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出典: フリー教科書『ウィキブックス(Wikibooks)』

日本の共産主義の中高カリキュラム[編集]

考えたくないイヤな可能性だが、文科省や教育学者が、高校教育カリキュラムの設計で、日本の公立進学高校のカリキュラムから逆算して、安直に教育カリキュラムを制定している可能性。

米国のフェミニズム批判の書籍 The war against the boys による告発では、女子に都合がいいように教育カリキュラムが不当にゆがめられ、その結果、男子が得意な数学の内容が削られ、数学の英才教育みたいなのが公教育からどんどんと消失していった、という話がある。

日本は、これを公立高校に都合の良いカリキュラムとして、教育内容をゆがめることを行っている疑いがある。

どう考えても、私立の開成高校のような予習中心の先取り学習のほうが、自然でしょ。だって、図書館とかを使って興味あることを探究的に勉強してたら、そういう予習中心の勉強になりますよ。思い出してよ、小学生のころの勉強家の同級生の子とか、そうだったしょ。

だから本来は、早慶マーチ付属校あたりの高大連携をしやすそうな私大付属校のカリキュラムのなかの成功例を中心に、日本全体の高校教育のカリキュラムを決めなければいけない。当然、カネは掛かるが、本来なら教育はそんだけ研究にカネが掛かるのである。

よく、「東大卒は専門バカ」みたいに言われるが、けっして高校生のころは視野が広かったのではなく、高校生のころから受験だけの専門バカだったのである。それは公立高校出身でも変わらない。

なぜかその高校生のうちからバカが、共産主義の魔の手によって私学に責任がなすりつけられるが、しかし公立高校も同様だろう。

だって、公立高校の進学校の連中、受験に出ない美術とか音楽とか家庭科とか、ろくにやってないじゃん。

教育学者の中に共産主義者が入り込んでおり、共産主義にもとづき、上記のようにフェミニズム的な方法論で、共産主義的に公立有利なカリキュラム設計を行っているという、邪悪な教育学の設計が行われている可能性がある。

またそもそも、日本の美術教育自体、公立進学高校みたいなのに都合よくなるように歪められて設計されている可能性がある。フェミニズムによって米国の数学教育が歪められたのと同じように、美術や音楽などの芸術の権威そのものが、歪められている可能性がある。


さて、私立出身の私が、wikiの教科書でほぼ5教科の全科目を書いたが、公立出身者はいったい何をしてるんだ?

公立は、開成とか灘とかと違って、受験にとらわれれない幅広い教養を身に着けているはずなんじゃないのか? 公立高校は人間形成をしているはずなんじゃないのか?

しかし現実、公立出身者も私立出身者もだが、wikiにかぎらず、多くの知識人とされる人間は、受験以外の基礎学力的な教科書をロクに書いていない。

つまり、前提がウソだったことになる(背理法)。公立の教育は、けっして幅広い人間形成をしていない。


書籍でもさ、たとえばアニメの技法書を読んでて、その本の著者はなまじ勉強ができたから公立進学校に行ったんだけど、周りは全然絵を描く趣味もなかった的なことを言っている人はいるし。

出典は、

西澤晋 著『リアルなキャラクターを描くためのデッサン講座 (漫画の教科書シリーズ) 単行本 – 2009/7/13 』

で、著者・西澤の高校時代、マンガ絵を練習していることが教師にバレたら、教師から勉学で期待されなくなったらしい。

出版物以外からの情報でも、似たような公立進学高校の受験中心の指導に対する、公立高校出身者からの批判の情報はある(情報源のプライバシーのため、伏せる)。

なのに、なんで公立高校の進学校が、幅広い人間形成の環境みたいに扱われてるんだ? おかしいだろ。

いちおう、自由選択科目で美術IIとか履修できるけど、べつに全員が履修しているわけじゃないだろ。


旧制一高がエリートは本当か?[編集]

『開成でも麻布でもない…戦前の「旧制一高」合格校ランキングで絶対王者・日比谷高校を破った私立校の名前 』

ツッコミとは違うが、保管庫と疑問。

通説では、旧制の中学について、1934年からは不況で私立中学が旧制中学のすべり止めとか言われてるが、本当か? 「麻布・開成は公立の「滑り止め」の時代に」と小タイトルである。つまり、開成・麻布が公立の日比谷のすべり止めだったというわけだ。

リンク先の統計では日比谷の430人に対し、開成は46人である。数字から明らかなのは、単に、旧制一高の出身校として公立中学出身者が多いというだけである。

そもそも旧制一高って、そんなに良いのか? 旧制一高がウンコ高校と考えることでも説明できる。たとえば、旧制一高の進学実績があまり良くない可能性。

Yahoo知恵袋『旧制第一高等学校から東京帝国大学以外の大学に進学する学生は一定数いたのでしょうか』2015/10/18 21:13

ベストアンサー 基本的に、一高=東大進学ではありません。 確かに旧制一高を卒業した人の半数強は、東京帝大に進みますが、 東京帝大の人気の学部(法学部や医学部、工学部など)は 選抜する入学試験があり、一高以外の全国の旧制高校のつわものが受験します。

ですので、たとえば昭和7年の東京帝大法学部への入学者は、 一高から98人、三高(京都)から42人、六高(岡山)から38人、 旧制浦和高から32人、五高(熊本)から32人となってます。 他の旧制高校からも入試を突破してきますので、 東京帝大法学部の学生のうち、旧制一高出身者は3分の1程度なのです。

なお、学習院中の連中が旧制一高に進学してたのって、明治の1909年くらいまで。

通説では、「学習院は一高に合格できないバカ文系」みたいな説。だが、別の可能性として、一高が学習院に嫌われてる可能性。一高が貧乏人で共産趣味の右翼のカスみたいな。

また、公立の旧制高校だからといって、理系に強いというわけでもなさそうだ。

・成績劣等生の下記3名などは、一高中退後、無試験で入れる文学部に進んでいます 菊池寛は、一高中退後、京都帝大文学部に進み、作家となり文芸春秋社を創設。 山本有三や土屋文明は、一高中退後、東京帝大文学部に進み、作家や歌人に。 ******************************** また理系クラスも、東京帝大医学部・理学部・工学部進学ばかりではなく、 成績が悪いためかクラーク博士にあこがれてかで北大医学部とか、 金属工学を学びたくて東北帝大とか、物理をやりたくて京都帝大とか、いろいろです。


ネットを調べてたら、馬鹿サイトを発見

『47都道府県の「旧制一中」の栄枯盛衰…地元トップを維持する名門22校と凋落した元名門17校の全リスト』2023年12月25日 11時15分

ノーベル賞受賞者を2人輩出した洛北高校 28人の日本人ノーベル賞受賞者(米国籍取得者を含む)を見てみると、25人が公立高校出身で、そのうち7人が旧一中の卒業生だ。旧京都一中だった洛北は日本人ノーベル賞受賞者第一号の湯川秀樹、第二号の朝永振一郎を輩出した。 あとは、山口(山口)が佐藤栄作、日比谷(東京)が利根川進、松山東(愛媛)が大江健三郎、藤島(福井)が南部陽一郎、北野(大阪)が吉野彰である。 公立高校以外では、国立の大阪教育大学附属から山中伸弥。私立は同志社の江崎玲於奈と灘の野依良治だけで、受験に特化した教育の弊害だと思う。

