高等学校世界史B/ギリシア世界とオリエント
エーゲ文明
[編集]エーゲ文明
[編集]後述するクレタ文明とミケーネ文明をまとめてエーゲ文明という。
- ミケーネ文明
前1600年ごろから、ギリシア本土で文明が発達し、ミケーネ Mycenae やティリンス Tiryns やピュロス Pylos などの王国が立ち並び、ミケーネ文明が栄えた。これらミケーネ文明の城には城壁があった。ミケーネ文明の王国は戦闘的であるのだろう、と考えられている。ミケーネ文明は、青銅器文明である。ミケーネ文明をつくった人たちは、北方から移住してきたギリシア人たちであった。
ミケーネ文明は前15世紀(前1400年代)にクレタ島を侵略し、のちに小アジアのトロイアにも遠征した。トロイア戦争は前13世紀に起こったようである。
ミケーネ文明には文字があり、粘土板に文字が掘られ、その文字は現代では線文字B(Linear B Script)と呼ばれている。つまり、線文字Bという文字が、粘土板に掘られた。
のちの時代(20世紀)の線文字Bの解読によって、王権が強かったことが、わかっている。
- イギリスのヴェントリス(1922〜56)Ventrisらが、線文字Bを解読した。
なお、この線文字Bは、クレタ文明の線文字A(未解読)をもとに、ミケーネ時代のギリシア人が作ったものである。
ミケーネ文明は前1200年ごろ滅亡したが、原因は不明である。ミケーネ文明の滅亡とともに王宮は破壊され焼け落ち、線文字Bも忘れ去られ、前8世紀までの400年ほどのあいだ、ギリシアには文字がない時代となる。この前12世紀から前8世紀までのギリシアの約400年間は混乱していたようであり、現代の歴史学では、このころのギリシアは「暗黒時代」 Dark age と呼ばれる。
このあいだ、ギリシアにいた人々は、エーゲ海や西アジアなどに移住するようになる。おそらく、ギリシア本土での混乱を避けたのだろう、と考えられている。
なお、古代ギリシア人は方言の違いから、イオニア系、アイオリス系、ドーリア系にわかれる。
また、この時代に、鉄器時代に移行した。
遺跡の発掘
[編集]ミケーネ文明の遺跡は、19世紀にドイツのシュリーマン Schliemann が発掘した。前8世紀のホメロスの叙事詩に書かれたトロイア戦争を真実だと信じて遺跡を調査し、トロイア Troia の遺跡やミケーネの遺跡を発掘した。シュリーマンが発掘するより前のころは、ホメロスの叙事詩のトロイア戦争の期記述は空想だろうと思われていた。
なお、クレタ文明の中心地クノッソスを発掘したのは、イギリスのエヴァンズである。
ポリスの形成
[編集]前8世紀ごろになると、ギリシア人は丘に神殿を建て、その神殿を中心に、丘のふもとなどに集まって都市をつくって生活するようになった。これらの、神殿のある丘は、アクロポリス acropolis と呼ばれる。また、アクロポリスを中心に集住することをシノイキスモス sinoikismos という。そして、このアクロポリスのある都市および都市国家をポリス polis という。
- まとめると、つまり、ギリシア人は丘アクロポリスを中心に集住(シノイキスモス)し、ポリスといわれる都市国家を建設した。
ポリスには少数の貴族がいて、貴族がポリスの人々を指導していた。丘のふもとにはアゴラと呼ばれる広場があり、そこで談話や議論したり、市場になったりした。
このようなポリスが、海上交易のため、地中海沿岸に多くのポリスが建てられた。
ポリスはそれぞれ独立しており、ポリスどうしが抗争もしていたが、共通の言語と宗教を持っていて、同じギリシア人どうしという民族意識も持っており、異なるポリスと共同でオリュンピアの祭典を4年に1度、行ったりもした。ホメロスの叙事詩 や デルフォイの神託(しんたく) などを、ギリシア人が共有することで、共通の民族意識も持っていた。
また、同じころ、フェニキア文字をもとにギリシア文字のアルファベットが作られて、商業の記録や文学などのための文字として活用された。
ギリシア人は自分たちギリシア人のことを「ヘレネス」(Hellenes)と呼び、ギリシア人以外の異民族のことを「バルバロイ」(barbaroi)と呼んで区別した。
ポリスの発展
