「小学校社会/6学年/歴史編/江戸幕府の成立と安定した社会-江戸時代Ⅰ」の版間の差分

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:三成は、家康に反対する大名たちに呼びかけ、家康を攻める兵をあげやはり東へ向かいました。これを知った家康は軍を西へ反転して、これをむかえうとうとしました。そして、{{Ruby|関ヶ原|せきがはら}}(今の岐阜県)で、家康が率いる軍(東軍)と、三成が率いる軍(西軍)がぶつかりました。これを '''関ヶ原の戦い''' といいます。これは、両軍合わせて約20万人と日本史上最大の合戦となりました。結果は、西軍の中での裏切りなどもあって東軍の勝利となりました。
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:戦後、三成らは処刑され領土は没収されました。毛利氏など西軍についたもまた多くの領土を没収されました。豊臣氏も多くの領土を没収され、一地方の大名に過ぎないものとなって、家康の天下となりました。
:戦後、三成らは処刑され領土は没収されました。毛利氏など西軍についたもまた多くの領土を没収されました。豊臣氏も多くの領土を没収され、一地方の大名に過ぎないものとなって、家康の天下となりました。
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==== 江戸幕府の誕生 ====
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:1603年、{{Ruby|朝廷|ちょうてい}}から{{Ruby|徳川家康|とくがわいえやす}}は [[小学校社会/6学年/歴史編/武家社会の始まり-鎌倉時代#将軍|{{Ruby|征夷大将軍|せいいたいしょうぐん}}]]に任命されました。
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:家康は{{Ruby|江戸|えど}}(現在の東京)に'''{{Ruby|幕府|ばくふ}}'''を開きました。これが'''{{Ruby|江戸幕府|えどばくふ}}'''であり、この時から'''江戸時代'''が始まりました。
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:関ヶ原の戦いの後、家康は西軍の大名の領地と豊臣氏の領土取り上げ、東軍の大名に分け与えましたこの時、大名を家康の子孫による'''親藩'''、関ヶ原の戦い前から家来である'''{{ruby|譜代|ふだい}}大名'''、関ヶ原の戦い後に従った'''{{ruby|外様|とざま}}大名'''にわけてとりあつかいました。①親藩は、将軍家の血筋が絶えた場合などに、将軍を出す役割を担った'''御三家'''・'''御三卿'''を含み、家格・官位などでは優遇されましたが、幕政に参加することはまれでした、②譜代大名は、比較的小さな石高の領土を認められ領地替えもよくありましたが、江戸や京大阪からは近くに位置したものでした。'''大老'''、'''老中'''、'''若年寄'''といった幕閣には譜代大名がつきました。③外様大名は、比較的大きな石高の領土を認められ、幕末まで領地替えはほとんどありませんでしたが、江戸や京大阪からは遠いところにありました。また、幕政に参加することはほとんどありませんでした。なお、江戸時代の大名とその家来を合わせた集団を、「'''{{ruby|藩|はん}}'''」と言っています。幕府は強力な力を持っていましたが、藩の中の政治に口を出すことはありませんでした。