「私立は同志社の江崎玲於奈と灘の野依良治だけで、受験に特化した教育の弊害だと思う。」かあ。

そもそも戦前の私立大の多くは文系の学部だぞ、バーカ。よってその付属中高も、基本的には文系の学校だ。佐藤栄作とか並べるんだから(まあ彼は平和賞だが)、戦前生まれの話がメインだろう。

まず、WW2の前に富国強兵政策として、ようやく有名私大に工学部が出来た。さらに私大に理学部が出来たの、もっと後の時代。たとえば終戦時、明治大にも法政大にも理学部は無い。今でも法政大の学部は工学メイン。当時の理科大はそもそも理系教師を目指す教育大みたいな場所。工学院大とか芝浦工大とかああいうのは戦前は専門学校。

医者の学校も、戦前は多くが専門学校だし(医専)、そもそもがアカデミックな研究機関じゃないのだわ。また、森鴎外の脚気の失敗のように、アカデミックな人だからって成功するわけでもなし。

まあ、そもそもソ連なんてノーベル賞を輩出しまくったのに技術は三等国で、ノーベル賞の信ぴょう性そのものがあやしいが。大体、開催国のスウェーデンがねえ、いまや没落国家だし。

ノーベル文学賞もクソなんじゃないかねえ。夏目漱石なんて受賞してないけど、大江より日本じゃ価値あるでしょ。いやまあ、外人の価値は低いのかもしれないけど、海外の文学マニアそのものに価値が無いし。

農業への偏見の強い農学部・新設ブーム[編集]

山下知子『農学部、新設相次ぐ理由とは AI・ロハス…偏見なくしたら先進的でスマート 若者を魅了』2020.08.24

21世紀のいまどき日本の大学の「農学部」を出ても農家になるわけではないし、そもそも大学がそういうカリキュラムではない。言い訳ていどに多少の実習があるだけ。

農家になる人が行くのは、農業高校か、よくて農業大学校とかである。

『偏見なくしたら先進的』とか言うが、しかし農業高校や農業大学校はブームではないわけで。

私は高校カリキュラムを調べてるから分かるが、地方の公立高校の地域連携型の農業コースなんて、生徒数不足ばかりで統廃合の対象だぞ。

たとえば

など。

私、電機大の生命科学部の隣にある理工学部に通ってたけど、養蜂してる学生なんか見たことないわ。

いやもう、マジで、難関大学を褒めてる受験マニアみたいな連中どもに腹立つ。


つまり、実際の「農学部」への大学受験生の中身は、農家に「なりたくない」みたいな偏見を持っている層が、理系大学進学をしたいからという「農学部」ブーム。生命系を学ぶから、うまくすれば医療系への編入学にも使えるしって算段だろう。

つまり現実は、世間での農家への偏見が高まりすぎて、もはや「農学部」が農業を捨てて事実上の生物学科になったってのが実態である。なおこれは「工学部」も同様であり、今の工学部は実際は物理学科である。いまどきの物理学科では流体力学とか固体力学とか教えなくなったので、そういうのを工学部が引き受けているだけである。

つまり、大学の理系ブームの実態は日本社会としては悲惨なものであり、現実の大人社会の工業も農業も人気は復活していない。

「工学部」を出ても就職先は工場ではなくIT企業、農学部を出ても就職先は農場ではなくIT企業、そういう世界である。

まあ、国際経済学部とかでアフリカ経済とかを勉強しても、絶対にアフリカなんかに移住したくないのと同じ。

べつに文学部の国文科を出ても大多数は出版社に勤めるわけじゃないし、法学部を出ても多数は弁護士にも官僚にもならないし、英文科を出ても通訳になるでもないし。そういうのと同じ。

要するに、「工学部」や「農学部」も、法学部とか国際なんとか学部と同じになったってだけ。

あーやだやだ。こういうゴミ野郎が、「自分は農業に偏見が無い!」みたいに思ってるんだろうなあ。ゴミ野郎が

教育ニュースへのツッコミ[編集]

『【独自】必修の習字授業なく「君が代」指導もなし…国立奈良教育大付属小で不適切授業 検定教科書使われず学校教育法違反も』

いま、君が代が小1から小6まで必修なんですね。

ハッキリと文句を言うぞ、馬鹿政治家。

あのさあ、小学校1年がさあ、古文を理解できるわけないじゃん? そういう常識的な感覚わかんないのかね? そんなことも分かんないくせに、「美しい国」みたいなこと言ってるの?  馬鹿なの? 小学校1年って、コトワザすら知らないくらいだよ。「一石二鳥」とか「急がば回れ」とか知らないんだよ。

俳句と和歌と古文の区別すらついてないのが小学校低学年ですよ?


やっぱ、文系のバカ政治家に教育政策は無理ですわ。シビリアンコントロールの都合で仕方なく、神輿を担いでるにすぎない。「神輿は軽いほうが担ぎやすい」って言うしな。

政治家自身が「急がば回れ」が出来ないお猿さんだから(東洋のマカーキ)、現実の子供の学力を無視して君が代の小1必修とかしてるんだからねえ。

教育学へのツッコミ[編集]

『よくわかる学校教育心理学』、ミネルヴァ書房、2010年420日 初版 第1刷 発行、P165

近年、英国社会は情緒的なスキルを犠牲にし、知能や学業成績を重視してきた結果、社会病理や暴力が増えてきました。

暴力多いのは移民を増やしたからだろ。


田中耕治 編著『よくわかる授業論』、2011年2月20日 初版 第5刷 発行、P.161

1989(平成元)年の改訂では、男子は技術系列、女子は家庭系列という扱いもなくなり、木材加工、電気、家庭生活、食物の4領域が男女の区別なく必修領域として設定されました。ここにおいて、男女共修の技術・家庭科が開始されることになります。

うちの公立中学では、1991年以降も技術家庭科が完全には男女共通ではありませんでした。当時ゲーム機に既にプレステとかサターンとかあった時代なので、1991年以降のはず。

当時の必修の「木材加工・電気・家庭生活・食物」は男女共通の授業でしたが、それ以外の単元が男女別でした。

男子は金工、女子は保育などがありました。なお、コンピュータは男女共通。


まあ、なんかの実験校だったのかもしれないが。

あ、思い出した。中高事代に塾で知ったんだが、いくつか離れた町の中学で、中学時代に三角関数を教えてたらしいわ。そういう話、聞いたことある。

塾講師はそういうのにも対応してどの地域の塾生にも分かるように講義するんだから大変そうだなあ。


アニメ評論家の岡田斗司夫が良く言うが、書店によくある『やさしいコンピュータ』とかの解説書が、わざわざ「やさしい」と宣言するジャンルが実際には易しくないように、わざわざ「男女共修」とか宣言するのは実際には男女共通ではない部分があるのが実態。


