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出典: フリー教科書『ウィキブックス(Wikibooks)』

美術教育史のアレコレ[編集]

そもそも東京芸大って、絵画の学科は日本画しかなかった。(西洋画の学科が無かった)なので、東京芸大って設立の経緯から、そもそも、べつに芸術・美術の総合大学ではない。

東京芸大よりも前に「工部美術学校」というのがあった。工部美術学校には西洋画の学科があった。というか、工部美術学校には日本画の学科は無かった。

なので、東京芸大を「日本の芸術の本場」みたいに言ってて抽象芸術とかの表現で悦(えつ)に入ってる人って、あんまり頭よくない感じ。まあ、東京芸大は明治期の古い作品とか保管する仕事もしてて立派だけどさ。

なお、明治の一時期、工部省(こうぶしょう)というのがあって、現在の経済産業省に相当する。


工部美術学校の卒業生の女「山下りん」は、女性なのでフェミ商売の美術史でよく紹介されるが、「あんまり紹介の価値ねえなあ」って自分は思った。少なくとも高校レベルでは紹介の価値なしで、中学教科書みたいに黒田清輝(くろだ せいき)の西洋画の作品紹介で十分って思った。

なぜなら日本で西洋画を始めたの、べつに山下さんが最初じゃなくて、とっくに画塾とかで西洋画を教えてたし。そもそも山下の通ってた画塾の師匠も工部美術学校に入学してるしさ。

だから今の中学美術の教科書で、黒田清輝を明治に本の西洋画の集大成・代表者として紹介するの、よく出来てるわ。感心。


個人的には、師範学校とかの美術教師が気になるが、教科書の立場上、紹介しないのが良いだろう。(教科書業界の自己宣伝になってしまうので)実際に日本各地の中高生が目にしたのは、師範学校の美術教師の手本なので、師範学校の美術の影響力は大きそうである。


なお、師範学校には女子も入学できた。男女別学だが、女子師範学校というのもあった。

工部美術学校には女子が入学できた。戦前の東京芸大には女子が入学できなかった。

これつまり、「東京芸大みたいな抽象芸術みたいな食えない分野は、男が自分のカネでヤレ」という意味だろうね。「結婚したダンナのカネで抽象芸術やって賃金ダンピングすんんじゃねーよ、クソアマのババアどもが」って事。

現代は既婚女のカネで抽象芸術やられて迷惑だし、あんなダンピング産業、もはや退廃芸術ですわ。

「図画工作」教育になれなかった残りカスが「美術」教育って事だろ。

要するに美大・芸大とかって、実験台。ネズミ。モルモット。

SFマンガとかで「俺たちはモルモットじゃねえ!」ってありそうな台詞だが、自分から望んで実験台になりたがる業界ですわな。


個人的には、「戦前の学習院って、本当は師範学校のための実験台なんじゃないの?」って思ってる。

黒田清輝も学習院中高で図工の教師をしてた経験あり。工部美術学校の器具などの設備が、当時の学習院に引き継がれてるらしい。

なお、戦前の学習院って官立(文部省ではなく宮内庁の管轄だった)。戦前の学習院は、私立じゃないのよ。

あと、学習院って設立当初は、将来の軍幹部候補を育成する目的もあった[1]。だからどうしたというわけではないが、念のため、メモ。

学業との両立、および戦前の美術教育の概要[編集]

国語・数学・理科・社会・英語などの学業と、美術・音楽やスポーツなどとの両立で悩んでいる高校生も多いでしょう。高校レベルとなると、それぞれの教科は専門的になるので、すべての教科で好成績をおさめるのは、難しくなります。

具体的にどうすべきかは人それぞれで自己責任なので具体策は言えませんが、歴史的には明治時代の頃から、すでにそういった事を明治ごろの私学の中学生がもう経験しています。


近代化のために、日本のエリート学生の若者が英語やドイツ語やフランス語を理解するために、まずは西洋の美術や音楽を習う必要があったのです。

たとえばフランスから輸入した学術書・教育書は当然ですが、フランスの小学校教育を受けた人を前提に書かれており、そのため、フランスなら小学生や中学生でも習う美術や音楽についても知っていなければならなかったのです。だから私学の学生が戦前、そういう西洋芸術の実技を練習してきた側面もあるのです。

決して単に上流階級どうしの社交としてではなく、国家の近代化のための、輸入文献の内容を理解するための、西洋式の芸術教育という側面もありました。


現代みたいに文系コース/理系コース/芸術コース/体育コースみたいに進路別に分業しようにも、上記のような理由で分業できなかった時代もありました。

だから同学年の庶民の家の子供が日本の公立学校で唱歌をうたっているとき、私学の子供がフランスの歌を歌っていたり演奏したり、そういう時代もありました。


現代でこそ日本では日本語でバイオテクノロジーなどの先端科学ができます。しかし明治の時代は違い、先端科学を研究するために英語・ドイツ語・フランス語を学ぶ必要があり、そのために西洋式の音楽や美術などを実技で学ぶ必要すらあった時代でした。

裏を返すと、今から日本の芸術家が科学を学んでも、もうすでに明治時代ごろに誰か先人たちが似たような事で悩んだので、決して新ジャンルの開拓にはなりません。少なくとも日本では。

