コンテンツにスキップ

中学校国語 古文/おくのほそ道

出典: フリー教科書『ウィキブックス(Wikibooks)』

解説など

[編集]

芭蕉は、自然の雄大さと、人間の儚さとを対比させ、無常観を表現している。しかし人の世が儚いからと言って決して人を見下しているわけではなく、儚いながらも、精一杯生きようとすることに人の意義を見出している。

平泉

[編集]

本文

[編集]

三代(さんだい)の栄耀(えいよう)一睡の中(うち)にして、大門の跡は一里こなたにあり。秀衡(ひでひら)が跡は田野になりて、金鶏山(きんけいざん)のみ形を残す。まづ高館(たかだち)に登れば、北上川(きたかみがわ)、南部(なんぶ)より流るる大河(たいが)なり。衣川(ころもがわ)は和泉が城(いすみがじょう)を巡りて、高館の下にて大河に落ち入る。

泰衡(やすひら)らが旧跡は、衣が関(ころもがせき)を隔てて南部口(なんぶぐち)をさし固め、夷(えぞ)を防ぐと見えたり。さても、義臣(ぎしん)すぐつてこの城にこもり、功名(こうみょう)一時(いちじ)の叢(くさむら)となる。『国破れて山河あり、城(しろ、じょう)春にして草青みたり』と、笠うち敷きて(しきて)、時の移るまで泪(なみだ)を落としはべりぬ。

夏草や 兵(つはもの)どもが 夢の跡
卯(う)の花に 兼房(かねふさ)見ゆる 白毛(しらが)かな   曾良

かねて耳驚かしたる二堂開帳(かいちょう)す。経堂(きょうどう)は三将の像を残し、光堂(ひかりどう)は三代の棺(ひつぎ)を納め、三尊(さんぞん)の仏を安置す。七宝(しっぽう)散り失せて、珠(たま)の扉風に破れ、金(こがね)の柱霜雪(そうせつ)に朽ちて、既に頽廃空虚(たいはいくうきょ)の叢(くさむら)となるべきを、四面新たに囲みて、甍(いらか)を覆ひて風雨を凌ぐ(しのぐ)。しばらく千歳の記念(せんざいのかたみ)とはなれり。

五月雨(さみだれ)の 降り残してや 光堂(ひかりどう)


語注

(奥州・藤原氏の、)三代 ・・・ 藤原清衡(ふじわらのきよひら)、藤原基衡(もとひら)、藤原秀衡(ひでひら)の三代にわたって、約百年の間、栄えた。
栄耀(えいよう) ・・・ 栄華。高い地位や、豊かな財産などで、豊かに栄えること。
こなた ・・・ こっち。こちら。
金鶏山(きんけいざん) ・・・ 秀衡が築かせたという小山。山の山頂に黄金作りの雌雄の鶏を二羽、埋めたと言う。館(の跡)の西にある。
功名(こうみょう) ・・・ 手柄を立てて有名になること。「功」とは手柄、功績。


七宝(しちほう) ・・・ 金・銀・めのう、など
卯の花 ・・・ ウツギの花。または、豆腐の、しぼりかす。
開帳(かいちょう) ・・・ 寺院で、特定の日に、内部を一般人に公開すること。
経堂(きょうどう) ・・・ 経文(きょうもん)をしまっておくための、お堂。
光堂(ひかりどう) ・・・ 金色堂(こんじきどう)のこと。
霜雪(そうせつ) ・・・ 霜(しも)と雪(ゆき)。
甍(いらか) ・・・ 瓦ぶきの屋根。
凌ぐ(しのぐ) ・・・ がまんして、なんとか切り抜ける。 ※ 文中の意味とはちがうが、別の意味では、上回る、勝るという意味もある

口語訳

[編集]

予備知識: 「平泉」(ひらいずみ)は、今で言う岩手県の一地方。

(奥州に居た、奥州・藤原氏の)三代にわたる栄華も、(後世の歴史の視点からみれば、一瞬のあいだの夢のように)一睡のうちに消えて、(いまや廃墟になり、)大門のあとは一里ほど手前にある。(藤原)秀衡の館のあとは、いまや田野になってしまい、(彼が築かせた)金鶏山のみ、形を残している。


(源義経が居たという)高館にのぼれば、北上川(きたかみがわ)が見えるが、北上川は南部地方から流れてくる大河である、衣川(ころもがわ)は(藤原泰衡(やすひら)のいた )和泉が城(いすみがじょう)をめぐって流れ、高館のもとで大河に流れ込んでいる。