[編集]ポリスはいくつもあるため、発展の歴史は同じではない。 ほとんどのポリスは王政(王自らが行う政治)だったが、次第に貴族政(貴族による支配)(当時は貴族が政治を独占していた)へと変わっていった。
ポリスは人口増加により耕地が足りなくなり、ギリシア人は植民市(しょくみんし)の獲得に乗り出した。
ポリスの人々の身分には、貴族と平民と奴隷があった。貴族は奴隷を持っていたし、平民も奴隷を持っていた。平民と貴族が市民とされた。
奴隷は市場で売買された。奴隷にされる人は、借財などの債務(さいむ)で財産を失って市民身分から転落した人や、戦争捕虜(ほりょ)などであった。
アテネとスパルタ
[編集]ギリシアの多くのポリスの中でもとくにアテネとスパルタが有力なポリスであった。
ギリシアの有力なポリスであるアテネ(Athenai)には、奴隷制度があった。 そしてアテネの政治は、市民や貴族による民主制。このように歴史上では、民主制と奴隷制とは矛盾しない。それらは両立可能なのである。
ギリシアの市民の成年男子は、兵士でもあった。重装歩兵(hoplitai)の密集隊をファランクス(phalanx)という。戦争では、この重装歩兵の密集隊による攻撃が有力だった。つまり戦争では、ファランクスが有力だった。
ちなみに武器や鎧、盾などの装備は自腹である。総額凄い高かったらしい。
アテネの守護神は女神アテナ。
- スパルタ=統制経済+軍国主義
さて、ドーリス人のスパルタ(Sparta)は近隣を侵略し、支配された地域の被征服民を、隷属農民とした。このように、スパルタに支配され、隷属農民におとされた被征服民をヘイロータイという。
スパルタ人よりもヘイロータイのほうが人数は多かった。ヘイロータイによる反乱をふせぐため、スパルタ人は軍事に専念し生産労働をしなかった。
また、スパルタの支配によって商工業に従事させられた者をペリオイコイ(perioikoi)といい、彼らは参政権を持てなかった上に従軍もさせられた。
スパルタ人の男子には、軍国主義的な教育が施された。スパルタ人の少年たちは少年期から兵士として育てられ、その軍事訓練では、厳格な規律によって集団訓練をさせられた。こうしてスパルタは、ギリシアで最強の陸軍国になった。恐らく厳しい教育を意味する「スパルタ」はここから来ている。
またスパルタの支配では、貧富の差を発生させないように、貨幣の使用を禁止したり、土地の売買を禁止したり、さらに鎖国して他のポリスとの交易を行わなかったりと、経済統制をした。このようなスパルタの統制経済的な国制をリュクルゴス(Lykurgos)という。
このような経済統制をスパルタでは行っていたため、商工業はあまり発達しなかった。
アテネの民主制
[編集]- アテネの自由経済
いっぽうイオニア人のアテネでは、商工業が自由だった。そのため貧富の差も開いて、裕福な貴族が政治を独占した。平民─特に貧しい者や、借金などをかかえてしまった者の中には奴隷に転落する平民もでてきた。
このような奴隷転落の事が、古代アテネでは社会問題として注目され問題視されたようであり、「奴隷転落を防ぐための法律がつくられる」という改革が、前6世紀のアテネで行われた。前594年に、政治家のソロン(Solon)が法律をつくって、債務(さいむ)によって奴隷に転落させることを禁止し、また、債務を帳消しにした。
ソロンは、人々の政治的な権利や義務を、その人の家柄でなく、財産によって分けるという改革を行った。(財産政治、tymokuratia) 裕福な貴族は、改革後も、その貴族の財産にもとづき、政治的な権利があった。なので相変らず、平民と貴族との政治的な対立があった。
こうした状況で、アテネの政治では、貧しい平民からの政治的な支持を集める独裁者があらわれた。そのような人物として、貴族出身のペイシストラスは、彼は貴族出身だが、中小の農民を保護するなどの施策(しさく)によって平民から支持を集め、その支持を背景に独裁的に政権を握った。
ほかの多くのポリスでも独裁者が現れ始め、彼ら独裁者は僭主(せんしゅ、tyrannos)と呼ばれた。
ペイシストラスは独裁者だったが、同時に経済政策の優秀な政治家であったようだ。しかし彼の権力を引き継いだ息子は低能だったようで、息子の政治は暴政として受け取られ、息子は政治の世界から追放された。
