「中学校社会 歴史/古墳時代」の版間の差分
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[[画像:HaniwaHorse.JPG|thumb|190px|はにわの1つ、馬形埴輪(東京国立博物館)]] |
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3世紀なかばから、日本の各地で、土を盛った大きな墓が作られるようになった。この「土を盛った大きな墓」を{{Ruby|'''古墳'''|こふん}}という。これら古墳は、各地の国を支配していた王や{{Ruby|豪族|ごうぞく}}<ref name="豪族">広い土地を |
3世紀なかばから、日本の各地で、土を盛った大きな墓が作られるようになった。この「土を盛った大きな墓」を{{Ruby|'''古墳'''|こふん}}という。これら古墳は、各地の国を支配していた王や{{Ruby|豪族|ごうぞく}}<ref name="豪族">広い土地を支配していた力のある一族。</ref>の墓だと考えられている。古墳が、さかんに作られる時代 (これを古墳時代と呼ぶ) は、3世紀から6世紀ごろまで続く。この古墳時代の始めの頃の日本各地には豪族<ref name="豪族" />がそれぞれいたが、互いに侵攻と協力を繰り返し次第に統合されていった。 |
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古墳の形は、円形に土が盛り上がっている「円墳」と、四角形に土が盛り上がっている「方墳」が基本的な形であり、これらを組み合わせた{{Ruby|'''前方後円墳'''|ぜんぽうこうえんふん}}が代表的である。 |
古墳の形は、円形に土が盛り上がっている「円墳」と、四角形に土が盛り上がっている「方墳」が基本的な形であり、これらを組み合わせた{{Ruby|'''前方後円墳'''|ぜんぽうこうえんふん}}が代表的である。 |
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==== 氏姓 ==== |
==== 氏姓 ==== |
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豪族は、血縁をもとに、{{Ruby|氏|うじ}}という集団を作っていた。そして、豪族たちの名前に関する制度で、この氏と{{Ruby|姓|かばね}}による、後に{{Ruby|'''氏姓制度'''|せいせいど |
豪族は、血縁をもとに、{{Ruby|氏|うじ}}という集団を作っていた。そして、豪族たちの名前に関する制度で、この氏と{{Ruby|姓|かばね}}による、後に{{Ruby|'''氏姓制度'''|しせいせいど}}と呼ばれる、作られた。 |
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例えば、{{中付きルビ|2=蘇我|4= |6=大臣|8=馬子|3=そが|5=の|7=だいじん|9=うまこ}}であれば、「蘇我」が氏、「大臣」が姓、「馬子」が名となる。詳しくは以下のとおりである。 |
例えば、{{中付きルビ|2=蘇我|4= |6=大臣|8=馬子|3=そが|5=の|7=だいじん|9=うまこ}}であれば、「蘇我」が氏、「大臣」が姓、「馬子」が名となる。詳しくは以下のとおりである。 |
2020年8月7日 (金) 13:18時点における版
このページ (中学校社会 歴史/古墳時代) では、古墳時代について解説する。この単元の用語には難しいものが多いので、漢字の間違いなどに十分注意しよう。
古墳の出現
3世紀なかばから、日本の各地で、土を盛った大きな墓が作られるようになった。この「土を盛った大きな墓」を
古墳の形は、円形に土が盛り上がっている「円墳」と、四角形に土が盛り上がっている「方墳」が基本的な形であり、これらを組み合わせた
古墳の多くは、表面を石で覆っていて、内部には
ヤマト王権
特に大きな古墳が、
4世紀から5世紀には、前方後円墳が、大和地方だけでなく、各地に広がっていく。各地で発掘された鉄剣などにヤマト王権の関連人物の名 (後述) が刻まれていたことから、5世紀の後半には、ヤマト王権は九州から関東までを支配していたと強く考えられている。
この大和にいた、有力な豪族たちの連合体であるヤマト王権が、のちに日本を支配していき、のちの飛鳥時代の
埼玉県の稲荷山古墳から見つかった鉄剣には、ワカタケル
後の日本の神話の書の『
「ヤマト政権」について |
この章では「ヤマト政権」並びに「ヤマト王権」のみを挙げた (基本的にはこの2つが主流) が、この政治体の呼び方は多数ある。そればかりか、「ヤマト」を漢字で書く人もいる。前述のように、できるだけ担当教員の指示に従い、それが不可能ならば教科書に従ってほしい。 なお、この本を読んでいる学生の周りに、「ヤマト朝廷」という呼び方をする人はいないだろうか。かつてこのように呼ばれていたことがあるが、現在はこの呼び方は否定されている。保護者やインターネット上のウェブサイトなどでこのように教えられるもしくは表現されている場合があれば、十分に留意してほしい。 |
ヤマト政権が、後に朝廷になるとはいえ、古墳時代の始めや中頃では、まだヤマト政権は各地の豪族のうちの1つに過ぎない。古墳時代の始めのうちは、まだ日本の統一がほとんど進んでおらず、ヤマト政権は「朝廷」と呼べる段階に至っていない。
朝廷の出現
5世紀の後半ごろから、ヤマト王権は、東北や北海道地方、南洋諸島を除く日本各地を平定した。ヤマト王権の中の、もっとも有力な支配者を、
この頃には、政権がかなり安定しており、政治組織を整えられるようになった。
氏姓
豪族は、血縁をもとに、
例えば、
この氏とは、血のつながった者どうしの集団である。
それに対し姓とは、政治の職務による
このような改革により、6世紀の半ばごろまでには、ヤマト王権による中央集権的な日本各地の支配が進み、のちの時代で言う「朝廷」のようなものが形成されていったと考えられる。
外国
朝鮮半島
4世紀、朝鮮半島には南西部の
日本は、鉄などの資源をもとめて、伽耶や百済と交流があった。そのため、日本はこの2国 (伽耶と百済) と連合して、敵である新羅および高句麗と戦った。
朝鮮半島での、
最終的に、7世紀、新羅が朝鮮半島を統一する。
中国
5世紀の終わりごろ、中国では「
その宋の歴史書の
なお、最終的に、中国は「
渡来人と文化伝来
5世紀ごろ、朝鮮半島や中国大陸から、多くの人が日本に移住した。これらの古い時代に大陸から日本へ移り住んだ人たちを現代では
この5世紀頃の渡来人により、以下のような外国の文化が日本に伝わった。
- 漢字
儒教 [5]- 用水路の土木技術
- 絹織物などの機織りの技術
- 農具や工具や武器などをつくる
鍛冶 や金属加工などの技術 須恵器 - (6世紀に)仏教
特筆すべきことは、須恵器と仏教が伝わったことである。
6世紀の半ばごろに
仏教は、紀元前5世紀ごろのインドで、 シャカ という人物が始めた宗教である。シャカはゴーダマ=シッダルタ とも言われる。