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戦国時代とは応仁の乱後から安土桃山時代に入る前までを指す[要出典]ことが大半だが、江戸時代の始まる1603年までを戦国時代として安土桃山時代の存在を無視する場合もある[要出典]。
- 下剋上
- 応仁の乱後、下剋上の風潮が高まっていく[要出典]なかで守護大名に代わり国を治めていた守護代や国人が治めていた国で独立し、天下を統一しようと大名に成長した[要出典]。この大名のことを戦国大名と呼ぶ。
- 戦国大名の出身
- 下剋上によって戦国大名になった例
- 上杉謙信は越後 (新潟県西部) の守護代から
- 毛利元就は安芸 (広島県西部) の国人から中国地方を支配する戦国大名にまで成長した
- 北条早雲は京都から東へ下り堀越公方を滅ぼし関東に勢力をはった。
- 守護大名から実力で戦国大名になった例
戦国大名が自分の力で作り上げた支配地を領国 (分国) と呼び、その支配のことを領国支配と呼ぶ。
- 臣団統制
- 土一揆をおそれた戦国大名は惣の指導者である地侍を家臣に取り込み惣の団結を潰していった。また新しく家臣となった者を組織・監視する為に、有力家臣にあずける寄親・寄子制を採用した。
- 貫高制
- 戦国大名は農民自身の申告によって、農民の持つ土地を把握する差出方式を採用していた。また、その土地を永楽通宝で表される貫高制も多くの分国で採用されて、貫高にみあう軍役を課し、戦国大名の軍事力強化・年貢徴収の確保に役立たせていた。
- 産業政策
- 戦国大名は富国強兵をはかり、積極的に銀山などの鉱山開発を行った。
- 城下町建設
- 概要
- 城下町を中心に、分国内の手工業者や商人を再構成し、領国を1つのまとまりのある経済圏にしようとした。
- 城下町の主な例
- 北条氏の小田原 (神奈川県)
- 大内氏の山口
- 今川氏の府中 (静岡県)
- 楽市・楽座の制
- 城下町では、座の特権や営業税を廃止して誰にでも自由な営業活動を認めた。
- 源流
- 戦国大名は自己の領国を自力で支配する為に、独自の法をつくった。それを'分国法 (家法) という。それらの法には越前朝倉家の朝倉敏景十七ヶ条'や幕府法、国人一揆の取り決め、民間の慣習などが含まれている。
- 特色
- 年貢未納には厳しい制裁を課し、家臣団にも縁座法を適用した。なかでも、喧嘩両成敗法は有名である。これは家臣相互間の物事を自力で解決する中世以来の伝統を否定し、戦国大名の裁定に委ねることにしたものである。
- 地方都市の出現
- 産業・経済の進展は中央の都市だけでなく、地方にも都市を出現させた。
- 門前町と寺内町
- 有名な寺社の前の市場が拡大して門前町が生まれた。これに対し、浄土真宗の力が強い地域では、荒野を買い占めて、そこに浄土真宗の寺院を設け、自由な取引による経済繁栄をはかった。これが寺内町である。
- 港町と宿場町
- 堺 (大阪府) や博多 (福岡県) では、富裕な商工業者が市井を運営する自治的組織をつくっていた。堺では会合衆、博多では年行司と呼んでいる。特に、堺はイタリアのベニスにもたとえられた自治組織として有名である。
- 京都の復興
- 町衆とよばれる富裕な商工業者が応仁の乱の経済的な打撃から立ちあがり、祇園祭の再興に力を尽くした。
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