P.219

高校生にもなれば男女問わず肌パックや整髪グッズを利用し身だしなみを整えるということは、子どもたちにとっては当たり前のことです。

当たり前じゃねーよ。どこの底辺高校の地域だコラ。

うちの近所の割と校風のゆるい私立高校を幾つか見ても、整髪グッズ(ムース的なの? ほか整髪ジェルとか)なんか使ってないわ。

だいたい、運動部とかどうすんの? 汗でムースがベトベトになって気持ち悪いぞ(体験談)。

制汗スプレー(汗のにおい消しスプレーのヤツ)を使ってる女子高生とかは電車でチラホラ下校時刻に見るがさ。


さいきん近所の高校の吹奏楽部めぐりとか公民館に行って色々みたけど、特にムースしてる子なんか見んわ。

たぶん、化粧してるノイジーマイノリティの馬鹿ガキのカスがウルせえんだろうなあ。

べつに「ムース禁止すべき」とまでは言わないし不良だとも言わないが(私も学生時代に試しに使ったことあるんで)、部活動などでムース使用の必要性のある機会は、だいぶ限られるぞ(少なくとも運動部では不要を通り越して邪魔)。私が文化祭を見に行った範囲では、どこの文化部の女子高校生も使っとらんかったわ。

仮に一部の文化部で公演行事のさいにムースとか整髪ジェルとか使ってたとしても、けっして「身だしなみ」などという表現でいうような理由じゃないわ。もっと切実な理由だろうさ。たとえば演劇部員が髪型を維持するのに整髪料を使ったとしても、そういうのは普通の言語感覚では「身だしなみ」とはいわないでしょ。

マジで、こういった90年代のブルセラ社会学者みたいな知った風な物言い、腹立つわ。


酒井朗 ほか編著『よくわかる教育社会学』、ミネルヴァ書房、2012年4月20日 初版 第1刷 発行、P.108

特に1999年に出版された『分数ができない大学生』では、有名私立大学文系の学生の多くが分数計算のできない状況を明らかにし、大きな話題となった。

タイトルにある『分数ができない』は釣りタイトル。

実際に『分数ができない大学生』の本文を読むと、早慶マーチあたりの文系大学生が苦手とするのは中3~高校数学IAの二次関数あたりの範囲。

タイトルがもし『高校数学IAのできない早慶文系大生』だとしたら、世間の低学歴の高卒とか昭和の旧課程(『基礎解析』とかあった時代のジジババ)の人には買ってもらえないでしょ。だからジジババや低学歴の人にも分かりやすくするために、誇張した釣りタイトルをつけてるんですよ。

教育学者のくせに、匿名掲示板レベルの伝聞みたいな記述をしてんじゃねーよ。きちんと原典に当たれやオメー。


平田オリザ「演劇を生かした教育」2023年02月07日 (火) 2023年12月03日に閲覧.

演劇教育の最大の目的は、他者理解にあると思います。 教育の世界ではシンパシーからエンパシーへという言葉が最近よく使われます。私はこれを「同情から共感へ」「同一性から共有性へ」と訳してきました。  シンパシーは、可哀想な人がいたときに可哀想だなと自然に思う感情です。情操教育などを通じて、こう言った気持ちを育てることも重要です。

反論。幼稚園や小学校などの授業でお遊戯の演劇をしたことある大人は多いだろうが、現実として、大人のなかには発達障碍者もいる。

で、だいたい発達障害なんてのは、情操が幼稚なので、幼稚園児みたいな感性と思考力である。


結局、学問を抜きにしての芸術だの体育だけによる人間形成は困難である。学問を通さないと人間形成は難しい。

たとえば体育についてなら、もう明治時代から、福沢諭吉にすら体育(部活の運動部)の主導による人間形成は否定されている。

明治時代に慶應義塾の福沢諭吉が似たようなことを考えているらしい[1]。体育教育や部活動についての福沢の考えは下記のようらしい。

慶應義塾大学文学部教育学専攻山本研究会 著『「部活動」の起源と発展に関する教育史的研究』

そして福澤諭吉は、体育は単に立身出世の一手段に過ぎないのであって、体育を人生の目 的としてしまうことは、目的と手段を混同してしまっていると言わざるを得ないと述べ、 以下のようにも述べている。

そして、実際に福沢は下記のように発言したらしい。

元来書生に腕力の不用なるは、恰も力士に学問のなきと一般なれども、唯如何にせん、 学理上肉体と精神との間に密接なる関係ありて、身体を健かにせざれば、智識を進る こと能はざるを以て、已むを得ず学校に体育の設もあることなり。然るに書生の輩が 体育を口実として漫に遊戯に耽り学業を怠り、剰さへ肉体の強壮なるに任せて有りと あらゆる不養生を行ひ不品行を働き、独り得得たるが如きに至ては、言語道断の次第 と云はざるを得ず(8)。



美大も音大やそういうクリエイター系専門学校卒とかもメンヘラの巣窟だろうな。


平田オリザの界隈にはマスコミ業界人もいるだろうから慶応大卒もいるだろうけど、口先では演劇による人間形成に賛同しているだろうけど、口先だけにすぎず、彼らの出身大学のカリキュラムはそうなってないよ。慶応に限らず、早稲田や東大やマーチの卒業生のマスコミ業界人も同じ。

慶應に演劇学科なんてないもんな。日大に芸術学部があるくらいか。

そういうウソをつくことに抵抗感のない人がマスコミ業界人。まあ、視聴者がコジキで無料コンテンツばかり見ている他責のゴミ人間だから、そういうサイコパスっぽいマスコミ業界人のほうが、ちょうどいいんだろうね。



田中耕治 編『よくわかる教育課程 第2版』、ミネルヴァ書房、2018年2月28日 第2版 第1刷 発行、P.199

節「生活科の設置とその意義」で、

また、このころ小学校に入学した子どもたちが、授業中に座っていられない、教師の話を聞かない、子ども同士のけんかやトラブルが多発するなど学校にうまく適応できない、いわゆる「小1プロブレム」も問題となっていました。このような要因から、低学年における合科的な指導の必要性が認識されるようになりました。

↑このロジックが正しいとすると、生活科の導入によって小1プロブレムは解決するか、または解決に向かわなければいけない。

しかし、現状は2010年代以降も引き続き、プレジデントオンラインでも小1プロブレムが言われている。汐見 稔幸『「小1問題」の本質は学校の古臭さにある 』 2018/04/08 11:00 (2023年に12月2日に確認)


たしかに1980年代の当時は、上記のようなり理屈が言われてたと言う歴史そのものは、正しいのだろう。結局、当時の人の言っている事が、間違っていた、というだけでしかない。


それどころか、同著『よくわかる教育課程』P114を見ると、

2000年ごろに「小1プロブレム」が注目されるようになって以来、幼少連携の実践が広がっています。

とすらある。


2008年の小学校学習指導要領では、小1プロブレムの解決に効果的であるとして、生活科を中心とした「スタートカリキュラム」の編成が推奨されました。

とすらある。


しかし、プレジデントオンラインの記事で2018年にもなって、引き続き「小1プロブレム」が言われてるのだから、要するに、少なくとも、上述の複数の学説のうち、どれかが間違っている事になる。

