) らが中心に編纂(へんさん)した。藤原不比等は、中臣鎌足(なかとみのかまたり)の子である。
政府の中央組織には 二官八省(にかんはっしょう) が置かれた。二官には、神々をまつる宗教を行なう 神祇官(じんぎかん)と、一般の政務をおこなう 太政官(だじょうかん)がおかれた。
太政官には、 右大臣、 左大臣、 太政大臣が置かれた。
太政官の下に、大蔵省などの八省が置かれた。 発症は、宮内省(くないしょう)、大蔵省(おおくらしょう)、刑部省(ぎょうぶしょう)、兵部省(ひょうぶしょう)、民部省(みんぶしょう)、治部省(じぶしょう)、式部省(しきぶしょう)、中務省(なかつかさしょう)である。
┏━━中務省 ┏━ 左大臣 ━┓ ┏━ 左弁官 ━━╋━━式部省 ┏━ 太政官 ━╋━ 太政大臣 ━╋━ 大納言 ━╋━ 少納言 ┣━━治部省 ┃ ┗━ 右大臣 ━┛ ┃ ┗━━民部省 天皇━┫ ┃ ┃ ┗━ 右弁官 ━━┳━━兵部省 ┃ ┣━━刑部省 ┗━ 神祇官 ┣━━大蔵省 ┗━━宮内省
- 中務省(なかつかさしょう)の仕事は、詔(みことのり)や勅(ちょく)の作成。
- 式部省(しきぶしょう)の仕事は、役人の人事や教育。
- 民部省(みんぶしょう)の仕事は、戸籍や租税。
- 兵部省(ひょうぶしょう)の仕事は、軍事や警備。
- 刑部省(ぎょうぶしょう)の仕事は、刑罰や裁判。
- 大蔵省(おおくらしょう)の仕事は、物資の管理や財政。
- 宮内省(くないしょう)の仕事は、宮中の事務や庶務。
- 治部賞(じぶしょう)の仕事は、儀式や外交。
また、重要な地域には、専門の管理機構をもうけた。
太宰府(だざいふ)も、そのひとつである。筑紫が国防上の重要地点だったので、筑紫に太宰府を設けたのである。太宰府は、九州全域を統轄した。
京都には京識(きょうしき)を設け、左京職と右京職の2つの京職があった。
さらに、摂津(せっつ)は外交上重要なので、摂津に摂津職(せっつしき)を置き、難波(なにわ)を管轄させた。(摂津はいまでいう兵庫県あたりの場所。海(大阪湾など)に面するので、外交上重要だったのだろう。難波(なにわ)は、大坂の地名。)
- 官吏の取り締まり
官吏を対象とする取り締まりのため、弾正台(だんじょうだい)が置かれた。
- 警察・軍事
京都の宮殿の警備のため、5つの衛府(えふ)が置かれ、あわせて五衛府(ごえふ)といわれた。また、京都の警備をする者たちは衛士(えじ)と呼ばれた。
また、一般の国々の軍事・警察のため諸国には軍団(ぐんだん)を置き、九州の防衛には防人(さきもり)を置いた。
- 人事制度
各官庁では、その官庁の上級の官僚として四等官(よんとうかん)が設けられた。四等官は、長官(かみ)・次官(すけ)・判官(じょう)・主典(さかん)である。
さらに四等官の下に、下級の官僚として官人が設けられた。
官人の階級は、全部で30の階級に分けられた。
官人の仕事は、原則として、位階に相当する官職に任命された(官位相当制(かんい そうとうせい) )。
五位以上の官人は貴族(きぞく)と呼ばれた。(一位に近いほうが、階級が高い。)
また、五位以上の官人の子には、(役所への就職時に)父や祖父の位階に応じた位階を与えられた(蔭位の制(おんいのせい))。(※ 親が一位なら子は五位からスタート、のようなシステム。)
官人の給与では、位階に応じて、「食封」(じきふ)や「禄」(ろく)が与えられた。食封とは、定められた数の戸から、そこからの租税をもらえる制度。
また、位階に応じて「位田」(いでん)や「位封」(いふ、いふう)などの給与が与えられ、官職に応じて「官田」などの給与が与えられた。
また、下級の官人の子は、(下級官人の子が)官人になるためには「大学」や「国学」(←学校名)などに入学して官人になるための教育を受ける必要があった。
- 刑罰
司法制度では、刑罰に、笞(ち)・杖(じょう)・徒(ず)・流(る)・死(し)の5つの刑があった。また、国家・天皇・尊属に対する罪は八虐(はちぎゃく)と言われ、とくに重罰とされた。(※ きびしい刑罰のように見えるかもしれないが、山川出版の参考書「詳説研究日本史」によると、当時のチャイナの刑罰と比べたら、当時の日本の刑罰は、比較的に ゆるめの刑罰らしい。)
- 地方の人事
また、地方の役所を図にまとめると、次のようになる。
(地方) 国司━━郡司━━里長
中央貴族を国司に任命し、地方豪族を郡司に任命することが多かった。
班田収授や、租庸調(そようちょう)も定められた。