フランス史
先史時代
[編集]1940年、フランスの南西部にあるラスコー洞窟で、近隣の村の少年が穴に落ちた飼い犬を友人たちと救出した際、洞窟の壁に絵が描かれていることを発見した。この洞窟壁画は先史時代、約2万年前にフランスに定住したクロマニョン人が描いたものとされ、当時の牛や鹿といった野生動物の狩を行う様子が描かれている.
ガリア時代
[編集]ガリアの成立とカエサルのガリア遠征
[編集]紀元前4世紀、イタリア北部に定住していた部族ガリア人がローマの領土拡大に伴い、アルプス山脈を越えて現在のフランス・ベルギー地域に定住した。 紀元前58年、現在のイタリアを支配していた共和制ローマの軍人、ガイウス・ユリウス・カエサルがガリア人たちが定住する地域へと遠征を始める。一般にこれをカエサルのガリア遠征といい、この遠征は紀元前51年まで計8回行われた。ガリア側はウェルキンゲトリクスの指導のもと抗戦を続けたが、やがて敗北し、ガリア地域は共和制ローマの属州として編入された。そうした経緯からウェルキンゲトリクスはしばしフランス最初の英雄と称される。(1959年にルネ・ゴシニとアルベール・ユデルゾによって発表された、古代ローマ時代のガリアを題材にした人気漫画「アステリックス」の主人公はウェルキンゲトリクスに由来する。) またこの一連のガリア遠征を指揮したカエサルはその経過を「ガリア戦記」として著した。 その後、ローマ帝国期のガリアは、平穏を保ちながらローマからの文明を享受し、ローマ化が進められた。
フランク王国
[編集]フランク族の登場とメロヴィング朝の成立
[編集]4世紀になると、ゲルマン民族の大移動が起こり、ローマ帝国が衰退していく。その中でも現在のフランス・ベルギー地域に進出したゲルマン民族たちはフランク人と呼ばれた。彼らはやがてクローヴィス1世によって統一され、彼を国王とするメロヴィング朝フランク王国を成立させる。またメロヴィング朝が支配していた旧ローマ帝国領の住人たちがキリスト教カトリックを信仰していたことから、カトリックを受容し、またクローヴィス自身もカトリックの洗礼を受けるなどした。
西ゴート王国
[編集]5世紀頃になると、ゲルマン民族の大移動の影響を受け、現在のフランス南西部からイベリア半島にかけて西ゴート族の王ワリアによる西ゴート王国が成立した。 しかし507年、クローヴィス率いるメロヴィング朝によってフランス地域を追われ、以降、西ゴート王国はイベリア半島に王国を移した。
クローヴィス1世の死没と分裂
[編集]511年、クローヴィス1世が没すると、王国はクローヴィスの4人の息子たちによって分割された。またその息子たちが没すると、彼らの息子たち(クローヴィスの孫たち)によってさらに分割されるなどして、王国の土地は分割・世襲されていった。 しかしその後、微分的に王国が分割されていったかというと、そうではなく、クローヴィスの息子たちの中で最後に生き残ったクロタール1世が561年に没する頃や、613年にクロタール2世が統治していた頃などでは、再統一されるなどしていた。
衰退
[編集]7世紀頃になると、地方豪族が台頭し、また王国の財政を執り仕切る宮宰が実権を持つようになる。 特に宮宰のカロリング家のピピン2世が宮宰となった頃にはメロヴィンング朝の多くの宮宰のポストをカロリング家が占め、またピピン2世の息子であるカール・マルテルが、イベリア半島から北進してくるイスラーム帝国との戦闘である、トゥール・ポワティエ間の戦いに勝利するなど、国内でカロリング家の評価を高めていった。 8世紀になるとカール・マルテルの息子であるピピン3世が、当時のローマ教皇である聖ザカリアスの支援を受け、メロヴィング朝の国王であったキルデリク3世を廃して王位を簒奪し、カロリング朝を成立させる。 ここに約300年続いたメロヴィング朝は消滅した。
メロヴィング朝の国王一覧
[編集]代数 | 名前 | 在位 |
---|---|---|