:関ヶ原の戦いの後、家康は領地を分け与えましたが、この時、大名を家康の子孫による'''{{ruby|親藩|しんぱん}}'''、関ヶ原の戦い前から家来である'''{{ruby|譜代|ふだい}}大名'''、関ヶ原の戦い後に従った'''{{ruby|外様|とざま}}大名'''にわけてとりあつかいました。なお、江戸時代の大名とその家来を合わせた集団を、「'''{{ruby|藩|はん}}'''」と言っています<ref>ただし、この言い方は明治以降の言い方で、当時は、「○○様{{ruby|御家中|ごかちゅう}}」などの言い方を使いました。</ref>。幕府は、藩をつぶしたり、領土の一部を取り上げたり、大名同士の領土を交換させるなど、強力な力を持っていましたが、藩の中の政治に口を出すことはありませんでした。
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:::関ヶ原の戦い以降に徳川家の家来となった大名です。比較的大きな石高の領土を認められ、幕末まで領地替えはほとんどありませんでしたが、江戸や京大阪からは遠いところにありました。また、幕政に参加することはほとんどありませんでした。
:徳川幕府は、「'''{{ruby|天領|てんりょう}}'''」といって旗本などの知行とせずに直接支配する400万石に及ぶ領地ももっていました。天領には旗本や御家人から{{ruby|代官|だいかん}}を派遣し、これをおさめました。
=== 武士の政治の安定 ===
=== 武士の政治の安定 ===
==== 江戸幕府の仕組み ====
==== 江戸幕府の仕組み ====
:第3代将軍'''徳川家光'''は、大名は、妻子(正妻と後継となる子)を江戸に置き、領土との間を1年おきに行き来すること('''参勤交代''')を定めました。また、将軍の命令で、徳川氏が有する城や河川の改修などを務めなければならないこともありました。こうして、徳川将軍は大名が、戦国時代のように勝手に争うことができないようにし、安定した世の中を作り上げました。
:第3代将軍'''徳川家光'''は、大名は、妻子(正妻と後継となる子)を江戸に置き、領土との間を1年おきに行き来すること('''{{ruby|参勤交代|さんきんこうたい}}''')を定めました。また、将軍の命令で、徳川氏が有する城や河川の改修などを務めなければならないこともありました。こうして、徳川将軍は大名が、戦国時代のように勝手に争うことができないようにし、安定した世の中を作り上げました。
:徳川幕府には、重要なことを決める大老、老中、若年寄の他、大名の監視を行う'''大目付'''、寺社を管理する'''寺社奉行'''、幕府の出納を管理する'''勘定奉行'''、江戸の行政や裁判を行う'''江戸町奉行'''などの役職があり、大名の他、将軍の直接の家臣である'''旗本'''がその任務につきました。
:徳川幕府には、重要なことを決める大老、老中、若年寄の他、大名の監視を行う'''{{ruby|大目付|おおめつけ}}'''、寺社を管理する'''{{ruby|寺社奉行|じしゃぶぎょう}}'''、幕府の出納を管理する'''{{ruby|勘定奉行|かんじょうぶぎょう}}'''、江戸の行政や裁判を行う'''{{ruby|江戸町奉行|えどまちぶぎょう}}'''などの役職があり、大名の他、将軍の直接の家臣である'''旗本'''がその任務につきました。
==== 武士と庶民 ====
==== 武士と庶民 ====
:秀吉の刀狩によって、武士の身分(士分)と民衆が明確に分けられましたが、江戸幕府はそれを引き継ぎ、「'''士農工商'''」という身分制を確立しました<!--なお、以前は、身分がこの順にあったと言われていましたが、現在では「士分」とその他は身分差があるが、「農工商」には身分の差がなかったというのが定説となっています。-->また、人の移動は厳しく制限され、各地に関所がもうけられ、ここを通るのに通行手形が必要でした。
:秀吉の刀狩によって、武士の身分(士分)と民衆が明確に分けられましたが、江戸幕府はそれを引き継ぎ、「'''士農工商'''」という身分制を確立しました<ref>なお、以前は、身分がこの順にあったと言われていましたが、現在では「士分」とその他は身分差があるが、「農工商」には身分の差がなかったというのが定説となっています。</ref>また、人の移動は厳しく制限され、各地に関所がもうけられ、ここを通るのに通行手形が必要でした。


