中学校社会 歴史/三大宗教の始まり

出典: フリー教科書『ウィキブックス(Wikibooks)』
[半保護]  このページは半保護の方針に基づき、非ログインユーザー・新規利用者の編集が制限されています。一時解除を含めた解除等の対応については「半保護の方針」を参照ください。

仏教

シャカの像

インドで紀元前5~6世紀頃に釈迦(シャカ)(ゴーダマ=シッダールタ)という人物が、それまでの身分制度(カースト)を批判し、及び、バラモンの教えを批判した。

釈迦(シャカ)は苦しみとその原因について説き、正しい道をおこなって心の迷いを捨て、(さと)りをひらくことで、身分によらず救われると唱えた。

このようにして、 仏教(ぶっきょう)が出来た。

その後、仏教は、国家にも保護される。

仏教は、その後、東南アジアにも広がり、さらに中国や朝鮮半島、日本にも伝わる。


釈迦(シャカ)
生年については紀元前の463年頃、560年頃、565年頃、624年頃などの説がある。
ルンビニー(現在のネパール)に、王族のシャカ族の王子として生まれる。
29歳の時から修行を始め、地位を捨てる。80歳で亡くなる。

キリスト教

イエス・キリストを後世の6世紀ごろに描いた画(画は聖カタリナ修道院に所蔵)
『キリストの磔刑(たっけい)』。アンドレア・マンテーニャ画。後世の1456年ごろから1459年ごろの作。ルーブル美術館に収蔵。中央の十字架にイエスが、左右に強盗がつけられている。強盗たちはいづれもイエスをののしったが、イエスから見て右の強盗は、くいあらためて信仰を告白し、すくわれたという。磔刑(たっけい)とは、ローマ帝国の死刑のやり方の一つで、はりつけのこと。

オリエントのパレスチナ地方ではユダヤ教が信じられていた。紀元前のころ、ローマ帝国にパレスチナは支配された。

西暦1年より少し前ごろに、パレスチナの地に、イエスという人物が現れた。(西暦とは、かつてイエスの生年と考えられた年を西暦1年とした、キリスト教の暦である)

当時、極端に細かいおきてや形式を重んじて信仰や愛を軽んずるユダヤ教の宗派が人々を苦しめていたが、イエスはこれを批判し、人々に分かりやすいたとえで罪のゆるしと救いを説いた。愛あふれる父である神を愛し、兄弟や仲間、隣人を愛し、敵をも愛すること、真の平和と幸福、神の国、世の終わり、さばきについて教え、本当のおきてを示し、多くの人々が信じて弟子となっていった。

イエスはキリストと信じられるようになったが、(「キリスト」とは、ユダヤ教の「メシヤ」からきたことばで、救世主(きゅうせいしゅ)をさす)イエスに偽善をあばかれた宗派やローマ帝国は、かれらを迫害した。

イエスは、大きな十字架(じゅうじか)にはりつけにされて、ローマ帝国に処刑されたという。しかし、イエスの弟子たちはのちにクリスチャン(キリスト(しゃ))とよばれるようになり、やがてかれらの信仰はキリスト教として今日までに世界でもっとも多くの人々に広まることになる。

ユダヤ教はユダヤ人のための民族宗教であって、ユダヤ民族とそれ以外の民族には格差があり、人は平等ではなかったが、イエスの弟子たちは、ユダヤ人も、ユダヤ人からみた異邦人も、みなキリストを信じて救われたという。そうしてキリスト教は、ローマ帝国の領内で広まっていった。4世紀になると、ローマ帝国が方針をあらため、キリスト教を国教として保護する。

1世紀ごろから弟子たちは、イエスやその教えに関する文書・手紙類(新約聖書(しんやくせいしょ))を書き写し、ユダヤ教の聖書(旧約聖書(きゅうやくせいしょ))とともに信仰のみちびきとしていた。こんにち、その日本語訳はウィキソースの聖書からも読むことができる。なお、「新約」「旧約」の「約」というのは、神との契約(けいやく)約束(やくそく)という意味で、翻訳(ほんやく)の「訳」とは別の字である。また、『旧約聖書』の「旧約」というのはキリスト教徒から見たいいかたである。ユダヤ教徒は、『新約聖書』を経典とは認めていない。ユダヤ教の経典はもともと、日本語で『旧約聖書』と呼ぶものだけであり、ユダヤ人たちは旧も新もなく単に『タナッハ』と呼ぶ。

