香港の歴史

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この書籍では中華人民共和国香港特別行政区の歴史を概観する。

現代の香港、ヴィクトリア・ピークからの眺望

地名の由来[編集]

広義の香港は九竜半島新界を含むが、狭義には香港島のみを指す。この香港島南西部に香港仔と呼ばれる場所がある。香木の積出港であったところから命名されたと伝えられ、観光客にはアバディーンとして知られるところである。ここが香港発祥地となる。

香港は中国語(北京語)ではシアンガンと発音する。これを英語で「ホンコン」と呼ぶ由来は、アヘン戦争に遡る。英軍が初めてアバディーン付近に上陸した時、土地の名を知らなかった。そこで地元の民に地名を聞いたところ「ホンコン」と言った。この発音は広東語のもの(ヒョーンゴーン)とも異なり、現地の水上生活者・蛋民の言葉である。

初期の香港[編集]

中国南部、珠江デルタに属する香港地区では5,000年前の新石器時代大湾文化の遺跡がランタオ島や香港島で発見されている。王朝が嶺南(華南)を征服すると、香港地区は中華帝国の支配下に入り、番禺県の管轄となった。331年から756年までは宝安県、757年以降1572年までは東莞県に属している。

代には広州が南海貿易の交易港として繁栄したため、ランタオ島から対岸の東莞を含む地域が「屯門」と呼ばれて文献にしばしば登場するようになった。この頃から香港地区では塩田が開かれ、五代十国南漢時代から真珠採集も行われた。

明代の香港[編集]

1563年朝は香港地区の南頭に水軍基地を設置して南頭寨と称し、1565年には参将を置いて南頭寨を統括させた。 南頭寨には大小戦船53隻、官兵1486人が置かれ、1591年以後は戦船112隻,官兵及雜役2008人に増加した。 1552年頃から九龍の名が文献に現れ、その後香港島の地名も見え始める。1573年には新安県が新設され、県治は南頭に置かれた。 新設時の新安県は約34,000人の人口が記録されている。

1514年からポルトガル人が来航して屯門を占拠したため、広東海道副使・汪鋐が自から督師してポルトガル人を駆逐する事件があった。 その後、ポルトガル人は寧波沖のリャンポー(双嶼島)に移り、やがてマカオに定着することになる。

清代の香港[編集]

代に入って広州が開港すると、1699年からイギリス東インド会社などが来航するようになり、1711年には広州に英国商館が開設されている。 イギリスは次第に中国茶を大量に輸入するようになり、貿易代金決済のためにインドからアヘンを中国に輸出し始めた。 アヘンの輸入を規制しようとする朝政府とイギリスの争いが起こり、1839年第一次アヘン戦争が勃発、 1841年1月20日チャールズ・エリオット大佐率いる英国軍は香港島を占領、1842年に締結された南京条約で香港島は英国に永遠に割譲された。

英領植民地[編集]

1843年6月、サー・ヘンリー・ポッティンジャーが初代香港総督に就任して英国の統治がはじまったが、1856年には第二次アヘン戦争が再発し、1860年に締結された北京条約で九龍半島も英国に割譲される。 西欧列強による中国の半植民地化も過程で、英国は清政府に迫り1898年7月1日から九竜以北、深圳河以南の新九竜及び新界地域の租借に成功した。 この地域の租借期限は99年、1997年6月30日午後12時を以って切れることになっていた。

イギリス資本主義の拠点となった香港では19世紀末から20世紀初にかけて南中国貿易の基地として発展する。1884年にはハッピーバレーにロイヤル香港ジョッキー・クラブ(競馬場)が建設されて英人の社交場となり、1877年香港西医書院(香港医科大学)が創立され、1910年には総合大学である香港大学に発展する。経済的には1865年創設の香港上海銀行が極東最大の銀行に発展し、地域通貨として初期には銀貨が使用されたが、1935年には香港ドルが発券されている。1928年成立した南京国民政府不平等条約をなんとか解消しようとしたが、イギリスは応じなかった。当時、中国と新界の国境線は開放されており、中国人は自由に行き来できた。

日本の占領[編集]

1941年12月、太平洋戦争が勃発すると、酒井隆中将指揮下の日本第28軍が香港に進攻を開始し、 同年12月25日香港総督マーク・ヤングは九竜のペニンシュラー・ホテルに出向き、日本軍に降伏した。


英領香港を占領した日本は当初、酒井中将を長官とする香港軍政庁を設置し、1942年2月には磯谷廉介中将を香港総督に任命して軍政を行った。 戦時体制化、中国本土との貿易は急低下し、香港は経済的苦境に立たされる。日本軍は軍票を発行してインフレを起こし、香港経済を疲弊させた。 日本軍は香港住民に皇民化政策を実施し、英語の使用を禁止して、日本語を強制した。また、日本軍より虐殺と強姦も多発していた。占領下の香港から70万人前後の中国人住民が中国本土に退去している。 今なお軍票問題が残されている。

戦後の香港[編集]