==== 島原の乱と鎖国 ====
==== 島原の乱と鎖国 ====

2021年12月22日 (水) 22:21時点における版

この章の概要

★時代区分:江戸時代初期
★取り扱う年代:1600年(関ヶ原の戦い)から1638年(島原の乱終結)まで

江戸幕府の始まり
秀吉死後、最も強力な大名徳川家康は、敵対する豊臣家家臣石田三成らと、東軍(家康側)と西軍(三成側)に分かれ関ヶ原で戦い(関ヶ原の戦い)、これに勝利します。政権は豊臣氏から徳川氏に移ります。
関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、1603年に征夷大将軍に就任し、江戸に幕府を開きます。これを「江戸幕府(または、徳川幕府)」といい、江戸に幕府があった時代を「江戸時代」と言います。家康は、大坂冬の陣・夏の陣で豊臣氏を滅ぼし、これ以降、大名同士の合戦はなくなります。
関ヶ原の戦いの後、家康は西軍の大名の領地と豊臣氏の領土を取り上げ、東軍の大名に分け与えました。この時、大名を家康の子孫による親藩、関ヶ原の戦い前から家来である譜代(ふだい)大名、関ヶ原の戦い後に従った外様(とざま)大名にわけてとりあつかいました。①親藩は、将軍家の血筋が絶えた場合などに、将軍を出す役割を担った御三家御三卿を含み、家格・官位などでは優遇されましたが、幕政に参加することはまれでした、②譜代大名は、比較的小さな石高の領土を認められ領地替えもよくありましたが、江戸や京大阪からは近くに位置したものでした。大老老中若年寄といった幕閣には譜代大名がつきました。③外様大名は、比較的大きな石高の領土を認められ、幕末まで領地替えはほとんどありませんでしたが、江戸や京大阪からは遠いところにありました。また、幕政に参加することはほとんどありませんでした。なお、江戸時代の大名とその家来を合わせた集団を、「(はん)」と言っています。幕府は強力な力を持っていましたが、藩の中の政治に口を出すことはありませんでした。
武士の政治の安定
第3代将軍徳川家光は、大名は、妻子(正妻と後継となる子)を江戸に置き、領土との間を1年おきに行き来すること(参勤交代)を定めました。また、将軍の命令で、徳川氏が有する城や河川の改修などを務めなければならないこともありました。こうして、徳川将軍は大名が、戦国時代のように勝手に争うことができないようにし、安定した世の中を作り上げました。
徳川幕府には、重要なことを決める大老、老中、若年寄の他、大名の監視を行う大目付、寺社を管理する寺社奉行、幕府の出納を管理する勘定奉行、江戸の行政や裁判を行う江戸町奉行などの役職があり、大名の他、将軍の直接の家臣である旗本がその任務につきました。
秀吉の刀狩によって、武士の身分(士分)と民衆が明確に分けられましたが、江戸幕府はそれを引き継ぎ、「士農工商」という身分制を確立しました。また、人の移動は厳しく制限され、各地に関所がもうけられ、ここを通るのに通行手形が必要でした。
キリスト教は秀吉の時代に禁じられましたが、江戸幕府においても禁じられました。一方で、ポルトガルなどとの貿易は港を限定しながらも続いており、そこで宣教師との行き来があったとされます。そんな中、九州の天草・島原で大規模なキリスト教徒による反乱(島原の乱)が起きました。これがきっかけとなって、幕府は、島原の乱の翌年に、貿易の相手を、キリスト教の布教には熱心でないオランダだけに限って、さらに、長崎の出島だけでこれを認めることになりました。これを、鎖国(さこく)と言います。

