中学校国語 古文/土佐日記

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※ 冒頭部のみを紹介する。資料の範囲なので、覚えなくてよい。中学生は1回か2回ほど通読すれば、充分である。

作品解説[編集]

『土佐日記』(とさにっき)とは、紀貫之(きの つらゆき)によって平安時代に書かれた日記。

小倉百人一首(おぐら ひゃくにんいっしゅ)でも、紀貫之の作の歌が出てくる。たとえば、「人はいさ 心も知らずふるさとは 花ぞ昔の 香に にほひける」は、紀貫之の歌である。

この紀貫之の生きた時代、平仮名(ひらがな)や万葉仮名などの仮名(かな)は女が使うものとされていたが、作者の紀貫之は男だが、女のふりをして『土佐日記』を書いた。

男も(おとこも)すなる日記(にき)といふ(イウ)ものを、女もしてみむ(ミン)とて、するなり。
それの年(とし)の十二月(しはす、シワス)の二十日(はつか)余り(あまり)一日(ひとひ)の日(ひ)の戌(いぬ)の刻(とき)に、門出(かどで)す。そのよし、いささかに物(もの)に書きつく(かきつく)。

というふうに始まる。「女もしてみむ」と言ってるが、もちろん本当は男である紀貫之が書いているのである。

門出(かどで)[編集]

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著者の紀貫之(きの つらゆき)は男だが、女のふりをして冒頭文を書いた。船旅になるが、まだ初日の12月21日は船に乗ってない。

  • 大意

女である私も日記を書いてみよう。

ある人(紀貫之)が国司の任期を終え、後任の者への引継ぎも終わり、ある人(紀貫之)は帰りの旅立ちのために土佐の官舎を発った日が12月21日の夜だった。そして。ある人は船着場へ移り、見送りの人たちによる送別のため、皆で大騒ぎをしているうちに夜が更けた。 (まだ船には乗ってない。)

  • 本文/現代語訳

男もすなる日記(にき)といふ(イウ)ものを、女もしてみむ(ミン)とて、するなり

それの年の十二月(しはす、シワス)の二十日余り一日(ひとひ)の日の戌(いぬ)の刻(とき)に、門出す。そのよし、いささかに物に書きつく。

ある人、県(あがた)の四年(よとせ)五年(いつとせ)果てて、例の事(こと)どもみなし終へて(オエテ)、解由(げゆ)など取りて、住む館(たち)より出でて、船に乗るべき所へ渡る。かれこれ、知る知らぬ、送りす。年ごろ、よくくらべつる人々なむ(ナン)、別れ難く思ひて(オモイテ)、日しきりにとかくしつつ、ののしるうちに、夜更けぬ。

男もするという日記というものを、女も書いてみようとして書くのである。 ある年の十二月の二十一日の午後八時頃に、(土佐から)出発する。その時の様子を、少しばかり、もの(=紙)に書き付ける。

ある人が(=紀貫之)、国司の(任期の)4年・5年間を終えて、(国司交代などの)通例の事務なども終えて、解由状(げゆじょう)などを(新任者から紀貫之が)受け取って、住んでいた官舎(かんしゃ)から(紀貫之は)出て、(紀貫之は)船に乗る予定の所へ移る。

(見送りの人は)あの人この人、知っている人知らない人、(などが、私を)見送ってくれる。

長年、親しく交際してきた人が、ことさら別れがつらく思って、一日中、あれこれと世話をして、大騒ぎしているうちに、夜が更けてしまった。


  • 語句
男もすなる日記- この時代、日記は』男が書くものであった。「すなる」の「なる」は、伝聞の助動詞「なり」の連体形。
女もしてみむ - 作者は本当は男だが、女のふりをしている。
・するなり - ここでの「なり」は断定の助動詞。

男もすなる日記(にき)といふものを、女もしてみむとて、するなり。 - とても有名な冒頭文なので、読者は、そのまま覚えてしまっても良い。

戌(いぬ)の刻(とき) - 午後8時ごろ。当時の旅立ちや旅からの帰宅は、人目を避けるべきとされており、そのため夜に行うのが通常だった。
ある人 - 紀貫之。
日しきりに - 一日中。
ののしる - 大騒ぎする。現代語とは違っており、悪い意味とは限らない。
  • 古典常識
・この時代、平仮名は女が使う文字だった。
・この時代、日記は、男が公的な記録などを記録するものだった。
・この時代、時刻の表記には、十二支(じゅうにし)を使う。十二支とは「えと」の「ね・うし・とら・う・たつ・み・うま・ひつじ・さる・とり・いぬ・い」のこと。
  • 語句
・解由(げゆ) - 官吏の交代のときの書類。前任の官吏に過失が無いことを証明する書類。後任の管理が発行する。前任の官吏が受け取る。前任者が帰京後、解由状を役所に提出する。
・住む館(たち) - この日記では、国司の官舎のこと。高知県にあった。
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参考[編集]

『土佐日記』は日本初の仮名文(かなぶん)日記(にっき)である。 日記の内容は私的な感想などであり、べつに公的な報告・記録などでは無い。

紀貫之は公務で、土佐(とさ、現在の高知県)に 地方官として、国司(こくし)として 赴任(ふにん)しており、土佐守(とさのかみ)としての仕事をしていた。その任が終わり、その帰り道での旅の、五十五日間の日記である。

この時代の公文書などは漢文で書かれており、男も漢文を使うものとされていた。そして日記は、男が、公務などについての、その日の記録を、漢文で書いたのが日記だとされていてた。

しかし、土佐日記では、その慣例をやぶり、ひらがなで、著者が女を装い、私的な感情を書いた。このように日記で私的な感情を表現するのは、当時としては異例である。

この『土佐日記』によって、私的な日記によって文学的な表現活動をするという文化が起こり、のちの時代の日記文学および女流文学に、大きな影響を与えた。そして今で言う「日記文学」というようなジャンルが、土佐日記によって起こり始めた。

(『土佐日記』はタイトルには「日記」とつくが、しかし現代の観点で見れば、『土佐日記』は後日に日記風の文体で書いた紀行文であろう。しかし、ふつう古典文学の『土佐日記』や『蜻蛉日記』(かげろうにっき)、『和泉式部日記』(いずみしきぶにっき)、『紫式部日記』(むらさきしきぶにっき)、『更級日記』(さらしなにっき)など、古典での「○○日記」などは、日記文学として扱うのが普通である。)

※ 高校や大学入試での時点では、『土佐日記』の文学ジャンルは「日記」「日記文学」としておいても、問題ないだろう。