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中学校社会 歴史/戦国時代と安土桃山時代

出典: フリー教科書『ウィキブックス(Wikibooks)』

中学校社会 歴史/戦国時代と安土桃山時代では、戦国時代と安土桃山時代について解説します。

課題

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戦国時代とはどのようなものだったのだろう。

この時代の対外政策はどのようなものだったのだろう。

この時代の文化にはどのような特色があるのだろう。

戦国時代の到来

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下剋上と戦国大名

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室町時代の後半は、応仁の乱がきっかけで各地に領土獲得のための争いが広がった。この室町時代後期の日本各地で戦乱があった時代を 戦国 (せんごく) 時代 (じだい) と言い、戦乱が続いた。応仁の乱で、守護大名が京都に出向いて兵を指揮していたころ、国もとに残っていた家臣らが実権をにぎるというということが起きた。他にも、各地で、身分が下の者が、守護大名に取って代わろうとして争い、大名になった者たちが現れ始めた。このように身分の下のものが身分が上の大名を倒して、新しく大名になることを下克上(げこくじょう)という。

そして、戦国時代の大名を戦国大名という。戦国大名の多くは、下克上によって、大名に成り上がった。

無論、すべての守護大名が下克上で倒されたわけでなく、守護大名のまま、時代が戦国時代になり、守護大名から戦国大名になった者もいる。守護大名出身の戦国大名には、武田氏、今川(いまがわ)氏、佐竹(さたけ)氏、山名(やまな)氏、大友氏、島津氏などがある。

その他の戦国大名は、ほとんどが下剋上によって戦国大名に成り上がった者である。

分国法

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戦国大名どうしが戦うことから、領地内での統制(とうせい)も強める必要があった。戦乱の時代に対応した、領地を管理するための法律を、新たに作る必要がある。 それぞれの戦国大名が領地内でしか通用しない法律を勝手に作った。これが 分国法(ぶんこくほう) である。戦国大名の領地を分国(ぶんこく)と呼んでいた。その分国の中で通用する法律だから分国法というわけである。

たとえば甲斐 (山梨県) の戦国大名である武田信玄は『甲州 (こうしゅう) 法度 (はっと) 次第 (しだい) 』という分国法を1547年(天文(てんもん)16年)に作った。

武田氏の分国法
一. 武田信玄の許可なく同盟を結ぶことを禁止する。
一. 他国に勝手に手紙や(おく)り物を出してはならない。
一. 喧嘩をしたものは、どちらが良いか悪いかに関わらず、いかなる理由でも、両方とも処罰する。ただし、相手から喧嘩を仕掛けられても、こらえた者は処罰しない。
一. 主君から、もらった土地は、勝手に売買してはならない。やむをえず売買する場合は理由を申し出ること。
『甲州法度次第』(重要事項をまとめた現代語訳)

甲州法度次第のように、部下どうしの争いを両方とも処罰することを 喧嘩 (けんか) 両成敗 (りょうせいばい) という。

他にも今川氏の『今川仮名目録(かなもくろく)』などの分国法がある。

今川氏の分国法
一. 今川家の家臣(かしん)は、勝手に他国から(よめ)をもらったり、あるいは婿(むこ)に取ったり、あるいは他国に嫁を出すことは、今後は禁止する。
『今川仮名目録』(重要事項を抜粋した現代語訳)

分国法の内容は大名によって違うが、多くの大名の分国法では、勝手に他国と連絡をとることを禁止するなど、家臣の裏切りを防ぐための決まりや、家臣同志が争った場合は両方とも罰することで領内を団結させるなどの決まりであることが多い。

大名の多くは家来を自分の城の近くに住まわせた。このため、城の近くに街が出来た。これが 城下町(じょうかまち) がである。朝倉氏の一乗谷(いちじょうだに) (現在は福井県内) や、北条氏の小田原(おだわら) (現在は神奈川県内) などが城下町である。

