中学校社会 歴史/世界の中世や近世
課題
[編集]この時代の世界はどのような動きを見せたのだろう。
古代ローマ帝国の崩壊
[編集]ヨーロッパでは、395年にローマ帝国が東西の2つの国に分裂したが、はじめは、どちらも国政がふるわなかった。やがてヨーロッパ各地で小国がいくつも興った(おこった)。そしてローマではキリスト教が国教だった。 ローマ帝国の国教だったキリスト教は、ローマ帝国の崩壊後もヨーロッパの諸国に受け入れられ、西ヨーロッパを中心にカトリック教会が作られ、ヨーロッパ全域にキリスト教が普及した。やがてカトリックの教皇は、小国の国王にも勝る影響力を持つようになった。 そしてキリスト教中心の社会になっていった
イスラム世界
[編集]8世紀ごろから、西アジアを中心に、イスラム教が発展する。そして西アジアが、中国やインドと、ヨーロッパとの間をつなぐための貿易の経路となり、イスラム諸国は交易でさかえた。イスラム諸侯は、中国(唐)などとも貿易をした。
また、西アジアのイスラム諸国では、古代ギリシアの書物などが残され、そのため古代ギリシアの哲学や医学などが、イスラム諸国に受け継がれた。また、中国から、紙の製法や、羅針盤(らしんばん)・火薬などの技術が、イスラム諸国に、つたわってきた。
さらに、数学では、インドからゼロの概念や、インドの数字が伝わってきて、アラビア数字に発展した。
十字軍
[編集]11世紀に西アジアでイスラム教の勢力が伸びたことで、キリスト教の聖地エルサレムが、イスラム教の領土になった。カトリック教会は聖地エルサレムの奪回(だっかい)のために、ヨーロッパ諸国にイスラム諸国との戦いを呼びかけ、十字軍(じゅうじぐん)を結成させて11世紀から13世紀にかけて軍を数回にわたり遠征させたが、最終的に十字軍はイスラム諸国に敗退して失敗に終わった。こうした十字軍の失敗により、ローマ教皇の権威は低下した。その代わり、各地の国王の影響力は強まった。
いっぽう、経済では、イタリアとイスラムの間で、地中海を通じた貿易などによって交易が進んだ。そして西ヨーロッパに、イスラム文化の文化が伝えられた。
ルネサンス
[編集]イスラム勢力の西アジアでは、当時のヨーロッパで失われていた古代ヨーロッパの文献が残っていたこともあり、古代のヨーロッパの文化が西アジアからヨーロッパに伝わった。 14世紀ごろから、当時のヨーロッパで忘れられていた古代ギリシャ・古代ローマの文化を復興する風潮が起こり、この風潮はルネサンス(文芸復興)と言われた。イタリアを中心にルネサンスが起きた。
中国からイスラム商人を経て伝わった羅針盤(らしんばん)や火薬などの改良も進んだ。科学では実験や観察を重んじるようになり、地球球体説にもとづく世界地図が作られ、天文学や地理学も発達した。こうした科学技術は交易にも役立ち、航海の技術などが発達して、のちに南ヨーロッパの商人たちが海外進出していく。
ルネサンスでは、レオナルド=ダ=ビンチ や ミケランジェロ などの芸術家が活躍した。
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レオナルド=ダ=ビンチの作品の「モナ・リザ」
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ミケランジェロ作『ダビデ像』
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『春』ボッティチェッリの作品。
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バチカンのシスティーナ礼拝堂に描かれた『最後の審判』(さいごの しんぱん)。ミケランジェロの作品。
宗教改革
[編集]16世紀ごろ、ローマのカトリック教会は免罪符(めんざいふ)を売りに出した。教会は、軽い罪なら、免罪符を買えば許される、とした。
ドイツのルターは、この免罪符の販売の行為を腐敗として、ローマ教会を批判して、宗教改革(しゅうきょう かいかく)を始め、新しい宗派を結成した。このルターらの宗教改革を支持してローマ教会から離れたキリスト教徒は、プロテスタント(抗議する者)と呼ばれた。
また、ルターの宗教改革に刺激され、スイスでも、フランスから来たカルバンが宗教改革を起こした。カルバンの宗教改革では、職業や労働を信仰の一部として解釈(かいしゃく)したので、労働の結果として富を蓄えることが正当化された。そのため商工業者にルターの改革は受け入れられ、商工業の影響力が強いオランダ・イギリスやフランスなどで広まった。
これらの宗教改革は、けっして人道主義でもなく、民主化ではない。 たとえば、カルバンは、厳密な教義にもとづく統制的かつ独裁的な政治を行い、もしも統制に従わない者などがいれば処刑した。[1]
また、ルター派の政治家は、農奴制(のうどせい)のドイツで大規模な農民反乱が起きたとき(「ドイツ農民戦争」、※高校の範囲、中学範囲外なので覚えなくて良い)、農民を弾圧する諸侯(しょこう)を支持した。ルター派は富裕な商工業者に支持されてたのであり、貧しい農民に支持されたのではない。
いっぽうカトリック教会でも、立て直しのための改革が進み、イエズス会が結成された。イエズス会は、アジアやアメリカなど海外にも積極的に布教した。
参考文献
大航海時代