  • 歴史知識

源頼朝と対立した源義経は、奥州へと逃げのび、藤原秀衡に保護された。だが、秀衡の子の泰衡(やすひら)は、義経を攻め滅ぼした。高館は、そのときの戦場になった。

  • 解釈

川の流れという自然現象だけでなく、歴史を掛けていると思われる。


  • 予備知識

芭蕉の一行が平泉を訪れた季節は、夏。以下の芭蕉の文章の訳は、夏ごろの風景を前提にしている。


泰衡(やすひら)らの旧跡は、衣が関(ころもがせき)を隔てて、(平泉への入口である)南部からの入口(なんぶぐち)をかたく守り、夷(えぞ)の侵入を防ぐと思われる。それにしても、(義経に忠誠をちかう、)よりすぐられた忠義の臣が、この高館にたてこもり、奮戦したのだが、その功名(こうみょう)も一時(いちじ)の叢(くさむら)となってしまった。(漢文の杜甫の詩「春望」にあるように)『国(くに)破れて山河(さんが)あり、城(しろ、じょう)春にして草(くさ)青みたり』(国は破壊されても、自然の山や川は変わらず残り続ける。(廃墟となってしまった)城は、春ともなれば、草が生い茂り、青みがかっている。)と、笠を敷きて(しいて)、しばらくの間、泪を落としたのでありました。

夏草(なつくさ)  (つわもの)どもが  (ゆめ)の跡(あと)

その昔、ここ(平泉)では、源義経(よしつね)の一行や藤原兼房(ふじわらのかねふさ)らが、功名を夢見て、敵とあらそっていたが、その名も今では歴史のかなたへと消え去り、ひと時の夢となってしまった。いまや、ただ夏草が生い茂る(おいしげる)ばかりである。 (季語は「夏草」。季節は夏。)


(う)の花に 兼房(かねふさ)見ゆる 白毛(しらが)かな    曾良(そら)

(卯(う)の花は白いが、)白い卯の花を見ると、義経の家来として、老臣ながら奮戦した兼房が、白髪(しらが)を振り乱して奮戦している様子が思い浮かぶことよ。  

(季語は「卯の花」。季節は夏。曾良は芭蕉に同行してるのだから、季節は同じはず。芭蕉の「夏草や・・・」に対応させて、植物で句をはじめたと思われる。)

(義経の高館をめぐったあと、芭蕉の一行は、中尊寺の金色堂を見に行く。) 前々から耳にしていて、驚かされていた金色堂の二堂(経堂・光堂)が、開かれていた。経堂(きょうどう)には、像が三体あり、藤原清衡(ふじわらのきよひら)、藤原基衡(もとひら)、藤原秀衡(ひでひら)の三将の像が残っている。

三尊の像。白黒写真。実物は金色にかがやく。

光堂には、この三代の棺をおさめられてあり、仏の像が三体ある。阿弥陀(あみだ)・観世音(かんぜおん)・勢至(せいし)の、三尊(さんぞん)の仏像が安置されている。


金色堂を覆う鞘堂(さやどう)

(七宝が、かつては堂内を飾っていたが、)今では七宝(しちほう)も散り失せ、かつては珠玉(しゅぎょく)をちりばめられていただろう扉も、(長年の風雨により)今では風雨にいたみ、金箔の柱も霜や雪に朽ちて、もうすこしで退廃して草むらとなるところを、(鎌倉時代に)周囲の四面を囲い、風雨をよけるようにした(鞘堂が建てられた)。こうして、しばらくの間、千年の記念として残ることになったのである。


五月雨の  降り(ふり)のこしてや  光堂(ひかりどう)

光堂は昔のままだ。まるで、五月雨が、この光堂には降り残したかのようだ。(あたかも、光堂だけには降らなかったかのようだ。)


小学校の復習

[編集]

江戸時代の俳人(はいじん)の松尾芭蕉(まつおばしょう)が、実際に旅をして、旅先の様子などを書いた紀行文(きこうぶん)。

出発年: 元禄(げんろく)2年、(1689年)に芭蕉は江戸を出発した。

5ヶ月のあいだ、旅を続けた。

関東・東北・北陸・(岐阜の)大垣(おおがき)などを旅した。

旅の途中、句を多く作った。

従者(じゅうしゃ)として、曾良(そら)という人物を連れて、ともに旅をした。


書き出し

[編集]