書籍の著者の田中耕治さんの学説が間違っているという事ではなく、田中さんの紹介している教育学界隈の学説のどれかは間違っている可能性が高い、もしくは、学説の正しさが十分には証明できていないという事。


個人的な意見としては、そもそも「小1プロブレムって、90年代の当時、そんなに現場で深刻だったか?」と思う。自分の小学1年のころの80年代の体験では、とくに教室で暴れまわるガキが多いとかの印象は無い。そりゃ私語の多いガキはいたけどさ、先生が注意したら普通に生徒は黙りますよ。


よく少年法の議論で、「少年犯罪の増加とか凶悪化とか言うけど、実際に統計を見ると戦後から一貫して少年犯罪は減少傾向だ」という学説がある。それと同じじゃないですかねえ。

騒ぐとしたら、移民のガキとか、そういう連中でしょ。


なお、1990年代後半、たしかゲームプロデューサーの広井王子が、ラジオ番組『広井王子のマルチ天国』で、文部省がすでに小1・小2の理科・社会科を廃止して生活科を導入したことについて、批判していた記憶。広井は「文部省、バッカじゃねーの」と言っていたような。「文部科学省」ではなく「文部省」と言ってディスってたんで、2001年の省庁再編よりも前の発言のはず。

生活科自体はもっと前から1992年からあったが(wiki調べ)、たしか1990年代後半(エヴァンゲリオン旧劇が流行してた頃)、なにかテレビのニュース番組では生活科の指導要領か何かが大きく変わるニュースがあったはず。

証拠に、明治図書のサイト上條晴夫 著『子ども主導型の「学びのしかけ」を考える―「インパルス」 』2012/12/15 掲載でも

1990年代後半ぐらいに、日本の教育界はある大きな曲がり角を曲がります。  教師主導型の教育ではなくて子ども主導型の教育へ授業づくりへと変えることができないかという、大きなチャレンジを開始したからです。  一番大きなキーワードは「支援」という言葉でした。それまで熱心に教師主導型の教育技術の開発・普及をしてきた先生たちの動きがピタッと止まります。代わりに子ども主導型の教育技術の開発・普及を行ってきた先生たちの動きが勢いづきました。授業で言うと「生活科」と「総合的学習」の導入です。  この大きな変化が完全に定着をしたかというと、もちろんそうではありません。その後はゆり返し、ゆり戻しの動きが起こって、今はむしろ教師主導型の教育技術の勢いの方が強いくらいです。しかし、一度、大きな曲がり角を曲がって、子ども主導型の教育技術の開発・普及を行う先生方が表舞台に出たことの意味は決して小さくありません。教師主導ではない教育技術のあることが白日の下にさらされたからです。

広井のラジオ番組の発言のように、もう1990年代後半の当時のオタク産業では生活科が馬鹿にされてたはず。


90年代当時からもう、教育学者と文部省がバカにされてて、なんか机上の空論みたいなのを教育学者が言ってるというイメージで、それを文部省が指導要領に取り入れる、みたいに馬鹿にされてた記憶。少なくともオタク産業ではそういうイメージ。

ほら、エヴァンゲリオンでも作中のマグマダイバーの回で、日本のカリキュラムがおっくれてーるーみたいにアスカラングレーから馬鹿にされてたじゃないですか。

数学者などの出した1999年の『分数が出来ない大学生』シリーズよりも前に、もっと前から教育学者がバカにされてたという証拠が広井王子のラジオ番組。


なお、「総合的な学習の時間」は小学3年生以上を対象にしており、生活科は小学1・2年生を対象にしており[2]、対象の学年が異なる。このため、「生活科と総合学習が重複している」という指摘は制度的には当たらない(※ 生活科と総合学習が、重複だと批判する意見が世の中にはある)。


谷田貝公昭・石橋哲也 監修『コンパクト版 新保育者シリーズ 新版 教育原理』(一藝社)、2018年3月30日 初版 第1刷 発行、P.12

いわゆる、オオカミ少女のアマラとカマラの話を紹介しており、

ここで思い出されるのは、幼い時にオオカミにさらわれた人の子が、後年見いだされたときは、四足で歩行し、その習性は狼と変わらなかったと言われ

この報告は、ゲゼル(Gesell, Arnord, 1880 ~ 1961)によって『狼にそだてられた子』(原題は『狼の子と人間の子』="wo;f child and human child")と題して、一冊の本にまとめられている。


ツッコミは、これは作り話だと現代では言われている。『「オオカミ少女・アマラとカマラ」は嘘だった!?』, 2014年01月25日(土)20:59

彼女らはシング牧師の庇護のもと、次第に人間社会に馴染み人間らしさを取り戻しつつあったが、数年後に病死してしまったという。

 現代でも適切な保護・教育を受けられず育った子供の事例として取り上げられる『アマラとカマラ』だが、この話の信頼性については大きな疑問符がつけられる。まず、彼女たちの保護された状況に齟齬が見られること、彼女たちの身体的特徴のうち一部はシング牧師や彼の近縁者からしか報告されていないこと。また人間が狼達と共生するには生物学的な壁があるため不可能とする説もある。例えば狼は日に50キロもの距離を群れで走って移動する。これに野生動物に比べ遥かに身体能力に劣る人間の乳児ないしは幼児が同行できるとは考えられない、などだ。


 更に彼女たちを納めたスチール写真に『年代や月日、場所が違う筈なのに背景や彼女たちの背格好が酷似している』ものが複数存在している事も判明している。

 この事から、現在では彼女たちは先天性の身体・精神的障害を患い棄てられた孤児であり、野生児の背景は教会への援助を得るためにシング牧師らが誇張したものがそのまま伝わってしまったと考えられている。(山口敏太郎事務所)

ほか、もう2008年に下記の題名の書籍が出版されている。 鈴木 光太郎 著『オオカミ少女はいなかった 心理学の神話をめぐる冒険』2008/10/3

上記書籍『オオカミ少女はいなかった 心理学の神話をめぐる冒険』の発刊の2008年 から 2018年『コンパクト版 新保育者シリーズ 新版 教育原理』発刊までの10年間、教育学はなんも進歩してきてこなかったのだなあ。

「なるほど、教育学では査読とか機能してないんだなあ」と実感した。


2008年から1年間くらいなら見落とすのも仕方ないかもしれないけど、しかし10年も期間があって見落とすのは、元から教育学の体制の問題がある。



【公式】HOME広島ニュース『【子育てと学ぶ】専門家「教育予算は十分と言えない」教員不足解消に一役?複業先生とは…(カミコとマナブ)』2023/10/29

この動画で、教育予算を増やすべきだと言っている。


以下、批判として、別サイトから引用。

『出口治明の「死ぬまで勉強」 第9回 日本の教育予算が低いわけ』2018/10/25

「給与は上がらないのに、税金や年金などの負担が増えている」と実感している人は少なくないでしょう。しかし、世界的に見ると、じつは日本の国民負担率(国民所得に対する、租税負担と社会保障負担の合計の割合)は低いほうです。  OECDの統計によると、対象34ヵ国のうち日本の国民負担率は下から7番目で42.6%。それに対して、フランス、ベルギー、デンマーク、イタリア、フィンランドなどの欧州諸国は60%を超えている国が多く、スウェーデン、ノルウェーなども同じような水準です。

税金を増やすと文句を言うくせに、教育費を増やせと文句を言うテレビ広島って乞食(こじき)だよね。視聴者の広島県民が乞食なんだろうな。

「高福祉、高負担」って習ってないのかね?