[編集]ヨーロッパの商人たちでは、アジアとの貿易により伝わってきた香辛料や絹織物などのアジアの産物を求めて、インドや中国などへの関心が高まっていたが、西アジア諸国ではイスラム教の国々の勢力が強く、イスラム諸国との取引の深いイタリア以外の国は、地中海からはヨーロッパの商人は自由にインドや中国へは向かえなかった。そのため、イタリア以外のスペインやポルトガルなどの国では、別の航路が求められ、新しい航路が探されていた。
ポルトガルは1488年に南アフリカ大陸の南端の喜望峰(きぼうほう)に到達して、海路でインドに直接に行ける可能性を明らかにした。
そして、1498年には、ポルトガルのバスコ=ダ=ガマが実際にアフリカ南端を経由してインドに到達した。
いっぽう、スペインは、ポルトガルに対抗し、イタリア人で西回りの航路を開拓していたコロンブスを支援した。コロンブスは実際に大西洋を西へ航海して、1492年にアメリカ大陸の西インド諸島を発見した。コロンブスは、アメリカ大陸をインドの一部だと思っていたが、ヨーロッパ人には知られていなかった新しい大陸であった。のちにスペインはアメリカ大陸を征服していった。
アメリカ大陸の先住民を「インディアン」「インディオ」などと呼ぶ習慣は、このコロンブスの時代の誤解がもとになっている。なお、現在は、アメリカ合衆国では先住民のことを「ネイティブ=アメリカン」とも読んでいるが、その一方で「ネイティブ=アメリカン」という言い方がヨーロッパ系のアメリカ白人の主導での言い換えであるので、先住民の中には、この言い換えを嫌い、引き続き「インディアン」と呼び続ける運動も起こっている。
歴史的事実かどうかは不明だが、次のような言い伝えがある。
コロンブスは、アメリカ大陸を発見したあと、その発見を祝ったパーティーで、コロンブスをねたんだ者から「海を船で西に進んだだけじゃないか。そんなのは簡単なことだ。」というような やっかみ を言われた。そこでコロンブスは、そのパーティー会場の卓上にあった ゆで卵を取り出し、「だれか、この卵を、支えをつかわずに立ててみてください。」と言ってみた。すると、他のものは、誰も立てられなかった。そのあとコロンブスは、卵の端を少し潰して、端を平(たいら)にすることで、じっさいに卵を立てて見せた。
すると、やっかみを言ってた者は「そんな方法でいいなら、誰でもできる」と反論したという。
するとコロンブスは、次のようなことを言ったという。「ええ。手本を見せたあとなら、だれでも簡単にできますね。」と。
「このように、誰かがやってみせた事は、後から来た人には簡単に見えることなのです。ですが、実際には、最初になにかをするのは、とてもむずかしいことなのです。」と。
・・・というような言い伝えがあり、この言い伝えを「コロンブスの卵」という。
16世紀には、スペインの援助を受けたマゼランの船団が西回りの航路で世界一周をした。マゼラン本人は航海の途中にフィリピンで先住民と争い、マゼランは死亡したが、彼の部下がそのまま航海をつづけ、世界を一周してスペインにもどった。この世界一周により、地球が球体であることが航路からも証明された。
アメリカ大陸に到達したスペイン人はアメリカ大陸を武力で征服し、先住民の文明をほろぼした。そしてアメリカ大陸のいくつかの土地をスペインの領土とした。
15世紀ごろまでは、メキシコにはアステカ王国が栄え、ペルーにはインカ帝国が栄えていたが、スペイン人は、これらの国を武力で征服し、ほろぼした。そして先住民を奴隷として働かせ、農場や鉱山などでの労働力として酷使した。このようにして中南米はスペインに征服され、中南米の地域はスペインの植民地になった。
アメリカ大陸では有力な銀山が発見され、銀が多く採掘された。
じゃがいも・さつまいも、とうもろこし・かぼちゃ・トマト・たばこ・とうがらし・カカオ などは、アメリカ大陸の作物である。これらの作物がヨーロッパに紹介された。
さとうきびは、オセアニア州のニューギニア島あたりが原産であり、アメリカの原産では無い。 さとうきびも、アメリカの大農場(プランテーション)で栽培され輸出された。
アメリカ大陸で先住民だけでは労働力が足りなくなると、アフリカから黒人を強制的につれてきて、奴隷として働かせた。
スペインの宗教がキリスト教のカトリックだったことから、中南米にはイエズス会の宣教師が多く送られ、中南米地域でカトリックが広まった。また、スペインはフィリピンを占領し、マニラを拠点に貿易を行った。
ポルトガルは、インドのゴアやマレー半島のマラッカ、中国のマカオなどを拠点にして、香辛料や絹などを買い入れ、ヨーロッパに輸出した。
しかし16世紀末ごろに、カトリックの多いスペイン領から、プロテスタント系の住民の多いオランダが独立した。そしてオランダの貿易のため、17世紀の始めごろの1602年には東インド会社を作り、インドネシアのジャワのバタビア(今のジャカルタ)を貿易の拠点にして、東南アジアでの貿易の影響力を強めた。
- (※ 範囲外、備考 :)「東インド会社」は名目上は営利企業で「会社」だが、実際は植民地支配の行政拠点、軍事拠点である。この事は、すでに1700年代にイギリス・アイルランドの政治学者・経済学者 エドマンド=バークが指摘している事である[1]。
アメリカやアフリカを征服したヨーロッパ人が、アジアと貿易してたことから、世界の各地の産業や情報が、貿易を通して結びつくようになった。
- 参考文献
- ^ ジェリー・Z・ミュラー 原著『資本主義の思想史』、池田幸弘 訳、東洋経済新報社、2018年1月25日 発行、P152