「中学校社会 地理/アフリカ州」の版間の差分

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スエズ運河について、紅海の画像を追加。スエズ運河を通行する船舶の写真画像を追加。
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== モノカルチャー経済 ==
== 💩モノカルチャー経済💩 ==
アフリカの産業は、農業や鉱産資源など、あまり高度な技術を必要としない産業にかたよっており、しかも輸出用の産業にかたよっている。
アフリカの産業は、農業や鉱産資源など、あまり高度な技術を必要としない産業にかたよっており、しかも輸出用の産業にかたよっている。
とくに農産物は多くの国で生産できるので、国際競争も激しい。しかも輸出用の作物の多くは、商品作物なので、アフリカ内では消費しづらいので、たとえ売り値が安くても輸出せざるを得ない。このため、商品作物は価格が不安定なのが一般であり、国際市場の影響を受けやすい。
とくに農産物は多くの国で生産できるので、国際競争も激しい。しかも輸出用の作物の多くは、商品作物なので、アフリカ内では消費しづらいので、たとえ売り値が安くても輸出せざるを得ない。このため、商品作物は価格が不安定なのが一般であり、国際市場の影響を受けやすい。


このような、輸出に片よった産業の構造のため、アフリカの労働は賃金が低く、それがアフリカの経済が発展しづらい理由の一つだろう、と考えられている。
このような、輸出に片よった産業の構造のため、アフリカの労働は賃金が低く、それがアフリカの経済が発展しづらい理由の一つだろう、と考えられている。
このような、特定の産業にかたよった経済のことを、しかも、そのために生活が貧しい経済を、'''モノカルチャー経済'''という
このような、特定の産業にかたよった経済のことを、しかも、そのために生活が貧しい経済を、'''モノカルチャー経済'''という


== 南アフリカ共和国のアパルトヘイトと廃止 ==
== 南アフリカ共和国のアパルトヘイトと廃止 ==

2014年9月29日 (月) 13:48時点における版

気候など

アフリカの衛星画像
サハラ砂漠

アフリカの原住民は黒人である。だがアフリカ北部には、アラブ系の人種や、白人が多い。 (アフリカ大陸の北部にある)サハラ砂漠(サハラさばく)より南の地域には、黒人が多く「ブラックアフリカ」と言われる。

アフリカは、地域によっては砂漠(さばく)の地域もあれば、熱帯林の地域もあるし、草原の地域もある。

沿岸部をのぞく、北部と南部では、砂漠が多い。 アフリカの中部を赤道が通っている。アフリカ中部は、雨が多く、熱帯林が多い。この熱帯林の地域の農業では、いも類やバナナなどを栽培している。


赤道から離れるにしたがって、気候が乾燥して行き、風景が、しだいに熱帯林から草原にかわっていく。

サバンナ(ケニア)
しまうま (タンザニア)

草原の地帯では、1年のあいだに、雨季(うき)と乾季(かんき)がある。このため、木々はあまりそだたず、草原が広がり、サバンナ(サバナ)やステップなどと言われる。 ゾウや しまうま やライオンなどが多いのは、この草原のあたりである。


そして、さらに赤道から離れると、草原から砂漠へと変わっていく。

ただし、アフリカ北西部のモロッコなどの地中海沿岸では、やや雨が多い。なので、小麦や ぶどう やオリーブなどの地中海式の畑作の農業が行われている。大陸の南端の沿岸部も、同様にやや雨が多いので、似たような畑作が行われている。

アフリカ北部にある砂漠で、世界最大のサハラ砂漠がある。 アフリカ北部の文化は、西アジアのアラブ地方の影響が大きい。サハラ砂漠とその北部でのアフリカ北部では、アラビア語が話され、宗教はイスラム教が信仰されている。 砂漠での暮らしも、らくだや羊などの家畜を連れて、草と水を求めて移動する遊牧(ゆうぼく)である。

ナイル川の流域図

アフリカ北西部にナイル川があり、川の周辺では農業が行われ、なつめやし などが栽培されている。

いっぽうサハラ砂漠より南では、伝統的な宗教と、キリスト教が多い。言語は、中央アフリカや南アフリカでは旧宗主国の英語やフランス語などが使われている国が多い。アフリカには多くの民族や部族があり、それぞれ言葉もちがうので、公用語には旧宗主国の英語やフランス語などを定めている場合が多いのである。

ヨーロッパ州の侵略による植民地支配と、独立

アフリカは16世紀ごろ、ヨーロッパに侵略され、ヨーロッパの植民地になった。原住民の黒人たちは、奴隷として諸外国に輸出され、とくに北アメリカ大陸と南アメリカ大陸に多く輸出された。 このような貿易を奴隷貿易(どれい ぼうえき)と言う。


国際連合ルワンダ支援団のベルギー人職員が殺害された事件の記念施設の外観、銃弾の跡が数多く残されている。

しかし、第二次大戦後、世界的な独立運動の高まりや民主主義、民族主義の高まりにより、1950年代ごろから、つぎつぎとアフリカの国が独立した。とくに1960年に多くのアフリカ諸国が独立したので、この年は「アフリカの年」と言われている。 ヨーロッパ各国の植民地の境界線は、緯度や経度によって引かれたので、直線的であった。それらの境界線が、今も国境として残っている。 このため、一つの国内に多くの民族が居るので、民族どうしの対立や、領土をめぐる対立など、紛争や内戦のある国も多い。

ギニア湾岸

図のAのあたりの海域がギニア湾。

ガーナはアフリカ中西部のギニア湾の沿岸部にあり、高温多雨の地域であり農業がさかんで、カカオ生産地として世界でも有数。カカオはチョコレートの原料の食物。コートジボワールについで、ガーナはアフリカではカカオの生産量が多い。カカオは元々は南アメリカ州の作物だったが、植民地時代にヨーロッパ人がアフリカに持ち込んだ。

