中学校国語 古文/徒然草
仁和寺(にんなじ)にある法師[編集]
だいたいの内容[編集]
仁和寺の僧侶の失敗談。
ある仁和寺の僧侶が、石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)を拝もうと旅行したが、付属の神社などを本体と勘違いし、本体である石清水八幡宮には参拝しないまま、帰ってきてしまった、という話。
兼好法師は、教訓として「ささいなことにも、指導者は、あってほしいものだ。」と結論づけている。
石清水八幡宮は山の上にあり、その山のふもとには付属の自社である極楽寺や高良神社がある。
本文[編集]
仁和寺(にんなじ)にある法師(ほふし)、年寄るまで、石清水(いはしみづ、イワシミズ)を拝ま(をがま)ざりければ、心うく覚えて、ある時(とき)思 さて、かたへ(カタエ)の人にあひて(アイテ)、「年ごろ思ひつる(オモイツル)こと、果し侍りぬ。聞きしにも過ぎて、尊く(たっとく)こそお すこしのことにも、先達(せんだち)はあらまほしき事なり。 |
仁和寺(にんなじ)にいる僧が、年をとるまで、岩清水八幡宮(いわしみず はちまんぐう)を参拝しなかったので、(まだ参拝してないことを)残念に思ったので、あるとき(参拝しようと)思い立って、たった一人で徒歩で、お参りした。極楽寺(ごくらくじ)や高良神社(こうらじんじゃ)などを拝んで、これだけのものと思い、帰ってしまった。 さて(帰ったあと)、仲間に向かって、「長年の間、思っていたことを、果たしました。(うわさに)聞いていたよりも勝って、尊くておらっしゃった。それにしても、(岩清水に)お参りにきていた人が、みんな、山に登って行ったのは、何があったのだろうか。見てみたかったが、(岩清水八幡宮の)神へお参りするのが目的なので、(観光旅行ではないので)山までは見なかった。」と言ったということである。 ちょっとしたことにも、その道の指導者・案内者はあってほしいものである。
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- 語釈・解説など
- 尊く(たっとく)こそおはしけれ。 ・・・ 係り結びになっている。「こそ」は係助詞。 係助詞「ぞ・なむ・や・か」→文末は連体形。 係助詞「こそ」→文末は已然形(いぜんけい)。
- 何事かありけん ・・・ 係り結びになっている。「か」は係助詞。 係助詞「ぞ・なむ・や・か」→文末は連体形。 係助詞「こそ」→文末は已然形(いぜんけい)。
冒頭部[編集]
(書き出しの部分)
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(特にすることもなく、)退屈なのに任せて、一日中、硯(すずり)に向かって、心の中に次々と浮かんでは消えていく、たわいのないことを、とりとめもなく書きつけていると、妙に気持ちがおかしくなりそうだ。 |
ある人、弓射ることを習ふに[編集]
ある人、弓射ることを習ふ(ナラウ)に、諸矢(もろや)をたばさみて、的(まと)に向かふ(ムカウ)。 師の言はく(イワク)、 「初心(しょしん)の人、二つの矢を持つことなかれ。後(のち)の矢を頼みて、初めの矢にな わ |
ある人が、弓を射ることを習うときに、二本の矢を手にはさんで、的に向かう。先生の言うには、 「初心者は(= 習い始めの人は)、二つの矢を持ってはいけない。(なぜなら、)のちの矢(= 二本目の矢)をあてにして、はじめの矢(一本目の矢)を、おろそかにしてしまう気持ちがでる。毎回、当たるか外れるかを考えず、この一本で当てようと思え。」 たった二本の矢を射るのに、先生の前で、おろそかにしよう(射ろう)と思うだろうか。(いや、思うはずがない。)(しかし、)怠け心というものは、(弓を習っている)本人は気づかなくても、生じてしまうということを、先生は分かっている。この(弓についての)教訓は、万事に通用するだろう。
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- 語注など
- 諸矢(もろや) ・・・ 二本一組の矢。ふつう、弓道では、的に向かうとき、二本の矢を持つ。さいしょに射る矢を「早矢」(はや)といい、つぎにいる矢を「おとや」(弟矢、乙矢)という。
- なほざり(なおざり) ・・・ おろそかにしてしまうこと。本気でないこと。
- 懈怠(けたい) ・・・ なまけ心
作者の兼好法師について[編集]
兼好法師は、鎌倉時代の人物。
本名は、卜部兼良(うらべ かねよし)。
はじめは、卜部家が代々、朝廷に神職として仕えていたので、兼好法師も後二条天皇に仕えていたが、のちに兼好法師は出家した。
京都の「吉田」という場所に住んでいたので、吉田兼好(よしだけんこう)ともいう。