- 政治における不信任投票の制度の設立
このようにして僭主政が平民の支持を失っていき、アテネでは僭主の出現を防ぐための改革として、政治家として不適切な者を、投票によって追放するための制度が導入された。
陶器の破片(オストラコン)に、市民たちが追放したい者の名前を刻んで書いたので、この追放制度を陶片追放(とうへんついほう、オストラキスモス ostrakismos)という。
僭主のおそれのある人物としての票を6000票以上あつめ、最多投票された者は、10年間国外追放される。
また、前508年、アテネの指導者のクレイステネスは、貴族への規制として、旧来の血縁的な4部族にもとづく政治制度から、地域にもとづく政治制度へと行政を改めるために、地域を区分けして、その地域区分けにもとづいて行政をおこなうという改革をした。
なおアテネの法律は、まず、前7世紀にドラコンによって成文法がつくられた。
ペルシア戦争
[編集]アケメネス朝ペルシア支配下にあったイオニア地方のポリスが、反乱を起こした。この反乱をアテネが支援したため、ペルシアとギリシア諸国との戦争になった。
前490年のマラトンの戦いでは、アテネの重装歩兵が中心となって戦い、ギリシアが勝った。
その後、アテネは海軍を増強した。
前480年、再度、ペルシアがギリシアに遠征をしかけてきて、アテネが一時的にペルシアに侵入さたが、最終的にギリシアはサラミスの海戦でペルシア軍を撃退して、ギリシアが勝利した。
さらに翌年の前479年のプラタイアの戦いで、ギリシア軍はペルシア軍に勝利した。
こうして、最終的にギリシアが勝利した。
ギリシア諸国は、今後のペルシアの襲来にそなえるため、デロス同盟を結んだ。この同盟では、とくにペルシア戦争で活躍したアテネが、同盟の盟主になった。
ペルシア戦争で、ギリシア海軍の軍艦の漕ぎ手として参戦した無産市民が、このペルシア戦争で活躍したため、下層の無産市民が参政権を得て発言力が強まった。
このような市民たちによって支持された政治家のペリクレスが権力をにぎった。ペリクレスはさまざまな改革を行い、彼によって、成年男子の市民全員が直接参加をする民会(みんかい)の制度がつくられた。ペリクレスによって古代アテネの民主制は直接民主制になった。
民会で選ばれた政治家や役人の任期は、将軍などの一部をのぞき、一般の役人などの任期は1年であった。
また裁判では、陪審員(ばいしんいん)の制度が採用され、投票によって、判決が出た。
その後、ギリシアでは、アテネとスパルタとが対立して、ギリシアを二分する戦争になった。アテネを中心とするデロス同盟の勢力と、スパルタを中心とするペロポネソス同盟の勢力との、二大勢力が対立して、前431年にアテネとスパルタとの戦争になった。この前431年のアテネ対スパルタの戦争が、ペロポネソス戦争である。
戦争中、ペリクレスは疫病で死亡した。そして、アテネの政治は混乱していった。
この戦争は最終的にスパルタが勝った。軍事国家強い。
スパルタはペルシアとも、協力を結んでいた。
勝ったスパルタの側も、経済の変化などの理由で貨幣経済が流入し、スパルタの社会は急激に変化した。もうスパルタでは軍国主義が維持できなくなり、衰退していく。
あらたにテーベが台頭し、また、北方ではマケドニアが台頭した。
戦後、アテネは復興するものの、スパルタ共々弱体化して行った。にもかかわらずポリス間の抗争が続いた。
のちに、このような弱体化したアテネやスパルタの支配していたギリシアを、北方のマケドニアが支配することになる。
ギリシアの文化
[編集]ギリシア文化では演劇や詩などの娯楽が楽しまれていた一方、古くからのギリシア神話も物語として楽しまれていた。また、神話は歴史や自然現象からは切り離され、神話はあくまでも物語として受け取られ、神話を前提とせずに歴史や自然を語ろうという思想も現れてきた。
ギリシアの神話および宗教における「神」とは、ゼウスを主神とするオリンポス12神をもつ多神教である。
- 三大悲劇作家のアイスキュロス(Aischylos)、ソフォクレス(Sophokles)、エウリピデス(Euripides)(※ 記述中)
- 喜劇作家アリストファネス(Aristophanes)(※ 記述中)