江戸幕府の始まり

関ヶ原の戦い

1598年秀吉が死んだ時、後継の秀頼(ひでより)はまだ5歳でした。秀吉は、秀頼が成長するまで徳川家康(とくがわいえやす)上杉景勝(うえすぎがげかつ)他5人の有力な大名(五大老(ごたいろう)[1])と秀吉が信頼する石田三成(いしだみつなり)浅野長政(あさのながまさ)他5人の家臣(五奉行(ごぶぎょう)[2])の10人で相談して政治を行うよう言い残しました。しかし、秀吉が死ぬと家康は他の大名との関係を深めるなどの動きを見せ、三成は家康が天下をねらっているのではないかとうたがいを持つようになりました。他方で、秀吉・秀頼の家臣の中で、石田三成を中心とする行政で秀吉をささえたグループと浅野長政や加藤清正(かとうきよまさ)福島正則(ふくしままさのり)といった(いくさ)手柄(てがら)を立ててきたグループの間に対立が生じてもいました。
徳川家康
徳川家康(とくがわいえやす)のこれまでの歩み
徳川家康は、三河(みかわ)(現在の愛知県東部)の大名松平(まつだいら)氏に生まれます。松平氏は三河の国人出身の大名でしたが、隣接する今川(いまがわ)氏や織田氏に比べると弱小な大名でした。家康は家を継ぐ前、松平元康(まつだいらもとやす)と言って、今川氏に人質に出されていたことがあります。
1560年桶狭間(おけはざま)の戦い今川義元が討ち死にし、今川氏が弱くなると、信長と同盟し三河をとりもどします。そして、名を徳川家康(とくがわいえやす)とかえ、遠江(とおとおみ)をせめとります。その後、信長の同盟国として武田氏や北条氏と隣接する信長の勢力の東南部を守り続けます。
1572年の三方原(みかたがはら)の戦いでは大敗し、命の危険もありましたが、武田信玄が病死し、兵は甲斐へもどったため一命をとりとめました。
逆に、1575年の長篠の戦いでは、信長との連合軍で、武田勝頼(たけだかつより)に大勝し駿河(するが)をえ、1582年武田氏をほろぼして甲斐(かい)信濃(しなの)の一部をえました。
秀吉には、後継者争いで一時抵抗し、秀吉の軍をくだすなどしたのですが、和解し、その後はしたがいます。
1590年、秀吉の小田原攻めに協力し北条氏を攻め滅ぼしますが、秀吉の命令によって、領地を北条氏のおさめていた関東に移され、江戸(えど)城を拠城(きょじょう)としました。
秀吉の生前は、秀吉配下では最大の大名となっていました。
関ヶ原(せきがはら)の戦い
関ヶ原の戦い
絵の右側にいるのが徳川軍。絵の左側にいるのが豊臣軍。
1600年、五大老五奉行の仲違(なかたが)いが深まり、家康は会津(あいづ)の上杉景勝を攻める兵を挙げ東へ向かいます。
三成は、家康に反対する大名たちに呼びかけ、家康を攻める兵をあげやはり東へ向かいました。これを知った家康は軍を西へ反転して、これをむかえうとうとしました。そして、関ヶ原(せきがはら)(今の岐阜県)で、家康が率いる軍(東軍)と、三成が率いる軍(西軍)がぶつかりました。これを 関ヶ原の戦い といいます。これは、両軍合わせて約20万人と日本史上最大の合戦となりました。結果は、西軍の中での裏切りなどもあって東軍の勝利となりました。
戦後、三成らは処刑され領土は没収されました。毛利氏など西軍についたもまた多くの領土を没収されました。豊臣氏も多くの領土を没収され、一地方の大名に過ぎないものとなって、家康の天下となりました。


江戸幕府の誕生

1603年、朝廷(ちょうてい)から徳川家康(とくがわいえやす)征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に任命されました。
家康は江戸(えど)(現在の東京)に幕府(ばくふ)を開きました。これが江戸幕府(えどばくふ)であり、この時から江戸時代が始まりました。
将軍の権限は、武士に石高で表した領地知行(ちぎょう))を与えることであり、知行が1万石以上の者を大名(だいみょう)、1万石未満で、将軍に直接会うこと[3]ができる者を旗本(はたもと)、できない者を御家人(ごけにん)[4]と言っていました。
関ヶ原の戦いの後に、家康は領地を分け与えましたが、この時、大名を家康の子孫による親藩(しんぱん)、関ヶ原の戦い前から家来である譜代(ふだい)大名、関ヶ原の戦い後に従った外様(とざま)大名にわけてとりあつかいました。なお、江戸時代の大名とその家来を合わせた集団を、「(はん)」と言っています[5]。幕府は、藩をつぶしたり、領土の一部を取り上げたり、大名同士の領土を交換させるなど、強力な力を持っていましたが、藩の中の政治に口を出すことはありませんでした。
親藩
将軍家の血筋が絶えた場合などに、将軍を出す役割をになった御三家(ごさんけ)[6]御三卿[7]を含み、家格・官位などでは優遇されましたが、幕政に参加することはまれでした。
譜代大名
関ヶ原の戦いの前から徳川家の家来であった家系の大名です。比較的小さな石高の領土を認められ領地替えもよくありましたが、江戸や京大阪からは近くに位置したものでした。大老(たいろう)老中(ろうじゅう)若年寄(わかどしより)といった幕閣(ばっかく)には譜代大名がつきました。
外様大名
関ヶ原の戦い以降に徳川家の家来となった大名です。比較的大きな石高の領土を認められ、幕末まで領地替えはほとんどありませんでしたが、江戸や京大阪からは遠いところにありました。また、幕政に参加することはほとんどありませんでした。
徳川幕府は、「天領(てんりょう)」といって旗本などの知行とせずに直接支配する400万石に及ぶ領地ももっていました。天領には旗本や御家人から代官(だいかん)を派遣し、これをおさめました。