こういった日本特有の芸術史は、西洋の芸術史の翻訳本には書かれませんし、それを真似た日本人評論家の本にも書かれません。


今でこそ日本では画材は安く手に入りますし、今ではコンピュータで絵をかける時代になりました。しかし、明治のころは金持ちでないと芸術の実技をするのが難しかった時代でもあります。

21世紀の現代なら遅くても中学校で習うような芸事(げいごと)でも、明治や大正では一部の高校でようやくエリート階層が習える時代もあったわけです。

スポーツでも戦前なら、たとえば早稲田大学が明治大学にしていた運動会は、現代では小学校や中学校でもやるような種目だったりします。

慶応大の論文『「部活動」の起源と発展に関する教育史的研究』に、早稲田大学の運動会について下記のようにあります[2]

上記でも触れたように実際行われた運動会はたわいのないもので、旗取、綱引き、相撲、盲競走など、今日の幼稚園や小学校でやる種目を、大の男がワイワイ騒いで行ったもので


きっと、他の学校でも明治のころは、高校で初めて野球を体験する、あるいは大学で初めて野球を体験する、みたいな時代や地域もあったでしょう。今こそ、野球で first , second などの序数や、out など形容詞・前置詞を英語よりも先に習い、それが英語教育でも役立ちますが、しかし明治時代の初期にはそんな気の利いた教科横断的な英語教育のノウハウは無かったでしょう。


サッカー、バレーボール、テニス、バスケットボールなど野球以外のスポーツでも、時期に多少の違いはあるでしょうが、昔はそのスポーツが日本では金持ちの象徴だった時代もあったわけです(欧米では庶民のスポーツだったかもしれませんが)。

現代の私たちが小中学校で習った気の利いた英語教育やら社会科や理科などの教育は、かつて、明治や大正や戦前の昭和の先人たちが色んな分野を学んで、それを小学校のさまざまな教科に反映した結果です。


文化庁の官僚や広告塔は、とにかく芸術を振興しようとします。スポーツ庁の官僚や広告塔は、とにかくスポーツを振興しようとします。しかし私たちには時間の制限があり、芸術もスポーツもすべてを高度に実践することは、もはや出来ません。

たとえば、もし私たちが大人になってから「バスケが・・・、したいです・・・」とか思っても、スポーツ庁の役人は決して私たちのために無料のバスケコートなんて用意してくれないが現実です。


さて、「芸術家なら、色々と許される」とか勘違いを思ってる人もいるかもしれませんが、あまりに芸術家がわがままを言い過ぎると、注文者だった人たちは自分たちで作品を作り始めます。 実際、作曲家など音楽家のなかには、自分でCDジャケットなどのイラストを描ける人もいます。もちろん、イラストのプロほどの技量はありませんが、しかしそれでも絵でお金を稼げているのが現実です。


演劇も同様です。演劇の世界のなかでも、演劇俳優らが自分たちで大道具の背景画の絵を描いてしまうこともあり、このような演劇の背景画のことを「書き割り」と言います。中学高校の演劇部ですら、そうです。


また、中学高校の文化祭などの公演を見れば、美術部以外の軽音楽部などの文化部がそれぞれの演目パンフレットの表紙イラストを、自前で描いたりしている場合もあります。もはや美術部の助けはいりません。

現代ではコンピュータによる印刷が発達したので、軽音楽部などの人でも、キレイな線でキレイなイラストを描ける時代になっています。

絵ではなく写真を使う場合でも、もはや写真部の助けもいらないのが現実です。


自己表現としての絵を描く文化の場合、当然ですが、決してべつに美術の専門家やプロを雇う必要は無いので、美術部ではなく音楽系や演劇系の部活の人が自己表現で絵を描いてもいいのです。 そういう音楽系・演劇系といった美術以外のクリエイターに仕事をうばわれるというか、そもそも最初から美術系クリエイターのための仕事が発生しない場合もあるのです。


旧制高校の卒業生が高校時代に自己表現としての絵を描くように指導されたのも、そもそも彼ら旧制高校の大部分は美術大学には進学せず、日本の近代化のために法学部やら文学部の英文学科やら商学部などに進学する人が、高校時代の最後の自己表現の機会としての自己表現イラストであるので、現代の高校美術の教育とは意味合いが全く違います。

東京都知事だった故・石原慎太郎(いしはら しんたろう) 都知事が、旧制の高校時代に、自己表現をするような絵を描くように指導されたと言われても、石原の進学先は現代でいう国立・一橋(ひとつばし)大学の商学部です。一橋大学は、国立の難関大学です。けっして進学先は美大や芸大ではありません。

日本の中学高校の美術教育・音楽教育には、こういった日本特有の近代化のための教育としての歴史があります。西洋の美術教育とは違っています。


21世紀の世間の人は、日本の戦前の芸術教育と言うと、てっきり「東京芸大の前身の学校がリードした」と思ってたりしますが、しかしそれは少し勘違いで、明治時代のころだと、芸術系でない私立高校あたりが芸術教育をリードしていたのです。画材も楽器も、公立中高の貧乏人には買えなかった時代ですので。東京芸大よりも学習院の高校のほうが歴史的に古いし、もっというと学習院大学よりも学習院高校のほうが古いという事に気づかねばなりません。