現代語訳

 月日(つきひ)は百代(はくたい)の過客(かかく)にして、行(ゆ)きかふ年もまた旅人(たびびと)なり。

舟(ふね)の上(うえ)に生涯(しょうがい)を浮かべ(うかべ)、馬の口(うまのくち)とらえて老(おい)をむかふるものは、日々(ひび)旅(たび)にして旅(たび)をすみかとす。

古人(こじん)も多く旅(たび)に死(し)せるあり。

予(よ)も、いづれの年よりか、片雲(へんうん)の風に誘われて(さそわれて)、漂泊(ひょうはく)の思ひ(おもい)やまず、海浜(かいひん)にさすらへ、去年(こぞ)の秋(あき)、江上(こうしょう)の破屋(はおく)にくもの古巣(ふるす)を払ひて(はらひて)、やや年も暮れ(くれ)、春立てる(はるたてる)霞(かすみ)の空に白河(しらかわ)の関こえんと、そぞろ神(がみ)の物につきて心(こころ)を狂はせ(くるわせ)、道祖神(どうそじん)の招き(まねき)にあひて、取(と)るもの手(て)につかず。

ももひきの破れ(やぶれ)をつづり、笠(かさ)の緒(お)つけかえて、三里(さんり)に灸(きゅう)すゆるより、松島の月(まつしまのつき)まず心にかかりて、住(す)める方(かた)は人(ひと)に譲(ゆず)り、杉風(さんぷう)が別しょ(べっしょ)に移る(うつる)に、

草の戸も(くさのと も) 住替る(すみかわる)代(よ)ぞ ひなの家(いえ)

面八句(おもてはっく)を庵(いおり)の柱(はしら)に懸け(かけ)置(お)く。


月日は永遠に旅をつづける旅人のようなものであり、毎年、来ては去る年も、また旅人のようなものである。 

(船頭(せんどう)として)舟(ふね)の上で一生を暮らす人や、(馬方(うまかた)として)馬のくつわを取って老いをむかえる人は、旅そのものを毎日、(仕事として)住み家としている(ようなものだ)。

昔の人も、多くの人が旅の途中で死んだ。

私も、いつごろの年からか、ちぎれ雲が風に誘われて漂う(ただよう)ように、旅をしたいと思うようになり、漂泊の思いやまず、海辺の地方などをさすらい歩きたく、去年の秋、川のほとりの粗末(そまつ)な家に(帰って)、くもの古巣(ふるす)を払ひって(暮らしているうちい)、しだいに年も暮れ、春になると、霞(かすみ)の立ちこめる空のもとで、白河の関(「しらかわのせき」、奥州地方の関所、現在でいう福島県にあった。) をこえようと、「そぞろ神」(そぞろがみ)が(私に)乗りうつって心をそわそわさせ、「道祖神」(どうそじん、旅や通行の安全を守る神)に招かれているように、何事も手につかない(ように、落ち着かない)。

そこで(もう、旅に出てしまおうと思い)、(旅支度として)ももひきの破れを繕い(つくろい)、笠(かさ)の緒(お)をつけかえて、(足のツボの)「三里」(さんり、ひざ下にあるツボ)に灸(きゅう)をすえて(足を健脚にして)(旅支度をすますと)、松島の月(まつしまのつき)(の美しさ)がまず気になって、住んでいた家は人に譲り(ゆずり)(理由:帰れるかどうか分からないので)、自分はかわりに(弟子の一人の)「杉風」(さんぷう)が持っていた別しょ(べっしょ)に移った。

草の戸も(くさのと も) 住替る(すみかわる)代(よ)ぞ ひなの家(いえ)
(この、わびしい草庵( 「そうあん」、芭蕉の自宅のこと、芭蕉庵(ばしょうあん) )も、住む人が代わり、(ちょうど三月だから、)ひな人形などもかざって(私のような世捨て人とはちがって子どももいるだろうから)、にぎやかな家になることだろう。)

と句を詠んで(よんで)、この句をはじめに面八句(おもてはっく)をつくり、庵(いおり)の柱(はしら)にかけておいた。

語句・解説など

[編集]
  • 百代(はくたい)・・・解釈は「永遠」。入試などに問われやすいので、おぼえざるを得ない。ひっかけ問題などで、「百代」の間違った意味として、「百年」などの引っ掛けが出るので。
  • 古人(こじん)・・・ 古文・漢文での「古人」の意味は、「昔の人」という意味。 現代での「故人」という語句には「死んだ人」という意味があるが、古文・漢文での「古人」「故人」には、そのような「死んだ人」という意味は無いのが、ふつう。
  • そぞろ神(そぞろがみ) ・・・ 人をそわそわさせる神。「そぞろ」が副詞という節もある。
  • 道祖神(どうそじん) ・・・  旅や通行の安全を守る神だと思われる。
  • 庵(いおり、あん) ・・・ 質素な小屋。

