トーク:行刑にかかる争点

出典: フリー教科書『ウィキブックス(Wikibooks)』
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私は事実あるいは学説を素人にもわかりやすく紹介する場だと思っています。以下は、すべてこれを前提とする意見です。

推定や俗説はそうとわかるように、さらに私は定説でさえ未証明であればその旨を明示すべきだと思っています。例えば、死刑廃止論の論拠の 1. には「論破できておらず」とあります。論破できた例がないことは誰が証明したのですか? 私は、これは悪魔の証明であり非常に困難だと思っています。

また現実問題として回復救済の途がある刑罰とやらについて、本当に回復救済は行われていますか? 例えば一介の会社員が痴漢冤罪で失ったものは十分に回復救済されていますか? 元国家公安委員長が病体にむち打って浪費した時間は回復救済されましたか? 監獄内で閉経となった未産女性に対して実子を回復救済するのが無理でも相当額が査定され実際に支払われていますか? 冤罪を人身事故として加害者に損害賠償を命じた例、回復救済を強制する基準や罰則、こういうことこそ是非とも統計と事実を紹介していただきたいものです。この段落で私が言いたいのは、存続論側がこのようなことを言い出したとき、死刑廃止論側は「あくまで死刑の話」と言って無視するだけで回復救済については議論自体が元々なされておらず、論破「できない」のとは違うということです。

死刑廃止論と存続論を対等に扱っていないことも記事の構成として問題があると思います。例えば「死刑廃止論」には水平線が引いてある一方で、「存続論」は死刑を冠せず水平線も論拠なる見出しも項番もありません。掲載順序はどちらかが先にならざるを得ませんが、前述の差と同じ動機で決定された順序になっているように見え、不作為とは思えません。この記事はあくまで「行刑に関わる争点」が主題のはずで、争っている主張の一方または1つを中心に置くことを一読者として承認できません。死刑廃止論の 1. から 3. までの脚注が肯定的に書かれていることはそういう言論があるという紹介であれば構わないと思いますが、ならば存続論の各点の脚注が反論・批判であるのは存続論側がそう言っていることになってしまい、事実の紹介ではなくなっていると私は思います。

教材では何が正しいかは学習者が熟考することであり、教育者が自らの思想を丸飲みさせることではありません。その思想に至った判断材料を示すことこそが教育者の使命であると私は思います。(以上はuser:210.132.146.38 が2007年3月17日 (土) 01:00に投稿したものです。)

執筆に携わったものとして、ご回答します。
wiki一般に言われる、NPOVですが、個人的には、人が書く以上、まったくの中立はありえず、少なくともWriter's POVからは免れ得ないものと考えます(だから、できる限り参加者を増やしWriters'にするのでしょうが)。とはいえ、個人のブログでも無いのですから、刑事政策や刑事学における通説的な考え方を両論併記で紹介しているつもりです。それが、偏っているという印象を与えるのであれば、それは、ライターとしての私の力量の無さというしかありません。なお、個人的には、私は死刑存続論者で、その理由は、「人の命を奪った者は、命を奪われても文句は言えない」という単純なもので、今のところ廃止論者の説得はそれを覆させるだけの心証を与えていないということになります。しかしながら、私が真剣に死刑廃止論を賛成・反対あわせて検討した時間など、全生涯あわせても30時間程度にも満たないでしょうし、多分に印象的なものです。廃止論者(たとえば、団藤重光博士)にきちんと論理だてて説明できるかといえば、それは無理だなと思います。
と、ここまで、私の立場を説明したところで、記述の内容につき解説いたします。
  • 「論破できた例がないことは誰が証明したのですか?」の下りですが、これは、廃止論者の「誤判の救済を『本人』に対してなすことはできない」という問いかけに対しては、存続論者に限らず、現代の自然科学的立場では、誰もできないということを言っています。これができるというのは、ある種の宗教家か「超」科学者の類でしょう。
  • 逆に、「回復救済の途がある刑罰とやらについて、本当に回復救済は行われていますか?」ということについては、制度として機能が十分であるかは別論として、少なくとも本人は生きているのですから、本人に対して「回復されたか」を確認することはできるわけです。それが、真正のものであるか、「ごね得」なのかを見分けるのは裁判など社会制度の問題はありますが、すくなくとも、真実を追究する可能性はあるということにはなります。
記載が、「廃止論」よりであるというのは、現代日本においては死刑は社会制度であり、「廃止論」は論理だてて説得をする必要がありますが、「存続論」はその瑕僅を問えばよいという、日本の刑事政策・刑事学の事情に従った記載のためだと思います。まあ、この手の2者択一の論議は、同様に2論を併記したところで裏表の記述が並ぶだけで、論点が明確になるわけではないので、この、主張-批判-反論-再批判の記述は理解を深めるには効果的な記載方法だと考えます。
おっしゃるとおり、ここは思想を開陳する場所ではないので、偏っているというのであれば、修正するのにやぶさかではありませんが、上記のとおり、現在に記述は中立性を鑑みて記載しているものと考えます。ご不満の点があれば、さらにご意見をいただければと思います。
(追伸)wikiのマナーとして署名は忘れないようお願いします。--Tomzo 2007年3月17日 (土) 03:13 (UTC)[]