上記の件の調査でネットを漁ってたら、そのものズバリの資料PDFを見つけました。

『明治の視覚革命 工部美術学校と学習院展』

「そのうちの1人、松室重剛(1856~1929)は、明治22年から大正10年にかけての33年間、学習院中等学科の西洋画の教師を務めました。」
「また松室は明治25年に学習院戦闘の西洋画教科書「西式臨画帖」(全6冊)を作成しました」
「松室の教え子には白樺派もいた」

とあります。 なお、東京芸大の前身の「東京美術学校」は明治20年の設立。

これとは別に、「工部美術学校」という官立の学校が明治9~15年にありました。明治16年に工部美術学校は廃校になりました。

そう、東京芸大とは別の、官立の美術学校があったのです。私学の芸術教育には、工部美術学校のほうの影響もあるのです。これを見落としてはアカンのです。


そもそも国公立の大学は、歴史的には、低所得者のための学校です。東京芸術大学も国の税金を使っている国立の学校です。廃校になった工部美術学校もそうです。


21世紀の元・内閣総理大臣の麻生太郎(あそう たろう)は、学習院大学の付属高校および学習院大学の卒業生ですが、彼が若いころは大学進学率が今ほど高くなかったので、もしかしたら東京大学にも進学できたのかもしれませんが、しかし麻生は「東大とかの国立大学は国の税金を使っている、貧しい人のための学校だ。金持ちが行くべきではない」という事情で、学習院大学に進学したほどです。

なので歴史的に、戦前のトップクラスの金持ちは基本、東京芸大には進学していません。日本の戦後の皇族も、楽器の演奏ができるなど芸達者ですが、しかし東京芸大には進学していません。

なお、大阪芸大は私立です(ときどき国公立だと勘違いされる)。


工部美術学校の卒業生には、私学の美術教師になった卒業生のほかにも、公立学校の美術教師になった卒業生もいる。当時の日本では独特な画法で「コバルト先生」とも呼ばれたw:堀江正章(ほりえ まさあき)がそうであり、旧制の千葉中学校で図画の教師を長年つとめた。


なお、明治の工部美術学校は女子学生も入学できるという、当時としてはかなり男女平等の学校でもあり、当時としてはすごい珍しい共学の学校でもありました。だから明治の美術教育を「男尊女卑」とか「嫁入り道具」とか言ってる研究者は、ネット上で見かけましたが、レベルが低い研究者とみてよいでしょう。「山下りん」とか「神中糸子」(じんなか・いとこ)とかの女子卒業生を何だと思ってるのか。

欧米の女性消費者のカネほしさに欧米の捏造フェミニズム歴史観を無批判に取り入れると、女性芸術家の存在を抹消したトンチンカンな美術史観を抱いてしまいます。


ともかく、だから美大・音大・芸大だけ見ていても決して日本の明治以降の芸術教育史は分からず、大人の芸術の研究者なら、戦前の中学高校での私学・公立の歴史も(美術史の研究者なら)見る必要があるのです(高校生は調べる必要ないです。授業での作品づくりを優先してください)。

日本の芸大というのは、欧米各国の芸術アカデミーに外交的に合わせるために作った大学に過ぎませんので、実際に中高生に対する美術教育を先導していた私学の華族(かぞく)の子息や医師の子息などのための名門中高とは異なります。

ネット上のサイトで、そのものずばりの研究サイトを見つけました。東京芸大(当時は東京美術学校)ではなく工部美術学校ですが、

金子一夫(茨城大学教育学部)著『工部美術学校における絵画・彫刻教育』 というサイトに、下記のようにあります。

近代化の一環として創設された工部美術学校が養成しようとしたのは、単なる職人ではなく、指導的な国家有用の美術家(技術者・芸術家)であろう。学校の設置目的を記した公文書には、工部美術学校は西洋の技術を移入して「百工ノ補助」のために設ける、将来は西洋の優等アカデミーと同等の地位に到達させたいとある。数年後の結末はともかく、最初は壮大な気概をもって始まった。

学校は違いますが、予算を出している明治政府や大蔵省の方針は、たぶん似たようなものでしょう。


なお、「芸術」と言う言葉も、明治と第二次世界大戦後とでは意味が異なります。

明治ごろの「芸術」と言う言葉は、戦後の昭和よりも多義的であり、明治の「芸術」には今でいう「技術」や「職人技」と言う意味も含みます。これは、ふつうに高校生むけの日本史の歴史史料集(教科書会社の山川出版社が販売している史料集です)とかで確認できます。

明治の当時は、製造業なども自動化されていなかったので、職人技の高品質な製品なども「芸術」と呼ぶことがありました。現代でも「手芸」とか「手工芸」とか言う言葉に名残(なごり)があるでしょう。

なので、戦前の宮沢賢治や石川啄木あたりの苦労人の作家の言う「芸術」という言葉にも、そういう意味が含まれていたりします。

つまり、戦前とくに明治ごろの古い作家の言う「芸術を振興せよ」みたいな言葉の意味は、現代語訳すると、「日本は、決していつまでも途上国みたいに低価格のダンピング商品ばかり作って欧米に輸出するのではなく、これからの日本のすべき事として、技術開発に投資をして職人を育成して高付加価値の製品を輸出できるように経済改革せねばアカンのだ」みたいな意味合いも含まれています。