俳句

[編集]

いくつかの句が、おくの細道で詠まれているが、代表的な句を挙げる。


夏草(なつくさ)  (つわもの)どもが  (ゆめ)の跡(あと)
場所:平泉(ひらいずみ) 解釈

その昔、ここ(平泉)では、源義経(よしつね)の一行や藤原兼房(ふじわらのかねふさ)らが、功名を夢見て、敵とあらそっていたが、その名も今では歴史のかなたへと消え去り、ひと時の夢となってしまった。いまや、ただ夏草が生い茂る(おいしげる)ばかりである。

季語は「夏草」。季節は夏。

芭蕉が旅をした季節は、月を陽暦になおすと5月から10月のあいだなので、基本的に『おくの細道』に出てくる句の季節は、夏の前後である。




閑かさ(しずかさ)  (いわ)に しみいる  (せみ)の声(こえ)
場所:立石寺(りっしゃくじ)
解釈

よくある解釈は、文字通り、「あたりは人の気配がなく静かで、ただ、蝉の鳴く声だけが聞こえる。あたかも、岩に蝉の声が、しみわたっていくかのようだ。」・・・みたいな解釈が多い。
単に、あたりが静かな事を主張するだけだと、わびしさが伝わらないし、単に蝉の声が聞こえることを主張するだけでも、わびしさが伝わらない。本来は、岩にしみいることのありえない「声」が、しみいるように感じられることを書くことで、うまく感じを表現している。

もともと、芭蕉は最初は「閑かさや」のかわりに「さびしさや」と書いていたが、「さびしさや」だと直接的すぎて、読者にわびしさを感じさせようとする意図が見え見えで興ざめするし、芭蕉なりの工夫のあとがあるのだろう。

季語は「蝉」。季節は夏。



五月雨(さみだれ)  集めて早し(はやし)  最上川(もがみがわ)
場所:最上川
解釈

まず読者は予備知識として、山奥での最上川は、もともと流れが速い、という事を知っておこう。山を流れている川は、平野を流れる川とは違い、流れが速いのである。この句の表現は、ただでさえ、もともと速い最上川が、梅雨(つゆ)の五月雨のあつまったことで水量をましたことで、さらに流れが速くなっていることを表現することで、自然界の豪快さ(ごうかいさ)みたいなのを表現している。芭蕉は、舟(ふね)にのって最上川を川下りしたので、自身で最上川の速い流れを体験したのである。

季語は「五月雨」。季節は梅雨どき。(旧暦の5月なので)



五月雨の  降り(ふり)のこしてや  光堂(ひかりどう)
場所:光堂



荒海(あらうみ)  佐渡(さど)に 横たふ(よこたう)  天の河(あまのがわ)
場所:越後路(えちごじ)
解釈

この「荒海」とは日本海のこと。
この句の解釈は、いくつかの解釈があり、分かれている。
実際に見た光景をもとに句を読んだという解釈が一つ。もう一つの解釈は、現実には光景を見ておらず、佐渡の歴史などを表現したという解釈がある。「天の川が見える夜中だと、暗くて佐渡は見えないのでは?」「この句を読んだとされる場所では、地理的・天文学的には、佐渡の方角には天の川は見えないはずだ。」というような意見がある。
実際に見たのか、見てないのか、どちらの解釈にせよ、「荒海」に対して「天の河」が対照的である。
地上・海上の世界にある「荒海」と、そうでなく天高くにある「天の河」。荒れくるう海は海難事故(かいなんじこ)などで人の命をうばうこともあるだろうが、「天の河」には、そういうことは無いと思われる。そして、近くにいないと見られない「荒海」と、いっぽう、夏の晴れた夜空なら、どこでも見られる「天の河」。

とりあえず、句を文字通りに解釈すると、

荒れる日本海のむこうに佐渡の島々が見える。そして、夜空には、天の川が横たわっていることよ。

というふうな解釈にでも、なるだろう。

季語は「天の河」。季節は秋。芭蕉たちの旅の期間が夏の前後なので、この句が「天の河」から秋の句だと分かる。したがって、「荒海」は、この句では季語ではない。 まちがって、「荒海」などから台風どきの日本海や、冬の日本海などを連想しないように注意。