朝倉氏の分国法
一. 本拠である朝倉の(たち)の他には、国の中に城をかまえてはならない。有力な家臣は一乗谷に引越し、村などの所領があれば、村に代官(だいかん)を置け。
朝倉 (あさくら) 考景 (たかかげ) 条々 (じょうじょう) 』(重要条文を抜粋した現代語訳)

戦国大名たちは、荘園領主の支配を認めず、荘園だった土地を自国の領土とした。

信長の台頭

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多くの大名がおり、各地で争いがおきているので、その全てを解説する時間はない。なので、代表的な人物を中心に取り上げる。

桶狭間 (おけはざま) () 戦い (たたかい)

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織田 (おだ) 信長 (のぶなが)
「天下布武」の印

戦国時代には各地に大名がおり、多くの大名どうしが争っていた。1560年(永禄(えいろく)13年)以降から、まず、尾張(おわり) (現在の愛知県西部) の 織田信長 が勢力を伸ばし始める。きっかけは、1560年(永禄(えいろく)3年)に、尾張が桶狭間の戦い駿河(するが) (現在の静岡県) の大名である今川 (いまがわ) 義元 (よしもと) の軍に攻めこまれたが、今川義元を織田らの軍が討ち取り、今川義元は死亡する。このため、今川軍は負ける。

今川討ち死にのいきさつは、信長軍の兵が少数の軍勢で今川の本陣を攻撃し、今川義元を討ち取った。

(※ 範囲外: ) 織田軍は桶狭間では奇襲攻撃はしかけてはいない。21世紀の歴史学的には、織田軍は今川の陣営を正面から攻撃したものと思われている[1]。奇襲説を取ったのは、明治時代の陸軍のようであり、その参考文献として『甫庵信長記』(ほあん しんちょうき)という江戸時代の文献を明治陸軍は参考にしているが、しかしここの『甫庵信長記』(ほあん しんちょうき)は江戸時代初期の娯楽としての歴史読み物であり、史料としての信頼性に欠ける。一方、戦国時代の当時に書かれた『信長公記』(しんちょう こうき)という歴史書には奇襲とは何も書かれておらず[2]、よって21世紀の歴史学では正面攻撃だというのが有力説である。


  • 発展的事項: 徳川家康の独立
この桶狭間の戦いを期(き)に、今川氏に支配されていた三河(みかわ)の松平元康(まつだいら もとやす)および彼の家臣が今川から独立し、松平元康は松平家康(まつだいら いえやす)と改名する。(元康の「元」の字は、義元の「元」の字と同じである。)松平元康は、後の江戸時代に、江戸幕府の征夷大将軍になる 徳川家康(とくがわ いえやす) である。しかし、このころの松平家康は、まだ一介の戦国大名であった。
桶狭間の戦いから2年後の1562年(永禄(えいろく)5年)1に、家康は織田信長と同盟をむすぶ。これが 清洲同盟(きよす どうめい) です。「清洲」(きよす)とは尾張(おわり)にある信長の居城の清州城(きよす じょう)のことです。なお、1582年(天正(てんしょう)10年)の清洲会議(きよす かいぎ)とは、別の出来事です。1582年(天正10年)の清洲会議は、1582年(天正10年)に信長が死んだので後継者(こうけいしゃ)を決めるための会議です。

(発展的事項、おわり。)

なお、豊臣秀吉(とよとみひでよし)は、桶狭間の当時は織田信長の家臣であり、当時の名は 木下藤吉郎(きのした とうきちろう) と名乗っていました。のちの1570年のころに名を変え、木下藤吉郎から羽柴秀吉(はしば ひでよし)に名前を変えています。

※ 中学校では「羽柴秀吉」の名前も習う教科書もあるので、知っておこう。東京書籍の『新しい社会 歴史』平成23年検定版の98ページの本文にも「羽柴秀吉」の語句がある。
元亀元年の戦国大名の版図(推定)