もっと言うと、「俺らの若かった時代は、児童労働とかで満足に勉強もできなかったし、そのせいで賃金の低い仕事につけられている同年代の奴も多いけど、でも今の子どもたちや将来生まれてくる未来の子供たちの世代にまで、そんなみじめな思いをさせたくないから、だから日本の大人は今は苦しくても工場の設備投資や、研究開発に投資しなきゃいけないんだよ。公立中高でも満足な勉強ができるように、公教育にもそれなりの投資をしなきゃアカンわな」みたいな熱い思いがあるわけです。戦前の「芸術」の振興という言葉には。

まるで昭和の高度成長期の中小企業のビジネスマンみたいなマインド(精神)です。なので、なんか変な空想的アート共産主義的な勘違いをしないようにしましょう。


「芸術」には「学問」的な保証は無い

「学問」と「芸術」とは、そもそも方針が大きく違います。

例外的に、中学校卒業までの美術・音楽の授業では、おおむね、学問側でも受け入れられているような内容を扱っています。なので、芸術科目の勉強が、例外的に中学卒業までは、社会科や(中学の)技術家庭科などの勉強でも役立つ可能性はあります。

しかし、もはや、高校や大学などの中学卒業のあとは、「芸術」系の科目の勉強では、基本的には、座学でも創作などの実践でも、上述のような異分野で役立つ保証は無いのです。


そもそも学問は、基本的には、先人の客観的な成果をもとに多くの実験をするなどして検証しており、なので、ほぼ確実に時代が経つにつれて高度化していき向上していきます。なので、たとえば理科系の学問についての理解なら、ニュートンやピタゴラスのような昔の科学者よりも現代の私たちのほうが多くのものごとの仕組みを、理解できています。

他の例なら、たとえば古代や中世ならプロ科学者や大学教員などでないと困難だった計算や公式が、21世紀では中学生や高校生でも簡単に計算できたりするような歴史の進歩があるのが、学問の世界です。


しかし、芸術には、けっして学問のような意味での進歩の保証は無いのです。たとえば21世紀の私たちは、必ずしもピカソやダヴィンチよりも絵がうまい保証は無いのと同様です。(ほか、そもそも、普遍的にいつの時代でも通用する「絵のうまさ」が存在するかという問題すらある。)

上述の話は、書籍名は忘れましたが1990年代の経済評論家の故・小室直樹(こむろ なおき)の書籍に学問とは何かの説明で書いてあった事を言っています。


実際、作家でも、たとえば娯楽作品の作家なら、消費者から過去の作家自身の十数年前とかの昔の作品と比べられて、「最近はこの作家、才能が無くなってきたな~」とか観衆から評されることすらあるのが、こういった業界です。

いちおう、先進国には、芸大や美大や音大などの学校もあります。しかし、芸術系・国文学以外の一般の社会科学(たとえば法学部や経済学部)や理系の学問(たとえば数学や物理学)などの学校にとって、果たして芸大・美大・音大やその学会などの掲げる知識体系が真正なものとして受けいられるという保証は、無いのです。

芸術系の「アカデミア」(学会や大学などの界隈のこと)というのは、名前こそ外来語ではアカデミアとは言うものの、他の社会科学や国文学や理系学問などのアカデミアとは一線を画す、とりあえずのアカデミアでしかありません。

「でも高校の美術史や音楽史が役立つのでは?」かと思われるかもしれませんが、しかし、もうほとんど中学校卒業までに美術の検定教科書および資料集で、美術家以外にとっては十分な量の美術史を教えています。ダリとかミュシャとかリキテンシュタインとかの作品とか、昭和の時代は中学美術では基本、教えていませんでした。しかし21世紀では、ダリもミュシャもリキテンシュタインも、もう中学校で紹介されています。

高校美術の教科書で紹介されている作家と作品は、基本的に存命中で活躍中の作家で、ある程度の長い期間で人気が持続している作家です。

それくらいの事は保証されていますが(とりあえず業界内での知名度はそこそこある作家ではある、という事ぐらいは教科書は保証している)、しかしそれくらいしか保証されていません。その作家の技法や手法の評価は、まだそれほど評価は確定していません。そういうリスクがあります。

検定教科書にも、どういった手法や思想でその作品を書いているとか、基本的には解説していません。なぜなら、解説の中身が本当かどうかすらも保証できないからです。

仮にその現代作家自身の能力は高くとも、果たしてアナタがそれを手本にして真似して、高い評価を得られるかどうかという事すら保証は無く、不明であり自己責任のリスクのある世界です。

こういう業界がいいとか悪いとかの話ではなく、学問と芸術のどちらの業界が上とかの話ではなく、ともかく、芸術はそういうリスクが要求されている業界だという事は分かってください。


小学校で習ったことについては、美術に関したことではないのですが、そもそも小学校教師は美術の専門家ではありません(そもそも教科名が美術ではなく「図画工作」ですが)。教員免許の仕組みがそうなっています。

音楽を除き、小学校の教師は、一人の教師が全教科を教える仕組みです。

なので、小学校教師の言う芸術とか美術の理論は、少し間違っている可能性があります。


大正時代に『自由画教育運動』という運動があったのですが、単にロシアの芸術思潮を取り入れたいというのが本音です。

証拠は、

滋賀大学芸術リポジトリ『近代日本の教科書の歩み 2-図画工作美術』

大正から昭和初期の教科書を語る上で、山本鼎による「自由画」の主張は避けて通ることは できない。山本は、東京美術学校を卒業後、創作版画運動を推進した版画家であり、画家であ った。5年にわたるヨーロッパ遊学の帰途、1916(大正5)年、ロシアで「児童美術展覧会」 を見て深い感銘を受けた。この時、児童画の自由で個性的な表現に心を打たれ、模写や臨画を 主体としたわが国の図画教育に強い疑問を抱くことになる。