社会保険料や国民健康保険料に文句を言うようなマスコミ視聴者連中のコジキどもが、公教育のための増税に文句を言わないはずはない。

あ、思いついた。「教育国民保険」みたいなのを作って(「国民教育」だと日本史とか国語の教育みたいな別の意味になってしまうので「教育国民」の語順で)、全国民から一律に一定額を徴収すべきだわ。月5000円~1万円くらいで。そして、乞食どもに負担をさせるべきだわ。

消費税とかを財源にすんじゃなくって、保険税にすべきだわ。そして乞食に負担させろ。


『検証・学歴の効用』でも、民意を批判しており、高福祉を政府に望むくせに高負担したがらないダブルスタンダードな態度の民意は批判されている[3]

[4]

P228から始まる章『4 教育を軽視する社会 地に足がつかない「北欧好き」』で、(※ もうこの時点で日本の北欧かぶれを批判する章タイトルである)

日本人は、学齢期の子どもがいるかどうかで、教育の公財政支出を望むかどうかが変わる事実を、アンケート結果をもとにつきとめ、

P.230

中学生以下の子どもがいれば学校教育施策への公財政支出を重要だというが、子どもが中学を卒業してしまえば、その思いは冷める。

とある。さらに

P.232

単に北欧のイメージが好きで、教育や社会保障を充実してほしいものの、税金の負担には賛成できないというレベルの結果であるようにもみえる。

とある。


ああ、思い出した。法政大に通ってたとき、私はモグリで教職課程の講義を聞いてたんだけど、

教職課程の教員が、授業で「少人数制教育とか色々と言ってる評論家が世間にいるけど、でも国はいま財政難だから、教師の人手は増えない見込みが高いですよ」ってなことをゼロ年代にもう言ってたわ。

法政大なんて革マル派の拠点のサヨク大学で有名なのに、その大学ですらもうゼロ年代に予想されてる教育費の財源の問題に2020年過ぎにもなって気づかない田舎者の地方ローカル放送局のテレビ視聴者って、本当に情報弱者すぎるよな。

清貧ヅラした田舎者。


  • ミネルヴァ書房、『よくわかる教育学言論』、章節 VII-5 『隠されたカリキュラム』P.100. 批判


これは著者への批判ではなく、学会への批判なのだが、

「隠されたカリキュラム」という用語があって、学校での規律などの教育を意図的に隠していると界隈は言うのだが、

そもそも、平成以降の日本の学校は隠して無くね? って思う。(19世紀とか第二次世界大戦前とかは、どうか知らない)

規則(Rules)・規制(Regulations)・慣例(Routines)の3Rが「隠されたカリキュラム」だというのだが。(もともとは「潜在的カリキュラム」という言い回しだった。「見えないカリキュラム」ともいう流儀もある。)


少なくとも、平成以降の高校以上では隠してない。だって学校説明会とかで、校則や学風や校風といった規則・規制・慣例を明示してるじゃないですか?

その規律とかを、直接は教わらずに、雰囲気から学ぶように要求されてるなら、隠れたカリキュラムと言えるかもしれないけど、

でも、それ、実態とあってなくね? 学校説明会とかで明示されるし、入学後も生徒手帳とかに校則が明示されてたはず。


高校以前の教育でも、結構な規律が、幼稚園~小中学校で、教育者から口頭で言われたと思うが?

「授業中に私語をするな」とか、「イジメをするなとか」、「物を盗むな」とか犯罪するな系とか、「ツメは定期的に切れ」とか、「同級生を叩くな」とか、「〇〇するな~」とか、普通に言われたり他人が言われたのを見た記憶がある。


ジェンダーうんぬんを同著では言及するが、エビデンス的には普通に口で教師や親などから指導されてるよね? 男子は女子トイレに入るなとか幼稚園とかで習うだろうし、男なら髪を伸ばすなとか親に言われてるはず。

中学入学以降なら、校則とかで、頭髪検査とか明示されてるし(されてた)。

規律が明示されてるというエビデンスなら枚挙にある。「隠されたカリキュラム」は2000年以降、隠されてない。元の言い方の「潜在的カリキュラム」と言うなら反論は無い。

「見えないカリキュラム」ですなく、もはや校則ですらネットの発達で世間には見えている。私立なんか、自発的に校則や校風などを明示して宣伝しているほどだ。


どうも「隠されたカリキュラム論」、フェミニズム社会学と同レベルの、エビデンス無視の陰謀論っぽい。

結局、フェミ連中みたいな左翼連中が、自分たちの要求が世間に通らないのを、社会の洗脳のせいだと言いたくて、それを時代遅れの「隠されたカリキュラム」論を使って正当化してるだけでしょ。


だから、この本でも

男女別の名簿や男性中心的な教科書の内容、性別による教師の対応の違いなどが、性についてのステレオタイプな見方を隠されたメッセージとして伝えていると指摘しています。

とジェンダー論を記述しているんであって(P.107)。


あと、もひとつツッコミ。名簿って、隠れてないよね。

私、小中高で保健委員とかしてたから、名簿を毎日見たりしたよ。仮に保健委員をしなくっても、卒業アルバムとかで名簿と同等の卒業生一覧を見れるはず。

あと、2010年以降、もう多くの小中高で、名簿は混合になってるか、少なくとも卒業アルバムの生徒一覧は男女混合になっているし、授業中の座席の配置も混合になっている。座席については学校見学とかを見に行けば見れるはずだし、見学をいちいち見なくてもネットにある学校紹介の動画とかで見れる。


いやまあ、著者がそう言ってるんじゃなくって、教育学界隈がそう言ってるんで、著者に文句を言っても仕方ないんだが。

とりあえず批判として、教育学界隈は、論理構成が浅い、甘い。理系だったら、けちょんけちょんに批判されてるような論理構成。

卒業研究とかで教授にツッコまれまくるアレ。理系なら「素人質問で恐縮ですが」ってツッコまれるアレ。教育学部はツッコミどころが違うんだろうな。

論理構成を見てるんじゃんくって、お作法を守ってるかを見てるという。それこそ、批判されてる「隠れたカリキュラム」じゃないですか。


あ、『悪口は自己紹介』っていう格言があるね。「隠されたカリキュラム」論は、教育学部の自己紹介、教育学界隈の自己紹介って事か。納得。

エビデンス検証の論理構成の甘い、エビデンスよりも価値判断重視の姿勢こそが、悪い意味での「隠されたカリキュラム」だと批判しておく。


「男性中心的な教科書の内容」って記述も、理系批判っぽいなと、私は疑っている。もちろん実際は理系こそ、キュリー夫人の例でも分かるように実力主義なのだが(数学者ネーターとかでも良い)。