桶狭間の戦い以降、信長は西へと勢力を伸ばしていく。1568年(永禄(えいろく)11年)には、足利義昭(あしかが よしあき)を支援して京都に入った。義昭が、室町幕府の第15代将軍になる。

※ 中学校では「足利義昭」の名前も習う教科書がある。東京書籍の『新しい社会 歴史』平成23年検定版の98ページの本文にも「足利義昭」の語句がある。

1569年(永禄(えいろく)12年)、キリスト教の宣教師のルイス・フロイスと初めて出会い、彼にキリスト教の布教を許可します。(※ ルイス=フロイスについては、中学の範囲外。清水書院など一部の教科書ではコラムなどで紹介されている。)

※ 世間では、よくザビエルとフロイスとを混同する人が多い。信長に仕えた(つかえた)宣教師はフロイスである。ザビエルは信長に仕えてない。

信長本人はキリスト教の信者ではなく、信長の狙いは宣教師のもたらす情報などが狙いだとか、あるいは当時に信長と敵対していた仏教勢力への対策などと、一般に言われています。

  • 発展的事項: 信長包囲網(のぶながほういもう)
義昭が、第15代将軍になる。後に信長に実権をうばわれることをおそれた義昭が1571年(元亀(げんき)2年)ごろに各地の大名と密かに協力して御内書(ごないしょ)を送る。
御内書は、上杉謙信(うえすぎけんしん)や毛利輝元(もうりてるもと)、本願寺光佐(ほんがんじこうさ)や武田信玄(たけだしんげん)など、各地の大名に御内書が下された。これは現代(2014年に記述)では信長包囲網(のぶながほういもう)と一般には呼ばれている。この包囲網に、さらに、かねてから信長と対立していた大名なども加わる。
その後、各地の大名たちと織田軍は戦争になるが、織田軍は生き延びる。

(発展的事項「信長包囲網」、おわり。)

1570年には、信長に敵対する浅井・朝倉の連合軍と戦争になり姉川の戦いが起きるが、この浅井・朝倉連合軍をやぶる。
1571年(元亀(げんき)2年)には仏教勢力の延暦寺が浅井・朝倉に味方してことなどから、比叡山延暦寺(ひえいざん えんりゃくじ)を焼き討ちにする。いわゆる「延暦寺の焼き打ち」をした。

また、仏教勢力にも容赦は無く、一向一揆の根拠地である大阪の石山本願寺を1580年(天正(てんしょう)8年)には屈服させた。

義昭は1573年に京都の槇島城(まきしまじょう)で挙兵したが失敗し、織田によって義昭は京都から追放された。 (※「槇島城」については、おぼえなくてよい。)

これによって、室町幕府は、ほろんだ。

  • 長篠の戦い
長篠の戦い。左側が織田・徳川の連合軍。右側が武田軍。

1575年(天正(てんしょう)3年)に織田・徳川の同盟と、対する敵は、甲斐(かい)の大名の武田勝頼(たけだ かつより)らの戦争である 長篠の戦い(ながしのの たたかい) が三河(みかわ)で起きる。この戦いでは、織田・徳川らの鉄砲隊の活躍により、織田が勝ち、武田は負ける。 武田の戦法は騎馬兵による従来の戦法であった。


  • 安土城(あづちじょう)

1576年(天正(てんしょう)4年)、近江(おうみ、滋賀県)に城を築かせ(きずかせ)、5層の天守閣(てんしゅかく)を持つ 安土城(あづちじょう) を築かせる。

安土城の城下町では、次に説明する楽市楽座(らくいち らくざ)などの新しい政策が行われた。

  • 楽市楽座(らくいち らくざ)

商業をさかんにするため、関所(せきしょ)で通行税(つうこうぜい)を取ることを廃止(はいし)する政策を、岐阜や安土で行った。 一般に商人は、利益をだすために、費用をあまり払いたくないので、そのため税のひくい場所で商売をしたがります。

