ペルシア語/イラン略年表
イランの歴史略年表
紀元前3000年頃から:インド・ヨーロッパ語族は中央アジアを起点として東西に民族移動を開始しました。彼らはヨーロッパへ向かう西方系とイラン高原・インド亜大陸に向かう東方系に分かれます。このうち、東方系の人々はアーリア人と自称しました。従って、アーリア人とはイラン高原とインド亜大陸に移住したインド・ヨーロッパ語族のことです。
紀元前12世紀~9世紀頃:ゾロアスター自身の生まれ年については多くの異説があります。ゾロアスター教の世界観では、世界は善なる神アフラ・マズダと悪なる神アフリマンとの闘争の場として考えられており。そしてこの世界での闘争はゾロアスターの誕生から三千年後に最後の戦争が起こるとしています。この三千年の間の千年ごとに一人ずつ救世主が生まれ、それぞれ世界を改革していきます。そして、最後の一人が終末の時に人類を導く救世主なのです。終末の時にはアフラ・マズダーはこれまでのすべての死者を復活させ、彼等に最後の審判によって、天国に行く者と地獄に堕ちる者とに分かれます。
ペルシア帝国 (紀元前550~後651) |
アケメネス朝(紀元前550~紀元前3301) イラン高原とインド亜大陸に移住したアーリア人のうち、イラン高原に移住した人々がイラン高原南部のファールス地方でアケメネス朝をつくりました(紀元前550年)。このファールス地方をギリシア人がペルシアと呼んだのが「ペルシア」の語源です。
初代 キュロス2世(在位:紀元前550~520)
前500-前479 ペルシア、ギリシア戦争、(マラトンの戦い、テルモピュライの戦い、サラミスの海戦)
紀元前331 アレクサンドロス大王がペルセポリスを占領し、破壊。
紀元前330 敗走中のダレイオス3世、殺害され、アケメネス朝の滅亡。
パルティア(紀元前3世紀半ば~226)
紀元前248頃 遊牧イラン人の族長アルサケス1世がカスピ海東南にパルティアを建国。パルティアの諸王はギリシア人の工人を使って貨幣を鋳造した。その貨幣ではアフラ・マズダーやミスラなどイラン人の神がギリシアの神々(ゼウスやアポロ)の姿で刻印された。パルティア王国の諸王はイラン人の伝統的宗教であるゾロアスター教を国教とすることはなかったが、他の宗教に対してと同様に寛容であったので、前代のアケメネス朝時代に王権と結びついていたゾロアスター教は、パルティアにおいても存続し、その伝統を維持した。
ミスラ信仰はペルシャ帝国期、マギ神官 (magi) によって小アジア、シリア、メソポタミアに伝道され、ギリシアやローマにも取り入れられた。太陽神、英雄神として崇められた。その信仰はミトラス教 (Mithraism)と呼ばれる
ササン朝(226~651)
初代 アルデシール1世(在位:前226~241)パルティアを滅ぼす。
後276 マニ教の創始者、マニが処刑される。ゾロアスター教の国教化、より強固に。
後524 共産主義的性格を持つマズダク教の開始マズダク(Mazdak)の死刑。
最後の強力な王ホスロー2世(在位:590~628)ササン朝領土は最大になる。ホスロー2世は王位を確定すると、今度は東ローマ帝国の混乱に乗じて小アジアに進出、さらに614年にはエルサレムを襲撃し、イエスが磔(はりつけ)になったという聖十字架を持ち去った。ホスロー2世は、一時はエジプトまで進出したが、それに対して、ビザンツ帝国ではヘラクレイオス1世(在位610~641)が態勢を建て直し、征服されレ他地域を奪回して、さらに628年には一時クテシフォンを占領した。その年、ホスロー2世は没し、「最後の大王」となった。
628 混乱の時代の始まる、最後の強力な王ホスロー2世の家族の虐殺。このササン朝とビザンツ帝国の長期にわたる抗争は、東地中海-レヴァント地方-シリア-メソポタミアを結ぶ東西貿易を衰退させ、その戦乱を避けた商人たちがアラビア半島南部のヒジャースを通るようになり、それがメッカやメディアの繁栄をもたらし、そこから世界史の新たな主役となるイスラーム教とその国家が台頭することとなる。
後610年 イスラームの創始者ムハンマド 40歳ごろの、ヒラー山で瞑想にふけっていたところ、天使ガブリエルが現れ、神の言葉を伝えられ、神の使いとなってその宣教にあたることを決意し、イスラーム教を創始した。
632 ムハンマドの死 ムハンマドは妻アイーシャの膝の上での静かな最後を迎えた イスラム共同体の合議でムハンマドの後継者カリフが定まる。
正統カリフ時代(632~661)
651 ササン朝最後の君主、ヤズデギルド3世が殺され、ササン朝滅亡。