だって、社会科とか、もうかなり前から中高の教科書で、ジェンダーとかフェミニズムとかの内容を紹介してるよな。それこそ私が子供だった2001年ごろからもう、当時まだ「ジェンダー」という用語こそ中学教科書になくても、女性の権利がどうのこうのとか教科書で言われてて、大正時代の平塚らいちょう がどうのこうのとか教育されてたし。

フェミイデオロギーに従わない理系を、「男性中心的」だと批判している、論理のすり替えではないか。


いやもう、フェミ社会学を筆頭とする社会学の印象論は、文系学問のガン。


「隠されたカリキュラム」の存在は、家庭や地域の経済的不平等の視点からだけではなく

経済的不平等うんぬんは、そのカリキュラム内容が地域差がある場合に生じうるのであって、隠れていても全国統一なら、別に格差要因にならないよね。

名門私立高校の校風なんて、まさに潜在的カリキュラムだけど、隠していないし、でも全国統一化された教育じゃないから庶民階級との格差要因なわけで。

教育学界隈の主張はこのように、エビデンスに反している。



P103

公立中高一貫校について、

「高校受験がなくなり、ゆとりある学校生活が送れる」というメリットが強調され、教育課程の作り方・実行の仕方次第で、大学受験のためではない教育が可能となる、という実証データも得られました。

↑チョー詭弁。根拠は

EduA編集部『公立中高一貫校の難関国立大合格率ランキング、トップは県立千葉高校 大学通信が調査』2022.10.28

プレジデントFamily 中学受験大百科2023『「親孝行の子供よ、ありがとう」小石川中教、県千葉、西京…公立中高一貫校から難関国立大合格率トップ50校 』 2023/07/13 11:00


そもそもこいつの理屈だと、高校受験のある工業高校も商業高校も中高一貫校ではないので、工業高校も商業高校も大学受験のための教育となってしまうが。

コイツ、内心はかなり高卒就職を差別しており、読んでてすげえ腹立った。

このクソ偽善者が。

高専とか無視してるのも疑問。高専だって、大学2年あたりの内容まで一貫だが、その後は編集試験はあるぞ。

高校受験のある総合科高校とかも無視してるし。


P117

もちろん、全国の学校における「学力」の向上に、家庭の教育力が大きな意味をもつことは、文部科学省の全国学力・学習状況調査などによっても、成績上位の秋田県の秋田県での家庭学習の果たす役割の重視などで明らかにされてきましたが、それのみでなく、家庭における人格形成がその子どもの学力の向上に役立っていることも確かです。


全国学力テストは、私立の半分は参加していない。

また、科目は国語と数学(小学生は算数)だけである。


下記のYahoo知恵袋の批判が、的確だろう。

Yahoo知恵袋『全国学力テストで秋田県が1位の理由がわかりますか?』


kjh********さん

2010/1/6 20:34 簡単なことです。

首都圏をはじめ、都会になればなるほど多くの人が小学校や中学校のうちから私立に進学します。つまり優秀な人は私立などに進学し、そうでない人が公立に残ります。多くの私立では学力テストに参加しませんので必然的に受験が定着してない田舎の秋田県などが上位になります。

冷静に考えて優秀な学校がなく、学習環境が劣悪な秋田県が実力ありきで一位ということはあり得ません。学力テスト自体が今の教育現場を考慮してないものということですね。


他サイトのPDFでは、下記のような批判もある

戸澤幾子 『全国学力調査の見直し』 2010. 6

平成 21 年度はすべての公立小中学校が参加する中で、私立学校の参 加率は低かった。東京都など、私立中学校への進学者が多い地域では、調査結果から地域 の実態がわかりにくく、調査の信頼性にも影響すると言われる。



P.51

まず、高校生の勉強意欲の低下を示す調査 を挙げたい。日本青少年研究所(2009)が行 った、高校生の国際比較調査の結果によると、 日本の高校生の 1 日の勉強時間は、10年前と 比較して1.5時間ほど減少している。また、 学校の勉強を「きつい」(「とてもきつい」+ 「まあきつい」)と感じている高校生は約 8 割 で、調査対象 4 か国(日本、アメリカ、中国、 韓国)中もっとも多かった。日本の高校生の 勉強への意欲が、際立って低いことがわかる。

↑ それ、低いのは家庭での自発的な予習復習の時間であって、「意欲」の高低じゃないよね。話題をスリかえんなよ。

「高校生は家庭学習をすべきだ」という、単なるお前のイデオロギーでしかない。


学校の勉強の「きつい」というのも、それは意欲と関係ないよね。

たとえばスポーツ選手は練習がきついけど頑張るじゃん。同様、「勉強がきついけど頑張りたい」みたいな子だっているわけで。「きつい」の回答者のパーセントの割合は、なにも意欲の証明になってない。

この人、スポーツとかしたことないの?


Benesse教育研究開発センター(2005) の調査では、「勉強しようという気持ちがわか ない」という質問への回答を学年別に示して いる。それによると、「そう」(「とてもそう」+ 「そう」)と答える生徒は、学年が上がるにつ れて増加し、高校生でピークに達する(小学生 で36.2%、中学生で56.3%、高校生で59.6%)。 また、同調査には、高校生の家庭での平均学 習時間が示されている。進学校に通う生徒が 平日85.7分、休日120.5分であるのに対し、進 路多様校に通う生徒は平日17.4分、休日23.6 分であり、高校偏差値層による大きな開きが あることがわかる。 以上の調査の結果から、高校生の勉強意欲 の低下が示された。

示されてねえよ。フザけてんのか。

示されたのは、「家庭学習をしたい」という気持ちの低さだ。

部分集合と全体集合とをスリかえんなよ。



  • 有斐閣アルマ 『新しい時代の教育方法』批判

P169批判 『第7章 授業をどうデザインするか』への批判


「これは、工場の組み立てラインのようなイメージではなく、1つの芸術作品を制作するというイメージで授業をとらえるものである。」

↑ ライン設計者は設計(design)してるし、芸術家はデザイナーではなくアーティストだし、アーティストの中にはグラフィックデザインなどの分野を嫌う人すらいる(知人)。

「そこでは設計図通りに授業が進むことをあまり考えてない」

↑ 「設計」は英語でdesign だと分からない業界が教育学か。英和辞典を調べられない業界に教育を語られても。

授業が計画通りに進まないこともあるという意見自体は、まあ、特に反対はしない。


「教師用指導者や市販のワークシートや授業のマニュアルに従って、授業を進めていくとしたら、それは授業のデザインとはいわない。」

ルーティンワークは悪いのだろうか? ワーカーはデザイナーより職業差別されるべきなのだろうか?

また、医者の多くはルーティンワーカーではないだろうか? 医者が標準医療を無視したら社会悪では?