また、各産業の同業者組合である座(ざ)の独占権を廃止し、だれでも商売が始められるようにします。このように座の独占権を廃止したことを 「楽座」(らくざ) と言います。

そして、商業を活発にするための信長による一連の規制(きせい)の撤廃(てっぱい)などの商業の振興策(しんこうさく)を、楽市楽座(らくいち らくざ)といいます。

商業都市の堺は自治都市だったが、信長は堺を支配下に置き、自治の権利をうばい、直轄領にした。

楽市楽座
安土の町中での定め
一. この安土の町を楽市としたので、色々な座の特権は廃止し、座の色々な労役や税は免除する。
一. 都に上る商人、都から下る商人は、この安土の町に宿泊しなければならない。
一. 他の土地からやってきた者でも、以前から住んでいた者と同等の扱いにする。
『八幡町共有文書』(はちまんちょう きょうゆう もんじょ)『安土山下町中掟書』(あづち さんげちょう ちゅう おきてがき)

本能寺の変

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1582年(天正(てんしょう)10年)、中国地方へと勢力をひろめるため、織田軍は家臣の秀吉(ひでよし)などに命じて、中国地方の大名の毛利と戦争をしていました。信長はこれを支援するため中国地方に向かう途中、京都の本能寺に泊まって(とまって)ました。

このとき、家臣の明智光秀(あけち みつひで)が反逆をして、この本能寺で信長および信長の子の織田信忠(おだ のぶただ)たちは死亡します。 信長は当初は応戦していたといいますが、やがて敵の兵数を知るとけを覚悟し、家臣の森蘭丸(もり らんまる)らに寺に火を放たせ、信長は自刃(じじん)したと 言います。

この1582年(天正(てんしょう)10年)の本能寺での一連の事件が本能寺の変(ほんのうじのへん) です。

信長は、天下統一をしていません。 天下統一ならず、信長は死亡します。 のちに、戦国時代の天下統一をした人は、羽柴秀吉です。

(※ 範囲外:)一般に織田信長は天下統一ならず、夢半ばにて亡くなったといわれているが、当時の天下という概念は「全国の大名や国衆を従える覇者」という意味ではなく「畿内(山城、摂津、大和、和泉、河内)」を指していた。その為五畿内を統べている信長は、事実上天下統一を成し遂げていると解釈できる。またその概念に照らし合わせると、戦国時代で初めて天下統一した武家は三好氏である。
本能寺の変の記述では信長の小姓・森蘭丸が登場するが、森蘭丸という名は後世につけられた名前と見られている。その為、森蘭丸は森成利もしくは森乱丸という記述の方が相応しい。

豊臣秀吉の天下統一

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織田信長の時代のころ、秀吉は、信長に仕えていた有力な武将であった。そのころは、羽柴秀吉(はしば ひでよし)などと名乗っていた。

豊臣秀吉。

本能寺の変のとき、秀吉は、信長の命令により、毛利軍と戦争をしている時期だった。信長の死の報告を聞いた羽柴秀吉は、ただちに毛利との停戦をし、そして京都・大阪に向かい 山崎の戦い(やまざき の たたかい) で明智光秀を倒す。

その後、信長の家来だった柴田勝家と戦い、賤ヶ岳の戦い(しずがたけのたたかい)で秀吉軍は柴田軍を倒す。

このようにして、信長の支配権の争いに秀吉は勝って行き、信長の領地を受け継いでいく。

1583年(天正(てんしょう)11年)に秀吉は、大阪にあった石山本願寺(いしやまほんがんじ)の跡地(あとち)に大阪城(おおさかじょう)を築かせ、この大阪城を本拠地(ほんきょち)にした。