- ホメロス(Homeros)の叙事詩『イリアス』『オデュッセイア』(※ 記述中)。
詩人ヘシオドス(Hesiodos)は『神統記』で神々の生い立ちを記した。
歴史学では、ヘロドトスが著書『歴史』でペルシア戦争について、物語風に記述した。トゥキディデスはペロポネソス戦争を、より厳密に検証した。
神話から離れて自然現象を理解しようとする自然哲学が、イオニア地方のミレトス(←地名)を中心に現れた。 ミレトスの自然哲学者タレス(Tales)は万物の根源を水と考えた。
また、数学の「ピタゴラスの定理」で有名なピタゴラス(Pythagoras)も、イオニアの周辺に現れた。
いっぽう、このような自然哲学とはべつの、哲学者もあらわれ、ソクラテスやプラトン、アリストテレスなどである。
ソクラテス(Sokrates)は、真理の絶対生を主張したが、民主制に懐疑的であったため、市民の反感をかい、ソクラテスは処刑された。 このようなこともあり、ソクラテスの弟子プラトン(Platons)は、民主制には批判的であり、哲学者が政治をする哲人政治(てつじんせいじ)が理想だと著者『国家』などで主張した。
また、プラトンは、真理の絶対性の例として、具体的な出来事の羅列は真理ではなく、その事実の背後にあるものを真理とするべきだというイデア論を主張した。(イデア、idea)
ソクラテスの弟子はプラトン。プラトンの弟子はアリストテレス。
この時代、弁論術を教えるソフィスト(sophist)とよばれる教師たちが登場してきた。ソフイストに求められた能力が、物事の真偽にかかわらず、弁論で相手を説得させる技術を教えることであった。たとえばソフィストのプロタゴラスは「人間は万物の尺度」と唱え、相対主義を主張した。
ソクラテスは、ソフィストの相対主義を批判し、ソクラテスは真理の絶対性を主張したのである。 アリストテレスは、自然・人文・社会のさまざまなことに思索をして、諸学を集大成した。
エピクロス(Epikuros)に代表されるエピクロス学派は、精神の安定を最高の快楽として、精神の安定を理想とした。 禁欲を理想とするゼノン(Senon)のストア派も盛んになった。ストアは「ストイック」の語源となった。
建築は、柱の様式により、ドーリア式、イオニア式、コリント式などに分かれる。
アテネのパルテノン神殿はドーリア式である。
建築では、パルテノン神殿(※ 記述中)。彫刻家では、フェイデアス(Pheidoas)が有名である。
マケドニア
[編集]ギリシアの北方には、ドーリア系のマケドニア王国(Macedonia)があった。前4世紀には、マケドニアのフィリッポス2世(Philippos II)は、金山を経営するなどして、国力をたくわえていき、軍事力を高めた。
そして、ついに前338年にフィリッポス2世ひきいるマケドニア軍はギリシアに遠征し、敵対するギリシア側のアテネ・テーベ連合軍を倒し、これらのポリスを支配して、スパルタを除くポリスを掌握し、コリントス同盟(「ヘロス同盟」ともいう)を結成させた。
フィリッポス2世は暗殺され、彼の子であるアレクサンドロス大王(Alexsandros)が権力を引きついだ。(歴史上、複数人、「アレクサンドロス」という名前がつく王がいるので、ほかのアレクサンドロスと区別するために、東方遠征(とうほうえんせい)して古代オリエントを征服したアレクサンドロスに「大王」と付けて、「アレクサンドロス大王」という。本書では、単に「アレクサンドロス」と言った場合、とくに指定しないかぎり、「アレクサンドロス大王」のこととする。)
アレクサンドロスは、これまでペルシアがギリシア諸国に度々したことについて、ペルシアへの報復を決め、そして前334年にアレクサンドロスはマケドニア軍とギリシア軍との連合軍を率いてペルシアに遠征した。この前334年のマケドニア対ペルシアの戦争を東方遠征(とうほう えんせい)という。
前333年のイッソスの戦いで、アレクサンドロス率いるマケドニア軍はペルシア軍に勝利し、アケメネス朝ペルシアは滅ぼされた。