土木や電力など社会のインフラは、デザイナー(設計者)以外の多くのメンテナンス技術者によって支えられている。ほぼルーティンワーカーである。


著者の職業差別が透けて見えて、かなり腹立つ。


P171

国語について


「教材文が扱っている題材に関する知識や筆者の主張が学習内容になり、理科だか社会科だかわからない授業になることもあった」

と言ってるが、そういう歴史もあったのかもしれないが、しかし直前ページの著者のデザイン論から論理が飛躍している。


P172

「要するに、国語科の教科内容が曖昧だったのである。」

↑ それ、デザインと関係ないよね。文科省あたりに不満を言うことはデザインとは言わないよ。不満を解決できそうな具体案を提案することがデザインだよ。それは高校の情報Iの情報デザインの単元でも習う事だと思うが。

ともかく、論理構成がおかしい。個々の言ってる内容自体には、特に反論は無いが、論理構成が全体として飛躍ぎみ。


P176

「単なる詰込みやドリルでは知識・技術が身につくことはない」

↑ エビデンスに反しており、間違っている。 反例は漢字ドリルや算数ドリルなど、いくつもある。著者の願望でしかない。スポーツの素振り、美術でもデッサンやスケッチを多く描いて手で覚えるのを無視。

高校あたりからの教育なら、教育内容の抽象度が増してくるのでドリル等の有効性が下がる可能性も考えられるが、だからといって小中高ひっくるめて「身につくことはない」と断言できるものではないだろう。

身についてないのは教育学界隈の論理的思考力だろう。


P178

『古谷教諭は子どもに「知の喜び」「知的好奇心」を味わわせたいと語っていた』

↑ だったらドリルでも知的好奇心を味わえればいいんじゃないか。先ほどのドリル批判の主張の証明になってない。

漢字ドリルに知的好奇心を感じる子どもとか、ガン無視か。

ああ、ゆとり教育時代に、数学好きの学生がガン無視されてたのを思い出して、なんか腹が立ってきた。



P180

『「勉強」は往々にして入学試験や学力テストのための「ごまかし勉強」(藤澤,2002)に陥ることがある』

定期試験では丸暗記は効くけど、入試では効きづらいのが実態。

理系の大学受験の場合、中堅校以上では入学試験で丸暗記の勉強では通用しないのが普通。文章題が一切解けないので。

高校受験でも、一定レベル以上の偏差値の高校では、丸暗記みたいなのは通用しない。国語の現代文と数学で沈没するので。

定期試験だったら授業で習ったことを丸暗記できるが、入試は定期試験ではないので。


P.180

「教室という空間は、多くの子どもが集まって学ぶところであるから、当然、対話的・共同的な学びあいが前提である。」

前提ではない。お前は満員電車の中で対話しあうのか? 会社の研修だって、社員どうしで議論なんかしないが、それでも学習成果を出している。議論というか打合せとか会議とかをすることはある。

著者は論理的に飛躍している。

私が言いかえるなら、「せっかく学校には学力が同程度の多くの子どもが集まっているのだから、家庭ではできない、対話的・共同的な学びあいの機会も設けたほうがいいだろう」くらいの言い回しなら分かる。


P186

「単なる記憶や受動的理解ではなく」

と言うが、しかし語学などの学習は暗記の比率が高くないだろうか?

法学などでも、事務系の地方公務員あたりになるなら、法律の内容は暗記せざるを得ないだろう。

医学も、解剖学などは暗記せざるを得ない内容である。

単なる暗記をしなければいけない分野もある。

この人は「ワーチ」と言う学者さんを引用して述べてるが、その人がどんなに偉いか知らないが、偉い人の理論だろうが現実と合ってないなら、その理論はマチガイなんだよ。

絵の練習法と同じで、理論通りに練習してうまくならないなら、その理論は間違ってるんだよ。


P190

「生きて働く力」 

「生きて働く力」を教えるために暗記はダメみたいな事を言うが、しかし実学を教えれば済むだけではないだろうか?


P190

「席に述べたように、プログラム型の系統学習(一定の科学的な知識・技術を発達段階に沿って学習させる教師主導タイプ)かプロジェクト型の問題解決学習(子どもの興味・関心をもとに学習課題を決めて追求する学習者中心タイプ)かという二元論ではなく、それぞれの長所を生かすような統合型学習システムの構築があらためて確認できる」 

→ 読んだが確認できませんでした。直前の文章から、論理の飛躍がある。「確認できるものであってほしい」という著者の願望では? 

それとも、先って別の場所? 先ってどこ?


P190

「実践的にいうと、」 (中略)「単調で機械的なドリル学習で技術を身につけたりするのではなく」


↑ 間違っている。反例は、少なくとも小学校レベルの国語の漢字学習など、ドリル的に訓練するしかない。英単語もほぼ同様。そういう実例を無視してる時点で、実践的でないだろう。


P202 ここから第8章

P202

『各種の実態調査によると、「学びからの逃走」と言われる事態が進行している。「国語ぎらい」や「理数離れ」を示すデータもある』

↑ そういう論文もあるんだろうけど、しかし大学入試の実態では、2001年以降、理系学部の難度はどんどん上がったのが現実では?

高校の理系コースを選択する生徒も増えたと聞くし。少なくとも私の地元がそう。

過去の論文と実態があってないなら、その過去の論文の解釈が間違ってるだけでは?

行動経済学とかでいう「その人の言ってる事とやってる事が違う場合、本音はやってる事のほうだ」っていうアレ。


理論と現実が合わないなら、理論を修正すべきでは?

なのに現実を修正するのは、危険思想では? 予言の実行部隊(オウム真理教)じゃあるまいし。

あと、大学進学率は、80年代から2010年くらいまで、たしか上昇傾向。


まあ、あまりこの章の本質ではない、単なる前書きなので、こんくらいにしとく。その後の主張内容は、まあ当分のページは、特に反対は無い。



P.214

「ただし、注意しなくてならないのは、一斉授業からグループ学習へという学習形態の転換を意味しているものではないということである。一斉授業の形態でも、全員参加の協同的な学びあいの授業は可能である。」

文科省か何かの『学びあい』プロパガンダに辻褄合わせするための論法でしかない。

どう授業運営しようが、生徒どうしがグループ学習で教えあってる時間は、教師は一斉授業の講義をできない時間である。なぜなら決して聖徳太子みたいに複数の人の話を同時に聞けないのが一般人だから。私も含めて。

もし反例があるとするなら(背理法)、生徒全員が聖徳太子みたいに7人の意見を同時に聞けるなら、生徒と教師の話を同時に聞けるかもしれないので一斉授業しながらグループ学習できるだろうが(皮肉)。

しかし、そんな聖徳太子だらけの天才エリート学校の話を聞いたことない。

なお、個人的な意見としては、別に一斉授業と生徒同士のグループ学習とを併存させることには、別に反対しない。論法がおかしい、プロパガンダのつじつま合わせだと批判してるだけ。


P216~P217

批判的な文脈で、(授業でグループ学習などの)