そのあと、秀吉は各地の大名たちを平定し従えていきます。徳川家康も、秀吉は従えさせた。

1585年(天正(てんしょう)13年)、羽柴秀吉は朝廷から 関白(かんぱく) の称号を、もらう。 1586年(天正14年)、羽柴秀吉は朝廷から豊臣(とよとみ)の姓(せい)をもらい、豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)と名乗る許可を得ます。秀吉は、関白と太政大臣(だいじょうだいじん)の朝廷の地位を手に入れる。

そして秀吉は、各地の大名どうしに争いをやめるように停戦命令として惣無事令(そうぶじれい)を1585年(天正(てんしょう)13年)に出す。停戦命令に従わなかった九州の島津(しまづ)氏は、1587年(天正15年)に征伐され屈服させられた。

(※ 範囲外: )歴史学では20世紀のかつて、「惣無事令」というのは固有名詞かと思われていたが、しかし1585年(天正てんしょう()13年)以前の1583年(天正11年)や1584年(天正12年)からも、秀吉の命令とは無関係に各地の大名も「惣無事」という言葉をつかって各種の停戦協定を出していることが古文書などから明らかになった[3]。つまり、「惣無事令」とは固有名詞ではなく、「停戦命令」や「停戦協定」などを意味する一般名詞である可能性が、歴史学では考え始められている。このため、もしかしたら将来的に教科書の「惣無事令」という歴史用語が変わる可能性がある。
高校では、すでに平成25年の高校教科書(山川出版社)では、「惣無事令」という用語は消えている(その3年前の平成22年まで「惣無事令」の用語は使われていた)[4]
史実としては、少なくとも秀吉が諸国の大名に停戦命令を出したのは事実だし、また、秀吉の停船命令が当時の人々によって「惣無事」と呼ばれたのも事実である[5]


そして1590年(天正(てんしょう)18年)には、秀吉に従わなかった北条(ほうじょう)氏の治める関東の小田原(おだわら)を攻め、北条氏政(ほうじょう うじまさ)を滅ぼします。同1590年(天正18年)、秀吉に従っていなかった東北の奥羽(おうう)の伊達(だて)氏など東北の大名は、秀吉にしたがい、これで秀吉が天下統一をなした。

秀吉は支配下に大坂、堺、京都、などの重要都市を直接支配下に置いた。佐渡(さど)金山、生野(いくの)銀山、石見銀山(いわみぎんざん)なども直接支配下に置いた。

秀吉の政策

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  • 太閤検地(たいこうけんち)

農民から年貢を取るための土地の調査を検地(けんち)という。

検知そのものは信長の時代からも行われていたが(※ 教育出版などの検定教科書に記述がある)、さらに秀吉は各地でちがっていた物さし(ものさし)の長さや ます の容積などを統一し、また、全国の田畑の面積や土地のよしあしを調べた。(※ 信長はそもそも全国統一してないので、物差し などの全国統一のやりようがない。日本を全国統一したのは秀吉である。)

マスの基準(きじゅん)は、京都で使われていた京枡(きょうます)が全国の基準の枡になった。このような、秀吉が行った検知の改革のことを太閤検地(たいこう けんち)という。「太閤」(たいこう)とは「関白をやめた人」という意味であり、秀吉のことである。秀吉は関白をやめた後には「太閤」(たいこう)と名乗っていました。

そして検知の記録によって、田畑の面積や、田の収穫高である石高(こくだか)、その田畑を耕す農民の名前などが記録される 検地帳(けんちちょう) が作られた。

検地帳によって耕作者が、はっきりしたので、農民は田畑を持つ権利を認められたが、同時に年貢(ねんぐ)をおさめる義務をおうことになり、土地を勝手に離れる(はなれる)ことができなくなった。 また、これで、かつての荘園のように土地の権利がはっきりしない土地がなくなった。そして公家や寺社などの荘園領主としの権利は完全に否定され、公家などの勢力は衰えた。

