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中学校社会 歴史/韓国併合

出典: フリー教科書『ウィキブックス(Wikibooks)』
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韓国併合

朝鮮総督府(ちょうせん そうとくふ)

日露戦争の勝利によって、大韓帝国(だいかんていこく)(以下、韓国)でのロシアでの影響力が無くなり、韓国での日本の影響力や支配が強まる。

日露戦争後、日本は韓国を保護国としてあつかい、外交権をにぎり、1905年に 韓国(かんこく)統監府(とうかんふ) を置いた。初代統監には伊藤博文(いとう ひろぶみ)がついた。やがて内政権も日本がにぎり、韓国軍を解散させた。

日本による韓国の保護国化にともない、国としての権利を韓国から接収したので、韓国の民族運動家は不満をいだいた。保護国化にともなう反発が朝鮮で起こり、解散させられた兵士が民衆とともに武器をもって日本に抵抗する義兵運動(ぎへい うんどう)とよばれる抵抗運動が朝鮮半島で広がった。

また、韓国の皇帝も、国際社会に訴えようとしたが、しかし欧米列強に無視された。

それどころか、すでに韓国統監府の時点で、更新された日英同盟やポーツマス条約で、韓国に対する日本の保護権が認められていたありさまであった。(※育鵬社の教科書に書いてあります)。


そして1909年に、満州に滞在中の伊藤博文が暗殺される事件が起きる。事件は1909年に満州のハルビンで発生した。犯人は韓国人の民族運動家である 安重根(アン・ジュングン) であった。伊藤は統監として、韓国の政治を取りしきり義兵運動を弾圧したため、韓国人の運動家からは恨まれる立場にあった。(※ 備考: 歴史学では、安重根が独立運動をしていた証拠は見つかってなく、東京書籍や教育出版などの検定教科書でも単に「運動家」または「民族運動家」としか書いてない。清水書院は「独立運動家」と記述している。)

( 伊藤が死んだこともあり、日本の世論は強硬になった。)そして、1910年、韓国併合ニ関スル条約に基づき日本は韓国を併合し、大韓帝国は無くなり、朝鮮半島は日本の植民地になった。 この、日本が大韓帝国を併合したことを韓国併合(かんこくへいごう)という。

朝鮮(および韓国)という国家が消滅したことにともない、欧米や日本と結んでいた不平等条約は消えた。

 石川啄木(いしかわ たくぼく)の短歌

地図の上  朝鮮国に  黒々と
墨をぬりつつ  秋風を聴く
(『創作』、1910年。)


 初代朝鮮総督の 寺内正毅(てらうち まさたけ) の短歌

小早川  加藤 小西が世にあらば  
今宵(こよい)の月を  いかに見るらむ
(小早川、加藤、小西は、豊臣秀吉の政権での朝鮮出兵の武将たち)

この併合は対等ではなく、併合により朝鮮の国家を完全に廃され、韓国では日本の武力を背景とした植民地支配が行われた[1] [2] [3]。 先に植民地になっていた台湾と同様に、朝鮮の人々には選挙権がなかった[4]

大韓帝国が消滅したことにより、名が「朝鮮」(ちょうせん)に変わった[5]。 韓国統監府の名は 朝鮮総督府(ちょうせん そうとくふ) に変わった。


その他の政策は日本での近代化政策を元にして行われた。

(※ 範囲外) 1945年での韓国の新聞。なお1945年は韓国併合よりも後の時代。
漢字を基調とした文章にハングルがところどころ混じっている。

たとえば朝鮮の学校教育に関して言えば、朝鮮の学校では、日本語と朝鮮語をはじめ算数、日本史、朝鮮史などが教えられるようになった。併合以前は朝鮮語が国語であり、日本語は外国語扱いであった。また日本にならい初等教育は6年生で義務教育であったが、併合後は当初4年制で高中等教育への連絡を断ち、義務教育ではなくなった。 後に6年制に戻したが、就業率は不明で4年で退学する生徒が多かった。 朝鮮語よりも日本語の教育の授業時間が増加、朝鮮語は1939年には随意科目となり、授業時間がなくなった。日本人校長の判断で朝鮮語授業は続けられたという話もある。 朝鮮の学校では、朝鮮の歴史や文化を教えることは禁止されたとも言われている(※ 東京書籍の教科書に記述あり)。

また、工業化のための開発や投資が朝鮮に対して行われていった。鉄道をひくなどの開発が、おこなわれた。土地調査と、土地の権利の整理もされた。朝鮮は公田制で私有地は宮田や両班(ヤンパン)など有力者、駅田などで農民は土地を所有せず、代々耕作権を所有し、収穫に応じて税を納めていた。土地調査後は地主に小作料を納める事になり、耕作権の取得争いに破れた農民は土地を離れ、都会へでるか、日本や満州へ流浪するものが、表れるようになった。 耕作権を取得しても、本来地主が負担すべき土地税なども農民に負担させたから、小作料は40〜50%前後の高率となった。 なお通説では、この土地の権利整理のときに、所有権が不明確という理由で、朝鮮人の多くが土地を失った(※ 東京書籍の教科書に「所有権」、「土地を失い」との記述あり)と言われている。土地を失った朝鮮の人のいくつかは、小作人になったり、日本や満州に移住するなどの必要にせまられた。[6]