「話し合いが盛り上がってきても、課題の追究が佳境を迎えても、時間がくれば授業は即終了ということになる。」

とある

次のページで改革案の実例として

「モジュール学習はそうした試みの一つであり」~(中略)~「1日の英語の授業(50分)を2日に分けて25分で行うといった事例がある。」

とある

↑これは思考回路が矛盾してないか? 議論が盛り上がってもっと長く授業を続けるべきだというような文脈を話した次のページでの「モジュール学習」では、英語の1日あたりの授業時間が短くなって分散されているからである。


単に伝統的なカリキュラム運営を批判したいだけの難癖でしかない。

国会が野党が与党の粗さがしをして、自党のことを棚に上げて批判して、ブーメランになってるアレと同じ。


なお、同 P.216で「こうした形式的で堅苦しい「制度の時間」ではなく」 

と著者は批判しているが、しかし制度変更をして1日の英語の時間を変更して 50 → 25 +25 に変えただけにすぎないので、あいかわらず制度は続いている。


ともかく、著者の論理構成がおかしい。

なお、私の意見としては、モジュール学習という教育法があること自体は別に批判しない。


P225

『「教育評価」(evaluation)を提唱したタイラーは、』(中略)『学習活動の改善を目指す行為であると規定した(タイラー、1978)』
『しかしながら、第二次世界大戦後に日本で採用されたのは、タイラーとは対立する立場といえる「教育測定」(measurement)運動によって生み出された相対評価であった』

↑ とりあえず、理系とか経営学に関するかぎり、測定と改善運動は排反しないんで。工場のQC運動とかトヨタ式カイゼンとかどうなる。ああ、ここでも、この本の執筆陣たちの工場労働者に対する職業差別が・・・。 つうか、情報IのPDCAサイクルの教育でも、改善と測定を両立させてるんだが・・・。

いやまあ、タイラーさんとやらは、測定を批判してたのかもしれないけどさ。

何度も言うが、理論と現実が合わないなら、その理論は修正されるべきでしかない。

理論に合わせて現実を変えるのは危険思想。


P226

「第2は、相対評価のもとでは、「4」や「5」をとろうとすると、もともと「4」や「5」をとっていた者を事実上引きずりおろさなければならないという、イス取りゲームのような排他的な競争が常態化する。」

↑ 少なくとも、引きずり下ろしは常態化してません。たとえばマラソン陸上などの多数相手のスポーツの順位も相対評価だが(絶対評価だとしたら、お手手つないでゴールインになってしまう)、(そもそも反則だが)引きずり下ろしは起きてない。

相手が複数なので、1人引きずりおろしても、他に何人も相手が無数にいるので、勝てないからである。


なお、このアイデアは、岡田斗司夫が90年代に対談集『マジメな話』で語ったような反論。90年代から20年以上、いったい文系の学者は何をしてきたのか。

格闘技のような1対1の「勝負」だったら相手を引きずりおろして勝てるけど、陸上のような「競争」では相手の一人を引きずりおろしても残り多数がいるので勝てないので、だから競争思考の人のほうが健全だと岡田は言っている。

頭の健全じゃない人は、「競争」思考ではなく「勝負」思考だと岡田は言っていた。

※ ただし、他文献『よくわかる教育心理学 第2版』(中澤潤 著、ミネルヴァ書房)によると,教育学の用語では、1対1など少数参加者の勝負の場合でも「競争」に含める。つまり、2名しか参加しない場合でも(1対1の競技参加者は合計2名)、「競争」という[5]
競技参加者を変数 n とすると、n=2の場合が「勝負」、n≧2の場合が「競争」という事になろうか。nが多い場合だけを表す専用の用語が無いのが現状。
海外の論文でも、そういう教育学的な使い方で「競争」(competition)というので、日本人に文句を言っても仕方ない。海外では、協同と競争 (corporation and competition)、というダジャレになってる。
Relationship between student attitudes about cooperation and competition and attitudes toward schooling. Citation. Johnson, D. W., & Ahlgren, A. (1976). という論文がある(有料)。
まあ、海外の教育学者がオタキング岡田よりも馬鹿、という事だろう。

「イス取りゲーム」であるというのは、まあ同意。

そもそもイス取りゲームで引きずり下ろしはしないし。私の幼稚園時代がそうだった。


個人的には、指導要領で要求している最低限レベルの常識的内容については絶対評価をして、それ以上の発展的な内容の知識については相対評価をすれば済むのでは?と思ってる。

幼稚園のイス取りゲームとかそうでしょ。幼稚園のイス取りゲームは勝者がいるんだから相対評価ですよ。でも幼稚園全体では相対評価の通知表とか出さないでしょ。


あと、相対評価ではなく絶対評価をしても競争は別になくならないのは、大学受験や高校受験とかで英検の級とかTOEICスコアが私大とかで評価されるのを見れば分かる通り。

結局、イス取りゲームのように座れるイスの数が決まってる以上、それ以上の志望者が来たら競争になるのである。

このような反論はすでに2001年あたりに「分数が出来ない大学生」シリーズで語られていたのだが、自説に都合の悪いエビデンスは隠すんですか? 誠実じゃないねえ。


このように、教育学界隈では謬節(びゅうせつ)が淘汰されない。だから教育学の界隈そのものを批判する必要がある。

過ち(あやまち)て改めざる、是(これ)を過ちと謂う(いう)


そもそもオリンピックとか、歴史的には戦争の代わりなんだから、競争だし相対評価でしょ。この手の教育学者は、スポーツ文化とかどう思ってるんだろう。やはり不利なエビデンスを隠すのが教育学界隈か。

あと「競争がアカン」ってのは、それこそ江戸時代~明治時代の役人の発想ですよ。小室直樹の本にそう書いてある。明治時代、福沢諭吉が「競争」という言葉を著書で使ったら、役人かなんかが「争」という字が好ましくないってさ。で、官僚主義を批判する福沢は、だからこそ競争という言葉を使い続けたとさ。

官僚主義を批判してるつもりで競争を批判する者こそ、じつは江戸時代的な官僚主義だというオチ。


ほか

もう1999年から、小説家の村上龍の対談集『最前線』で、対談相手の「プロ教師の会」の人たちは(当時、彼らが流行ってた)、教育学者を信用していない。

当時、対談集では、プロ教師の会の人たちは、教育学者を「ろくに教壇に立ったことない」みたいに批判していた。

私が言いかえるなら、正しくは、「教育学者は、自説が間違ってても責任を取る気がない」だろうな。だから不利なエビデンスを無視する教育学者だらけなわけだろう。

  1. ^ 『「部活動」の起源と発展に関する教育史的研究』、2016年度山本ゼミ共同研究報告書 慶應義塾大学文学部教育学専攻山本研究会 、P10
  2. ^ 中澤潤 著『よくわかる教育心理学 第2版』、ミネルヴァ書房、2022年3月31日 第2版 第1刷 発行、P107
  3. ^ 濱中淳子 著『検証・学歴の効用』、勁草出版、2013年6月25日 第1版 第1刷 発行、P228~P232
  4. ^ 濱中淳子 著『検証・学歴の効用』、勁草出版、2013年6月25日 第1版 第1刷 発行
  5. ^ 中澤潤 著『よくわかる教育心理学 第2版』、ミネルヴァ書房、2022年3月31日 第2版 第1刷 発行、P104