(※ 範囲外: ) もうひとつ、教科書には記述は無いが、太閤検地には重要な意味があって、秀吉以前の当時の納税の仕方には、農産物による「石高」(こくだか)のほかにも、銅貨などを収める貫高(かんだか)という方法もあったが(w:貫高制)、太閤検地にともなう石高制への移行により、農民は通貨による納税をしなくてよくなったという意味もある。このため、農民は農産物を貨幣に換金する手間が省けるので、商人などに暴利をむさぼられる心配もなくなる。また、納税される領主や秀吉たちからすれば、中間搾取が減るので、いいこと尽くめである。なお、貫高から石高への納税システムの変更は、秀吉の発明ではなく、信長の時代から幾つかの地域の戦国大名の領地で行われていたようである。
(※ 範囲外: ) 土地の権利の裏付けは、公家ではなく、現地の大名などの領主である武士が裏付けをする事になった。そして、それらの武士は、石高に応じた収入を得たが、同時に、石高に応じた軍役などの義務も課された(受験研究社・旺文社)。秀吉の時代よりも前だが、信長の時代からそうであり、だから褒美などでも、土地よりも茶器などを欲しがった(信長の家臣の)滝川一益(たきがわ かずます)などの武将もいたくらいである。茶器があると、茶会を開いて武士同士で集会をする権利があるので、いろいろと好都合。


  • 刀狩(かたながり)

1588年(天正(てんしょう)16年)に農民から刀や鉄砲などの武器を没収する命令の刀狩令(かたながりれい)をだします。名目は大仏を京都の方広寺(ほうこうじ)に作るので材料の鉄が必要なため、という名目です。秀吉の狙いは、一揆(いっき)を防ぐため、というのが現代(2014年に記述)での一般的な考えです。

刀狩令
一. 百姓が、刀、わきざし、弓、槍、鉄砲、その他の武具を所持することを禁止する。その理由は、農耕に不要な武器をもつと、年貢を納めずに一揆をくわだてることになる。もし一揆を起こし、領主に対して無礼なことをすれば、もちろん処罰する。大名、代官は農民から武具をことごとく取り集め、差し出させるようにせよ。
『小早川家文書』(こばやかわけ もんじょ)、抜粋
  • 兵農分離

このような検地や刀狩の結果、農民と武士との中間的な立場の人間がいなくなり、農民と武士との身分のちがいが、はっきりとしました。このようなことを現代の用語で兵農分離(へいのう ぶんり)といいます。

  • 人掃令(ひとばらい れい)

さらに秀吉は1592年(天正(てんしょう)20年)に、人々が身分を勝手に変えることを許さなくした。これを人掃令(ひとばらい れい)という。

  • キリスト教の禁止

豊臣秀吉は、キリスト教を禁止する。いっぽう、信長はキリスト教を優遇して保護していました。信長がキリスト教の布教を認めた理由は、信長に敵対する仏教勢力と対抗する目的だと思われている。秀吉も、最初のほうはキリスト教を許可していた。

秀吉がキリスト教を禁止した理由として一般に言われているのは、一般に、 キリシタン大名の大村純正が長崎をキリスト教に寄付し、長崎がキリスト教の領地になっていることを、九州の平定の際に知った秀吉が、キリスト教は天下統一のさまたげになるだろうと考えたから、と言われています。

※ 範囲外 :また秀吉はキリスト教の禁教の際、南蛮貿易を通じて日本人が海外に奴隷として輸出され売り飛ばされていたようだ、ということを、キリスト教の取り締まりの理由にあげます。
もっとも、その秀吉じしん、朝鮮出兵の際には、日本軍が捕らえた朝鮮人を捕虜として日本に連行している事から、もしかしたら奴隷解放は秀吉の本音ではなく、単に、秀吉のイイワケであるかもしれません。
(また、奴隷を買っているのは、かならずしも白人の南蛮商人だけとは限らない可能性もあり、中国など東洋の外国の商人も日本人奴隷を買っている可能性もあります。
また、奴隷を買う側の他にも、日本人のなかにも戦乱などの際に日本人を狩って奴隷にして海外に売りさばいている悪人もいるわけだが・・・。)