とあります。


自由画教育運動は、臨画廃止に一定の効果をもたらしたが、全国各地の学校現場に放任的な 写生画教育を招くことになった。このことは山本の本来意図した「自然より学ぶという」理念 が、実践段階で自由写生と誤解されていたことを物語る。この時代、全国の学校の図画教育が 一変して自由画、つまり写生画に変わった訳ではない。1929(昭和4)年の時期に約220万冊 の『新定画帖』が国定教科書として発行されていたことを無視することはできない。学校現場 での臨画教育の根強さ、訓練的要素を多分に含む模写教科書『新定画帖』の影響がいかに大き いものであったかを窺い知ることができる。

風景画を描くのが好きな児童だっているだろうに。フザけてんのか。

「自由、自由!」とか言いながら、風景画を写実的に書く自由は認めないんだから、偽善者です。

本当、「自由」とか言う連中、ロクでもない。

なお大正の当時、「大正自由教育」という教育運動があって、その大正自由教育では労働の体験学習とか流行してたので(農業実習とか。当時は「労作」と言われてた)、それにあやかって美術教育の界隈では「自由画」と言っていただけに過ぎないと思われる。実際には自由ではない。

単に、教育内容が広くなって、模写のほかに、西洋美術の勉強が増えただけである。

この大正「自由」教育の名前も、おそらくは明治からの自由民権運動などにあやかって自由を冠する名前をつけたのだろう。

大正自由教育は、私学を中心にした教育運動だったので、左派からも下記のように批判もされました[3]


左派言論界からは、日頃畑仕事に無縁であったに違いない私立小学校の児童を 対象にした労作教育に対して、「お坊つちやんの気まぐれな土いぢりが何で労作教育であっ たり、自然教育であったりするものか」(大西1928=1966)などと厳しく批判されていた。


結局、たとえば私立中高の白百合女子(戦前からあるフランス系キリスト教の女子高の私学)でフランス芸術の教育が行われたり、私立の獨協中高(戦前からあるドイツ系の私学)でドイツ芸術の教育が行なわれてたのと同様、単にロシア芸術の教育を行いたいなーっというだけでしかありません。

舶来モノをありがたがる風潮でしかない。


そもそも明治時代に日本に図画工作みたいな教育が取り入れられた本当の意図は、「手先の器用な工場労働者を育てたい」です。これは工学史の歴史書などに書いてある史実であり、山県有朋(やまがた ありとも)だったか維新の元勲がそういう事を当時の教育政策の会議で言っています。情操教育とかは、主要な目的ではありません。

だから明治初期の美術教育のカリキュラムは、模写が中心でした(当時は「臨画」(りんが)と言ってました)。このカリキュラムなら、手先の器用さを客観的に測定しやすいのです。


きっと明治政府の文部省は、本当は工具の扱いを訓練したいのですが、しかし子供に工場レベルの機械装置とか使わせるのは危険なので、なので画材とかで手先の訓練させようとしたわけでしょう。

そういう歴史の裏側を知らずに、芸術教育の建前だけを語っても、大した考察はできません。

だから、21世紀の文部科学省の指導要領を見ても、大したことは書いてありません。そういうの無視してきた人が美大・芸大とかの教授になっていたりして検定官になっているので。不利なエビデンスを隠す芸術学者たちです。


芸術の理解なんて、そもそも明治時代の教育の主目的ではありません。そんなの派生でオマケです。

そもそも「自由画」とか言われてるものの実態は、「思想画」であると、戦前の『尋常小学図画』によって喝破(かっぱ)されています[4]。もっとも、ここでいう「思想」とはおそらく、別に共産主義思想ではなく、当時の芸術思潮のことだろうとは思いますが。

音楽教育も同様、そもそも軍事教練とかが戦前の音楽教育の目的のひとつです。団体行動の教育とかの目的もあります。軍隊でも、起床ラッパとか突撃ラッパとかで、ラッパなどの楽器を使います(そういうのを「信号ラッパ」と言う)。

w:木口小平みたいな、「死んでもラッパを手放しませんでした」とか修身科目で教育されたアレです。これが本音です。

滝廉太郎とかああいう作曲家は、海外との社交のためのお付き合いの人員です。


なんだか、太平洋戦争の戦時下の美術教育だけ、軍事力増大のための実用主義になったかと誤解しているような学説が見られるのですが、間違っています。上述したように、明治時代の当初から、そもそも殖産興業のための手先の器用な国民を育てるという実用主義なのが日本の戦後の図画工作・美術教育です。


「思想画を書くな」と言ってるのではなく、書いてもいいし児童の教育には児童の思想を表現する思想画も必要なんだろうけど、「『自由画』とか言って、ウソつくな」って事です。


戦後、GHQなどの指導によって戦前の美術教育が軍国主義的だとして禁止され、そして新しく次のような理念に置き換わります。

「創造力の養成、個性の伸長に留意すること」[5]

