中学校社会 歴史/世界恐慌と各国の対応

出典: フリー教科書『ウィキブックス(Wikibooks)』
[半保護]  このページは半保護の方針に基づき、非ログインユーザー・新規利用者の編集が制限されています。一時解除を含めた解除等の対応については「半保護の方針」を参照ください。

第一次世界大戦のあとの経済

第一次世界大戦の前からアメリカは生産力がとても高かった。さらに戦争によってヨーロッパが弱体化したので、戦後(第一次世界大戦後)はアメリカが世界経済や国際政治の中心地になった。

世界恐慌とブロック経済政策

世界恐慌(せかいきょうこう)

アメリカの金融取引所のウォール街(ウォールがい、場所はニューヨークにある)で、騒然(そうぜん)とするアメリカ人たち。

1929年に、アメリカで株価が大きく下がった。株価などが大きくさがることを「暴落」(ぼうらく、英:Crash)あるいは「大暴落」(だいぼうらく、英:Great Crash)などという。この株価の大暴落をきっかけに、世界的な不景気になり、世界中で多くの会社が倒産したり銀行が破綻(はたん)して、世界中で失業者が増えた。このアメリカの株価の暴落がきっかけになった世界の不景気を世界恐慌(せかい きょうこう、英:world economic crisis ワールド・エコノミック・クライシス)という。

このアメリカでの暴落が起きた日が木曜日だったことから、「暗黒の木曜日」つまり英語に直すと「ブラック・サーズデイ」(black Thursday)とも、言うようになった。アメリカでは、労働者の4人につき1人が失業した(失業率25%)。

日本の状況

日本では世界恐慌の前から、すでに大戦景気の終わりによって不景気になっていた。日本では、世界恐慌の起こる前から、たびたび国内で不景気による恐慌が起きていた。1923年には関東大震災で、経済も大きく傾いた。

日本では1927年に、多くの銀行の倒産や休業があいつぎ、取り付け騒ぎも起こって、金融恐慌(きんゆう きょうこう)が起きていた。(※ 昭和戦前の「金融恐慌」を覚えさせるは中学範囲外だが、高校で覚えさせられるので、覚えた方が良い。この用語自体は、中学の検定教科書にも書いてある。)

このような日本国内の金融恐慌にくわえて、世界恐慌が1929年に起きたので、日本は大きく不景気になった。 アメリカ向けに生糸などの輸出をしていたので、日本も世界恐慌の影響を強く受け、日本はとてつもなく不景気になった。

そして日本では、多くの会社が倒産した。このため、三菱や三井・住友などの財閥が倒産した会社の事業を吸収した。だが、このことによって、財閥が大もうけしていると庶民から見られるようになり、財閥が敵視されるようになっていった。

世界恐慌後、日本では農業が混乱していた。まずアメリカ向けの生糸が売れなくなったことから、日本では生糸の原料の まゆ の価格が暴落し、養蚕業(ようさんぎょう)が衰退した。さらに1930年では、豊作で米の価格が暴落し、農家の収入が減り、農家が苦しくなった。そして翌年の1931年は凶作となり、東北地方を中心に、農村が不況になった。欠食児童(けっしょくじどう)がでたり、娘(むすめ)を身売りする家も出てきた。

いっそ農村から脱出して都市で働こうにも、むしろ都市で失業した人が農村にもどってくる状況であった。

このように世界恐慌の影響が、日本では1930年ごろから影響があらわれはじめ、昭和恐慌(しょうわ きょうこう)となった。

(※ 昭和戦前の「昭和恐慌」を覚えさせるは中学範囲外だが、高校で覚えさせられるので、せっかくだから覚えてしまおう。この用語自体は、中学の検定教科書にも書いてある。)

このように日本国民の生活が苦しくなってきたため、労働争議や小作争議が、はげしさを増していった。

  • 順序

恐慌の名前のつく出来事が、たくさん出てきたので、順序をまとめよう。

(日本での)金融恐慌 → 世界恐慌 → (日本での)昭和恐慌

の順序で起きている。

このうち、因果関係が直接的にあるのは「世界恐慌 → (日本での)昭和恐慌」である。

日本の軍縮

同じころ、第一次大戦後の軍縮のながれがあったので、各国の政府は不景気もあり軍事費をへらすため、軍縮に同意した。

1930年には、ロンドン海軍軍縮会議に日本も参加して、この条約(ロンドン海軍軍縮条約)に調印した。

(※ 昭和戦前の「ロンドン海軍軍縮条約」を覚えさせるのは中学範囲外だが、高校で覚えさせられるので、せっかくだから覚えてしまおう。この用語自体は、中学の検定教科書にも書いてある。)