1587年(天正(てんしょう)15年)にキリスト教の宣教師(せんきょうし)を日本の外へ追放(ついほう)するバテレン追放令(バテレンついほうれい) を出します。バテレンとは、ポルトガル語で神父を意味する パードレ padre が由来の言葉。 (※ ポルトガル語表記「padre」は、おぼえなくてよい。) しかし南蛮貿易は許可していたこともあり、取り締まりの効果は不十分だった。

文禄・慶長の役(朝鮮出兵)

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『行録』などの記述をそのまま絵にしたもので、亀甲船の想像図。少なくとも18世紀以後に描かれたものであり、史料価値はほとんどない。
京都にある耳塚(鼻塚)。朝鮮出兵で切り取られた耳や鼻を供養(くよう)している。

天下統一を果たした秀吉は、明を征服しようという夢を抱(いだ)くようになりました。秀吉は明を統治する計画を持っていました。しかし、日本から中国大陸の明へ向かって直接軍隊を派遣(はけん)するのは困難です。

そこで、秀吉は、朝鮮に、明へ行く道の通行許可を求めましたが、朝鮮はその要求を拒みました。これにより、秀吉は明を征服する前に、朝鮮に出兵する必要があると考え、朝鮮に軍隊を送って朝鮮と戦いました(文禄の役)。

文禄の役で出兵した軍隊は、朝鮮の地域を次々に陥落(かんらく)させ、ついには漢城(かんじょう、現在のソウル)にまで達しました。明は、朝鮮に軍を派遣し、日本と明の戦いになりました。さらに、日本軍は補給を断たれ、明との間で苦戦しました。

すると、明との間で和平交渉が行わrましたが、さまざまな事情により、破局しました。秀吉を「日本国王に命じる」などの文書を秀吉が不満に思ったことも原因の一つとされます。

明との交渉が破局すると、再び、開戦です。日本は朝鮮へ軍を派遣(はけん)しました(慶長の役)。このとき、秀吉自身も朝鮮に赴(おもむ)こうとしましたが、第107代後陽成天皇によって止められました。

秀吉が没すると、朝鮮への出兵は終わりました。

安土・桃山文化

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信長が生きてて影響力の強かったころの安土文化(あづち ぶんか)と言います。信長が安土城(あづちじょう)を建てさせたころの文化だからです。秀吉の時代の文化を桃山文化(ももやま ぶんか)と言います。「桃山」とは、秀吉が築いた伏見城(ふしみじょう)の、のちの時代の地名です。安土文化と桃山文化を合わせて安土桃山文化(あづちももやま ぶんか)と言います。

  • 茶道(さどう)
千利休
(画:長谷川等伯)。利休は、のちに秀吉の怒りを買い、自害を命じられ、自害した。

室町時代に生まれた茶の湯は、千利休(せんの りきゅう)により、質素さや簡素さなどの「わび」(侘び)を重んじる、「侘び茶」(わびちゃ)とよばれる茶道(さどう)へと発展した。 織田信長のころから、めずらしい茶器(ちゃき)が好まれるようになった。朝鮮出兵のときに陶工を捕虜として連行した理由の一つには、このようなことがある。

千利休により、妙喜庵待庵(みょうぎあん たいあん)などの茶室が造られた。(※ ウィキペディアに茶室内部の画像が無いので、外部で探してください。)妙喜庵待庵は国宝になってる。妙喜庵待庵の茶室の広さは、わずか二畳しかない。