武士の政治の安定

江戸幕府の仕組み

第3代将軍徳川家光は、大名は、妻子(正妻と後継となる子)を江戸に置き、領土との間を1年おきに行き来すること(参勤交代(さんきんこうたい))を定めました。また、将軍の命令で、徳川氏が有する城や河川の改修などを務めなければならないこともありました。こうして、徳川将軍は大名が、戦国時代のように勝手に争うことができないようにし、安定した世の中を作り上げました。
徳川幕府には、重要なことを決める大老、老中、若年寄の他、大名の監視を行う大目付(おおめつけ)、寺社を管理する寺社奉行(じしゃぶぎょう)、幕府の出納を管理する勘定奉行(かんじょうぶぎょう)、江戸の行政や裁判を行う江戸町奉行(えどまちぶぎょう)などの役職があり、大名の他、将軍の直接の家臣である旗本がその任務につきました。

武士と庶民

秀吉の刀狩によって、武士の身分(士分)と民衆が明確に分けられましたが、江戸幕府はそれを引き継ぎ、「士農工商」という身分制を確立しました[8]。また、人の移動は厳しく制限され、各地に関所がもうけられ、ここを通るのに通行手形が必要でした。

島原の乱と鎖国

キリスト教は秀吉の時代に禁じられましたが、江戸幕府においても禁じられました。一方で、ポルトガルなどとの貿易は港を限定しながらも続いており、そこで宣教師との行き来があったとされます。そんな中、九州の天草・島原で大規模なキリスト教徒による反乱(島原の乱)が起きました。これがきっかけとなって、幕府は、島原の乱の翌年に、貿易の相手を、キリスト教の布教には熱心でないオランダだけに限って、さらに、長崎の出島だけでこれを認めることになりました。これを、鎖国(さこく)と言います。

脚注

以下は学習の参考ですので覚える必要はありません。

  1. ^ 家康・景雄の他は前田利家(まえだとしいえ)毛利輝元(もうりてるもと)宇喜多秀家(うきたひでいえ)です。
  2. ^ 三成・長政の他は前田玄以(まえだげんい)増田長盛(ましたながもり)長束正家(なつかまさいえ)です。
  3. ^ これを「御目見得(おめみえ)」と言います。
  4. ^ 多くは、戦国時代、「足軽」と呼ばれていた階層の武士です。
  5. ^ ただし、この言い方は明治以降の言い方で、当時は、「○○様御家中(ごかちゅう)」などの言い方を使いました。
  6. ^ 尾張(おわり)藩、紀州(きしゅう)藩、水戸(みと)藩の3家で、それぞれ領国をもっていました。家康のこどもで、第2代将軍秀忠(ひでただ)の兄弟の子孫です。
  7. ^ 田安(たやす)家、一橋(ひとつばし)家、清水(しみず)家の3家で、御三家と違い領国を持っていません。江戸幕府の誕生から130年〜150年ほどのちにできた家で、第8代将軍吉宗(よしむね)の子孫です。
  8. ^ なお、以前は、身分がこの順にあったと言われていましたが、現在では「士分」とその他は身分差があるが、「農工商」には身分の差がなかったというのが定説となっています。

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