コンテンツにスキップ

中学校国語 古文/徒然草

出典: フリー教科書『ウィキブックス(Wikibooks)』

仁和寺(にんなじ)にある法師

[編集]

だいたいの内容

[編集]

仁和寺の僧侶の失敗談。

ある仁和寺の僧侶が、石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)を拝もうと旅行したが、付属の神社などを本体と勘違いし、本体である石清水八幡宮には参拝しないまま、帰ってきてしまった、という話。

兼好法師は、教訓として「ささいなことにも、指導者は、あってほしいものだ。」と結論づけている。


石清水八幡宮は山の上にあり、その山のふもとには付属の自社である極楽寺や高良神社がある。

本文

[編集]

 仁和寺(にんなじ)にある法師(ほふ(ホウ)し)、年寄(としよ)るまで、石清水(い()しみ())を拝ま(()がま)ざりければ、心憂(う)く覚えて、ある時(とき)思()立ちて、ただひとり、徒歩(かち)より詣で(まう(モウ)で)けり。極楽寺(ごくらくじ)、高良(かう(コウ)ら)などを拝みて、かばかりと心得(こころえ)て帰りにけり。

 さて、かた()の人にあ()て、「年ごろ思()つること、果(はた)し侍(はべ)りぬ。聞きしにも過ぎて、尊く(たっとく)こそお()しけれ。そも、参りたる人ごとに山へ登りしは、何事(なにごと)かありけん、ゆかしかりしかど、神へ参るこそ本意(ほい)なれと思()て、山までは見ず。」とぞ言()ける。

 すこしのことにも、先達(せんだち)はあらまほしき事なり。

仁和寺(にんなじ)にいる僧が、年をとるまで、岩清水八幡宮(いわしみず はちまんぐう)を参拝しなかったので、(まだ参拝してないことを)残念に思ったので、あるとき(参拝しようと)思い立って、たった一人で徒歩で、お参りした。極楽寺(ごくらくじ)や高良神社(こうらじんじゃ)などを拝んで、これだけのものと思い、帰ってしまった。

 さて(帰ったあと)、仲間に向かって、「長年の間、思っていたことを、果たしました。(八幡宮は、)(うわさに)聞いていた以上に、とうとくあられた。それにしても、(岩清水に)お参りにきていた人が、みんな、山に登って行ったのは、何があったのだろうか。(私も)ぜひ見てみたかったけれど、(岩清水八幡宮の)神へお参りするのが最初からの目的であると思って(観光旅行ではないので、よそはよそと)、山までは見なかった。」と言ったという。

 (こういうことがあるので、)ちょっとしたことにも、その道の案内者はあってほしいものである。

(第52段)
語釈・解説など
  • 心憂く(こころうく) ・・・ 残念に。情けなく。
  • かた()の人 ・・・ 仲間。同僚。友だち。「かたへ」とは「そば(側)」。
  • 年ごろ ・・・ 長年。数年来。
  • 尊く(たっとく)こそお()しけれ ・・・ 係り結び(※)になっている。「こそ」は係助詞。

「尊く」は「とうとく」「荘厳で」。「おはす」は「あられる」「いらっしゃる」。「けれ」は過去を表す助動詞「けり」の已然形。

  • 何事かありけん ・・・ 係り結び(※)になっている。「か」は疑問を表す係助詞。「けん(けむ)」は「…たのだろう」。
  • ゆかしかりしかど ・・・ 原形「ゆかし」は「見たい」「知りたい」という強い願望を表す。「しか」の原形は、過去を表す助動詞「き」。「ど」は接続助詞で「…けれど」という意味。

→ 仁和寺のお坊さんは、他の参拝者の皆が山に登るので、なぜ登っているのか、山の上に何があるのかが、たいそう気になったのである。多くの人は、岩清水八幡宮(のご本尊)が山上にあることくらい知っている。しかし、このお坊さんは、岩清水八幡宮へはもうすでに全部お参りしたと勘違いしていて、長年の夢を果たしたとひとり思い込んで(せっかく出かけたのに)帰ってしまった。しかも、それを仲間に得意げに(きまじめな顔で)話している、少しおっちょこちょいなお坊さんである。