このような理念のまま、現代に続いています。


なお、「デザイン」と言う言葉は、日本の美術教育では、本来の意味とは違う活用もされています。滋賀大学芸術リポジトリ『近代日本の教科書の歩み 2-図画工作美術』によると、


従前の「色や形などの基礎練習」はデザインの内容に位置づけられた他、

と言った、なんか画材とかを上手く使いこなす能力のことを「デザイン」みたいに言っている時代もあったようです[6]

そして滋賀大の人の論文は、最後に下記のように まとめています。

まとめ 昭和初期から現在までの教科書及び「学習指導要領」の変遷を概観してきた。俯瞰すると、 同じ教科でありながら、教科に求められる内容が時代で揺れ動き、確実に変化していることが わかる。戦前・戦中の実利的技能的な観点から、戦後の生活主義を経て、平成期の児童・生徒 中心の教育観への様変わりである。 近年の特徴として鑑賞学習の充実が叫ばれており、「つくること」と「みること」のバラン スを図ろうとしている。子どもをしっかりと中心に据えながら、「図画工作・美術」は従前の 技能や実技の教科から脱却して、あらゆる学力の基礎となる教科であることを改めて自覚しな ければならない。


日本の美術教育って、「自由! 自由!」とか言うくせに採点するし、いまや公立高校入試の内申点にも中学の美術の成績も使われる時代なので、なにがどう自由なのか、よく分からない実態です。そうなったのは、上記のような複雑な経緯があります。

まあ、小学校の低学年のうちは、様式とかあまり教えずに書かせたほうが良いと思います。

根拠として、実際に日本のある小学校教師が「こういう構図で書くとウケるよ」と図工の時間に生徒児童に教育指導した実例があるのですが、その報告によると、1クラスの生徒全員の10~20人(少子化なので1クラス40人とは限らない)が、みな同じ構図で作品を作ったので、児童の保護者などの観客の目では、廊下(ろうか)に同じ構図の絵の展示がつづいて、すごいツマんない光景になったという例もあります。

音楽の歌唱だったら皆が同じ音程と歌詞で声を出しても「ハーモニー」とか言われて喜ばれますが、絵画では喜ばれません。絵画でネタがかぶって同じ構図の絵が廊下に続いても、誰もハーモニーとか言ってくれませんし、ほめてくれません。

なので、美術では、なるほど「個性が大事」というのも一理あります。アニメとかの集団制作の作品でないかぎり、絵の創作において個性は大事でしょう。

ですが、その一理あるというのは、けっして「人権思想のすばらしさ」とか民主主義だとかそういう理由ではなく、単に「個性がないと美術作品の観客が飽きるから」という極めて実利的な理由でしかありません。


小針誠 著『大正新教育運動のパラドックス』に、大正自由教育について、下記のような批判があります[7]

第二の国家主義との関わりでいえば、大正新教育運動は児童中心主義のリベラルな教育を 標 傍 し な が ら 、 そ の 論 理 や 内 容 に 内 在 す る レ ト リ ッ ク か ら 、 そ の 後 の 総 力 戦 体 制 下 の 国 家 主 義的教育の子ども観や教育観と相似している点を指摘した。 大 正 新 教 育 運 動 の 理 念 や 実 践 は 都 合 よ く 戦 時 体 制 の 教 育 に も 取 り 込 ま れ て い く こ と に な っ た。それは新教育そのものの変質というより、新教育も戦時体制下の国民学校教育もともに、 大 人 ま た は 大 人 が 主 導 権 を 握 る 国 家 の 期 待 に 自 発 的 に 応 え る 子 ど も を 想 定 し て い た 点 で は 共 通していた。したがって、両者の関係は変質や断絶としてではなく、むしろ連続したものと 見るほうが自然なのである。

その一つ前の段落に、下記のような批判もあります。

そして「自発性・自主性」や「個性」が子どもの主体としてではなく、使 役(~させる)や義務(~ねばならない)の対象として、子どもが客体として語られ、実践さ れるとき、ただちに大人にとっての理想像としての「子ども」が想定され、国家や社会・大 人の要請・期待に自発的に応えることが望ましいとされる。つまり、個性的でなければなら ない、自発的でなければならない子ども像が想定されることになる。子どもたちは国家・社 会や大人(教師・親)が想定・理想とする「子ども」を役割演技することが期待されることに なる。


理科の光学を美術にもちこむのが、まだ当然ではない時代が戦前にはあった。

青空文庫の 『ああ玉杯に花うけて』

チビ公に近いところにたむろした一団は物体と影の関係について論じていた、洋画式でいうと物体にはかならず光の反射がある、どんなに影になっている点でもかすかな反射がある、この反射と影とは非常にまぎらわしいので困るとひとりがいった。するとひとりは影そのものにも反射があるといいだした。
 チビ公はびっくりしてものがいえなかった、かれはたった一年のあいだに友達の学問が非常に進歩し、いまではとてもおよびもつかぬほど自分がおくれたことを知った。幾何や物理や英語、それだけでもいまでは異国人のように差異ができた、こうして自分が豆腐屋になりだんだんこの人達とちがった世界へ墜落してゆくのだと思った。
「ねえきみ、ぼくらにはなんの話だかわからないね」

旧制高校の出身私立中学[編集]