ウマイア朝時代(661~750)
661 4代カリフ、アリーが暗殺され、ウマイヤ家のムアーウイヤが自らカリフを宣言。
680 ムハンマドの孫(アリーの息子ホセイン)はウマイア軍に戦いを挑み、カルバラで戦死カルバラの悲劇、シーア派の始まり。イスラームは大きくスンナ派(多数派でイスラムの約9割)とシーア派(少数派で残りの1割)に分かれます。スンナ派はイスラム社会を導くにあたり、ムハンマドとの血のつながりを重視せずに、ムハンマドの言行(スンナ)を重視します。これに対してシーア派は預言者ムハンマドの血統を重視しました。シーア派では預言者ムハンマドの後継者のことをカリフとは呼ばずに、イマームと呼びます。
カリフの支配が弱まり、イラン系の王朝 |
750年のアッバース朝の成立にはイラン人が大きな役割を果たし(アッバース家はムハンマドの叔父のアル=アッバースの子孫たちでした。)。アッバース朝は、建国に際してはシーア派の支援を受けたが、権力を握るとスンナ派の立場に立って、シーア派を厳しく弾圧した。
874年第11代イマームはに毒殺されました。彼の長子はまだ幼児でした。スンナ派の手先がイマームの血筋を絶やすため徹底的に調べた。彼は身を隠しました。第12代イマームはお隠れになったのです。「隠れイマーム」です。これ以後現在までイマームの言葉を直接には聞くことのできない時代になりました。シーア派(12イマーム派)の人々は、いつの日かお隠れになっているイマームがこの世を救いにやってきてくれると信じています。イマームの再臨と救世主待望です。
9世紀、アッバース朝が衰退すると、イラン人やトルコ人でアミールに任命されたものが地方王朝を樹立するようになり。
1000頃 ペルシア詩人フェルドウスィー、シャー・ナーメ『王書』を完成
遊牧民やテュルク系民族が活躍する時代 |
9から10世紀にトルコ系民族がモンゴル高原周辺から移動して中央アジアに入って定住化すると、イラン人もトルコ語を話すなど中央アジアのトルコ化が進み。こうしてイラン人はトルコ化したが、トルコ系国家ででも重要な役割を果たした。
1256 チンギス・ハンの孫フレグがイルハン朝を建国 (モンゴルの征服)
1295年 イランを支配した、モンゴル人は文化的に、次第にイラン化が進み、イルハン朝の第7代君主、イスラーム教(スンナ派)に改宗した。
イラン系の王朝 |
サファヴィー朝(1501~1736)シーア派 (十二イマーム派)を国教とする。
パフレヴィー朝(1925~1979)
1925 レザー・シャー即位(在位:1925~1941)
1935 国号を「イラン」とする。民族を「イラン人」、言語を「ペルシア語」と規定する。ちなみに、イランとはアーリア人を意味するアーリアンが変形したもの。ペルシアはイラン南部のファールス地方を意味します。従って、ペルシアよりイランのほうが地理的な広がりを感じられることになります。
1936 女性のヘジャーブ着用禁止令(~1941)。レザー・シャーの西洋化政策の一環として。
1941 8月25日 レザー・シャーは退位。代わりに、モハンマド・レザー即位(在位:1941~1979)。以後、アメリカ軍が駐留。
1941 ヘジャーブ着用禁止令、撤廃。
1951 4月29日 石油会社の国有化を目指していたモサデクが首相に就任。5月1日 イギリス系の石油会社(アングロ・イラニアン石油会社)の国有化宣言
1953 8月19日 米CIAを後ろ盾とした1953年のイランのクーデターでモサデク失脚。モハンマド・レザーによる独裁。国際石油資本によるイランの石油支配。 → 反米感情の高まり→ イラン革命を起こしたアメリカ
1957 アメリカはイランの秘密警察(SAVAK)の設立を援助。反体制派の抑圧を図る。6月3日 ホメイニ師がゴムの神学校で聖職者への抑圧を非難する演説。6月5日 ホメイニ師、逮捕される。
1964 ホメイニ師、国外追放される。
1978 ホメイニ師を中傷する新聞記事に対する反対運動から革命運動へと発展。
1979 1月16日 モハンマド・レザー、国外退去(1980.7.27カイロで死去)
1979 2月1日 ホメイニ師、帰国
1979 2月11日 ホメイニ師派、政権掌握。イラン革命。
1979 4月1日 イラン・イスラム共和国の成立
1979 11月4日 ホメイニ支持派の学生グループがイランアメリカ大使館を占拠。イランアメリカ大使館人質事件(52人のアメリカ人が444日間、人質となる。1981年1月20日、人質は解放される。)
1980 9月 ~ 1988 8月イラン・イラク戦争