初代 | クローヴィス1世 | 481 ~ 511 |
2代目 | クロタール1世 | 558 ~ 661 |
3代目 | クロタール2世 | 613 ~ 629 |
4代目 | ダゴベルト1世 | 629 ~ 630 |
5代目 | クローヴィス2世 | 639 ~ 658 |
6代目 | クロタール3世 | 658 ~ 673 |
7代目 | キルデリク2世 | 673 ~ 675 |
8代目 | テウデリク3世 | 679 ~ 690 |
9代目 | クローヴィス4世 | 690 ~ 694 |
10代目 | キルデベルト3世 | 694 ~ 711 |
11代目 | ダゴベルト3世 | 711 ~ 715 |
12代目 | キルペリク2世 | 715 ~ 721 |
13代目 | テウデリク4世 | 721 ~ 737 |
14代目 | キルデリク3世 | 743 ~ 751 |
カロリング朝
[編集]ピピン3世の治世
[編集]メロヴィング朝を簒奪する形で成立したカロリング朝は、774年に当時のローマ教皇ステファヌス3世の要請を受け、現在のイタリアに成立したランゴバルト王国に侵攻を開始する。この折、ピピン3世はこの戦いを通じて得たラヴェンナ地方をローマ教皇に寄進する、いわゆる「ピピンの寄進」が起こった。
カール大帝の治世
[編集]768年にピピン3世が没すると、彼の息子であるカールが即位した。カールはピピン3世の頃より行われていたランゴバルト王国との戦争に続き、772年にヴィドゥキントが治めるドイツのザクセン地方やバイエルン地方への侵攻も開始する。またイベリア半島に成立したイスラーム王朝である後ウマイヤ朝へも遠征を行った。 797年、東ローマ帝国でローマ皇帝史上初となる女帝エイレーネが即位するが、ローマ帝国の西側地域ではそれを僭称とし、現状のローマ帝位は空位であるとした。800年、ローマ教皇レオ3世によってカールはローマ皇帝に戴冠する。 このように生涯多くの時間を戦役に費やしたカールが814年に没する頃、カロリング朝の領土は、ブルターニュを除く現在のフランス、ベネルクス、スイス、スペイン北部、ドイツ西部から中央部、そしてイタリアの北部から中央部にかけて広大に拡がっていった。こうした業績からカールは、カール大帝と呼ばれるようになった。
カール治世下のフランスではカロリング・ルネサンスと呼ばれる文化の隆盛があった。
ヴェルダン条約とメルセン条約
[編集]814年にカールが没すると、彼の息子であるルートヴィヒ1世がその広大な領土を継承するも、817年に帝国整序令を出し、彼の長男ロタール1世を共治帝とし、次男のピピンにアキテーヌを、末っ子のルートヴィヒ2世にバイエルンを統治させた。 しかしルートヴィヒ1世が840年に没すると、ロタール、ピピン、ルートヴィヒ2世らによる内紛が勃発する。この内紛は結果的に843年のヴェルダン条約と870年のメルセン条約が結ばれた。 ヴェルダン条約ではロタール1世がフランク王国の皇帝位とフランスの中部に成立した中部フランク王国の領土を継承した。メルセン条約では中部フランク王国を東西にそれぞれ東フランク、西フランク王国が分割した。特にメルセン条約によって分割された地域は、後のドイツ、フランス、イタリアの原形となった。
カロリング朝の国王一覧
[編集]代数 | 名前 | 在位 |
---|---|---|
初代 | ピピン3世 | 751 ~ 768 |
2代目 | カール大帝 | 768 ~ 813 |
3代目 | ルートヴィヒ1世 | 813 ~ 840 |
東西フランク王国
[編集]東西フランク王国は、ヴェルダン条約とメルケン条約に基づき、カロリング王家が東はルートヴィヒ2世によってドイツ、西はシャルル2世によってフランス地域を支配したが、東フランクでは911年に、また西フランクでは987年にカロリング王家の血統が断絶してしまい、それにより西フランクは滅び、東フランクでは選挙王政が行われた。