キリスト教は、ユダヤ教を完成させたものであるといい、ユダヤ教と似ている部分もある。ユダヤ教は聖書にある唯一の神ヤハウェ(かつてはヱホバと呼ばれた)を信じる一神教であり、キリスト教は同じく聖書の神を三位一体(さんみいったい)と信じる一神教である。

のちの時代にできるイスラム教も、ユダヤ教やキリスト教を参考にしている。

パレスチナのエルサレムは、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教、いづれにとっても聖地である。

イスラム教

メッカのカーバ神殿。イスラム教の聖地とされている。神殿の中央には、写真のように四角い黒石がある。イスラム教徒は、このカーバ神殿に向かって礼拝をする。 (サウジアラビア)

7世紀の始めごろ、アラビア半島では、商業がさかんであり、商人が力を持っていた。アラビア半島の都市メッカでは、商業が発達していた。

7世紀はじめごろに、メッカの地に、商人の家に生まれたムハンマドが現れ、40歳の頃にムハンマドは神の啓示を受けたとして、40歳の頃からメッカの地で、イスラム教を唱えた。

イスラムの教えでは、神は唯一アッラーのみであるとしており、偶像崇拝(ぐうぞうすうはい)を禁止した。 このため、イスラム教では、神の像は無い。

また、神の前に、人々は平等であると説いた。イスラム教の経典は『コーラン』と言う。

ムハンマドの教えは、迫害された。ムハンマドは、迫害を逃れるため、メディナに移住した。ムハンマドは、教えを広めるため、軍を組織した。そして、ムハンマドは軍事力でメッカを奪い返した。

その後、ムハンマドと弟子たちの征服活動によって、アラビア半島の諸国は統一されていき、イスラム教はアラビア半島と北アフリカなどの周辺の地に広まっていった。

コーランは、生活を厳しく律しており、豚肉を食べることの禁止や、飲酒の禁止、1日5回の礼拝や、断食や巡礼など、日常生活の多くの決まり事を記している。

「イスラーム」という語は、自身の重要な所有物を他者の手に引き渡すという意味を持つaslama(アスラマ)という動詞の名詞形であり、ムハンマド以前のジャーヒリーヤ時代には宗教的な意味合いのない人と人との取引関係を示す言葉として用いられていた。ムハンマドはこのイスラームという語を、唯一神であるアッラーに対して己の全てを引き渡して絶対的に服従するという姿勢に当てはめて用い、そのように己の全てを神に委ねた状態にある人をムスリムと呼んだ。

現代のエルサレムとパレスチナ問題

ユダヤ教の聖地の一つ、嘆きの壁(なげき の かべ)。イスラエルにある。
エルサレムの「岩のドーム」。イスラム教の聖地になっている。

中東のパレスチナという地方にある エルサレム という場所に、キリスト教、イスラム教、ユダヤ教の聖地がある。

現代(西暦2014に記述。)の話になるが、

このエルサレムと周辺の地域で、第二次大戦後にイスラエルが建国を強行した。このことにより、以前にこれらの地に住んでいたパレスチナ人たちが住む場所をうしない、パレスチナ人が難民になった。 パレスチナ人はイスラム教の多い民族であり、イスラエル人はユダヤ教の民族である。

このことが、アラブ諸国のあいだで、イスラエルに対しての反発の理由の一つになっている。 イスラエルがユダヤ教の国なので、アラブ諸国ではユダヤ教への反発が強い。

また、アメリカ合衆国がイスラエルと同盟を結んでおり、アメリカはキリスト教の多い国なので、そのようなこともあり、アラブ諸国ではキリスト教への反発につながっている。

このようなパレスチナ周辺の政治問題をパレスチナ問題と言う。


(※ 範囲外:) ヒンドゥー教

※ 資料集で、ヒンドゥー教について、補足しているらしい。
※ ヒンドゥー教は、インドとその周辺でしか流行してないので、三大宗教ではない。

ヒンドゥー教は、現代ではカースト制などで批判があるが、このカースト制はバラモン教が手本になっている。

ヒンドゥー教よりも昔の時代に(現代人の言う方では)「バラモン教」という宗教があり、このバラモン教でカーストの教えがあった。

仏教がインドで出来たこともあってか、仏教の伝説上の仏(ほとけ)は、じつはヒンドゥー教の神が由来であったりする場合も多い。

ところで、たぶんアナタは「ヒンドゥーとインドの発音が似てる」と思うだろうが、その通りで、ヒンドゥーとはペルシャ語で「インド人」という意味である。