(※ 第二次世界大戦の軍国主義のイメージのため、てっきり昭和の戦前の日本の軍事政策というと、てっきり軍備の増強ばかりをイメージしてしまいがちである。ところが、実際には、1930年には、世界恐慌などの影響もあり、むしろ軍縮をしていた時期もあったのである。しかし1931年の満州事変(まんしゅう じへん)で、事態は急変する。)

しかし、日本の軍人たちの中には、この軍縮を敵視した。そして、この軍縮条約が、天皇の権限を犯しているという口実で、政党を批判する意見が、軍部内に強くなった。

首相の浜口雄幸(はまぐち おさち)は、過激派の右翼の暴漢におそわれて負傷し、浜口は退陣をした。

また、このころ恐慌だったため、政党が財閥の味方をして民衆を苦しめていると考える勢力が、軍部内に多くなり、軍部からは政党を敵視する意見が強くなった。


(※ なお1928年には、張作霖(ちょうさくりん)を爆殺した事件を、日本の陸軍が起こしている。)

ファシズムと経済

イタリア

世界恐慌(1929年に起きる)の起こる前から、イタリアでは1922年にムッソリーニひきいるファシスト党が政権をにぎっていた。

このファシスト党が独裁的な政党だったので、このような思想を、のちにファシズムというようになった。

ドイツ

ヒトラー。なお、かれは若いころは画家を目指していた。

ドイツでは第一次大戦の賠償(ベルサイユ条約にもとづく賠償)で国家財政が苦しくなっているのに加えて、そこに大恐慌がやってきたので、貨幣のマルクの信用が落ち、物価がものすごく上がった。このように物価が上がることを インフレ(英:inflation インフレーション) と言う。ものすごく物価が上がることを ハイパー・インフレ(英:Hyperinflation) という。

パンなどの食料品を買うのにすら、手押し車に札束をたくさんつめて買い物をする、という状況であった。 このような状況のため、ドイツ経済は大混乱になり、失業者があふれた。

1933年には、ヒトラーのひきいるナチ党(「ナチス」ともいう)が政権を取った。ヒトラーは公共事業をおこして失業を減らすことに成功したので、ドイツ国民からの支持をあつめた。

※ 道路建設などのほか、兵器生産などを遂行(すいこう)したので、多くの建設労働者・機械工が必要になり、失業者が減った。 (※ 資料集で、そういう分析が書かれているらしい。)

ナチスは、ドイツ民族の優秀さを強調するいっぽう、ユダヤ人を迫害し、また共産主義者を敵視した。

また、ベルサイユ条約を無視して再軍備をした。このため軍需産業も活発になり、これも景気の回復に役だった。

※ 参考: 「ナチ」、「ナチス」は党名か国名か軍隊か?
※ 教科書側の事情なので、中学生は覚えなくてよい。

日本で世間一般に「ナチ」や「ナチス」と言った場合、ヒトラーの時代の彼らの党のことを言う場合と、ヒトラーらの政権が支配する時代のドイツ軍や、ヒトラー政権時代の軍国主義的なドイツ国全体のことを言う場合がある。

いちおう、現代では、学術的には、政党名として「ナチス」「ナチ」などというのが基本的とされている。21世紀の現代日本の中学の検定教科書でも、まずヒトラーたちの政党名として「ナチス」「ナチ」などの用語を紹介している。

しかし、東京書籍(教科書会社のひとつ)の教科書を読むと、ドイツ軍のほうの意味でか、「ナチスは(中略)。(次の文では主語を省略)東方に領土を拡大しました」のように、ドイツ軍またはドイツ国のほうの意味でも「ナチス」と読み取れるような表現もある。

また、教育出版(教科書会社のひとつ)の教科書では「ナチ党」のように、政党のことを言う場合には、語尾に「党」をつけている。

歴史的には、もともと第二次大戦のときに、英米など、第二次大戦でのドイツの交戦相手国が罵倒(ばとう)のような意味で「ナチ」「ナチス」「ナチ・ジャーマニー」(ジャーマニーとはドイツ人のこと)などと言いはじめた経緯(けいい)がある。

ナチ・ジャーマニーという表現については、日本では、「ナチス・ドイツ」などと和訳される。



ブロック経済(ブロックけいざい)

欧米などの各国は、世界恐慌の負担を、植民地におしつけた。そのため、イギリスとフランスは、本国と植民地とのあいだだけで自給自足をしようとして、外国からの輸入品には高い税金をかけて、追いだそうとした。(このような、外国の商品にかける税金を関税(かんぜい)と言う。つまりイギリスやフランスなどは、輸入品に高い関税をかけた。)