 そうして、著者の兼好法師は、ちょっとしたことも、ガイドさんがいた方が、失敗が無くてすむというものだ、という結論で締めくくっているのである。この話を読んだ私たち読者は、これを教訓として捉えるのである。

  • 本意(ほい) ・・・ 本来の目的。最初からの目的。つまり、ここでは、長年の夢、宿願(しゅくがん)である。現代語では「ほんい」と読む。
  • 先達(せんだち) ・・・ 指導者。案内者。現代語では「せんだつ」と読む。


※「係り結びの法則」について

  • 係助詞「ぞ・なむ・や・か」のとき → 文末は連体形。
  • 係助詞「こそ」のとき → 文末は已然形(いぜんけい)。

冒頭部

[編集]

(書き出しの部分)

 
 つれづれなるままに、日暮らし(ひくらし)、
硯(すずり)に向か()て、心にうつりゆく
よしなしごとを、そこはかとなく
書きつくれば、あやしうこそ
ものぐる()しけれ。
 

(一人で特にすることもなく、)退屈なのにまかせて、一日中、机に向かって、心の中に次々と浮かんでは消えていく、たわいのないことを、(勢いにまかせて、)とりとめもなく書きつけていると、妙になんだかおかしな気分になってくる。


語注など
  • つれづれ(徒然)なるままに ・・・ ①話し相手が居らず、一人で寂しいさま(和訳するときは単に「寂しい」でいい[1])②何かしたい気持ちはあるけれど、これといってすることが無く、退屈なさま(和訳は単に「手持ちぶさただ」でいい[2])、※ ②の意味もあるが、さらに③しかし、静かで集中できるさま)の意味をうまく訳出できると良い。(※ (3)について要出典)
  • 日暮らし(ひくらし、ひぐらし) ・・・ 一日中。終日。
  • 硯に向かひて ・・・ 硯という、ものを書くための一道具により、机という「全体」を表したと考えられる。
  • 心にうつりゆく ・・・ 「映る」「移る」の意味をうまく訳出できるとよい。
  • よしなしごと ・・・ たわいのない、とりとめもないこと。埒(らち)も無い、つまらないこと。「よし(由)」というのは「理由」のこと。
  • そこはかとなく ・・・ とりとめもなく。ハッキリした理由も無く。一説に、そこ(其処)は「か(彼)」(一定の場所)というわけではない、つまり、どこということなくハッキリしないさま。あるいは、其処「はか(計)」で、「あて」が無いさま。
  • あやしう ・・・ 不思議と。妙に。ここでは「不審な」の意味は無い。
  • ものぐるほしけれ ・・・ 何となく変な気分である。自分の心もちがおかしくなりそうだ。「こそ」と係り結びで、原形「ものぐるほし」の已然形。現代語にもある「狂おしい」は、一説に「苦しい」とも同語源である。
  • 単語

「ものぐるほし」: 単語集によっては意味が「気が変になりそうだ」というものもあれば(桐原)、「馬鹿げている」というものもある(三省堂)。このように、単語集によって訳が違うので、訳出において、あまり細部を暗記する必要はない。


「つれづれなる」: 徒然草は鎌倉時代に書かれた作品である。さて、「つれづれなる」という言葉を使い始めたのは、けっして鎌倉時代の吉田兼好ではない。すでに平安時代の『源氏物語』という作品で(高校で源氏物語を習う。なお、鎌倉幕府の源平合戦とは無関係)、「つれづれなるままに、南の半蔀(はじとみ)ある長屋に渡り来つつ」(源氏物語・夕顔(ゆうがお) )という文がある。「手持ちぶさたなので(「特にすることがないので」という意味)、南の半蔀(はじとみ)ある長屋にやって来ては」と訳せる。

上述の語注の「(3) 静かで集中できるさま」は、やや意訳である。高校レベルの単語集を見ても(桐原、三省堂)、そのような意味は無い。

このほか、平安時代に『枕草子』で、134段「つれづれなるもの、除目(ずもく)に官(つかさ)得ぬ人の家。」とあるが、ただし前後の文脈からこの場合、「退屈」とは意味がやや違っている。


ある人、弓射ることを習ふに

[編集]

本文

[編集]