世間では、旧制高校と言うと、貧乏な公立中学の出身者が勉強して高校受験に合格して、末は博士か大臣か・・・的な共産主義ロマンあふれる妄想がはびこってますが、

実際は私立中学出身者が高校受験で旧制一高に入ってたりする。そういう戦前の官立旧制ナンバースクール出身のお医者さん、獨協中学の歴史を調べたらあった。

世間の人は旧制ナンバスクール出身の医者というと、なんとなく貧乏な家の生まれで野口英世みたいな苦学の人物を思い浮かべたりするイメージが多いが、もしかしたら実態と違う可能性がある。

戦前の旧制中学、旧制高校は、金持ちが高い学費を払って通う学校だった。(大正時代くらいになると、現代の物価水準に直すと学費はそんなに高くないが、まあ都市と地方の格差とかあるので省略)


青空文庫の 『ああ玉杯に花うけて』 でも、医者の息子の「手塚」が旧制高校に通ってるし。まあ、戦前の医者と戦後の医者とで所得水準が違う可能性もあるが。

うとうととなったかと思うと巌は犬のほえる声を聞いた。はじめは普通の声で、それは学生等の混雑した話し声や足音とともに夢のような調節ハーモニーをなしていたが、突然犬の声は憤怒ふんぬと変じた。巌ははっと目を開いた。もうすべての学生が犬の周囲に集まっていた。二年生の手塚という医者の子が鹿毛しかげのポインターをしっかりとおさえていた、するとそれと向きあって三年の細井という学生は大きな赤毛のブルドッグの首環くびわをつかんでいた。
「そっちへつれていってくれ」と手塚が当惑とうわくらしくいった。
「おまえの方から先に逃げろ」と三年の細井がいった。
「やらせろ、やらせろ、おもしろいぞ」としゃもじが中間にはいっていった。犬と犬とが顔を見あったときまたほえあった。
「やれやれやれ」と一年[#「一年」はママ]が叫びだした。
「やるならやろう」と三年がいった。
「よせよ」
 人々を押しわけて光一が進みでた、かれは手に代数の筆記帳を持っていた。
「やらせろ」と双方が叫んだ。
「つまらないじゃないか、犬と犬とを喧嘩けんかさせたところでおもしろくもなんともないよ、見たまえ犬がかわいそうじゃないか、犬には喧嘩の意志がないのだよ」
降参こうさんするならゆるしてやろう」と三年がいった。
「降参とかなんとか、そんなことをいうから喧嘩になるんだ」と光一はいった。
「だっておまえの方で、かなわないからやめてくれといったじゃないか」

そもそも、なんらかの中学校に通える時点で戦前ではインテリ階層

かれは隣席の豊松という少年にこうささやいた。豊松は八百屋の子で小学校を卒業するまでに二度ほど落第した、チビ公よりは二つも年上だが、そのかわりに身体が大きく力が強い、そのわりあいに喧嘩が弱く、よく生蕃になぐられては目のまん中から大粒の涙をぽろりと一粒こぼしたものだ、今日集まった人々の中で中学校へもいかずに家業においつかわれているものは豊公とチビ公の二人だけであった、かれは学問やなにかの話よりも昔の友達がみな制服を着てるのに自分だけが和服でいるのがはずかしかった。
「あの人達は学者になるんだよ、おれ達とはちがうんだ」とかれはいった。
「そうだね、おれ達はなんになろうたって出来やしない」とチビ公がいった。
「金持ちはいいなあ」と豊公は嗟嘆した。「いい着物を着ておいしいものを食べて学校へ遊びにゆく、貧乏人は朝から晩まで働いて息もつけねえ、本を読みかけると昼のつかれで眠ってしまうしな」
「きみ、お父さんがあるの?」とチビ公がきいた。
「ないよ、きみは?」
「ぼくもない」
「親がないのはお金がないよりも悲しいことだね」
「それにぼくは力がない、きみは力があるからいいさ」
「力があってもだめだ」と豊公は急に腹だたしく、「おれは毎朝生蕃になぐられるんだ、そしていもだの豆だのなしだのかきだのぶんどられるんだ、それでもおれはだまってなきゃならない」
「ぼくも毎朝豆腐を食われるよ、きみなぞは力があるからなぐりかえしてやるといいんだ」
「だめだよ」と豊公はあやうくこぼれようとする涙をこらえていった。「あいつのお父さんは役場の役人だろう」


貧乏人は小学校までが戦前。田中角栄の学歴詐称の「尋常小学校卒」の元ネタはこのあたりか。

道のかなたに見える大きな建物は一年前に通いなれた小学校である。月下の小学校はいま、安らかに眠っている。はしご形の屋根のむねからななめにひろがるかわらの波、思いだしたようにぎらぎら反射する窓のガラス、こんもりとしげった校庭の大樹、そこで自分は六年のあいだ平和に育った、そこにはあらい風もふかず冷たい雨も降らず、やさしい先生の慈愛の目に見まもられて、春の草に遊ぶ小ばとのごとくうたいつ走りつおどりつわらった、そこには階級の偏頗もなく、貧富の差異もなく、勉強するものは一番になりなまけるものは落第した、だが六年のおわり! おおそれは喜ぶべき卒業式か、はたまた悲しむべき卒業式か、告別の歌をうたうとともに同じ巣のはとやすずめは西と東、上と下へ画然とわかれた。
 親のある者、金のある者はなお学府の階段をよじ登って高等へ進み師範へ進み商業学校へ進む、しからざるものはこの日をかぎりに学問と永久にわかれてしまった。
 チビ公は月光をあびながら立ちどまって感慨にふけった。