朝鮮の工業や商業は、日本との貿易や、日本からの投資によって、近代化していった。しかし、朝鮮の歴史や文化を軽視した同化政策や、強引な近代化や日本企業・日本人に有利な政策などは、朝鮮人の不満をさらに高め、朝鮮の人びとの抵抗がつづいた。 両班(ヤンパン)は官職であり、法によって定められた身分ではなかった。安定した貴族階級ではないため、官職でなくなれば収入は無くなり、没落する両班(ヤンパン)が多く現れるようになった。 朝鮮の植民地支配は1945年(昭和20年)の日本の敗戦まで続いた(※ 東京書籍の教科書に記述あり)。

余談だが、韓国併合の際、現在のソウルにあった首都の「漢城」(かんじょう)を「京城」(けいじょう)に改名した(※ 東京書籍や教育出版の教科書に記述あり)。 その他にも、併合により多くの地名を日本風に変えた。

なお、義兵などの抵抗運動が起きたが、日本軍によって鎮圧された。

さらに余談だが、議会の選挙は朝鮮および台湾では行われてない。このため、議会の設立を求める運動もあったが、弾圧された。(※ 学び舎の教科書に記述あり。)

よくある勘違い

併合直後の朝鮮では、日本はいっさい創氏改名の強制も、徴兵も、していない。それらの政策を強制した時期が、ちがう

創氏改名の時期

日本の占領による政策として有名な政策で、「創氏改名」(そうし かいめい)という、朝鮮人に日本風の名前を名乗らせた政策が有名だが、併合直後は、まだこの政策をおこなっていない。 創氏改名を行った年は1939年(昭和14年)であり、ずいぶんとあとの時代である。よって、この節では創氏改名 を解説しない。

徴兵の時期

朝鮮半島での徴兵(日本軍への徴兵)は、第二次世界大戦の途中ごろからである。

冷静に考えれば、もし、併合当初での独立運動の頻発するような状況で、日本が朝鮮で徴兵制をしたら、朝鮮の独立派に武器を与えてしまうことになるだろう。

※ 中学の検定教科書には併合直後の徴兵制の有無について特に書いてない。しかし、小学校むけの問題集などで、説明不足で、併合直後と第二次大戦時の施策をいっしょに説明しているものがあり、誤解しがちであるので、気をつけよう。

徴兵期間は短いが、現地徴兵徴用が多く、戦後外務省の調査では軍人軍属は陸軍25万、海軍12万人となっています。


  1. ^ 【※ 範囲外】近年、「韓国は植民地ではなかった」という発言が各所に見られる。しかし、大日本帝国政府が朝鮮を「植民地」とよんでいたことを示す資料は国立公文書館のアジア歴史資料センター[1]や国会図書館[2]でいくらでも探すことができる。
  2. ^ 【※ 範囲外】近代における「植民地」とは、単にどこかの列強が領有した、領有前は外国だった地域のことで、本国に従属している地域のことである(参考: コトバンク『植民地』)。 近年、ネットなどの各所に「日本は朝鮮や台湾に投資して発展させたから、朝鮮や台湾は植民地ではなかった。」などの評論があるが、しかし投資したかとか発展したかどうかは、その地域が「植民地」であるかどうかには関係が無い。 なお、自由社の検定教科書には、韓国を「保護国」化したとあるが、べつに植民地化と保護国化とは、対立する概念ではなく、両立しうる。
  3. ^ 【※ 範囲外】「併合」という行為と「植民地化」という行為とは、べつに対立する概念ではない。 現代日本人は日本以外の列強による「植民地」ときくと、ついついイギリスのインド植民地やスペイン・アメリカのフィリピン植民地など、本国から遠く離れた植民地を連想しがちかもしれない。 しかしフランスの北アフリカ植民地など(アルジェリアやモロッコなど)、本国と地理的にちかい植民地の場合、植民地で併合的な同化政策などを行う場合もある。 当時の日本政府の史料にも、韓国を「併合」したから「植民地」になったと説明する文献もある。 なお、日本は朝鮮の植民地政策のさい、フランスなどを参考にしたことが、すでに近年の歴史学では解明されている。
  4. ^ ただし、朝鮮植民地では日本人でも選挙権がなかった。
  5. ^ 【※ 発展】なお、朝鮮の王朝の一族である李氏(りし)の一族は、併合後も日本の皇族に近いあつかいを受けることになった。また、朝鮮の貴族階級にあたる両班(ヤンパン)の中でも高位の者は「朝鮮貴族(ちょうせんきぞく)」とよばれ、日本の華族に近い扱いをうけたが、ほとんどの元・貴族は平民になった。
  6. ^ 近年、アメリカの学者から、この通説についての反論が出ている。(参考文献: 『「日本の朝鮮統治」を検証する1910-1945』、 George Akita (原著), Brandon Palmer (原著)、草思社 、2013年出版) そもそも1922年までに日本が朝鮮から奪ったとされる7万ヘクタールの土地は、朝鮮半島の耕地面積の6%にすぎないと主張している。また、朝鮮の農民が奪われたとされる土地・農地の多くは、実は朝鮮の貴族である両班(ヤンパン)の土地であり、そもそも農民の土地ではない、という反論もある。 なお、2019年の今のところ、多くの教科書会社の検定教科書では、農民の土地がうばわれたという見解である。