 ある人、弓射ることを習()に、諸矢(もろや)をたばさみて、的(まと)に向か()。 師の言()く、

「初心(しょしん)の人、二つの矢を持つことなかれ。後(のち)の矢を頼みて、初めの矢にな()ざりの心あり。毎度(まいど)、ただ、得失(とくしつ)なく、この一矢(ひとや)に定むべしと思()。」 と言()

 わ()かに二つの矢、師の前にて一つをおろかにせ()と思()んや。懈怠(けだい)の心、自ら(み()から)知らずとい()ども、師、これを知る。この戒(いまし)め、万事(ばんじ)にわたるべし。道を学する人、夕(ゆ()べ)には朝あら()ことを思()、朝には夕あら()ことを思()て、重ねてねんごろに修(しゅ)せ()ことを期(ご)す。い()()や、一刹那のうちにおいて、懈怠の心あることを知ら()や。何(なん)ぞ、ただ今の一念において、ただちにすることのはなはだ難(かた)き。

 ある人が、弓を射ることを習うときに、二本の矢を手にはさんで、的に向かう。先生の言うには、

「初心者は(= 習い始めの人は)、二つの矢を持ってはいけない。(なぜなら、)のちの矢(= 二本目の矢)をあてにして、はじめの矢(一本目の矢)を、おろそかにしてしまう気持ちがでる。毎回、当たるか外れるかを考えず、この一本で当てようと思え。」

 たった二本の矢を射るのに、先生の前で、おろそかにしよう(射よう)と思うだろうか。(いや、思うはずがない。)(しかし、)怠け心というものは、(弓を習っている)本人は気付かなくても、(実は)心の片隅に生じてしまうということを、先生は分かっている。(ところで、)この(弓についての)教訓は、全ての物事に通用するだろう。仏道を修める人は、夕方には翌朝があることを思い、朝には夕方があることを思って、あとでもう一度丁寧に修行する心づもりでいる。(そんなにのんきでいて、)どうしてほんの一瞬間の中に、怠けおこたる心があることを気付くだろうか、いや、気付きはしない。(しかし、実はここに怠けりの心が潜んでいるのである。)  (こう考えてくると、)なんとまあ、たった今の一瞬間において、すぐに実行することの非常に難しいことよ。

(第92段)
語注など
  • 諸矢(もろや) ・・・ 二本一組の矢。ふつう、弓道では、的に向かうとき、二本の矢を持つ。さいしょに射る矢を「早矢」(はや)といい、つぎにいる矢を「おとや」(弟矢、乙矢)という。
  • なほざり(なおざり) ・・・ おろそかにしてしまうこと。本気でないこと。いい加減なさま。
  • 得失(とくしつ)なく ・・・ いわゆる「損得勘定」を巡らすことなく。毎回、当たり外れを考え、結果に一喜一憂していては、たった今この一回を大事にできない、という教え。「矢」と「失」の違いにも注意。
  • おろかに(疎かに)す ・・・ おろそかにする。物事をいい加減にして不十分にする。
  • 学(がく)する ・・・ 修行する。
  • 懈怠(けだい) ・・・ なまけ心。現代文では、「けたい」と読む。
  • いはむや(いわんや) ・・・ 文末に「や」をともなって「どうして…だろうか。」。「をや」をともなうと「ましてや…はなおさらだ。」。
  • 刹那(せつな) ・・・ 一瞬間。非常に短い時間。もと仏教用語で、数の単位にもある。
  • 難き(かたき) ・・・ 難しい。「なんぞ」の「ぞ」と係り結びで、原形「難し」の連体形。

作者の兼好法師について

[編集]

兼好法師は、鎌倉時代の人物。

本名は、卜部兼好(うらべ かねよし)。

はじめは、卜部家が代々、朝廷に神職として仕えていたので、兼好法師も後二条天皇に仕えていたが、崩御ののち、兼好法師は出家した。

京都の「吉田」という場所に住んでいたので(あるいは、京都の「吉田神社」にちなんで)、江戸時代以降、吉田兼好(よしだけんこう)の名で広く呼ばれるようになった。

  1. ^ 吉沢康夫『入試対応 必修古文単語735』、三省堂、2011年12月10日 第14刷発行、P160
  2. ^ 吉沢康夫『入試対応 必修古文単語735』、三省堂、2011年12月10日 第14刷発行、P160