貧乏人は、地元の名士に、カネをめぐんでもらって旧制中学・旧制高校に通ってたのが戦前である。


「きみに相談があるんだがね」と光一は謹直な顔をしていいだした。
「ぼくはぼくの父ともよく相談のうえでこのことをきめたんだが」
「どんなことですか」
「つまり、きみにもいろいろ不幸な事情が重なってるようだがきみはもう少し学問をする気がないかね」
「それはぼくだって……」とチビ公は早口にいった。「学問はしたいけれどもぼくの家は……」
「だからねえきみ、きみが中学校をやって大学をやるまでの学資ならぼくの父がだしてあげるとこういうのだ。きみは学校でいつも優等だったしね、それからきみの性質や品行のことについてはこの町の人はだれでも知ってるんだからね、豆腐屋をしてるよりも、学問をしたら、きっと成功するだろうと父もいうんだ、実はね、こんど生蕃の親父の一件できみの伯父さんがあんなことになったろう、それできみは夜も昼もかせぎどおしにかせいでいるのを見てぼくの父は……」
「ああわかった」と、チビ公は思わず叫んだ。「伯父さんのさしいれ物をしてくれたのはあなたのお父さんですね」
「いやいや、そんなことは……」と光一は頭をふって、「ぼくは知らない、なんにも知らない」
「かくさないでいってください、ぼくはお礼をいわないと気がすまないから」
「そうじゃないよきみ、決してそうじゃない、ところできみ、いまの話はどうする、きみはぼくと一緒に中学へ通わないか、ねえきみ、きみはぼくよりもできるんだからね、ぼくの家はきみに学資をだすくらいの余裕があるんだ、決して遠慮することはないよ、ぼくの父は商人だけれども金を貯めることばかり考えてやしない、金より大切なのは人間だってしじゅういってるよ、きみのような有望な人間を世話することは父が一番すきなことなんだから、ねえきみ、ふたりで一緒にやろう、大学をでるまでね、きみは二年の試験を受けたまえ、きっと入学ができるよ、ねえきみ」

戦前の地方自治[編集]

「戦前には地方自治が無かった」みたいにGHQの戦後改革の授業で習うかもしれないが、実態は違っているようだ。教科書はGHQの主張を誇張ぎみ。

実態は、青空文庫の 『ああ玉杯に花うけて』 では、町会(今の市議会あたり?)らしき議会でも、政党どうしが議論をやりあってたり。

 政党は国家の利益を増進するための機関である、しかるに甲の政党と乙の政党とはその主義を異にするために仲が悪い、仲が悪くとも国家のためなら争闘も止むを得ざるところであるが、なかには国家の利益よりも政党の利益ばかりを主とする者がある。人民に税金を課して自分達の政党の運動費とする者もある。人間に悪人と善人とあるごとく、政党にも悪党と善党とある、そうして善党はきわめてまれであって、悪党が非常に多い。これが日本の今日の政界である。
 阪井猛太は自党の多数をたのみにして助役の地位にあるのを幸いに、不正工事を起こして自党の利益にしようとした、これに対する立憲党は町会において断々固としてその不正を責めたてた。もしことやぶるれば町長の不名誉、助役の涜職、そうして同志会の潰裂になる。猛太はいま浮沈の境に立っている。


なお、ソ連とムッソリーニのファシズムを類似視するのは戦前からある。英雄の必要性の是非についての議論で、下記のように作中で高校生に議論されている。

露国はソビエト政府を建てたがかれらを指揮するものはレーニンとトロツキーである。イタリーはデモクラシーを廃してムッソリーニを英雄として崇拝している、英雄主義は永遠にほろびるものでない、英雄のなき国は国でない、宇宙に真理があるごとく人間に英雄があるものである、いたずらに英雄を無視せんとするものは自ら英雄たるあたわざる者の絶望の嫉妬である


全体主義の語は、1923年にw:ジョヴァンニ・アメンドラによって初めて用いられた。第一次世界大戦で登場した「総力戦」(total war)の用語の連想から生まれたとされる。 (wikipediaより)

『あゝ玉杯に花うけて』は雑誌『少年倶楽部』1927年5月号から1928年4月号に連載。

  1. ^ 慶應義塾大学文学部教育学専攻山本研究会 著『「部活動」の起源と発展に関する教育史的研究』、2016年度山本ゼミ共同研究報告書、 P51
  2. ^ 『「部活動」の起源と発展に関する教育史的研究』、2016年度山本ゼミ共同研究報告書 慶應義塾大学文学部教育学専攻山本研究会 、P28
  3. ^ 小針誠 著『大正新教育運動のパラドックス』 、【特集】子ども中心主義のパラドックス、2015:19-32、P.24
  4. ^ 滋賀大学芸術リポジトリ『近代日本の教科書の歩み 2-図画工作美術』,P170
  5. ^ 滋賀大学芸術リポジトリ『近代日本の教科書の歩み 2-図画工作美術』,P173
  6. ^ 滋賀大学芸術リポジトリ『近代日本の教科書の歩み 2-図画工作美術』,P175 および P.176
  7. ^ 小針誠 著『大正新教育運動のパラドックス』 、【特集】子ども中心主義のパラドックス、2015:19-32、P.28