  • 絵画
『唐獅子図屏風』(からじし ずびょうぶ)、狩野永徳。

ふすま絵や屏風絵(びょうぶえ)が発達した。狩野永徳(かのう えいとく) や 弟子の狩野山楽(かのう さんらく) などの 狩野派(かのうは) の画家が活躍した。ふすま絵や屏風絵(びょうぶえ)を合わせて障壁画(しょうへきが)という。

狩野永徳の作品の『唐獅子図屏風』(からじし ずびょうぶ)が有名。

ほかの派の画家では、長谷川等伯(はせがわ とうはく)が有名。

『洛中洛外図』(らくちゅうらくがいず)。狩野永徳の作品と、されている。
  • 南蛮文化

南蛮貿易により、ヨーロッパの医学・天文学・印刷技術が日本に伝わる。

パン(pão)やカステラ(pão de castela)、カボチャ、カッパ、カルタ(carta)、テンプラ(Temporas)、たばこ(tabaco)、ボタン(Botão)が日本に伝わる。 (※ ポルトガル語表記は、おぼえなくてよい。「pão」や「carta」などは、おぼえなくてよい。)

「カステラ」の由来は、有力な説はポルトガル語でCastelaがスペインのカスティーリャ地方のことだが、カスティーリャ地方のパンケーキという意味でカステラが日本に伝わって、日本語の「カステラ」になったという。 (※ ポルトガル語表記は、おぼえなくてよい。)

逆に日本からの輸出では、銀や刀や茶などが輸出され、catana(「カタナ」、刀のこと)などのポルトガル語の由来になった。屏風がbiomboに、坊主がbonzoに、伝わった。

  • 芸能

浄瑠璃(じょうるり)と歌舞伎(かぶき)

三線(さんしん)
  • 三味線(しゃみせん)と浄瑠璃(じょうるり)

琉球から 三味線(しゃみせん)のもとになる三線(さんしん)が日本に伝わった。日本で 三味線(しゃみせん)として発展した。民衆のあいだでは、三味線の音色に合わせて、人が物語をかたるのを見て楽しむ浄瑠璃(じょうるり)が流行る。この浄瑠璃は、さらに発展し、人の代わりに人形を使う人形浄瑠璃(にんぎょうじょうるり)へと発展した。

出雲(いづも)の阿国(おくに)。歌舞伎踊り。(かぶき おどり)で、念仏踊りをしている。 『国女歌舞伎絵詞』(くにじょ かぶきえ ことば)
  • 歌舞伎(かぶき)
「出雲(いづも)の阿国(おくに)」という女が始めた歌舞伎踊り(かぶき おどり)が人気(にんき)になる。出雲とは、今でいう島根県。当時は異様な服装や行いをすることを「かぶく」(傾く)と言っていた。

のちの江戸時代には歌舞伎は演劇となっていき男だけが歌舞伎を行うことになるが、この安土桃山時代には女が歌舞伎踊りをしていた。

衣服では、小袖(こそで)が普及していった。木綿(もめん)の衣服が、麻にかわって一般的になった。民家の屋根には瓦屋根(かわら やね)の様式が京都などでは増えていった。

  1. ^ 山本博文 著『【東大流】流れをつかかむ すごい!日本史講義』、PHP研究所(出版社名)、2020年5月5日 第1版 第1刷、188ページ
  2. ^ 山本博文 著『【東大流】流れをつかかむ すごい!日本史講義』、PHP研究所(出版社名)、2020年5月5日 第1版 第1刷、188ページ
  3. ^ 山本博文 著『【東大流】流れをつかかむ すごい!日本史講義』、PHP研究所(出版社名)、2020年5月5日 第1版 第1刷、213ページ
  4. ^ 山本博文 著『【東大流】流れをつかかむ すごい!日本史講義』、PHP研究所(出版社名)、2020年5月5日 第1版 第1刷、213ページ
  5. ^ 山本博文 著『【東大流】流れをつかかむ すごい!日本史講義』、PHP研究所(出版社名)、2020年5月5日 第1版 第1刷、213ページ