迅速なご回答、誠に恐れ入ります。私は「法学の教材は主張をする場でしょうか」と題するノートを書いた一読者です。これ以上の個人特定情報が必要であれば合法的にご請求もしくは調査をしていただくことになるでしょう。マナーとのお叱りをいただきましたが、価値観の必ずしも一致しない者同士が共存を図るための調停手段が法であるという認識はご承認いただけるでしょうか。私は基本的にシステムが受け入れる範囲で合法的に活動しているつもりです。とは言うものの、短い二人称が便宜上望ましいとは私も考えますので、ここではAとでも名乗ることにいたします。(つまり署名ではなく記名となりますことをお許し下さい)

Tomzo様が死刑制度の是非についてご検討をされた時間が通算 30時間程度に満たないことと、両論併記について現に配慮をされていること、承知いたしました。前者もそうですが特に後者については、私の推定が誤っていたことになりますので、失礼のほどお詫び致します。

「論破」については、どのようなことを「論破できた」というのかによると思います。本文の 1. について私は、回復救済が死刑廃止を主張する理由として使えない状況に持って行くだけで足りると思っており、それは死刑執行後の回復救済ができないままでも起こりうることだとも思っています。回復救済を公理とするならば回答次第では自己矛盾を生じる緊急度の高い事柄を挙げ、それらに対する判断を迫ることで私の考える「論破」は十分に達成しうることです。世界中の誰にもできないと急に言われてもにわかには飲み込めません。これは仮に相手が博士であろうと弁護士であろうと関係ありません。むしろ、主張の理由に肩書きを持ち出すような議論のプロにあるまじき痴態はそしりを免れません。失礼ですが Tomozo様は、全世界から閲覧可能なこの記事を団藤先生か似た素性の方がご覧になることがないとでもお考えですか? 私は法律関係は専門外ですが、ここをどんな人に読まれてもブランドで主張が変わったりはしません。死刑廃止国にお住まいの方々に対しても同じです。

両論併記が表裏の記述で平行線になるだけ、のように仰いますがそうでしょうか? 日本の現行法ではすでに死刑存置が結論として採用されていますし、諸外国でもおおむねいずれかが選択されています。生命を生命以外の何か(金銭など)に換算する例(保険など)、弁償を受ける者が不在の場合の代理人の決定論理も現存します。危険でしかし必要な作業(ここでは刑罰)に対する現実的でよりよい解を導くための材料がこれだけ揃っているのに平行線を形成しているのは論ではなく、解を導くプロセスを徒に遅延させている抵抗勢力であり強く非難されるべき社会悪だと私は思います。例えば運転者や医師の過誤と法曹の過誤に何の差があると思いますか? これらのうちの1つだけ整備施行が異常に遅れているのはどうしてでしょうか。あまつさえ法務大臣が刑事訴訟法第四百七十五条の2に常習的に違反しているのは過誤ですらありません。こういった巨悪に対する監督責任は憲法で定められた最高権力者にも当然あります。平行線で済むことではないのです。

仮に今、議論に参加している者だけでは律しきれない問題なら、より優れた人材を育成することこそが教育であり、教育者の使命は先に述べたとおりです。被教育者として出過ぎたことを書いてしまいましたが、教材開発に於けるフィードバックの1つとして受け取って頂ければ幸いです。