なお、生産量の世界1位はコートジボワール(ギニア湾の沿岸国)の約30%、ガーナは2位〜3位くらいで約15%。東南アジアのインドネシアも15%くらい。


産業

アフリカの農業では、綿花、コーヒー、カカオ、天然ゴムなどがさかん。

茶のプランテーション(ケニア)

植民地時代にヨーロッパ州への輸出用に、大農場(プランテーション)が作らされた。そのため、アフリカの作物は自給用よりも、主に輸出用の、商品作物が多い。独立後は、欧米の所有だった農場は国有化されたが、現在でも、それらの農産物が、ドルなどの外貨(「がいか」、意味:外国のお金のこと。)をかせぐための重要な輸出品である。


国にもよるが、アフリカの多くの国で、工業が発達しておらず、貧しい国が多い。アフリカでは、人口増加がいちじるしい。

アフリカの農産物が輸出用にかたより、自給用の作物が少ない。国によっては食料不足になる国もあり、欧米や日本などの諸外国から経済援助や食料援助を受ける国もある。

だが例外的に、南アフリカ共和国では機械工業や鉄鋼業が発達している。


アフリカは、金やダイヤモンドや銅などの鉱産資源が豊富である。植民地時代から、これら地下資源の採掘が行われ輸出されてきた。

また20世紀には、石油がナイジェリアやアルジェリアなどで採掘されている。


さらに近年は、希少金属(きしょうきんぞく、レアメタル)であるガリウムやコバルトなどが採掘されている。パソコンや携帯電話などの電子機器にもレアメタルは使われている。


資源が多いにも関わらず、アフリカ国内に高度な工業力を持たないので、あまりアフリカの工業が発展していない。教育が整備されておらず、文字を読めない人なども多い。そのため、あまり工業の労働者が育たない。


💩モノカルチャー経済💩

アフリカの産業は、農業や鉱産資源など、あまり高度な技術を必要としない産業にかたよっており、しかも輸出用の産業にかたよっている。 とくに農産物は多くの国で生産できるので、国際競争も激しい。しかも輸出用の作物の多くは、商品作物なので、アフリカ内では消費しづらいので、たとえ売り値が安くても輸出せざるを得ない。このため、商品作物は価格が不安定なのが一般であり、国際市場の影響を受けやすい。

このような、輸出に片よった産業の構造のため、アフリカの労働は賃金が低く、それがアフリカの経済が発展しづらい理由の一つだろう、と考えられている。 このような、特定の産業にかたよった経済のことを、しかも、そのために生活が貧しい経済を、モノカルチャー経済という♡

南アフリカ共和国のアパルトヘイトと廃止

南アフリカ共和国の政治では、少数の白人が、黒人を支配する政治が第2次大戦前から続いており、アパルトヘイト( 意味:人種隔離(じんしゅ かくり) )と言う、人種隔離の政策が取られていた。

アパルトヘイト政策のため、黒人には長い間、選挙権が無かった。住むところも人種によって決められた。人種のことなる人との結婚は、禁じられていた。

このような差別的な政策に対し黒人による差別への反対運動が続いた。国際社会の批判もあり、1991年にアパルトヘイト政策が廃止された。

ネルソン・マンデラ元大統領
ヨハネスバーグ(ヨハネスブルグ)

そして1994年には、黒人の大統領のマンデラの政権が出来た。

法律による差別は無くなったが、満足な教育を受けていない黒人も多く、賃金の高い職につけない黒人も多いなど、なかなか上手くはいってない。

南アフリカ共和国では、治安が悪化している。とくに、最大の都市のヨハネスバーグ(ヨハネスブルグ)は治安が悪い。

2010年には、サッカーのワールドカップが南アフリカ共和国で開かれた。

都市化とスラム

ケニアの首都ナイロビの景観。
ナイロビのスラム。(ケニア)
同じナイロビ市内でも都市部とスラムで大きく風景がちがう。

アフリカの国でも、都市化が進んでいる。首都などは工業化している国も多い。携帯電話なども都市では普及している。

そのいっぽうで、アフリカ各地で人口の増加が多い。農村でも人口の増加は多い。貧しい農村に住みきれなくなった人が、仕事などを求めて都市に移住することが増えている。しかし、都市にも仕事は少ない。また、農村出身者などは、あまり教育を受けていない人が多いので、なかなか農村出身者などが、なかなか満足な仕事につけず、仕事につけたとしても賃金が安い。

満足な仕事につけず、賃金が安く、そのため住居も買えないので、貧しい人々が勝手に路上に住んだり、スラムという公共用地などに勝手につくった住居に住んだりしている。

スラムは、移住者が勝手につくったので、水道などの公共設備は通っていないので、劣悪な環境である。

スエズ運河

スエズ運河の位置
紅海の地図
スエズ運河を航行するアメリカの原子力巡洋艦ベインブリッジ (原子力ミサイル巡洋艦)

スエズ運河(スエズうんが、英: Suez Canal)はエジプトにある人口の運河で、アフリカ大陸と、ユーラシア大陸のアジア州のアラビア半島の付け根の、スエズ地峡(スエズちきょう)に位置し、地中海(ちちゅうかい)と紅海(こうかい)をむすぶ、人工の 運河である。

船舶の通行のため、スエズ運河は建設された。

1869年にスエズ運河は開通した。フランス人の土木技師レセップスが工事を指揮した。 開通から、長らくフランスやイギリスが領有を争っていて、地元のエジプトはスエズ運河を領有できなかった。しかし、1956年にエジプトがスエズ運河を国有化した。

中央アメリカにあるパナマ運河とともに、スエズ運河は、世界の二大運河(にだい うんが)として有名である。