アレクサンドロス大王は、さらにエジプトを征服し、そしてさらに大王は西インドまで遠征をしかけたが、323年にアレクサンドロスは病死した。死亡時のアレクサンドロスの年齢は30歳台であり、若い。(※ 大学入試では、アレクサンドロス死亡時の年齢は、覚えなくて良いだろう。仮に入試で出題したとしても、単なる知識自慢大会のクイズにしかならないので、出題の意義が問われる。なので、このウィキブックス教科書では、アレクサンドロス死亡時の正確な年齢は、教えないことにする。)
- ※ つまり、アレクサンドロスを描いた肖像画には、若い男が描かれているはずである。老後のアレクサンドロスは、歴史教科書では描かれるはずがない。
伝説では、アレクサンドロスの遺言で「最強の者が、わが帝国を継承せよ」と語ったと伝えられている。
アレクサンドロスの死後、帝国は分裂し、後継者を意味する「ディアドコイ」(Diadokoi)を名乗る将軍たちによって分割され、アンティゴノス朝マケドニア、セレウコス朝シリア、プトレマイオス朝エジプトなどの諸王国が成立した。
- 備考
ちなみに、アレクサンドロスはダレイオス3世を殺していない。ダレイオス3世は、敗走中に部下の裏切りによって殺された。 また、アレクサンドロスは、ペルシア大王の地位を受け継ごうとするためか、マケドニア軍兵士とペルシア人女性の集団結婚式を挙行し、アレクサンドロス自身もダレイオス3世の娘と結婚している。
- 備考
アリストテレスは、アレクサンドロスの家庭教師であった。アリストテレスは、もともとギリシアにいたが、アレクサンドロスの父フィリッポス2世によってマケドニアに招かれ、アレクサンドロスの教育係として、家庭教師になった。(参考文献:旺文社『教科書よりやさしい世界史』、2016年重版、34ページ) そのアリストテレスは、プラトンの弟子であり、そのプラトンはソクラテスの弟子である。ということは、ソクラテスの学問を間接的にだが、アレクサンドロスが教わっていることになる。
ヘレニズム文化
[編集]大王の東方遠征から、もっとも分割された帝国のうち、長く続いたプトレマイオス朝エジプトが滅びるまでの300年間をヘレニズム時代という。
この時代に理想とされた思想は、ポリスの枠にとらわれない世界市民主義(コスモポリタニズム、cosmopolitanism)が理想とされた。
これらの分割された旧帝国の地域ではギリシア語が共通語(コイネー)になった。
また、ヘレニズム時代の文化のことをヘレニズム(Hellenism)という。「ヘレニズム」は、「ギリシア風」という意味。
プトレマイオス朝の首都アレクサンドリアには、大きな図書館を持つ研究所のムセイオン(Museion)が作られ、地中海周辺地域の各地から学者が招かれ、さまざまな研究が行われた。 (英語のミュージアム<博物館> museum の語源が「ムセイオン」。)ムセイオンでは、学問の女神たちであるムーサイをまつっていた。
ヘレニズム時代には自然科学が大きく発達した。平面幾何学のもととなったユークリッド幾何学は、このヘレニズム時代に、エウクレイデス(Eukleides)によって整理された。また、物理学や数学の研究をしたアルキメデス(Archimedes)も、ヘレニズム時代の人物である。
また、天文学者のエラトステネスは、地球を球形と仮定して、地球の周囲の長さを計算した。(※ 高校理科の地学で、エラトステネスの計算法を習う。よって、世界史では、理系の勉強もしているかどうかを問う教養問題として彼の名前が出題される可能性がありうる。計算法については ウィキブックス【地学I/地球の概観】 などを参照せよ。)
また、アリスタルコスが地球の自転と、太陽を中心として地球が公転しているという、今の「地動説」に近い説を唱えた。
このように、古代ギリシアの天文学は、一部をのぞいて中世前半のヨーロッパよりも、進歩していた。中世ヨーロッパでは、キリスト教の宗教的観点から天動説が主流であり、地動説は異端(いたん)であった。中世ヨーロッパで地動説をとなえたガリレオなどの学者は、キリスト教によって弾圧を受けた。
彫刻では、「ラオコーン」、「サモトラケのニケ」、「ミロのヴィーナス」などが、ヘレニズム時代に作られた。
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ラオコーン
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サモトラケのニケ