※「関税」(かんぜい)という言葉も、地理分野や公民分野の範囲なので、おぼえよう。「関税」そのものは、現代でも存在している制度である。

このようにして植民地と本国だけからなるブロック内で自給自足する ブロック経済(ブロックけいざい、英:bloc economy) をつくっていった。そのため、今までの自由貿易主義を、イギリスやフランスは、やめていった。

こうなると、日本やドイツなどの、あまり大きな植民地をもたずに、貿易による輸出で稼いでいた国は、とても経済が苦しくなることになる。実際に、日本の経済は苦しくなっていった。

イギリスほどの植民地ではないが、日本もまた満州に権益をもっていたので、満州の権益の保護を強めようとした。

アメリカのニューディール政策

アメリカ合衆国のルーズベルト大統領は、失業者を減らすために公共事業をたくさん起こすなど、政府が積極的に仕事をつくって経済を回復させるニューディール政策を1933年から行った。 「ニューディール」とは「新規まき直し」という意味である。

テネシー川にダムをつくるなどの公共事業を行った。また、政府は労働組合を保護し、労働者の賃金をあげる政策を行った。

世界的な傾向

ソビエト連邦は、経済が共産主義であり、欧米型の資本主義ではなかったので、あまりソビエトは世界恐慌の影響をうけなかったとされる。

このようなこともあり、世界恐慌にくるしむ各国では、ソビエトのように経済における統制をしようとする意見が強まっていく。

そして、経済だけでなく、政治全体においても統制を強めようとする全体主義(ぜんたいしゅぎ)の意見が、日本でも軍部などを中心に強まっていく。

こうして、世界恐慌により、全体主義の国が増えていく。

ファシズム

ドイツおよび日本の全体主義的で軍国主義的な思想や傾向は、ファシズムと言われた。元々の意味は、イタリアの政党の「国家ファシスト党」(こっかファシストとう、イタリア語: Partito Nazionale Fascista、PNF))の政治思想が言葉の由来である。

※ 日本の中学教科書などでは、イタリアの「国家ファシスト党」のことを単にファシスト党と言う場合が多い。

このイタリアのファシスト党の政治思想が全体主義的で軍国主義的な思想だったので、このような全体主義的で侵略的な思想をファシズム(fascism)というようになった。そして、このような軍国主義的な傾向をかかげるドイツや日本の政治家を、アメリカやイギリスなどが「ファシスト」(fascist)と批判するようになった。「ファシズム」という用語は、アメリカなどがドイツを批判するためにもちいたのであり、ドイツのナチス党自身はナチス自身の政策のことを「国家社会主義」(こっか しゃかいしゅぎ,ドイツ語: Nationalsozialismus、英語: national socialism)と言っていた。


(※ 発展: )第二次大戦前後および戦中のドイツ・イタリア・日本の3国の同盟関係をあらわす歴史用語として、「枢軸国」(すうじくこく)という用語がある。

※ 東京書籍や自由社(いわゆる『つくる会』)の中学教科書にも、「枢軸国」という用語が紹介されている。

枢軸国の語源は1936年の「ベルリン=ローマ枢軸」というドイツ・イタリアの協定である。(※ 東京書籍の教科書でも、語源として「ベルリン=ローマ枢軸」という語句だけ紹介している。)

(※ 注意: ) 中学の段階では、ベルリン=ローマ枢軸を手短かに教えるのが困難なので、中学生は深入りしなくていい。(※ 東京書籍の教科書でも、「ベルリン=ローマ枢軸」は語句だけしか紹介してない。)
※ 上記の注意のような中学教育の事情があるので、公立中学や公立高校入試の段階では、第二次世界大戦の前後の日独伊の3国の関係のことを「ファシズム」 と ひとまとめ にしてよいだろう。中学の段階では、「ベルリン=ローマ枢軸」の詳細に深入り勉強するよりも、中3の公民の勉強とか、中学の国語・数学・英語・理科などを勉強してもらうほうが重要である。

歴史学では、「ファシズム」という用語は国際的にも学術用語・歴史用語として定着している。

この国際的な意味での歴史用語・学術用語として「ファシズム」の意味は、単にドイツとイタリアと日本の、世界恐慌後から第二次大戦終了までの政治の、強権的な政策や、軍備拡張的な政策、対外侵略的な政策のことを言ってるだけです。

日本国の中学や高校の学校教育での教科書も、国際的な「ファシズム」の意味と同じように、単にドイツ・イタリア・日本に限定して「ファシズム」という用語が使われている。

「ファシズム」(伊: fascismo)の語源はイタリア語の「ファッショ」(束(たば)、集団、結束)である。

なお、ドイツ・日本・イタリアの3か国とも、ソ連の共産主義を敵視していた。このため、共産主義とファシズムとは、べつべつの思想として取りあつかうのが、現代では普通である。