戦後、国際連合安全保障理事会常任理事国となった国民党政府は英国に香港返還を求めたが、間もなく国共内戦が始まったため不調に終わり、内戦や共産主義を避けた多数の中国人が本土から香港に逃れ、廉価な労働力を提供するとともに、上海から技術と資本をもった外国企業がも香港に本拠を移し、このことが香港の経済発展に少なからぬ寄与をした。 中華人民共和国は香港の主権回復を求めず、むしろ英国との国交回復を求めた。 英国のクレメント・アトリー政権は早くも1950年に中華人民共和国を国家承認した。これは西側諸国としては最も早い新中国承認であった。 間もなく朝鮮戦争に中国が介入して、世界から孤立すると、香港が新中国にとって西側世界との唯一の窓口となった。

香港政庁は古典的な自由放任政策を採用して、政府規制を極力押さえ、税率を低くして産業育成を図った。このため、繊維産業を中心とする輸出型の軽工業が発達し、李嘉誠のような企業家も出てきた。中国貿易の中継貿易港としても発展し、香港はやがてシンガポール台湾韓国とともにアジア四龍と呼ばれる経済発展を遂げる。

1967年文化大革命が起こると、香港でもその影響下に暴動が発生し、紅衛兵深圳方面から越境し、香港警察と銃撃戦になることもあったが、間もなく周恩来が長期的な利益から香港を回収しない方針を明らかにし、香港暴動は沈静化した。 1970年代に入ると、租借地新界の租借期限が次第に近付いてくるため、英国政府は新界租借の延長を中国に求めたが、中国は応じなかった。しかし、この頃には租借期限問題にどのような結末を付けるかまだ誰にも予測できなかった。

中英交渉[編集]

(ここでは「中国」は北京当局、すなわち中華共和国を表す)

1980年代に中国の改革開放政策が進展し、香港の製造業は国境を越えて中国側に進出、香港は金融、商業、観光都市となっていった。 マーガレット・サッチャー首相は英国が引き続き香港を管理できるよう求めていたが、中国は「港人治港」を要求してこれに応じず、 鄧小平はサッチャー首相に英国がどうしても応じない場合は武力行使もありうることを示唆した。サッチャーは鄧小平との会談を終えて人民大会堂を出る時、足元がふらついたという。

1984年12月19日,中英双方が署名した中英共同声明が発表され、英国は1997年7月1日に香港の主権を中国に返還し、 香港は中華人民共和国の一特別行政区となることが明らかにされた。 この中で中国政府は鄧小平が提示した「一国両制」政策をもとに社会主義政策を将来50年にわたって香港で実施しないことを約束した。

この発表は中国の支配を受けることを喜ばない一部の香港住民を不安に落としいれ、英連邦内のカナダオーストラリアへの移民ブームが起こった。 1989年北京六四天安門事件が発生すると、香港では民主派支持の大規模デモが行われ、専制的な中国の本質が明確になったとして再び移民ブームが巻き起こった。大部分の香港移民はトロントバンクーバーシドニーシンガポールに向かった。

香港の返還[編集]

1990年4月4日香港基本法が制定されると、香港人の不安は一応、沈静化した。しかし、1992年クリストファー・パッテンが香港総督として着任すると、返還を前に香港の政治的な民主化を加速させたため、中国との関係が緊張した。ただ、このような政治的動揺や移民の大量流出にもかかわらず、経済的には中国資本の流入によって返還前の香港の不動産市場や株式市場は空前の活況を呈した。

1997年7月1日、香港は正式に英国から中国に返還され、最後の総督パッテンは香港を去った。パッテンが制定した直接選挙制の立法局は北京が成立させた臨時立法会に変わり、中国政府と深い関係にある富豪の董建華が初代香港特別行政区行政長官となった。これまで香港に君臨してきたユニオンジャックエリザベス2世の肖像は姿を消し、五星紅旗が香港に翻った。

返還後の香港[編集]

中国が香港の外交権と軍事権を掌握し、イギリス軍に代わって人民解放軍部隊が香港に進駐、これまでの英語広東語とともに普通話(標準中国語)も香港の公用語となり、学校でも教えられるようになった。しかし、基本的な社会経済制度は変わらず、法体系も英領時代のコモン・ローがそのまま用いられている。

香港返還直後に始まったアジア通貨危機の影響で香港の不動産価格は大暴落し、中国貿易の中継基地としての役割も次第に減少して香港の失業率は上昇、香港の衰退がささやかれた。とりわけ2003年には隣接の広東省が発端となったSARSが香港でも急速に拡大し、2000人が感染、299人が死亡する事態となり、観光客は激減、香港経済は大打撃を受けた。

あまりにも中国寄りで香港市民に不評だった董建華行政長官は2005年3月12日に辞任して中華人民共和国政治協商会議副主席に転じ、曽蔭権が長官代理となった。新行政長官選挙は2005年7月に行われる。また9月には香港再生の期待を背負い、新香港国際空港近くに香港ディズニーランドがオープンした。また、2018年9月23日にはこれまで低頻度の在来線しか無かった香港と中国本土の間に広深港高速鉄道が運行を開始[1]し、香港側の駅である香港西九龍(ほんこんにしかおるーん・Hong Kong West Kowloon)駅では「一地両検」(詳しくはリンク先を参照)が行われるようになった。これに反発する動きが出てきている。

出典[編集]

  1. ^ 鉄道ファン、第694号、2019年2月号、「香港~中国本土を直結 広深港旅客鉄道全線開業!」、三浦一幹、128ページ、2019年7月5日閲覧。